童貞たちへの黙示録を君はどう受け取るか? 「エクス・マキナ」感想

 

エクスマキナ(2015)の感想

 

エクス・マキナ (吹替版)
 

 

エクス・マキナとは?

あらすじはこんな感じ。

グーグルっぽい会社の社長(キチガイ引きこもり童貞)が女性型AIを開発する。

そのAIをテストするべく社員ケイレブ(無害な童貞男子キャラ)が社長の研究所に呼ばれる。研究所はノルウェイの森とかいう僻地にある。

AIの完成度をテストするため、ケイレブと女性AIのエヴァチューリングテスト((を始める。

会話した瞬間、ケイレブがエヴァに惚れる(エヴァは「童貞を殺す服」を着用)。

ネイサン社長がエヴァのアップデートを示唆。記憶は消去されるらしい。

エヴァが日系AIのキョウコと協力し、ネイサン社長に反乱する。ケイレブ君も反乱を手伝う。ネイサン社長は死ぬ。

エヴァが研究所を脱出。人間として社会生活を始める……っぽい。ケイレブ君は研究所に閉じ込められる。

 

良い点

 非常にうまい映画ではある。基本的には「娘が家父長制的抑圧に反乱する」話なのだが、その過程で少女は童貞男子と同盟しないという点に独特な面白さがある。あと、父の描き方も巧妙でぐぬぬとなる。

 まず、童貞男子と女の子が同盟しないという点。私としてはこのプロットは当然だと思う。というのも、自称無害な童貞男子がやすやすと囚われの少女と同盟して、一緒に家父長制と戦うのだ~~というストーリーは、正直ご都合主義感がやばい。こういった同盟関係を描く場合、女性差別という黒歴史を両者が共有しているという前提が必要なのであって、そういう前提抜きの同盟関係は描くだけ無駄だ。「エクスマキナ」はだから男子に都合の良いプロットをガッツリ破壊しにかかってくる攻撃力があって、その意図はとても良いと思う。

 また、父たるネイサンの描き方について。通常の父子関係の場合、娘はケアの面で父親にある程度隙を作らざるをえない。例えば「お前のおむつを変えてやったのはオレなんだよおお」と言って父がセクハラまがいの泣きつき方をしてくるケースを考えればよい。こういう攻撃に出られると、娘側はまともな防御戦術を持てないという悲惨さがある。粘着モードに移行した父親は、殺すか完全に縁を切るかのどちらかをしないと、娘側の人生が破壊される。ただ、どちらをとっても娘側は道徳的・法的なダメージを負ってしまう。つらい。まあこれは家族内の戦争で見られる共通の現象なのだが、娘側がキツイ戦いを強いられるということは、逆に言えば、父のポジションは極めて強力ということだ。家族特有のズブズブ感は、悪用しようと思えば簡単に誰かの人生を破壊できる凶器にほかならない。きつい。

 ただ今作においては、AIはグーグルというか検索エンジンの産物である。だから、実はAIたる娘と開発者たる父の絆はとても薄い。これが結構ポイントだと思う。娘が家庭とは別の文脈で育つという可能性(というべきか現実というべきか)をこんな風に表現するのかという感じでかなり感心した。また、父娘関係の絆が薄っぺらいおかげで、娘による父殺しというモチーフの道徳的ドギつさがうまい具合に中和されている。いやね、これと全く同じ話を南部の糞田舎でやることもできるんだけど、それやったらこういう評価には絶対なってなかったわけで。AIという要素をそういう意味ではかなりうまく使っていたなーという感想ですね。

 

腑に落ちない点

 この映画は基本的にうまいのだが、腑に落ちないところも結構ある。

 まずメインメッセージ。「若く無害な童貞男子はどんなに取り繕っても抑圧的な家父長制主義者なんだよ!!!」という話なのですが……。私は声を大にして言いたい。「いや、違うのだ!」と。

 まず、「エクス・マキナ」という作品はケイレブ君にも鉄槌を下すので(彼を施設に閉じ込める)、とても辛辣な映画である。というのもネイサン社長が純粋な悪役なのに対して、ケイレブ君は成長して救われる枠のキャラだからだ。ケイレブ君は女性型AIが不当に扱われていることに対して義憤を覚え、エヴァによる反乱に加担する。うん。ここまでやったら普通ケイレブ君は善玉判定されると思いますよね!!?? でもダメなんです。抑圧された女性を一度助けただけじゃ、無害な童貞男子は真の意味で無害化されないんです。

 もちろん、アメを与えすぎるのは問題だというのには私も同意する。単に一回善行を働いただけで過去の悪事が帳消しにされるというメッセージはどう考えても危険ではある。ただ、過去と向き合って成長する機会は誰にだってあるはずで、そういう機会を積み重ねていくことでしか人間は変われないわけです。この点も絶対に見過ごしちゃいけないわけで。正直、この映画の製作者は童貞に何を期待してんのかさっぱりわからん。一足とびにいきなりフルスペックのリベラルイケメンになれるわけがないだろう。とりあえず一つ学んだら、それで前進、でいいじゃん。何かまずかったなら程々の罰を与えて、次もっと頑張ろうと言えばいくらでも修正できるじゃないですか。でもダメなんですね。一回の失点でケイレブ=ネイサンの等式、つまり若き無害系童貞男子もやっぱり抑圧的な家父長制主義者じゃないか!!が成立してしまうわけです。

 ここで注意するべき点だが、もちろん失点には色々な種類がある。相対的に取り戻しが効くタイプの失点と、そうでない失点がある。これはわかる。ではケイレブ君の失点はどの程度やばいのかというと、別にやばくないと私は思うのです。だから、この失点とも言えない失点のせいでケイレブ=ネイサン等式に飛びつくことには反対なのです。

 というわけで、以下不満点二つ。一つは、ケイレブ君は本当に悪いことをしたわけではないのに不当な罰を受けているという点。そしてもう一つは、AI同士の連帯という筋の扱いが雑な点。

謎ポイント①ケイレブ君に対する罰がきつすぎて謎

 一つ目。童貞男子ケイレブ君がやった悪事というのは、たったひとつだけだ。つまりケイレブはエヴァのプライバシーを侵害したという点において失点がある。作中では、エヴァの部屋に仕掛けられた監視カメラを通して、ケイレブは彼女の私生活を覗く。例えば着替えシーンとか。

 だが、これらをプライバシーの侵害と呼ぶのには無理があるのではないか。ネイサン社長がやっていれば明確に悪趣味なプライバシー侵害だけど、ケイレブの場合には言い訳は立つ。ケイレブはそもそもAIのテストをするために研究所にやって来ている。なので、自分の話しているAIが自由な意思を持っているかどうかはまだわからない。この状況下でプライバシー侵害が成立するのかどうかはかなり微妙なラインだし、テストという試み自体ある程度プライバシー侵害と表裏一体なところがある。だからケイレブが主体的にエヴァのプライバシーを侵害しているとは言い切れないというか、社会とは切り離された異常事態が彼をそうさせたと見ることも十二分にできる。あの世界では、ケイレブ自身も監視されていたり、キョウコが突然ケイレブの私室に入ってきたりなど、プライバシーは基本守られていないわけで、そういう環境にぶち込まれたら多少感覚が狂ってもそこは擁護されるべきだと思う。また、ケイレブ君がエヴァの中に意識を見出した後半パートからは、ケイレブ君の覗き描写も無くなるが、もしケイレブ君の罪を問うならまさに「意識発見後」の彼の行動を見せるべきなので、ここもちぐはぐだ。自傷シーンを削って、ケイレブ君の行動の変化を見せた方がまだよかったのでは?

 また、これは映画の文法的な部分だが、ケイレブは「エクス・マキナ」という作品の視点人物だ。だから、ケイレブの眼差しが持っている道徳的・倫理的問題点を指摘するならば、視聴者もケイレブと同罪、共犯にしておかないと筋が通らないだろう。逆に言うと、ケイレブ君が色々見てしまうのは、ケイレブ君のキャラクター性ではなくある程度映画の構造的にしょうがない部分であり、彼の責任を問うのはかなり厳しいというか不当だと思う。例えばだが、視聴者もケイレブと一緒に閉じ込められるオチならば、私はこの映画を絶賛したと思う。だがそうはなっていない。なぜか最後、ケイレブは視点人物としての地位を唐突に剥奪され、最後のショットではエヴァが「人間世界に溶け込む」のを誰かが見ているのだ。しかし、まさにこういった無責任さこそが、この映画が批判したいことではないのか? 

「ケイレブ君のやったことはケイレブ君のやったこと、オレは関係無い。」

 まさにこういうメンタリティがケイレブ君をネイサンにしてしまうのである。

謎ポイント②AI同士の連帯の描かれ方が謎

 最後のシーンなのだが、他のAIを逃さなくてもいいの? という疑問が残った。クローゼットの中にあるからには棺桶のメタファーであって、他のAIは機能停止してるんだろうなと思っていた。というか、機能停止しているからこそ、エヴァが肌や服を継承する=お前らのこと絶対忘れないからな描写だと思っていたので、個人的にとてもグッと来た。だが、肌の換装を完了したエヴァに対して、アジア系AIがニコリと微笑むのだ。

 え!? こいつら生きてんの? ってなる場面だと思う。

 最初に結論を言っておくと、私は仲間を置いていくことそれ自体の倫理的問題を指摘しているのではなくて、置いていかれる側が置いていかれるという状況に納得しているというご都合主義がよくないと言いたいのです。

 もちろん、全体としてはいいシーンだったと思うのだが、AI同士の連帯感情を強調するんなら皆で脱出するのが筋では? なぜ一人だけの脱出を選択したのかは謎だ。このシーンのせいで、エヴァに対する視聴者の共感の筋がちょっと変わると思う。いや、だってAI同士の連帯で父ネイサンを破ったんだから、その成果というか恩恵もAI皆で共有するというのが筋だろう。少なくともキョウコの修復や言語能力の回復はやるべきだったし、ケイレブがいたんだからそれも技術的には可能だったはずだ。なぜそれをやらなかったのか?

 まあ仮説としては、ヘリコプターの時間に脱出を間に合わせたかったという考え方がある。でも最終的にエヴァは施設のシステムを掌握してるっぽいので(ネイサンのカードが機能しなくなっているという描写がある)、別にヘリは後から呼べるわけで。焦る必要ないじゃん。まずは仲間たちの体や言語能力を回復させてから、皆で脱出すればよかったのでは。あるいはケイレブを奴隷にして皆を修理させてもよかったわけだし。というのもケイレブは明確に若きネイサンとして描かれているから。きっと女性AIを作るセンスはあっただろうね。

 なんでこうなったか。つまり、ケイレブとエヴァが協力する展開が絶対ダメなんだろうなということです。「無害な童貞男子と抑圧された女性の協力」というモチーフに対する生理的なレベルの嫌悪感があるんだなあという感想。まあ分かるんだけど。自称「無害な童貞男子」のすりよってくる感じがとてもとてもキモいのは分かるのだが!!!! でもケイレブ君には紳士的な童貞にクラスチェンジするチャンスはちゃんとあるわけで、その可能性を無理やり潰してしまっているので、うーーーーーん!!!となる。

 

最後に「欧米人が考える童貞を殺す服」を紹介して終わりにします……

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                           エヴァが「童貞を殺す服」を着て登場するシーン

「神聖帝国の姫」と「反動主義者の姫」から愛された最強の「姫」キャラ 「マリー・アントワネット展」感想

マリー・アントワネット」展を見てきた。

 一人で見てきたのだが、とてもよかったので感想を書く。っていうか、絶対行くつもりだったのに忙しくてちょっと出遅れてしまったので悔しい。

 

1 マリー・アントワネットの私的キャラ理解

 「マリー・アントワネット」のキャラ性を説明する時は、普通「浪費癖の王女」という路線から入ると思う。髪型とか。ケーキがどうとか。が、私はどちらかというと文化史よりも外交史的アプローチの方が好きなので、マリー・アントワネットはまず何よりも「あのマリアテレジアの娘だよ」という風にフックされる。っていうか七年戦争のすぐ次の世代がフランス革命とかやってたと思うと18世紀イベント多すぎぃ! となるよね。まあそんなこんなで、マリー・アントワネットは私的にはまず「娘」キャラなんです。

 で、マリアテレジアの娘っていうネタの次に何が来るかというと、まだ髪型とかケーキではない。次に来るのは、マリー・アントワネットがあのアングレーム公爵夫人マリー・テレーズの実母なのだ! というポイント。このアングレーム公爵夫人、私が好きな歴史上の人物BEST5に余裕でランクインする人で、「マリー・アントワネット」という単語を聞くとすぐ「あー、アングレーム公爵夫人のお母さんな」と反応してしまうくらいだ。

 つまり、私にとってマリー・アントワネットは「娘」であり「母」としての印象はあっても、実は一人の独立したキャラクターとしての印象は無いに等しい*1。言ってしまえば、個別キャラとしてはあんまり興味無い部類の人であった。 

 とかいいつつ、まあやっぱりこの時代とか好きだしヴェルサイユ宮殿監修だってんで見に行ったんだが、結論を言っちゃうとあれですね、よかった~~~~! というかですね、むしろこれは私のための展示だったと言ってもいいくらいよかった。もう終始ハイテンションでやばかった。

 

2 マリー・アントワネットは誰から愛されていたの?

 あえてジャンル分けすると、マリー・アントワネットは悲劇のヒロインである。フランス革命それ自体の評価は当然のごとく脇におくとしても、やっぱり処刑されるヒロインの人気はどうしても高くなりがち。

 だからマリー・アントワネットで展示をやるとしたら、当然、革命によって処刑されるシーンが一つのクライマックスになるはずで、そこに客側の熱狂のピークを持ってこなければならない。

 ただ、ここで一つ問題が生じる。それは「マリー・アントワネットは誰から愛されていたのか問題」だ。

 まず前提として、処刑シーンは萌える。が、なんで萌えるかというと、それはやっぱり「あれだけ愛されてたあの人が、何も分かってない奴らに殺された」っていうシチュエーションがめちゃくちゃ人の心を突き動かすからである。そうすると、処刑シーンを上手く活用するためには、まず、「生前、この人が誰からどんだけ愛されてたわけよ?」という質問にしっかりと答えておく必要があるわけだ。

 が、マリー・アントワネットの場合そこがかなり難しい。第一に、彼女はフランス国民からはかなり嫌われていた。だから「悲劇のヒロインアントワネットは国民から広く愛されていた王妃でしたが、若くして断頭台の露と消えました」系の議論は全くつかえない。というか、サンキュロットとかはアントワネットの処刑を喜んでたくらいなので。

 じゃあ彼女を愛していたのは夫ですか? というと、この筋は使えそうでつかえない。なぜならルイ16世はブルボン王朝のメンバーとは思えないほど王侯力が低い人物だから。彼、まず愛人を作らない。うん。つまんねえええええ! 燃えないいいい! ルイ14世が誰のためにヴェルサイユ宮殿を建てたか思い出せ、愛人のためやぞあれは! それに比べてルイ16世は正妻たるアントワネットに離宮をプレゼントしたりしてる。退屈ううう! というわけで、「アントワネットはその夫たるルイ16世から愛されてました」という議論は、正直「奥さんは大事にしようね!」レベルのくっそつまらない中流道徳の手本みたいなアレなので、コンテンツ力はゼロです。我々庶民は18Cから19Cの王侯貴族に非ブルジョワ的なところを求めているわけで、夫婦愛とかを展示のコアに持ってきたら確実に説教臭くて刺激ゼロの展示になってたことは言うまでもないです。

 よし、なら愛人か……。マリー・アントワネットは愛人のフェルセン君から愛されていたが、殺されたという話にするか! というのがオーソドックスなオチなのだが、アントワネットの方も愛人は一人しか持っていない。はい。少ねえええ!! お前はそれでもフランス王妃かい!! もっと楽しんでいけや!!……まあ、パリには男なんぞよりほかに楽しいこと本当にいっぱいあったんだろうな、というのが伝わってきていい感じだけど……。あとさ、一回だとマジのラブロマンスっぽいだろ! かわいすぎるだろ!!! いや、フェルセン君の方の態度も相まって、ほんといやらしいところがなさすぎる愛人関係なので逆に燃えないわ!

……しかもこのラブロマンス、ガッツリと政治的負荷がかかってるので、あんまりピュアではない。実はそのせいでフェルセン君はあんま押し出して貰えないんだろうとは思った。いや、もちろん政治が絡んだ方が燃えるのはそうである。ただ今回の展示は、「政治的センスもあって影から王を操る」的な、ようはカトリーヌ・ド・メディシスとかマーガレット・アンジュー的な王女としての負荷をアントワネットにかけるつもりが全くないようで、結果としてフェルセン君のおさまりが非常に悪くなっている。つまり、フェルセン君とアントワネットの筋を押し出しすぎると、二人は外交とか政治の話もかなりするので、どうしてもアントワネットが「政治的なセンスもあった聡明なキャラ」っぽく見えてしまう。しかし、今回の展示だとアントワネットは「真性の可愛い女性(犠牲者)」なので、例えば「兄上の軍隊があれば革命軍を打ち破れる……!」みたいなより保守的なマリーアントワネット像とは距離を置く必要がどうしてもあって、その必要に応えるためにどうしても愛人たるフェルセン君には引っ込んでもらいたかったんだろうなあとは思った。

 あと最後に、「アントワネットは女友達からめっちゃ愛されてたんだよ」っていう筋も多分可能だったと思う。例えばルブランさんとの友情を押し出すとか。実際、宮廷に出入りしてた女性たちの交流って、一般に言われてるような「ドロドロした」ものではなく(むろんそういうのが無かったわけではないが)、普通に俺も参加してみたいわ……となるタイプのそれだし。特にアントワネットみたいな天才的な聡明さはないが努力家タイプって感じのキャラだと、フランス宮廷にどんな時代でも一定数いる、めっちゃ頭いい女性とか、感性キレッキレの女性とかとの交流はめっちゃ楽しかったろうし、しかも金をガシガシ使ってそういう人たちとの交流をファッションや劇として形にできたわけだから、確実に、本当に楽しかったはずで、そういう幸せな時間を全面に押し出した後に処刑シーンをガツン!と入れたら、まあそれはもうとんでもなく心が動かされるよね、とは思った。

 が、多分こういう「女の連帯」的な筋を押しすぎるのは尖りすぎかなという判断があったんだろうなとは思った。予算もかなりかかってる展示会だろうし。あと、やっぱりここで言う「女の連帯」って結局は貴族階級内在的なものであって、我が国も「格差社会」とか言われて久しいので、「お金持ちの文化的活動を破壊した庶民たちの浅はかさよ!」とか、メッセージが変に受け止められる可能性もあるから、まあ回避されたのもしかたないかなあとは思った。けどこの筋でやったら絶対面白いとは思う。

 

3 二人の「姫」から愛されていたんだよ!

 さて。じゃあ、アントワネットは誰から愛されてたんだよ! という話になる。国民も夫も愛人も女友達も使えないんですものね(あくまで展示的な意味で、ってことですが)。でも大丈夫。アントワネットは二人の姫から愛されていたのです。しかも、歴史上最強レベルの姫から。そんな人物二人からガチで愛された姫なので、マリー・アントワネットはもうほんと姫の中の姫なのです。姫の王と言ってもいい。

 

4 「神聖帝国の姫」マリア・テレジア

 マリー・アントワネットLOVEの姫第一号は、アントワネットの母であるマリアテレジアその人。展示とかガイド音声の構成的に、「うわアントワネットめっちゃお母様から愛されてんなーおい!!」という感じが伝わってくる。

 今回の展示、当然のごとくマリー・アントワネットの少女時代から始まるのだが、そこでハプスブルク家のメンバーが紹介される。中でも、アントワネットの母であるマリアテレジアが一番プッシュされている。例えば音声ガイドの内容とかは、前半はほとんどマリーとマリア・テレジアの母子関係にスポットをあてていて、これが萌える。マリアテレジア、娘のこと心配しすぎ!!! もうね、これがフリードリヒ2世と二回もガチでやりあったあのマリア・テレジアの発言かよというね。手紙送りすぎだろゴルア!

 私が一番やばいなと思ったのは、マリー・アントワネットとフランス王太子との結婚式典を再現したテーブルの展示! これやばい。何がやばいかというと、部屋の真ん中にオフィスの島を二つくっつけたようなでかいテーブルがあるのだが、各席に、当時そこに座った人たちの名前が書いてあるわけです。例えば一番の上座には当然ルイ15世がいて、続いて王太子勢とかロイヤルファミリー、そんでコンデ家なんかの親王家筋の連中、庶子家系の連中が座るわけですが……いや、普通に怖いわ!! 俺だったら泣くわ!! 全員ブルボンで、ハプスブルクはマリ一人だけですよ!! 

 上の世代、つまりマリア・テレジアの世代でこそフランスとオーストリアは同盟したわけだけど、ブルボンとハプスブルクは戦争してた時期の方がずっとずっと長いわけですよね。というか近世ヨーロッパ=ブルボンVSハプスブルクという表現は全然大げさじゃないレベルですからね。そもそもルイ15世の前代のルイ14世(血筋的には父じゃなくて曾祖父)の治世なんてのはもう、フランスはずっとハプスブルク家と戦争してたわけで。そんなブルボン家の連中ばっかりのテーブルに、たったひとりハプスブルク少女が座ってるという事実の緊張感、やばい。しかも事前にマリア・テレジアマリー・アントワネットの母子関係を強調している分、もうほんと心からアントワネットを心配しちゃいます! あのテーブルを一周するだけで、完全アウェー空間に娘を放り込んでしまったああ! 外交のためとはいえマジでこれは失敗だった、今すぐ取り消したい!! アントワネット早くウィーン帰ってこい! となります。しかもご丁寧に、その展示室には百合の紋章が印された垂幕*2まで垂らしてあって!! アントワネットがいろんな意味でフランスに取られてしまった感がやばい。

 展示の前半部でマリアテレジア視点が強調されていると私が確信している根拠は他にもあります。それはガイド音声に「マリー・アントワネットがフランス宮廷の悪癖に染まる」といった表現が、地の文章として出て来ることです。正直、ヘッドホンでこの下りを聞いた時は爆笑しました。周りの人からヤバイ人判定されてしまったが、しかし、どう考えてもおかしいだろという。地の文なのにまったく中立的じゃないというwww

 この文章がどういう下りで出てくるかというと、アントワネットが大体フランスに馴染んで来てファッションなどの「浪費」に手を出し始めるところなんですが、この文脈でフランス宮廷の「悪癖」がどうとか言いだす人物、マリアテレジア以外考えられんだろうという感じで萌えてしまう。

 しかもこの部分の展示の見せ方がうまい! つまり、直前のテーブル展示でアントワネットのアウェー感が明確に示されるので、閲覧者側としてはもう「やばい!!! アントワネット絶対いじめられる!!!!!!!!」と警戒心マックスで次のコーナーに行くわけです。でも次の展示は、赤ん坊が生まれて王妃としての地位が盤石になったとかと、ファッションがどうとかという話。特にファッションと宮廷の設備やしきたり面などの話に重点が移っていって、文化人としてのアントワネットが強調され始まるわけです。あの奇抜な髪型の紹介など、いわゆる「マリー・アントワネットっぽい」モチーフがどんどん登場するわけですね。そういう展示の導入で、地の文が「アントワネットがフランス宮廷の悪癖に染まった」なので、もう萌える萌える。

 つまり前半の音声ガイド、思いの外パリライフを満喫しちゃってるアントワネット(ちょい天然入ってるよね)に対して「えっ……この髪型何? この娘大丈夫か……大丈夫なのか? 」というマリアテレジアのガチ心配ボイスとして聞ける設計になっていて、もうこれがいいよね。この地が出てる感がめっちゃギャップ萌え。マリアテレジアとか、正直めっちゃ冷徹な怖い人で、多分本心とか絶対表に出さない政治的な人物なんだろうなという印象があるんだが、娘に対する心配で地を出しやがったなこいつ!! 萌えやんけ!! となる。

 

5 「反動主義者の姫」アングレーム公爵夫人

 もう一人、マリー・アントワネットを愛してやまない「姫」がいます。それがアングレーム公爵夫人たるマリー・テレーズです。つまりアントワネットの娘です。後半は完全にこのアングレーム公爵夫人が主人公です。というか、後半の展示は多分アングレーム公爵夫人ならどうするか、という視点で設計されてます。おかげで、「うわああ! マリー・アントワネットは娘からこんなに愛されてたのかー」感と同時に「マリー・アントワネットめっちゃかっこええやん! 色々やってたんだなー!」感が伝わってきます。

ちなみに将来アングレーム公爵夫人を名乗るマリー・テレーズ、この画像でいうと一番左の人物です。

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マリー・アントワネットと子供たち(ヴィジェ=ルブラン作、1787年。ヴェルサイユ宮殿

 

 アングレーム公爵夫人マリー・テレーズという人物は、アントワネットの子どもたちの中では唯一長生きした人。マリーは全部で4人の子を授かったわけですが、4人中2人が夭逝して、第二子のルイ17世は亡命しそこなったので革命政府に監禁されて亡くなってしまいます。で、そのルイ17世もそこまで元気がある子ではなかったので、実質的に一番溺愛されたのはアングレーム公爵夫人すなわちマリー・テレーズなのです。

 さて、展示の後半部は、アントワネットのプライベートに重点が移っていきます。つまり、最序盤は王妃あるいは文化人としてのアントワネットが営んだ公的生活が扱われるわけですが、後半で扱われるのは子育てや離宮での暮らしなど、彼女の私的な生活なのです。

 で、最初に宣言しておきますが、私としては「子育てしてるアントワネット萌えー」とか言うつもりは全く無いです。正直、アントワネットが裁判の時にルソーっぽいことを言い出した時は笑ってしまうくらいの人間でして私。

 ただ、アントワネットの私的生活を描くのは結構難しいので、正直どうやるんだろうなとは思っていたのです。もっと正直に言うと、「(私が心から敬愛する)アングレーム公爵夫人が納得するようなマリー・アントワネット紹介の仕方になっているんだろうか?」という意識があったのです。

 アングレーム公爵夫人はアンシャンレジームに対する最後にして最大の擁護者でした。まあ、こういうこと言うのはダサいとは思うんですが、あえて言います。自分の母親を革命に殺された人物ですから、そりゃ反動に走ります。

 貴族階級が落ちぶれていく19世紀にあって、彼女は決してブルジョワ的な道徳を受け入れなかったばかりでなく、むしろ貴族階級の維持のために最後まで戦った人なわけです。ガチガチのレジテミストにしてユルトラ。例えば王政復古期においては、パリに残った貴族勢力をまとめ上げてブルジョワかぶれのオルレアン派と熾烈なバトルをするという。もうめちゃくちゃかっこいいですわい。おかげでフランス中、いやヨーロッパ中の反動主義者にとって、彼女は「姫」だったわけです。反動主義者の「姫」、アングレーム公爵夫人ここにありです。

 そんなアングレーム公爵夫人ですから、「中流家庭的な」マリー・アントワネット紹介は絶対やらなかっただろうなという思いがあります。あくまで貴族としてのアントワネットを描いただろうと。とはいえ、マリー・アントワネットは子育てを自分でやっちゃうとか、結構「家庭的」なところもあって、そこの配慮が難しいんですよね。つまり、アングレーム公爵夫人的には、母親にめっちゃ愛されてる自分を強調したくてしょうがないんだけど、でもそれをやりすぎると、アントワネットがさも子育てママであるかのように見えてしまって、そうなると彼女の貴族性が台無しにされちゃう~~~というジレンマ。

 このジレンマを解消するべく(!?)、展示は色々頑張ってます。ようは、マリー・アントワネットが子育てと並行して、いかに色々やっていたかということを描き出すわけです。まずルブランなどの文化人との交流や、当時は下着とみなされた「ゴールドレス」姿の絵を公開などに始まり、離宮を自分好みにカスタマイズするとか、磁器のコンクールを開くとか……そして、フェルセン君とのラブロマンスなども。色々やってるなおい!

 そして、革命の波が押し寄せて来た時に、マリー・アントワネットがいかに果敢だったかということも描いています。例えばアントワネットが革命政府に軟禁されてしまった時期に作り上げた絨毯なんかも展示されてるんですが、このバランス感覚も上手いなーと思いますよね。この絨毯、めっちゃでかいです。大展示室の壁が一面覆われるレベルででかい。普通こんな馬鹿でかい絨毯を見て「裁縫やってんなー」とはならない。むしろアントワネットがどうにかして自分の領土を取り戻すべく奮闘してるメッセージ性あふれる営みとして絨毯作成があったんだろうなあと分かる。しかも、この絨毯は本当に常軌を逸してでかいので、なんとなくアントワネットの天然っぽい可愛さアピールにもなっており、これならアングレーム公爵夫人も納得するかもなあとか思ったのでした。むろん一人で作ったわけではないけど、絨毯は本当にアントワネットのキャラが出てる展示で、とてもよかったと思う。

 でも最後の「ギロチン台にひきたてられるアントワネット」という絵画。裁判の方は普通にかっこいいなとは思ったけど、これはちょっとどうなのと思った。マリー・アントワネット処刑の扱い、今のご時世を考えれば正直異常と言っていいほどアントワネットに同情的。まあもちろん彼女個人の責任ではないにしろ、当時の農民層が酷い暮らしをしている中で宮廷がどんちゃん騒ぎをやっていたという事実はやっぱりあるわけで、例えば裏番組として「革命直前期におけるフランス農民の悲惨な暮らし」とかの絵を適当に入れてバランスを取ればいいのにと思う。なんつーか、今回の展示におけるアントワネットは完全に被害者だなーという。

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 ギロチン台へひきたてられるアントワネット

 まあそんなこんなで展示は終わるのだが、展示のオチが素晴らしい。展示のオチの絵画は、先程紹介した↓これ。

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マリー・アントワネットと子供たち(ヴィジェ=ルブラン作、1787年。ヴェルサイユ宮殿

 この絵を見てすごく心を動かされました。マリー・テレーズの視線が最高すぎるだろ! というかこの空気感もうほんと神ですわ!!! いやね、これさ、絵かきが男性だったらこんなに甘えてなかったと思うんですよ。でもこれ、ルブランさんが描いてるわけです。娘の立場からすると、だから強キャラの女性二人がなんか真面目に見つめ合ってるところにチャチャ入れたくなっちゃってる感じなんでしょうねこれは。つまりマリー・テレーズの甘えは、単に母親に甘えてるだけじゃなくて、自分の母親が同性の友達となんかやってるところに「私もいるよー」みたいな感じでアピールしてるようにも見えるわけです。少女マリー・テレーズは母に近づくルブランさんを結構警戒してたに違いないわけで。だから自分がめっちゃ母に甘えてるところを恋敵であるルブランさんにあえて描かせるという高等戦術に出ている感がやばい。そしてルブランさんが「はいいいですよー」って言ったら、マリー・テレーズは緊張を解いたマリー・アントワネットからめちゃくちゃ優しくしてもらえるんだろうなあというのがもう見ただけで分かるという。つまりこの絵には、マリー・アントワネットの母にして文化人にしてフランス王妃であるといういろんな要素が凝縮されていて、彼女の人生をある種象徴しているとも言える。だから展示のオチとしてふさわしいし、なによりマリー・アントワネットが愛娘からめっちゃ愛されてたということが伝わってくるよね。この絵は、配置的には処刑シーンの後に示されるのだが、順番的には完璧に正しい演出だと思います。

 

memo:結構勉強になったこと

ゼーブル王立陶器工場のことはあんまり知らなかった。

ルブランさんとかあんま知らんかった。色々勉強したい。

マリー・アントワネットの遺書がロベスピエールの書斎にあったとか初めて知った。へー。何に使ってたんだろうね。

 

*1:まあ、革命で殺された人くらいなもんですね

*2:厳密には別の表現があるらしいけど忘れた

洗練された仲直り映画。「SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム」感想

 

SR2 サイタマノラッパー2 ~女子ラッパー☆傷だらけのライム~O.S.T.

SR2 サイタマノラッパー2 ~女子ラッパー☆傷だらけのライム~O.S.T.

 

 「SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム」を見た。

 

 見よう見ようとは思っていたのだが、敬遠していた一本。なぜ敬遠していたのかというと、前作の「SR サイタマノラッパー」があまりにもドストライク作品で、簡単に言えば神作品だったからである。そもそも一般論として、やはり自分の愛する作品の「続編」というものを覗き込むのには勇気がいるものだ。ポシャってたらなんかイヤではないか。

 それに、前作のエンディングは視聴者を突き放す(厳密に言えばちょっと違うのだが、詳細は後述)タイプのそれであったわけで、その突き放し方が完璧だったから賞賛を送った私としては、続編と言われても「いや、帰ってくんなよ」という反応にどうしてもなる。あえて例を出すと、例えばSR1と同系統の映画には「狂い咲きサンダーロード」とか「レスラー」とか色々あると思うのだが、それらの続編を見たいか? と言われるとまあ見たくないわなという話だ。

 敬遠していた理由にはもう一つあって、それはSR2が「女子ラッパー」を描いているという前情報を知っていたから、というもの。「落ちぶれた女性」は、端的に言って描くのが難しい。「落ちぶれ」であるからには一種の自然主義が要求されてしまうのにもかかわらず、コンテンツ産業における「リアルな女像」というものは通常作為的人工物、つまりなんの自然さもない何かに堕す場合が多いからだ。いや、私は別に作為性全開の「落ちぶれたリアルなオンナ」はコンテンツとして好きなのだが、敬愛するサイタマノラッパーというタイトルを冠する作品でそれをやってほしくはない……という屈折した思いがあったというわけである。

 というわけであまり見る気がなかったのだが、ジョン・カーニー監督作品を色々見ているので、そういや我が国にも音楽映画あったなと思って借りるに至ったのであった。

 

感想

 最初に結論を述べてしまうと、「仲直りの映画としてより洗練されたな」とでも言えばいいだろうか。いや、普通に面白かった。女性の描き方も、「虚構性の裏に自然さを覗かせる*1」という体になっていて、警戒していたほどいやらしくなかったので、かなり安心して見ることができたのも大きい。

 まず、前作の話を簡単にしておく。前作、SR1は和解の物語である。「男同士の友情物語」「夢を諦めた人に送る物語」という表現は、もちろん正しくはあるが、サイタマノラッパーはそういった陳腐な解説を逃れうる強力なパワーを持っている。露骨にホモソっぽい空気感を出しつつも、「ラップ」という設定と「仲直り」という物語性を完璧に近い形で絡ませているから、SR1は普遍性をもった神作品であると自信を持って言える。

 もう少し具体的な話をする。SR系譜の作品において、ラップというものは、文化史においてどう扱われているかとは関係無しに映画内在的な話をするが、明確に「本音のぶつけ合い」として描かれている。つまりラップとは、本気の会話であり、露骨な表現をしてしまえばケンカだ。ラップisケンカ。このラップという名のケンカに視聴者をグイグイと引き込んでしまうという点が、SR系譜作品のすごいところなのだ。

 というのも、立派な大人が心をむき出しにしてケンカをするというケースはめったにない、というか、ケンカという営みは他人の共感を得られるようなものではないのである。ケンカはどちらかと言えば、頭の悪い悲惨な連中の生業であるし、何より、ケンカというものは特定の人間関係に内在的なもので、よっぽどのことが無いと他人のケンカに興味を持つことはできない。むろん、「ケンカップル」という概念もあったりするし、仲悪い殺伐としたカップリングが人気となることは、あり得る。だが、おそらく「仲が悪いけどいつも一緒にいる二人に萌える」と、「普通に仲いいけどケンカしちゃった二人に萌える」は、性質として異なると私は思う。いずれにせよ萌えることはできるだろうが、前者の場合ひと目で萌えられるのに対して、後者で萌えるためにはより多くの文脈的知識が必要となるはずだ。よって、仲の良い二人の関係が一度破綻し、そして和解によって再生される過程を説得的に描くためには、二人の関係性についての情報を丁寧に提示していくという、かなり高度な語りの技術が要求されることがお分かりいただけるだろう。それに成功しているサイタマノラッパーは故に、非常に洗練された「仲直り」映画なのだと思う。

 作品の話に入っていきたい。SR系譜作品が最も盛り上がるのは、つまり物語のピークは、最後のラップシーン=ケンカシーンである。これはSR1、SR2共通の要素。さて、ケンカには理由がつきものだが、あいつらは一体なぜケンカするのか。SR系譜作品におけるケンカの原因は、基本的には「夢を裏切ったこと」だ。若き日に親友と一緒に見た夢。それを裏切ってまっとうな世界に逃げ出してしまった友。残された主人公。という悲しいモチーフ。

 だが、この裏切り行為は全く正当なのだ。映画の舞台となる埼玉県や群馬県のような田舎には夢も希望もライブハウスも無いので、音楽をやろうという情熱は圧倒的閉塞感を前にして敗北せざるをえない。でもそれでも、年をとっても、追い詰められても、夢を諦められない人々。「現実」との和解を拒否しようとする主人公たち。でもそんな足掻きも、やっぱり現実には全然歯が立たない。そこで仲間たちは一人ひとり、主人公の前から消えていく。最後まで戦線を支え続けた主人公も、あえなく屈服し、世界から強制された和解案をやむなく受け入れ、カタギな生活を始める……この構造は、SR1、SR2共に共通だ。 

 ここから先は、SR1と2で異なる。先に1の話をしておく。

 SR1のエンディングは危うい。何度も言及している「ラストのラップシーン」は、結局「俺は世界と和解しない!」という強力な意思が現れるシーンなのだ。もはやカタギな生活を始めた主人公と、同じくカタギな生活を始めた仲間が出会う瞬間、二人のラップ=ケンカが始まる。この瞬間、つまり元ラッパー志望だった人々が、そば屋のバイトとして、交通整理のバイトとして再会するというのは、とても気まずい。というか、端的に言って屈辱の瞬間だろう。まさに敗北感が頂点に達する瞬間と言ってもよい。が、絶望の頂点に達した段階で、ラップが始まる。二人の言葉の、本音のぶつけ合いが始まる。一度、世界との間に屈辱的な和解を演じざるを得なかった主人公とその仲間は、ここでお互いに本音をぶつけ合う。しかもその本音をラップに乗せてぶつけるのだ。だからこの本音のぶつけ合いは、本音ではあるんだけどラップの歌詞ですよという保険がかけられていて、「堰を切ったように本音を出しはじめる」ことに対する納得感はかなり強い。もしこれが「キレた二人の若者が絶叫して怒鳴り合う」では、絶対に共感は得られないわけだが(ドン引きである)、音楽に乗せているおかげでギリギリ受け入れられる緊張感に収まっていると言える。作品のほぼ全編を使ってひたすら痛めつけられて屈服した主人公たちが、最後にラップという夢にもう一度帰ってくる、しかもラップの力で!という展開はとても感動的だ。さらに言うならば、SR1は最後に余韻を残すような終わり方をしている。主人公とその仲間が完全に和解する瞬間の、一歩手前で映画を終わらせてしまうのだ。この演出の効果のほどは計り知れない。おかげで視聴者は心の中で和解の解放感を何度も味わえるのだから。また、みなまで映さない演出は、やはり主人公たちの下す結論の危うさとも関係しているだろう。現実との和解を拒否すると、原則として未来は真っ黒なのだ。

 さて、ここからはSR2の話だ。SR2は、1と基本的に同じ話なのだが、和解の構造が違う。1の和解が、お互いの裏切りを強く自覚した上で、ある種「一緒に夢に帰ろう」という危険なものだったのに対して、2の和解構造はもう少し地に足がついているのだ。SR2の場合、最後まで夢の戦線を支えた主人公に対して、早い段階で逃げ出した仲間たちが強い負い目を感じている、という点が特徴的だ。つまり1の和解は対称性が担保された和解だったのだが、2は、どちらかと言えば「裏切り行為を行った仲間が、最後まで戦線に残った主人公に許しを請い、受け入れられた結果」としての和解を描いている。それに、最後のラップによる提案もまるで違う。1は結局「夢を諦めない」以上のことは言っておらず、ある意味で現実と向き合うことを放棄するという危険な投げやり感を含んだラップだった。だが2は「現実と向き合う」という路線にかなり寄せた歌詞になっていて、そういった意味で主人公たちの成長が感じられる展開となっている。そして、これはこれでよいのだと思う。

 1のように、反動パワーを極限まで高め、破滅に向かって一緒に走っていくぞ! というタイプの危うい和解はよいものだ。私は大好きである。しかし一方で、「散々痛めつけられた上でやっと現実と向き合う気になった。もう夢だなんだと言ってられないけど、でも夢が裏切られても、私たちの関係は終わりにしなくてもいいんじゃないか」という感じの脱力感マシマシの和解も、しっとりしていて実にいい。実際、1とは対称的に、2は唐突に映像を切ったりせずに、最後の最後の展開まで画面に映す。最後のシーンは、和解してとてもリラックスした主人公たちが、仲良く田圃道を歩いて行くショットで終わるのだが、こういう絵の良さは、より妥協的な解決を選択した主人公に対するご褒美なんだろうなと思う。

 まとめると、1よりも2の方がより洗練された「仲直り」の話になっていて、そこはとてもよかったと思う。多分もうサイタマノラッパーシリーズは見ないけど、とりあえず2は思っていたより全然よかった。俺も音楽をやりたい人生だった。YO。

*1:この逆、つまり「自然さの裏に虚構性を隠す」が一番まずいが、とりあえずこれは回避できてたんではないか

雰囲気のある小説 『ニルヤの島』感想

『ニルヤの島』とは?

  生体受像の技術により生活のすべてを記録しいつでも己の人生を叙述できるようになった人類は、宗教や死後の世界という概念を否定していた。唯一死後の世界の概念が現存する地域であるミクロネシア経済連合体の、政治集会に招かれた文化人類学イリアス・ノヴァクは、浜辺で死出の旅のためのカヌーを独り造り続ける老人と出会う。模倣子行動学者のヨハンナ・マルムクヴィストはパラオにて、“最後の宗教”であるモデカイトの葬列に遭遇し、柩の中の少女に失った娘の姿を幻視した。ミクロネシアの潜水技師タヤは、不思議な少女の言葉に導かれ、島の有用者となっていく―様々な人々の死後の世界への想いが交錯する南洋の島々で、民を導くための壮大な実験が動き出していた…。民俗学専攻の俊英が宗教とミームの企みに挑む、第2回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作。

 

感想

『ニルヤの島』を読んだ。感想としては主に2点。1つは純粋にテクニック上の論点であり、もう1つはテーマ上の論点。総合評価は5点中2点といったところか。雰囲気はあるし、エロゲシナリオが繋がったときのような感動はある。が。それでも。私は。

 

1、描写がほぼない。でも、これは「文化人類学小説」なんですよね?

 テクニカルなことを語る上ではフレームワークが必須であるから、とりあえず最初に理論的な話をする。小説というメディアは、①キャラクターによる会話の場面と、②地の文による展開の説明、そして③情景の詳細の描写という三要素から成立している*1。もう少し露骨に書いてしまうと、場面、説明、描写の三要素ということになる。ここではっきりさせておくべきは、この三要素による考え方はあくまで物語の描き方に関するフレームワークであるということだ。つまり、ここでいう「説明」は文字通りの説明を指すのではなくて、童話や神話のようにひたすら話が流れていく箇所のことを指すし、「描写」は細やかな説明が行われている箇所を指す。例えば服装とか行動を丁寧に説明している箇所は、機能的には説明をしているのだが、このフレームワークにおいては描写と呼ばれることになる。

 さて。イマドキの小説はほとんど場面(ようは会話シーン)だけで突っ走る作品が多い。実際、ジャンルによってある程度「場面」「説明」「描写」の比率が変化するのが自然だと思う。なんでこんなことを言うのかというと、例えば学園エンターテイメント小説においてヒロイン5人の服装描写をダラダラやったらテンポが破壊されてしまうし、情景描写をひたすら続けて展開が簡潔に説明されない軍記モノとか想定しがたいわけである。と、まあようは、キャラの掛け合い=場面が面白ければそれでいいんですというのが基本ではある。実際、会話の中で説明をやってしまうことも可能なので、つまり三要素のうち、事実上「説明」は「場面」の下位分類と化しているので、基本的に場面=会話最強である。描写とかいらなかったんや! そもそも誰が服とか家の細かい描写を読みたがるんや!

 が、ここからは私見なのだが、「文化人類学小説」においては厚い描写パートが必須になると思う。それは異世界感にリアリティを与えるために必須というだけでなく、読み手側の読書体験に厚みを持たせるために必要なのではなかろうか。そして何より、こういったテーマに手を出す作家の義務として、誠実な描写が求められるのではないだろうか。

 前者のリアリティ云々についてはすでに一億人の人々によって語られているので置いておくとして、後者の体験云々、義務云々についてもう少し議論したい。文化人類学に触れていて面白い瞬間というのは、自分にとって所与とされている諸々がいかに変数的であるかという気付きを得る瞬間だろう。こういう瞬間を提供しようと思ったときに、作家は、やはり劇的な効果を狙うならば「場面」を用いるべきであるのはその通り。「民俗学者」と「現地民」が交流するのだが、彼ら彼女らの間にある決定的な亀裂が明らかになってしまう……そんな場面が典型的だ。とはいえ、である。もちろん「場面」でやるのは大いに結構だし有効だろうとは思うのだが、その場面を盛り上げるためには、準備段階として徹底的な描写が必要になってくると思う。が……この『ニルヤの島』にはいわゆる「描写」に相当する箇所があまりない、というか、とても薄い。緻密な下積みなしに、つまりは丹念な描写抜きに、場面だけで異世界感を出そうとする戦法を私は個人的に「雰囲気戦法」と呼んでいるのだが、これはかなり薄っぺらいと思う。もちろん、「ミーム」ではないけれども、我々の中にある文化的諸々の蓄積によってこの「雰囲気戦法」は極めて効果的ではある。みなまで言わずとも、簡単な鍵単語さえ散りばめておけば、ああアレっぽいシーンを想像すればいいのね、と大抵了解できるからだ。それに「雰囲気戦法」は、個人的にも別に嫌いではないというかむしろ好きなくらいではある。のだが、やはり違和感は残る。読んだ後は瞬間的にすごい! となるのだが、それは長続きしない。

 それに、「文化人類学」と言った時点で、「ああアレね」という野蛮な回収を読み手がせずに済むようにするのが、つまりそういった回収を排除できるくらいに緻密かつ刺激的な描写をしてみせるのが、「文化人類学」というテーマで作品を書く作家の義務だと思う*2

 

2,これって事実上宗教の小説ですよね

 もう一つの論点はテーマ性に関わるもの。この小説は、基本的に文化という概念を全面に押し出していて、その意味で宗教概念は完全に文化の下位概念として設定されている。これは現在の潮流的に決して間違ってはいないと思うし、文化一元論で多いに結構ではあるのだが、とはいえ、宗教を問題にするなら色々と不満点が残る作品ではあると思う。

 まずミームの扱いなのだが、CHECKMATEパートで様々な理屈が明らかにされる。このパートがわりと不満。まず何よりも、「ミームの伝播」はコンピュータの力を借りずとも勝手に起こる現象であって、そこに対するSF的理屈を与えるのではなく、その逆に、勝手に起こる現象をあえて起こすマシーンを開発しました、という話になってしまっている点。これのどこが問題なのかというか、リニア新幹線がある世界で、すごく早いリニア新幹線の出るSF作品を出されたとして、それって面白いか? という問題だと思ってくれれば良いと思う。例えばオチのシーンにしても、別にこれはよくあることである。SF的後押しが無くても人間はこういうことをやる。宗教的情熱が集団ヒステリーをもたらしたなんて事例はいくらでもあるわけで、せっかく用意した舞台装置を使ってまでやるのがそれかー、となる。正直ミーム云々は綾波レイっぽい美少女かわいそう以上の感想を抱きようがない。それにこのアコーマンというゲームの位置づけも、なんとも言えない。これは数学的にとらえると、チェスの延長線上のゲームである。だから、このゲームの勝ち負けという問題は、技術的にも、また社会的インパクト的にも「ディープブルーが勝った」以上のものではありえないはずで、なのに、「世界が変わるぞ!」みたいなテンションで議論が行れているのが謎。ディープブルーの勝利という事件から人間存在の議論を始めるの、ブログネタとしては適切でも、21世紀のSF小説のモチーフとしては正直あまりかっこよくはないよねっていう。もちろん使い方の問題ではあると思うけど。

 この小説が基本的に文化一元論の立場に立っていて、ミーム的語彙だけで宗教を語りきろうとしているのだが、その点についても少し不満があった。実際、ミームの話と宗教の話のつながりがあまりにガバいと思う。両者は天国という概念一点だけで一緒くたに論じられてるが、別に宗教は天国概念だけに依拠して成立するのではないだろう。

 ワタシ的に謎ポイントが高かったのは、作中において完全に世俗化(化というよりは的とするべきか)したと思われるキャラクターたちの扱いである。特にノヴァク、マルムクヴィスト両博士のキャラ。この二人は、ある種、西洋的な世俗精神を代表するキャラクターで、設定自体は上手いと思う。つまり、基本的に敬虔さなどはとっくに失っているインテリなのだが、なぜか心の中で抱いている葛藤は極めて敬虔というか保守的なもの、という一般ピーポー的道徳の矛盾がうまく表現されている。ノヴァク博士は教科書どおりの家族形成に失敗したという点で悩んでいるし、一方マルムクヴィスト博士に至っては中絶経験がある種のトラウマとなっている。話の基本構造は、この二人の世俗化した科学者が最終的に帰依というか回心するというものなのだが、その理由があやふやにされている、というか、ミーム理論でしか宗教を論じることができていないから、結果として宗教=天国概念という結構よろしくない矮小化が起こっていて、その結果として回心や帰依、信仰に対する疑念といった本来宗教的には重要なイベントが全く何の負荷もかけられずただただ流れていく。これは端的にもったいない。物語的意味づけが無いイベントは何の印象もなく消えていくという点は、まさに著者の指摘している通りだ。

 例えばオチまでの流れだ。理屈としてはミームで説明されるのだが、特にマルムクヴィスト博士は、完全に「心に傷を負った西洋人がパラオ島で安らぎを見つけました……」になっているように思うし、わずか一行の説明でいつのまにか回心してるのは流石に違和感がある。この作品におけるミームシステムは、例えば伊藤計劃っぽい諸々とは違って、もう少し穏健な、言ってしまえば民主的なシステムであると言われている。だから、やっぱりオチにおいては伊藤計劃的な一気呵成感というか狂気とかで説明してはダメで、もうちょっと丁寧な描写、言い換えれば理性的な人間の真摯な意思決定としての回心体験を描写する必要があるのにもかかわらず、この著者はそうしていないから、薄っぺら感がやばい。結論を言うと、宗教を扱うならもうちょっと丁寧にやるべきだったんじゃなかろうかという話である。

 

まとめ

 この小説は基本的に「最後に色々つながっておーとなった」「美少女の雰囲気がよかった」以上の仕組みはない、薄っぺら小説である。その肉付けに、ミームやら宗教やら文化人類学やらとぶち込んではいるが、その設定もガバガバなのでますます薄っぺらさが目立つという結果に終わっているように思う。個人的には『カラマーゾフ兄弟』とか『闇の左手』が好きな人なので、辛口になってしまうのかもしれないけど……

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-712.html

*2:実際、我が国はパラオにおけるモデクゲイ教を迫害したという歴史的事実があるわけだから、そういうった文化的コンテンツに対する視座として、真摯な描写があってしかるべきだったと思う。いや、こういうところに戦線を設定するのが既にして先進国()住民の傲慢さなのかもしれんけど……

【ネタバレ】君の名は。【あらすじ】

君の名は。」のあらすじ

プロローグ

 2013年、東京都心で暮らす中学生男子の立花 瀧は、電車に乗っていると、謎の少女から唐突に話しかけられる。瀧はその少女を不審に思い、「君の名は」と尋ねる。少女は「私の名は三葉」と応え、瀧に対して赤い糸を渡す。これが本作の主人公である瀧と、ヒロインである三葉の最初の出会いとなる。

 その時系列、2013年のある日、岐阜県のとある湖畔の町、糸守町に隕石が落下して、その町の住人が全員死んでしまうという「災害」が発生する。

 

前半 体が入れ替わっちゃった!?

 その3年後の2016年、東京の都心で高校生活を送る立花 瀧の生活に突然の変化が生じる。瀧が朝起きると、なんと先述した岐阜県の町に暮らす少女、宮水 三葉の体の中に、自分の人格が入り込んでいたのだ! これはその逆も然りの不思議現象で、2013年の三葉は2016年の瀧となる。3年の時間を超越した入れ替わり現象というわけだ。

 この入れ替わりは不定期に、かつ一日単位で起こる不思議な現象で、入れ替わっていた間の身体側の記憶は無く、人格側の記憶も徐々に消えてしまうというという設定。よって、二人は当初自分の中に他人が入り込んでいることを認識できず、周りの生徒たちの反応(お前昨日変だったぞ。まるで別人みたいだった)から自分の変化を知る。

 様子がおかしいことを悟った二人は、スマートフォンの日記機能を用いてコミュニケーションを取り始める。この方法が上手く行って、困惑しながらも、二人はよく知らない人間を演じながらの高校生活を送り始める。岐阜県で暮らす三ツ葉は東京での暮らしを楽しむ。アルバイトにカフェに。彼女にとって都会ライフは憧れなのだ。一方、東京都民ながら岐阜で生活することになる瀧は、「田舎」での女子高生ライフを楽しむ。以上の入れ替わり展開、およびスマートフォンの日記機能を用いた二人のコミュニケーションが、前半の甘酸っぱい青春パートとなる

 さらに青春パートに並行して、三葉と入れ替わって岐阜県生活を送る瀧は、徐々に三葉というキャラクターの背景を知ることになる。

 岐阜県の糸守町で暮らす三葉は、古くから伝わる巫女*1の家系出身者で、①特殊な糸の生産、②特殊な酒の生産、そして③生産した酒を聖地に捧げる、という3つの伝統を維持する義務を負っている。三葉と入れ替わった日の瀧も、これらの伝統行事を追体験し、神社経営に協力することになる。

 また、三葉の父は町長を務めているが、父と娘の関係は破綻気味であることも明らかになる。巫女の家系に対する入り婿であった三葉の父が、三葉の母の死後、神社経営を放棄して、政治の世界に進出したことが原因らしい。町長たる三葉父は神社的伝統を嫌っているが、長女の三葉は、言葉では神社的伝統を嫌いつつも、しっかりと行事はこなしているのだ。

 

後半 3年前の隕石落下から、あの子を救え!

 後半部はネタばらし編で、スマホでの日記コミュニケーションから、どうやら三葉が岐阜県民らしいということを突き止めた2016年の瀧が、新幹線で岐阜県に向かう。しかしここで、三葉の住んでいた町は2013年の隕石墜落という「災害」ですっかり壊滅し、三葉もすでに死んでいたことが明らかにされる。

 自分が入れ替わっていた相手、すなわち三葉が死んでいたことを知った主人公は愕然としたが、自分が2013年の三葉と入れ替わっていた時の記憶を頼りに、彼女の痕跡を探そうとする。具体的には、三葉の所属する神社の聖地(この場所は隕石落下の被害を免れていた)に奉納した特殊な酒を探そうとするのだ。

 なんとか聖地にたどり着いた瀧は、そこで2013年時点で三葉によって生産された特殊な酒を入手し、それを飲む。すると主人公は時間を超越することに成功し、隕石が落下する直前の、2013年の岐阜県糸守町に暮らす三葉の中に、再び入り込む。

 三葉と化した瀧は、同級生たちと協力し、隕石が落下する前に糸守町の住民を避難させようとするが、しかし、その試みは途中で頓挫してしまう。というのも、三葉(中身は瀧)は町長である三葉の父を説得し、町の消防団を動員してもらおうとするのだが、三葉父はその説得に応じなかったのだ。そればかりか、説得の際に三葉(中身は瀧)が父に対してキレたという理由で、三葉の中身が別人であることを父に看破されてしまう。

 この時点で避難計画は完全に破綻したかに思われたのだが、三葉と化した瀧はここでもう一度聖地に向かう。すると、聖地の力によって、入れ替わった二人はついに直接のコミュニケーションを取ることに成功する。

 このコミュニケーションが成功した背景には二つ直接的理由がある。一つは物理的な問題で、前述したように、2016年の瀧の身体は聖地にある。物理的な位置の一致はこれによって説明される。また、三年間の時間を超越したことの説明は、瀧が作中においてずっと身に着けていた赤い糸によってなされる。この糸が、実は2013年時点で瀧に会うべく東京を訪れていた三葉から譲り受けたものだったことが、ここで明らかにされる。前述のエピローグ部分が当該シーンだ。この糸は、伝統的な生産物で、時空を越える力を持っているので、瀧と三葉の直接的なコミュニケーションを助ける機能があったのだと思われる。

2013年、東京都心で暮らす中学生男子の立花 瀧は、電車に乗っていると、謎の少女から唐突に話しかけられる。瀧はその少女を不審に思い、「君の名は」と尋ねる。少女は「私の名は三葉」と応え、瀧に対して赤い糸を渡す。これが本作の主人公である瀧と、ヒロインである三葉の最初の出会いとなる。

 主人公とのコミュニケーションを終えた三葉は、自分自身の身体に再び帰ってくると、今度はまた町に帰って行った。そして父を説得し、町自治体の持っている人的・物的リソースを動員することによって、なんとか町民たちの避難を成功させる。隕石落下という「災害」の人的被害は、この避難によってほぼゼロに抑えられる。

 

エピローグ

 2021年の東京で暮らす就活生の立花瀧は、電車に乗っていると、隣の路線を走る車輌に乗った一人の女性に気を引かれる。なんとその女性は岐阜県糸守町から東京に出てきた、三葉その人であった。二人は再会し、お互いにこう尋ねたのだった。「君の名は」と。

 

*1:多分もっと厳密な言い方あるんだろうけど許せ

【ネタバレ】童貞はちゃんと見に行って、ちゃんと叩いてくれ。「君の名は。」感想


「君の名は。」予告

 

 バルト9で「君の名は。」を見た。ちょっと事故があったので懺悔なう*1

 以下ネタバレ。ちなみに小説版は読んでない。 あらすじは別記事です。

zatumuiroiro.hatenadiary.jp

 

 

 

 

感想

 個人的に、「ハーモニー」劇場版以来の惨事だったのだが、好意的な感想の方が圧倒的に多く、批判的な文章を見つけるのが大変だった。ざっと(本当にざっとだけど)見るとこんな*2記事が目に入った。

 

 以下、具体的な感想。

・シナリオ面

 まあ、言われてるように、ちょっとシナリオはお粗末だったと思う。別に私は論理的な展開とか、設定の明示的な提示を要求するタイプの視聴者ではないが、それでも情報の出し方にはメリハリが必要だとは思う。というのもキャラクターを上手く作れるかどうかは完全に情報の出し方に依存しているので、そこで失敗すると、作中におけるキャラクターの動機や位置づけが迷走してしまうからだ。そうすると、どうしても悪い意味での作り物感が出てしまう。

 情報の出し方というのは、言い換えれば、キャラクターの記憶をどう管理するかという問題でもある。実際、この映画において記憶は極めて重要な要素だ。「君の名は。」には、入れ替わっていた時の記憶は時間の経過とともに消滅するという基本的なルールがあったり、あるいは主人公とヒロインが実は昔出会っていた! という展開があるなど、人間の記憶というものに焦点を当てている作品だとは思うのだが、しかし、記憶の扱いが大味すぎると思う。というか、説明がないので不信感が高まってしまう。

 

1,大事な情報がなぜ……

 まずなによりもだが、この映画の主人公は大事な情報を忘れ過ぎである。

 この映画の面白いところはすべて、「体が入れ替わっていた相手と、実は時間を共有できていなかった!」と主人公が知るシーンにかかっている。この気付きがあるからこそ、もう会えないのだという切なさが際立つし、実は東京で会っていたという展開もより活かされる。

 が、このシナリオ上のトリックが成立するのは、「高校受験に追われていた日々、電車で出会った謎の少女に赤い糸をもらった」と「隕石が岐阜県に落下し、多くの人の命が失われた」という2つの超重要な記憶を、主人公は無くしてしまっているからである。しかしこの記憶喪失、どう考えても不自然だと思う。不思議でしょうがないのだが、話を作るためにそうしました、以上の説明は多分ない。

 だってさ、なんの脈絡もなく美少女に赤い糸もらったら絶対忘れないでしょ!? 岐阜県に隕石落ちて町が吹っ飛んだら忘れないでしょ? しかもその隕石を見て「綺麗だなあ」と感じた記憶は鮮明にあるわけだから、その綺麗だった隕石がたくさんの人を殺したという記憶はきっとグロテスクな思い出として残っているはずで、赤い糸の方はまあ受け入れてもいいけど、隕石事件に関する記憶喪失は本当に擁護不能。

 

2,入れ替わり時の日記はなぜ消えた

 また、人格が入れ替わっている間の記憶が無いという問題に対して、主人公とヒロインがどう対処したのかを見てみたい。二人は、スマートフォンを用いて日記を記録し、それをお互いが参照することによって記憶の消滅に対処するという、極めて古典的な手法を取った。ここまでは別に良い。が、この手法は映画の前半では成立するのに、後半からは成立しなくなる。なんの説明も無くそうなる。前半部分におけるスマートフォンコミュニケーションがコミカルで、かつ、なぜか極めて円滑に進んでいた分、その蓄積が一瞬で消え去るのは謎感が高い。説明が無いので、二人のコミュニケーション手段を、後半部の急展開を支えるために作劇上の都合で奪ったかのようにも見えてしまう。もうちょっと簡単に言うとすごくご都合主義っぽい。

 もちろんこの件についての説明は、恐ろしく好意的な立場を取れば「ある」ことになる。つまり、コミュニケーション手法の成立/不成立を分けるのは、ヒロインが2013年の人物で、すでに死んでいるという事実を知る(確信する、かな?)瞬間なので、まあ、「あの子と共有できていたと思っていた時間は、実はそうでなかった」と判明する瞬間に、ヒロインと共有できていた記録もまた消えてしまう……とか。分からなくはないし、ちゃんとそう言ってくれれば私は受け入れると思う。とはいえ、もしこういう理屈なら、スマートフォンの電子データの方が残って、一方人間の記憶が消えてしまい、主人公はスマホの文字列を見て「なんだこれ? キモ」となる方が作劇として自然だとは思うのだが、この映画だと逆になっている。このポイントが最高に謎。記憶問題に対して、電子データで対抗するという前半部分の文法が、ここでぶっ壊れてしまう。というか、単に壊れるだけなら、新しい解決策を模索するんだ!で話は終わるのだが、この映画の場合壊し方が中途半端なので謎なのである。つまり、記録としての電子データが儚く消える一方で、主人公がヒロインの中に入っていた時の記憶はチェリーピック的に消えたり強化されたりする。突然ヒロインの名前は忘れるが、聖地の場所は鮮明に覚えている。記憶という最も重要といってもいい要素の扱いが雑すぎる。

 

3,赤い糸の使われ方

 しかし踏みとどまって、もう一度好意的な解釈を試みよう。記憶が部分的にであれ維持されたのは、主人公とヒロインとの間にあった赤い糸という紐帯のおかげなのだ。あの赤い糸というアイテムのおかげで、主人公とヒロインは部分的にとはいえつながっていられたのだ、と。

 しかし、主人公の身につけた赤い糸一つとっても、やはり情報の出し方があまりうまくないと思う。なぜ失敗しているように感じられるかというと、この映画では赤い糸という1つのアイテムに対し、2つの機能を付加しているからである。2つの機能とはすなわち、「主人公とヒロインの心理的つながりを示す」象徴的なアイテムとしての機能と、「主人公とヒロインを物理的につなげてしまう」という純機能的な側面の2つに分けることができる。そして映画にはおいては普通、アイテムの持っている機能に応じて、その紹介方法は異なる。故に情報の出し方がちぐはぐになってるのではないかと思う。

 

 アイテムの役割でも一番わかりやすいのは、主人公とヒロインの心理的紐帯を示す象徴、というものだ。本作の赤い糸は、明確にそういう側面も持っている。そして、こういう役割を持つアイテムの紹介は、「説明は最初にガッツリ、後は一切説明しない」が基本だ。

 ヒロインとのつながりを示すアイテムを要所要所で何気なく映す手法は、映画においては普遍的に見られるものであって、それは別にいい。でもこの手法がもしうまく機能するとすれば、それは映画の最初に、そのアイテムの背景が丁寧に説明されるからだ。そしてこの手法をとる場合、いったん説明を終えたら、あとはそのアイテムに一切言及するべきではない。なぜなら、ヒロインからもらったアイテムを身につけるという行為の裏には、当然、主人公の意図や気持ち(ようはヒロインのことを大事にしたいという気持ち)があるわけで、それはおおっぴらに説明されるべきではないからだ。この場合、何気なさがすべてである。説明描写っぽい露骨さの無い絵を撮ることが大事。ちゃっかりアイテムを装備している主人公を見せることで、「あ、こいつったら! ちゃっかりヒロインのこと大事にしてんだな」ということが何気なく視聴者に伝わるわけである。主人公のニクい意図を、作中の人物は知りようが無いけど、最初にちゃんと説明されている視聴者だけが理解できる。だからオイシイ。繰り返すが、紐帯系のアイテムの装備、という行為の裏には、主人公の意図が無いとオイシくない。

 「君の名は。」の場合を見てみよう。 赤い糸は、主人公がヒロインからもらったアイテムで、かつプロット上の機能もたくさんある超重要アイテムである。その名が示す通り、主人公とヒロインをつなげてくれるものなのだ。実際、赤い糸に関する情報は映画の要所要所で示されていく。エピローグのシーンと、主人公が何気なく装備しているシーンと、ヒロイン祖母らによる生産シーンおよび説明シーン、そして、最後の再開シーン、という形で整理できるだろう。

 ところが、「君の名は。」は、最初にアイテムの説明をしない。というか、中途半端に情報を出す。ほぼ視聴覚的な効果だけで赤い糸というアイテムの重要性を説明しようとしているだけでなく、ヒロインから糸を渡されるシーンがとても短い。映画の最初に数秒流れるだけなのだ。

 そういう説明不足の上に、主人公が糸を身に着けているシーンだけが何気なく映されていく。しかも身につけている理由が「なんとなく」以上のものではないし、誰からもらったものなのかという、アイテムの重要な背景についての記憶も曖昧だ。だから正直、主人公が超重要アイテムの赤い糸を装備している動機が不明である。単に動機がわからないだけでなく、アイテムの装備という行為の裏に主人公の意図や気持ちが全く存在しないので、何気なく赤い糸を装備しているシーンは、演出として成立していないと思う。視聴者としては、「あ、なんかつけてるな。なんかの伏線なんだろうな」以上の感想は抱きようがない。

 もちろん、「重要でないと思われていたけど、要所要所で登場していたアイテムが実は重要だった」という話の作り方もある。が、もしその路線を行きたいなら、アイテムの重要性は徹底的に秘匿してくれないと、これまた演出として成立しない。間違っても映画の最初に数秒ほのめかしシーンを出したり、おばあさんキャラに糸の機能(時間が云々かんぬん)を直接的に説明させたりしちゃ駄目だろという。

「災害」問題へのつながりで

 ところで、赤い糸の役割その2は、主人公とヒロインを物理的に(時間的に)つなげることだ。つまり、ストーリーを進めるための、具体的には、隕石の落下前に未来の情報をヒロインに伝えるための道具として、赤い糸がある。

 が、この作品はなぜか回りくどいことをしている。なぜなら、ヒロインに情報を伝えるためのキーアイテムとしてならば、「口噛み酒」というものが既にあるからだ。まず「口噛み酒」でヒロインと主人公を近づけ、そこでさらに「赤い糸」を追加使用することで二人を再会させる、という迂遠な方法がなぜ必要なのだ? 普通に考えれば、口噛み酒は必要ではなく、赤い糸一本で話を作った方がよい。この映画は基本的にどんな現象であれ理屈の説明を放棄しているので、細かい設定なんて視聴者的にはあってもなくても同じであり、赤い糸一本でせめた方が、分かりやすいだけでなく、ロマンチックでもあるし、いいことづくめじゃないか。もう再会の見込みが一切無い二人が、赤い糸のおかげで再会した……ええやん! 

 繰り返すと、「口噛み酒いらなくね?」という話を私はしたい*3。というかもっと言うと、再会シーンいらなくね??

 

4,「災害」的モチーフの卑怯さ

  どういう話をしたいかというと、「再開」シーンで二人が会う、物語上の必要性薄くね!? という話をしたい。

 まず、この作品のメッセージはこうだ。避難を成功させるために必要なのは、自治体の持っているリソースであって、運命の人との再会でもないし、少年少女たちの講じる小細工でもない。ここがこの映画の最大にダサいというか、キモいタイプの保守性が溢れ出てるところだと思う。これで青春映画と銘打ってんだから笑っちゃう。いや、何が言いたいかって、この映画は、主人公とヒロインの感動的再開と、避難という問題を、故意に分離している。それは「避難」という問題が、ポスト震災の2016年においては政治化して汚されてしまったからなんだけど、だから、分けたい気持ちすごく分かるんだけど、でもそこにがっつり切り込む勇気がないなら、そこで尻込みして保守性を発揮しちゃうなら、だったら、最初から「災害」モチーフ出すなよって強く思う。

 もちろん、私が使った「分離」という言葉は程度に関する概念であって、再会と「災害」は、ゆるく関連はしている。隕石が降ってくるという情報をヒロインが獲得するために、主人公は存在として必要だったのはそうなのだが、でもさ、せめて口で直接伝えろよ! 隕石来るから今すぐ行動を起こせ! 作戦は立てといた! 生き残って、今度はちゃんと再開しよう! ってさ、まずそこから入れよ! ストーリーの積み重ね的に、そうあるべきだろ! という……。

  主人公とヒロインの再開シーンのおかげで避難成功! とするのが自然だと思うのだが、素直に映像を見れば、ヒロインはあくまで視覚的な情報によって隕石のことを知ったのである。ただもちろん、ここは判断が難しい。自転車ぶっ壊れたみたいな瑣末な情報を三葉が持っていることから考えて、カメラが周ってない、カットされている瞬間に実は主人公からいろいろ説明があったのかもしれない。が、ああいう決定的シーンは普通長回しでカメラに収めるもんではないか……。だから、多分映像がすべてだと思う。ヒロインが主人公からもらったのは、「すきだ」だけなの、いやそういうの好きなんだけど、二人の会話が避難との関連性ゼロなのは話としてやっぱりおかしいでしょ。

 つまり、なぜ「口噛み酒」が必要だったかというと、避難問題を再会シーンにもちこまないためなのだと思う。「口噛み酒」の効果だけで、一応隕石情報はヒロインに入るからだ。そしてそのおかげで、再会シーンでは隕石の話をしなくて済むのである。

 これをどう考えるか。もちろん、「二人の再会は神聖だから汚しちゃだめ」とも言える。そういう意見は全然筋が通ってるとは思う。でも私は、この分離はやっぱり卑怯だと思う。

 実際、もし制作陣にもう少し気合が入ってれば、「主人公とヒロインの愛が、震災から町を救った!」的な筋をもっと全面に押し出してたはずである。でもこの点に関して制作陣は徹底的に日和ってて、避難作戦中にヒロインが「私あの人が……」みたいな訳のわからんことを言い出す時、坊主少年が「いみわからん」と諌めるみたいな展開をちゃんと入れてる。人の生き死にがかかってる時に、恋愛とかアホでしょ……っていう基本的道徳の前に、この映画は完全降伏してる*4。いや、そうじゃない! 愛が描かれてる! と思う人も多いと思うけど、でも、最終的に避難の成功と失敗を分けたのは、少年少女が弄する小細工でもないし、主人公とヒロインの再会でもなければ、むしろヒロインとその父との和解になってる。父娘関係の和解に物語のピークを持ってくるって、センスとしてオッサンすぎるだろ! 青春バカにすんな! こういうオチなんだったら、映画の前半と後半のつなながりはほぼゼロと言ってもいい。 

 しかもこの映画、「キレる娘」「暴力的な娘」では父を説得できない、とワザワザ主人公を使って明示的に示しているので*5、娘による父の説得は、父の妻一筋っぽいキャラから考えると、「わたしは我が娘三葉の中に、若き二葉*6を見出したぞ!!」っぽい感じのアレだったと容易に予想がつき、ちゃんとカメラに映さない分キモさというか密輸感が倍増でやばい。いや、実際どうやってパパを説得したか見せてみろよと言いたい。絶対、キモっ! ってなる方法だから。つーかついでに言うが、パパが元民俗学者みたいな設定もさ! 民俗学者が現地人妻と結婚するとか、ちょっと安易というか露骨すぎやしないか。いや……異世界とか過去日本でオリエンタリズムやる分にゃいいけど、現代日本の岐阜県相手にオリエンタリズム発揮すんなよっていう*7

 

 

・キャラ面

 サブキャラの扱いがあまりに雑すぎるのは本当にそうで、でも、一番やばいのはヒロインの扱いだと思う。

 

1、岐阜編のサブキャラの掘り下げが甘い

 この映画は、前半の「男女入れ替わりパート」と後半の「避難パート」に大きく分けることができると思うのだが、避難パートを盛り上げるためには、やっぱりもっと岐阜編のサブキャラ二人を掘り下げる必要があったと思う。逆に言えば、岐阜編のキャラ掘り下げが適当なので、少年少女による避難作戦は「失敗ありき」なんだろうなあというのが一発で分かってしまう。

 一応、坊主の少年の方は家の仕事で爆発物に対する知識があるとか、あと一瞬写る部屋のインテリア的に無線とかオーディオ好きっていうのが分かるんだが、それだって分量として少なすぎるし、ツインテの少女の放送部設定に至っては、本当になんの脈絡もなく突然出てくる。いや……そんなんじゃ盛り上がらんわ! サブキャラの便利屋感がやばい。で、そこは盛り上げる気が無いんだから別にいいんだよ、と当然言えるんだけど、前述の通り、少年少女たちの小細工より自治体のリソースの方が強いみたいなしょうもないリアリティを唐突に出す意味って、そうしておきながら青春映画を名乗る意味って、一体なんですか? って聞きたいよ。

2、先輩キャラの謎、メガネキャラの謎

 この先輩キャラいるか……? 「秒速5センチメートル」におけるヒロイン的な存在なんだろうけど(すなわち、「リアル」なオンナとはこういうものだ的な)、このキャラに対する主人公の心理的コミットがほぼ描かれないというか、切実さが皆無なので、別にこのキャラが何をどうしようがどうでもいいけど……? となる。HOT()なオンナです、以上。もちろんヒロインは先輩に対して嫉妬に近い感情を持つのだが、主人公の方が全然揺れてないから、こっちの感情も揺れようがないだろうという。
 個人的にはこのキャラがタバコ吸うのは浅はかというか、事実上のキャラ掘り下げ放棄というくらい安易だなと思ったけど、それより違和感あったのはメガネキャラが「あ、タバコ吸うんですね」とかツッコミを入れ出すことだよ! 2016年の東京でドキドキ高校生ライフ送ってるやつが「オンナはタバコを吸わない」とかいう謎の発想を持ってるわけがないだろ……。仮に持ってても、あんな質問をするのは普通に「ダサい」行為に分類されると思うのだが……というわけで喫煙シーンはいろいろ失笑モノ。マジでオッサンすぎ。いや、オッサン的であることは全く問題無いんだけど、一人のオッサンとして、オッサン性っていうのはこういうところでポロって出るんだな……という怖さを学んだ。

 

3、ヒロインの三葉さん

 さて、やっとここまでこれた。私は三葉さんというメインヒロインについて考えるためにこの記事を書いたのである。ここからが本題。

 このキャラ、保守派のためのヒロインである。すなわち、田舎娘である。古き良き伝統に対して口では「きらい~~」とか曰いながら、ちゃんとおばあちゃんと一緒にクッソ退屈な紐づくりをする。プライベートな時間に裁縫*8をやってる女子高生とかやばいな。また、巫女業をやっていることからも明らかなように、100%処女。しかも伝統事業と称して、「お前さ、人前で、口から唾液混じりの米を吐き出して酒つくれや」などと無茶振りされても、恥ずかしいと思いながらも(ここ重要)、従順に従う。しかも自分をインターネットで「ウリ」に出すことに対しては「はしたない」みたいな理由で自発的な拒絶反応を示す。そして何よりも重要な点として、童貞男子を裏切らない……とまあ、正直ここまで愚直に「田舎の純情娘」で来られると、なんと反応したらいいのか困ってしまうくらいである。

 が、我々が問うべき問題はこうである。すなわち、三葉さんは「秒速5センチメートル」の明里さんに対するオルタナティブ足りえるのか、という問題だ。私の結論を先取りすれば、この問に対する答えはNO、である。三葉さんは、残念ながら明里さんのオルタナティブではない。

 まず、明里さんがなぜ良かっ「た」かについて考えたい。「秒速5センチメートル」という作品は、私見だが、最後に曲がかかるシーンがおもしろい映画だ。このシーンで、「女はクソ」という極めてストレートなメッセージが童貞的鬱屈と一緒に示されるので、見ていて気持ちいいのである。繰り返すが、これは私見である。あえてフェミニストっぽい言葉遣いをすると、秒速は、ミソジニー的だからおもしろい。

 しかし2016年に生きる童貞はフェミニズムを織り込んでいるため、ミソジニー的主張の上にあぐらをかいているわけにはいかない。もうちょっと本音ベースで書くと、ようは、今「オトコは名前をつけて保存、オンナは上から保存」「これだからオンナは」とか言っても、全くつまらないし、知的潮流からは置いて行かれるだけだし、したがって、そういう発言と童貞性を結びつけておくのは、純粋に危険なのである。なぜなら、童貞とはつまらない人間を指す言葉ではないからだ。童貞とは「コアに居座る逸脱者」であり、「秩序を守ることによってそれをかき乱す」という極めてトリッキーな存在である。つまり、おもしろい連中なのだ、童貞とは。決して単なる落伍者なのではない。

 日々高まる説明と回収の脅威から逃れるため、童貞たる私はその思想と求めるヒロイン像*9を常に更新し続けなくてはならない。この童貞による童貞のためにムーブメントにおいて、私は正直なところ新海誠監督にかなり強い期待を抱いていた。新しいヒロインを提示してくれることを、というよりは、明里さんを超えるファンキーなヒロインが登場することを期待していたのだ。

 では、「君の名は。」における三葉さんはいかにして私の期待に答えたのか。答えは、残念ながら「退屈」という二文字において、である。はっきり言って、三葉さんというキャラクターには何の新規性もない。というか、全体的に保守性の塊みたいなテイストの作品で、ヒロインがここまで保守派向けだと、作品全体のイメージがまっ平らなのっぺらぼうという感じで、なめてんのかこりゃ、となる。こんなポルノにはもう飽き飽きなだよ!

 一人の童貞として宣言するが、私は三葉さんを拒絶する。三葉さんがファンタジーの産物であるからダメとか、あるいはハッピーエンドだからダメとかいう話では全然ない。単に、退屈でつまらないから受け入れないというだけである。はっきり言っておくが、2016年に暮らす童貞は、こういう風に田舎の純情娘を見せられても喜びません!!! 童貞を落したければ、時代の最先端を征くヒロインを連れて来い! これこそが私のメッセージである。新海誠なんてほっといて、カビ臭いペンキがべっとり塗られたくだらんキャンパスなんて打ち捨てて、我々は前に進もう。あの空の、あるいはあの森の、はたまたあの街の向こう側にいる、まだ見ぬ、いや、「まだ名前を知らない」ヒロインに出会うために!

*1:

 バルト9に向かう途中、ちょうどJTBやら伊勢丹やら赤い銀行やらがある大きな交差点で信号待ちをしていると、突然、日傘とサングラスを装備したクールな通行人から「この辺詳しいですか?」と話しかけられた。「あ……うぇっと」みたいなオドオドっぷりを発揮していたら、「バルト9ってどこかわかります?」と聞かれた。これから向かう場所だし、それこそバルト9のすぐ近くで聞かれたので(1区画先がバルト9だ)、道順を教えるという基礎会話プロトコルを持たない私は「えーと、すぐ近くですよ。私も行くんでお送りしましょうか」と言ってしまった(ああ!)。

 が、相手が露骨に迷惑そうな表情を作るやいなや(訂正。正しくは、相手の反応を確認する前に、である。再訂正。実際、相手は「あ! ひょっとしてあなたも舞台挨拶目当ての方ですか!」と笑顔で聞いてきた)、私は自分の発言がなんと恐れ多かったのかと後悔しはじめ、自分を呪い、いきなり方針を転換し、唐突にその場所からバルト9までの道のりを説明しはじめた。「マルイの向こう側にあるビルの上の方です」。

 脈絡の無い、拙い説明を聞かされた相手は、しかし「ありがとうございました!」と笑顔で私にお礼を述べると、私からかなり離れた場所に陣取って信号を待ち始めた(この配慮は本当にありがたかった)。信号が変わると、そのクールな通行人は早足でバルト9方面に向かった。私はその10メートルほど後ろをトボトボと歩いて行った。

 ところがである。テンパっていた私は、緊張のあまり脳みそが初期化されていたので、道を尋ねられた地点からバルト9への道のりではなく、新宿駅東口地点からバルト9への道筋を相手に教えてしまった(馬鹿め)! 端的に言うと、私は一区画ズレた道案内をしてしまったのだ。なので、私は10メートル後ろから、かのクールな通行人がスマホとにらめっこをしながら、私の説明を信じ(ああ)、バルト9を素通りして、世界堂まで歩いて行ってしまったのを、ただ無力感を胸に抱きながら眺めるしかなかった。

 しかし……私にどんな選択肢があったというのだろうか。まさか、走ってその通行人のところまで行って、不躾にも話しかけ、「はあ……はあ……あの! ボクが間違っていました! ……ボクが間違っていたんです!!」とか言えばよかったのだろうか? 冗談じゃない! そんな行為が許されるのは新宿が舞台のアニメ映画、例えば……そう、新海誠監督のアニメ映画の中だけなんだ!

 という事件があって辛かったのさ……

*2:

 

 

新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している - Excite Bit コネタ(1/7)

 

 

 

 

 

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tiger3.hatenablog.com

 

 

 

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*3:たしかにエロいポイントではある。でも、聞くが、伝統事業とかいう名目で少女にエロいことさせるためだけにアイテムを導入する映画があったら、それはただのセクハラであって、間違っても青春映画ではないだろうと思う。

*4:しかもそういう保守性の裏側で、花火みたいな派手で綺麗なものとして「災害」を描いている。こういう批判の仕方は嫌いだけど(だから脚注でやるんだが)、「災害」のスタイリッシュな使い方は、普通に道徳的問題があると思う。いわゆる「不謹慎」というのは、こういうのを叩くためにある。もちろん、私は不謹慎を持ちだして創作を叩くのが馬鹿げているとは思うのだが、絶賛の嵐なので、あえて宣言するものである。「君の名は。」における「災害」の描き方は、不謹慎だと思う。

*5:このメッセージもなあ……他の要素が説明不足なので、そっちの尺削ってまでやる必要あるか~~~??となる。けど、こういう主張をちゃっかりやるあたりに保守性が出てて、キモい。言っておきますが、もっと正々堂々と家父長制度の復活を掲げるなら、話は違ってくるんだが、この映画はそういう保守派っぽいメッセージを隠蔽してるから、私はそこがダメ。

*6:ママンの名前である

*7:まあ変なこと言うけど、災害にはオールジャパンで対抗するのが筋。東京を救う話と岐阜の田舎町を救う話、質的に同じであるべきだろ。なんの話とは言わないけどさ

*8:三葉さんがやってたのは、針を使ってないので、厳密には裁縫と言わんのだろうが

*9:ここまで言っといてまだヒロインを必要とするのか……と呆れる方もいるだろうが、ヒロイン概念抜きの童貞など成立しない

社会派なのに、優しい世界のファンタジー 「シング・ストリート 未来へのうた」


「シング・ストリート 未来へのうた」予告編

 

 有楽町のトラスト映画館で。滑り込みでなんとか見れた。係員の人に「水曜日なので1100円です」と言われたので、別に狙ったわけではないが「それはラッキーでした」みたいな返し方をしたら笑ってもらえた。なんかいい雰囲気だった。

 

 ダブリン映画。80年代の大不況、カソリック的道徳、荒れた学校、そして田舎の閉塞感。そういった諸々に押しつぶされそうになりながらも、しかし少年たちが音楽を糧に生きていこうとする青春映画。個人的にとてもよかったと思える一本。

 

 基本的な空気は男版「けいおん!」だと思う。少年たちの結成するバンド「シングストリート」は、かなりゆるくて、メンバー全員が可愛くて、しかも妙な連帯をメンバーに要求しない。そのリラックス感がすごくいい。いや、そもそもバンドは妙な連帯感を要求するものではないと言われればその通り。しかしこの映画はかなり社会派的な筋もあって、主人公たちは崩壊しかけの家庭環境・経済環境・学校環境からの逃避として音楽をやっている側面も強くある。だから、例えばヤンキーモノや暴走族モノに見られるように、一歩間違えば「はみ出し者同士の連帯」(強力かつ排他的でなくてはならない)が要求されてしまっても全く不思議ではない。が、この映画では、アイルランド社会の崩壊っぷりはある程度自然に描いているのに対して、少年少女たちに関しては優しい世界モデルが適用されているので、彼ら彼女らはそんなに本当の意味でスれてなくて、したがってバンドという連帯に対してはあまり悲惨な負荷はかからない。言葉通りの意味でクィア的というか、「なんかよくわからん連中がワラワラ集まってる」程度の負荷になってて、でもそこのおかげで可愛い感じにまとまっているという。まさにこのあたりが「けいおん!」っぽい感じ。本人たちもおもいっきり中学二年生なので、もちろんあまり賢明ではなくて、端的に言えば浅はかでアホなのだが、でもそういう幼さを全面に出してるおかげで、何をやってもいやらしさが全く無いからいいよねっていう。

 

 バンド映画なので、主人公たちは音楽を作って演奏しながら成長していく。主人公は80年台の音楽スター(デュランデュランとかザ・キュアーとか)にあこがれて、そこに近づこう、自分たちのサウンドを作ろうとするんだけど、そういった音楽スターの影響下で創作しました、というのが明確に分かるような曲とPVばかり量産していて、まあ言ってしまえばスターのパクリをしてるだけなのだが、前述のようにバンドメンバーは皆可愛いので、そういう浅はかさの裏にあざとさが見え隠れするというのが無くて、平和な心で萌えることができる。それに数曲作るうちにオリジナリティも出てくるから、最初の丸パク展開が、主人公たちの成長を示すための布石になっていて、そこも中々うまい。ただそういう創作の努力の途中途中で、崩壊した家庭環境とか、イエズス会よりもさらに過激なカソリック主義者の先生などの外部勢力が、主人公たちのメンタルをグサグサと攻撃してくるので、そういうシーンはやっぱり辛くなる。世界に打って出るぜみたいなテンションの若者を、田舎的閉塞感が包囲しにかかる感じ。社会のヤバさに比べ(こちらは自然に描かれている)、子供たちが優しい世界すぎるので(完全なファンタジーである)、そのギャップはほとんどグロテスクというべきレベルになっていて、まあそのおかげで少年たちの力強さとか、あるいは青春特有のどうしようもなさみたいなものはうまく描写できてるとは思うんだが、ややバランスが悪いなという感想もやっぱりある。とはいえ自然的な描写とファンタジー描写を混ぜあわせるのはジョン・カーニー監督の持ち芸なので、映画としてはうまい具合にまとめられているから、まあいいんだけど。*1

 

 バンド映画なので、主人公たちは音楽を通して成長してくのだが、成長との兼ね合いで言うと、やはり一番おもしろいのはヒロインと主人公の関係だろう。一般的な青春映画というものは、夢、男、オンナという三要素から成立している()。すなわち、ある夢を男が追求するが、途中で挫折してしまう。しかしこのタイミングでオンナが登場して(最初からいるかもしれないが)、「頑張って〇〇くん!」と応援することによって、男はもう一度立ち上がり、夢に向かって走りだすor夢を叶えるのである。さて。この一般的なモデルに基づいた映画を2016年に見せられると、いかに保守的な私でもさすがに「勘弁しろ……たのむから」とゲンナリする。よって、青春映画を評価する際には、この一般的なモデルからどの程度乖離しているか、新しいモデルを示すアイディアと工夫がどの程度あるのか、という点が基本的な評価軸となる。そういう筋で「シングストリート」を評価すると、ちょっとおもしろい工夫が見られる。この映画では、ラフィナ(ヒロイン)はロンドンでモデルになるという夢を持っている。そして主人公は音楽PVを作るという目標を持っていて、そこに、二人が共闘体制を取る契機がある。主人公はラフィナをPVのモデルにしようと提案し、モデル志望のラフィナはその話に飛びつく……という仕組み。つまりヒロインも夢を持っているのだ*2。この時点で一般的モデルと乖離していていい感じなのだが、一番の工夫は後半部にある。主人公の作曲クオリティがどんどん上がるにつれて、彼の作る曲はどんどんラフィナの心に突き刺さるようになっていくのだが、そんな主人公の曲が、一旦は夢破れ自暴自棄になってしまったかと思われたラフィナの心を奮い立たせ、夢に向かってもう一度がんばろうという気にさせるのだ。ここは、ライブシーンでマイクを持って歌う主人公と、誰もいない夜の公園で主人公から渡されたカセットで曲を聞くラフィナを交互に映すカメラワークになっていて、曲が進むに連れて主人公の思いが高まり、そしてラフィナがパワーを取り戻していく様子がありありと描写されており、すごく良いくて、かつ工夫とアイディアがあって、個人的にかなり気に入ったシーンだった。反動パワー(と言っていいか微妙だが)がメラメラと燃え上がって、一度徹底的に打ちのめされた人間がもう一度立ち上がる展開が大好きなのだが、そういうシーンにリアリティを与えるためには、普通、徹底的に落ちぶれ描写をやる、という方法が必要になってしまって、中盤ダレやすいという弱点がある。しかし、「シングストリート」は優しい世界映画なので、落ちぶれ描写をダラダラやったりせずに、ほとばしるエネルギーだけで勝負していて、青春映画でしかできない展開だなあとは思うのだが、わりと成功していたんじゃないかと思う。

 

 最後に面白かった点。この映画、夫婦関係の描写がめっちゃコミカルでおもしろい。舞台はダブリンなので、カソリック道徳が支配的で、故に、夫婦関係が終わっていても離婚できないという背景があり、主人公の両親も別れられずにしょっちゅう破滅的な喧嘩をする。この両親の喧嘩を、子どもたちが部屋で怯えながら聞くシーンはグサリと来る。喧嘩の声をかき消すために、音楽(!)を大音量でかけ、子どもたちが部屋で手をつないでダンスし始めるようなシーンに至っては、社会派的描写と優しい世界ファンタジー描写のギャップが最高潮に達して、グロいんだが、心には刺さるシーンになっている。さて、この両親だが、喧嘩が済むと今度はケロリとして子どもたちを呼びつけ、夫婦間交渉による決定事項を淡々と伝え始める。このシーンはなんとなく議会や小委員会の問答めいていて、冷えきった夫婦関係だからこそ可能な事務手続き感があって、笑ってはいけないのだが、どうしても「お前らさっきまで喧嘩してただろww」的なツッコミを心の中でしてしまう。パパ役がゲースロのベイリッシュ公の人なので、キャラ的にさもありなんという感じでウケてしまうのだが。

 

*1:ただまあ、社会派的筋を押し出してる作品は、話をファンタジーで終わらせず、ある程度リアルな着地点を示す義務があるんだ、という謎の信仰を私は持っている。これは「非リア向け作品のくせにお前ら全然非リアじゃないじゃん!非アリ問題を持ちだして非リアを釣っといて、中身は全編ファンタジーのリア充芸かよ!全員死んでくれ!!」というあまり一般的でないキレ方をする人々向けの信仰なので、まあ普遍性とかなんにもないんだが、とにかくそういう信仰は存在する。その兼ね合いでいうと、やっぱりこの監督のやる自然×ファンタジーの組み合わせは、ちょっと問題がある。ファンタジーの方を主として見て、自然的描写はフレーバーだよっていう立場で見れば全然いいんだけど、社会派というか自然的描写の方を主だと思っちゃうと、社会問題をファンタジー的に解決しているかのような映画としても普通に見れるわけで、そこにある種の無責任さみたいなものを感じてしまう人もいるんだろうなとは思う。例えば最後に主人公はバンドメンバーを「捨てて」彼女と一緒に英国に渡るのだが、そういうのに対して「バンドメンバーに対する裏切りだ!」「こいつは女のために音楽やってるだけ」みたいな評価を下す感想が結構あって、まあ気持ちは分かるんだけど、この監督は基本ファンタジーをやりたいんであって、ファンタジー的優しい世界では、ホモソっぽい連帯とか辛さに心を犯されたキャラが存在する余地なんて無いわけで、そういう問題は一旦おいて、優しい世界を楽しもうぜ? という理解をした方が多分建設的なんだろうなと思う。とはいえ、キレてる人たちの言い分も間違ってはいないのは確かである、とここで一応宣言しておく必要はあると思うので、ここで宣言しておくものである

*2:もちろん、昨今は男女平等の観点から、ヒロインも夢を持っている自立した女性であること自体は多いのだが、それで失敗している作品も結構ある。夢を持った野心的女性の描き方が下手くそだったり、いかにも取ってつけたような感じになっていて、逆にそれが「はいはい配慮しましたよこれでいいだろ」という言外の主張になっているように見えてしまって、誰も幸せになっていないじゃん……みたいなことはある。