【ネタバレ】童貞はちゃんと見に行って、ちゃんと叩いてくれ。「君の名は。」感想


「君の名は。」予告

 

 バルト9で「君の名は。」を見た。ちょっと事故があったので懺悔なう*1

 以下ネタバレ。ちなみに小説版は読んでない。 あらすじは別記事です。

zatumuiroiro.hatenadiary.jp

 

 

 

 

感想

 個人的に、「ハーモニー」劇場版以来の惨事だったのだが、好意的な感想の方が圧倒的に多く、批判的な文章を見つけるのが大変だった。ざっと(本当にざっとだけど)見るとこんな*2記事が目に入った。

 

 以下、具体的な感想。

・シナリオ面

 まあ、言われてるように、ちょっとシナリオはお粗末だったと思う。別に私は論理的な展開とか、設定の明示的な提示を要求するタイプの視聴者ではないが、それでも情報の出し方にはメリハリが必要だとは思う。というのもキャラクターを上手く作れるかどうかは完全に情報の出し方に依存しているので、そこで失敗すると、作中におけるキャラクターの動機や位置づけが迷走してしまうからだ。そうすると、どうしても悪い意味での作り物感が出てしまう。

 情報の出し方というのは、言い換えれば、キャラクターの記憶をどう管理するかという問題でもある。実際、この映画において記憶は極めて重要な要素だ。「君の名は。」には、入れ替わっていた時の記憶は時間の経過とともに消滅するという基本的なルールがあったり、あるいは主人公とヒロインが実は昔出会っていた! という展開があるなど、人間の記憶というものに焦点を当てている作品だとは思うのだが、しかし、記憶の扱いが大味すぎると思う。というか、説明がないので不信感が高まってしまう。

 

1,大事な情報がなぜ……

 まずなによりもだが、この映画の主人公は大事な情報を忘れ過ぎである。

 この映画の面白いところはすべて、「体が入れ替わっていた相手と、実は時間を共有できていなかった!」と主人公が知るシーンにかかっている。この気付きがあるからこそ、もう会えないのだという切なさが際立つし、実は東京で会っていたという展開もより活かされる。

 が、このシナリオ上のトリックが成立するのは、「高校受験に追われていた日々、電車で出会った謎の少女に赤い糸をもらった」と「隕石が岐阜県に落下し、多くの人の命が失われた」という2つの超重要な記憶を、主人公は無くしてしまっているからである。しかしこの記憶喪失、どう考えても不自然だと思う。不思議でしょうがないのだが、話を作るためにそうしました、以上の説明は多分ない。

 だってさ、なんの脈絡もなく美少女に赤い糸もらったら絶対忘れないでしょ!? 岐阜県に隕石落ちて町が吹っ飛んだら忘れないでしょ? しかもその隕石を見て「綺麗だなあ」と感じた記憶は鮮明にあるわけだから、その綺麗だった隕石がたくさんの人を殺したという記憶はきっとグロテスクな思い出として残っているはずで、赤い糸の方はまあ受け入れてもいいけど、隕石事件に関する記憶喪失は本当に擁護不能。

 

2,入れ替わり時の日記はなぜ消えた

 また、人格が入れ替わっている間の記憶が無いという問題に対して、主人公とヒロインがどう対処したのかを見てみたい。二人は、スマートフォンを用いて日記を記録し、それをお互いが参照することによって記憶の消滅に対処するという、極めて古典的な手法を取った。ここまでは別に良い。が、この手法は映画の前半では成立するのに、後半からは成立しなくなる。なんの説明も無くそうなる。前半部分におけるスマートフォンコミュニケーションがコミカルで、かつ、なぜか極めて円滑に進んでいた分、その蓄積が一瞬で消え去るのは謎感が高い。説明が無いので、二人のコミュニケーション手段を、後半部の急展開を支えるために作劇上の都合で奪ったかのようにも見えてしまう。もうちょっと簡単に言うとすごくご都合主義っぽい。

 もちろんこの件についての説明は、恐ろしく好意的な立場を取れば「ある」ことになる。つまり、コミュニケーション手法の成立/不成立を分けるのは、ヒロインが2013年の人物で、すでに死んでいるという事実を知る(確信する、かな?)瞬間なので、まあ、「あの子と共有できていたと思っていた時間は、実はそうでなかった」と判明する瞬間に、ヒロインと共有できていた記録もまた消えてしまう……とか。分からなくはないし、ちゃんとそう言ってくれれば私は受け入れると思う。とはいえ、もしこういう理屈なら、スマートフォンの電子データの方が残って、一方人間の記憶が消えてしまい、主人公はスマホの文字列を見て「なんだこれ? キモ」となる方が作劇として自然だとは思うのだが、この映画だと逆になっている。このポイントが最高に謎。記憶問題に対して、電子データで対抗するという前半部分の文法が、ここでぶっ壊れてしまう。というか、単に壊れるだけなら、新しい解決策を模索するんだ!で話は終わるのだが、この映画の場合壊し方が中途半端なので謎なのである。つまり、記録としての電子データが儚く消える一方で、主人公がヒロインの中に入っていた時の記憶はチェリーピック的に消えたり強化されたりする。突然ヒロインの名前は忘れるが、聖地の場所は鮮明に覚えている。記憶という最も重要といってもいい要素の扱いが雑すぎる。

 

3,赤い糸の使われ方

 しかし踏みとどまって、もう一度好意的な解釈を試みよう。記憶が部分的にであれ維持されたのは、主人公とヒロインとの間にあった赤い糸という紐帯のおかげなのだ。あの赤い糸というアイテムのおかげで、主人公とヒロインは部分的にとはいえつながっていられたのだ、と。

 しかし、主人公の身につけた赤い糸一つとっても、やはり情報の出し方があまりうまくないと思う。なぜ失敗しているように感じられるかというと、この映画では赤い糸という1つのアイテムに対し、2つの機能を付加しているからである。2つの機能とはすなわち、「主人公とヒロインの心理的つながりを示す」象徴的なアイテムとしての機能と、「主人公とヒロインを物理的につなげてしまう」という純機能的な側面の2つに分けることができる。そして映画にはおいては普通、アイテムの持っている機能に応じて、その紹介方法は異なる。故に情報の出し方がちぐはぐになってるのではないかと思う。

 

 アイテムの役割でも一番わかりやすいのは、主人公とヒロインの心理的紐帯を示す象徴、というものだ。本作の赤い糸は、明確にそういう側面も持っている。そして、こういう役割を持つアイテムの紹介は、「説明は最初にガッツリ、後は一切説明しない」が基本だ。

 ヒロインとのつながりを示すアイテムを要所要所で何気なく映す手法は、映画においては普遍的に見られるものであって、それは別にいい。でもこの手法がもしうまく機能するとすれば、それは映画の最初に、そのアイテムの背景が丁寧に説明されるからだ。そしてこの手法をとる場合、いったん説明を終えたら、あとはそのアイテムに一切言及するべきではない。なぜなら、ヒロインからもらったアイテムを身につけるという行為の裏には、当然、主人公の意図や気持ち(ようはヒロインのことを大事にしたいという気持ち)があるわけで、それはおおっぴらに説明されるべきではないからだ。この場合、何気なさがすべてである。説明描写っぽい露骨さの無い絵を撮ることが大事。ちゃっかりアイテムを装備している主人公を見せることで、「あ、こいつったら! ちゃっかりヒロインのこと大事にしてんだな」ということが何気なく視聴者に伝わるわけである。主人公のニクい意図を、作中の人物は知りようが無いけど、最初にちゃんと説明されている視聴者だけが理解できる。だからオイシイ。繰り返すが、紐帯系のアイテムの装備、という行為の裏には、主人公の意図が無いとオイシくない。

 「君の名は。」の場合を見てみよう。 赤い糸は、主人公がヒロインからもらったアイテムで、かつプロット上の機能もたくさんある超重要アイテムである。その名が示す通り、主人公とヒロインをつなげてくれるものなのだ。実際、赤い糸に関する情報は映画の要所要所で示されていく。エピローグのシーンと、主人公が何気なく装備しているシーンと、ヒロイン祖母らによる生産シーンおよび説明シーン、そして、最後の再開シーン、という形で整理できるだろう。

 ところが、「君の名は。」は、最初にアイテムの説明をしない。というか、中途半端に情報を出す。ほぼ視聴覚的な効果だけで赤い糸というアイテムの重要性を説明しようとしているだけでなく、ヒロインから糸を渡されるシーンがとても短い。映画の最初に数秒流れるだけなのだ。

 そういう説明不足の上に、主人公が糸を身に着けているシーンだけが何気なく映されていく。しかも身につけている理由が「なんとなく」以上のものではないし、誰からもらったものなのかという、アイテムの重要な背景についての記憶も曖昧だ。だから正直、主人公が超重要アイテムの赤い糸を装備している動機が不明である。単に動機がわからないだけでなく、アイテムの装備という行為の裏に主人公の意図や気持ちが全く存在しないので、何気なく赤い糸を装備しているシーンは、演出として成立していないと思う。視聴者としては、「あ、なんかつけてるな。なんかの伏線なんだろうな」以上の感想は抱きようがない。

 もちろん、「重要でないと思われていたけど、要所要所で登場していたアイテムが実は重要だった」という話の作り方もある。が、もしその路線を行きたいなら、アイテムの重要性は徹底的に秘匿してくれないと、これまた演出として成立しない。間違っても映画の最初に数秒ほのめかしシーンを出したり、おばあさんキャラに糸の機能(時間が云々かんぬん)を直接的に説明させたりしちゃ駄目だろという。

「災害」問題へのつながりで

 ところで、赤い糸の役割その2は、主人公とヒロインを物理的に(時間的に)つなげることだ。つまり、ストーリーを進めるための、具体的には、隕石の落下前に未来の情報をヒロインに伝えるための道具として、赤い糸がある。

 が、この作品はなぜか回りくどいことをしている。なぜなら、ヒロインに情報を伝えるためのキーアイテムとしてならば、「口噛み酒」というものが既にあるからだ。まず「口噛み酒」でヒロインと主人公を近づけ、そこでさらに「赤い糸」を追加使用することで二人を再会させる、という迂遠な方法がなぜ必要なのだ? 普通に考えれば、口噛み酒は必要ではなく、赤い糸一本で話を作った方がよい。この映画は基本的にどんな現象であれ理屈の説明を放棄しているので、細かい設定なんて視聴者的にはあってもなくても同じであり、赤い糸一本でせめた方が、分かりやすいだけでなく、ロマンチックでもあるし、いいことづくめじゃないか。もう再会の見込みが一切無い二人が、赤い糸のおかげで再会した……ええやん! 

 繰り返すと、「口噛み酒いらなくね?」という話を私はしたい*3。というかもっと言うと、再会シーンいらなくね??

 

4,「災害」的モチーフの卑怯さ

  どういう話をしたいかというと、「再開」シーンで二人が会う、物語上の必要性薄くね!? という話をしたい。

 まず、この作品のメッセージはこうだ。避難を成功させるために必要なのは、自治体の持っているリソースであって、運命の人との再会でもないし、少年少女たちの講じる小細工でもない。ここがこの映画の最大にダサいというか、キモいタイプの保守性が溢れ出てるところだと思う。これで青春映画と銘打ってんだから笑っちゃう。いや、何が言いたいかって、この映画は、主人公とヒロインの感動的再開と、避難という問題を、故意に分離している。それは「避難」という問題が、ポスト震災の2016年においては政治化して汚されてしまったからなんだけど、だから、分けたい気持ちすごく分かるんだけど、でもそこにがっつり切り込む勇気がないなら、そこで尻込みして保守性を発揮しちゃうなら、だったら、最初から「災害」モチーフ出すなよって強く思う。

 もちろん、私が使った「分離」という言葉は程度に関する概念であって、再会と「災害」は、ゆるく関連はしている。隕石が降ってくるという情報をヒロインが獲得するために、主人公は存在として必要だったのはそうなのだが、でもさ、せめて口で直接伝えろよ! 隕石来るから今すぐ行動を起こせ! 作戦は立てといた! 生き残って、今度はちゃんと再開しよう! ってさ、まずそこから入れよ! ストーリーの積み重ね的に、そうあるべきだろ! という……。

  主人公とヒロインの再開シーンのおかげで避難成功! とするのが自然だと思うのだが、素直に映像を見れば、ヒロインはあくまで視覚的な情報によって隕石のことを知ったのである。ただもちろん、ここは判断が難しい。自転車ぶっ壊れたみたいな瑣末な情報を三葉が持っていることから考えて、カメラが周ってない、カットされている瞬間に実は主人公からいろいろ説明があったのかもしれない。が、ああいう決定的シーンは普通長回しでカメラに収めるもんではないか……。だから、多分映像がすべてだと思う。ヒロインが主人公からもらったのは、「すきだ」だけなの、いやそういうの好きなんだけど、二人の会話が避難との関連性ゼロなのは話としてやっぱりおかしいでしょ。

 つまり、なぜ「口噛み酒」が必要だったかというと、避難問題を再会シーンにもちこまないためなのだと思う。「口噛み酒」の効果だけで、一応隕石情報はヒロインに入るからだ。そしてそのおかげで、再会シーンでは隕石の話をしなくて済むのである。

 これをどう考えるか。もちろん、「二人の再会は神聖だから汚しちゃだめ」とも言える。そういう意見は全然筋が通ってるとは思う。でも私は、この分離はやっぱり卑怯だと思う。

 実際、もし制作陣にもう少し気合が入ってれば、「主人公とヒロインの愛が、震災から町を救った!」的な筋をもっと全面に押し出してたはずである。でもこの点に関して制作陣は徹底的に日和ってて、避難作戦中にヒロインが「私あの人が……」みたいな訳のわからんことを言い出す時、坊主少年が「いみわからん」と諌めるみたいな展開をちゃんと入れてる。人の生き死にがかかってる時に、恋愛とかアホでしょ……っていう基本的道徳の前に、この映画は完全降伏してる*4。いや、そうじゃない! 愛が描かれてる! と思う人も多いと思うけど、でも、最終的に避難の成功と失敗を分けたのは、少年少女が弄する小細工でもないし、主人公とヒロインの再会でもなければ、むしろヒロインとその父との和解になってる。父娘関係の和解に物語のピークを持ってくるって、センスとしてオッサンすぎるだろ! 青春バカにすんな! こういうオチなんだったら、映画の前半と後半のつなながりはほぼゼロと言ってもいい。 

 しかもこの映画、「キレる娘」「暴力的な娘」では父を説得できない、とワザワザ主人公を使って明示的に示しているので*5、娘による父の説得は、父の妻一筋っぽいキャラから考えると、「わたしは我が娘三葉の中に、若き二葉*6を見出したぞ!!」っぽい感じのアレだったと容易に予想がつき、ちゃんとカメラに映さない分キモさというか密輸感が倍増でやばい。いや、実際どうやってパパを説得したか見せてみろよと言いたい。絶対、キモっ! ってなる方法だから。つーかついでに言うが、パパが元民俗学者みたいな設定もさ! 民俗学者が現地人妻と結婚するとか、ちょっと安易というか露骨すぎやしないか。いや……異世界とか過去日本でオリエンタリズムやる分にゃいいけど、現代日本の岐阜県相手にオリエンタリズム発揮すんなよっていう*7

 

 

・キャラ面

 サブキャラの扱いがあまりに雑すぎるのは本当にそうで、でも、一番やばいのはヒロインの扱いだと思う。

 

1、岐阜編のサブキャラの掘り下げが甘い

 この映画は、前半の「男女入れ替わりパート」と後半の「避難パート」に大きく分けることができると思うのだが、避難パートを盛り上げるためには、やっぱりもっと岐阜編のサブキャラ二人を掘り下げる必要があったと思う。逆に言えば、岐阜編のキャラ掘り下げが適当なので、少年少女による避難作戦は「失敗ありき」なんだろうなあというのが一発で分かってしまう。

 一応、坊主の少年の方は家の仕事で爆発物に対する知識があるとか、あと一瞬写る部屋のインテリア的に無線とかオーディオ好きっていうのが分かるんだが、それだって分量として少なすぎるし、ツインテの少女の放送部設定に至っては、本当になんの脈絡もなく突然出てくる。いや……そんなんじゃ盛り上がらんわ! サブキャラの便利屋感がやばい。で、そこは盛り上げる気が無いんだから別にいいんだよ、と当然言えるんだけど、前述の通り、少年少女たちの小細工より自治体のリソースの方が強いみたいなしょうもないリアリティを唐突に出す意味って、そうしておきながら青春映画を名乗る意味って、一体なんですか? って聞きたいよ。

2、先輩キャラの謎、メガネキャラの謎

 この先輩キャラいるか……? 「秒速5センチメートル」におけるヒロイン的な存在なんだろうけど(すなわち、「リアル」なオンナとはこういうものだ的な)、このキャラに対する主人公の心理的コミットがほぼ描かれないというか、切実さが皆無なので、別にこのキャラが何をどうしようがどうでもいいけど……? となる。HOT()なオンナです、以上。もちろんヒロインは先輩に対して嫉妬に近い感情を持つのだが、主人公の方が全然揺れてないから、こっちの感情も揺れようがないだろうという。
 個人的にはこのキャラがタバコ吸うのは浅はかというか、事実上のキャラ掘り下げ放棄というくらい安易だなと思ったけど、それより違和感あったのはメガネキャラが「あ、タバコ吸うんですね」とかツッコミを入れ出すことだよ! 2016年の東京でドキドキ高校生ライフ送ってるやつが「オンナはタバコを吸わない」とかいう謎の発想を持ってるわけがないだろ……。仮に持ってても、あんな質問をするのは普通に「ダサい」行為に分類されると思うのだが……というわけで喫煙シーンはいろいろ失笑モノ。マジでオッサンすぎ。いや、オッサン的であることは全く問題無いんだけど、一人のオッサンとして、オッサン性っていうのはこういうところでポロって出るんだな……という怖さを学んだ。

 

3、ヒロインの三葉さん

 さて、やっとここまでこれた。私は三葉さんというメインヒロインについて考えるためにこの記事を書いたのである。ここからが本題。

 このキャラ、保守派のためのヒロインである。すなわち、田舎娘である。古き良き伝統に対して口では「きらい~~」とか曰いながら、ちゃんとおばあちゃんと一緒にクッソ退屈な紐づくりをする。プライベートな時間に裁縫*8をやってる女子高生とかやばいな。また、巫女業をやっていることからも明らかなように、100%処女。しかも伝統事業と称して、「お前さ、人前で、口から唾液混じりの米を吐き出して酒つくれや」などと無茶振りされても、恥ずかしいと思いながらも(ここ重要)、従順に従う。しかも自分をインターネットで「ウリ」に出すことに対しては「はしたない」みたいな理由で自発的な拒絶反応を示す。そして何よりも重要な点として、童貞男子を裏切らない……とまあ、正直ここまで愚直に「田舎の純情娘」で来られると、なんと反応したらいいのか困ってしまうくらいである。

 が、我々が問うべき問題はこうである。すなわち、三葉さんは「秒速5センチメートル」の明里さんに対するオルタナティブ足りえるのか、という問題だ。私の結論を先取りすれば、この問に対する答えはNO、である。三葉さんは、残念ながら明里さんのオルタナティブではない。

 まず、明里さんがなぜ良かっ「た」かについて考えたい。「秒速5センチメートル」という作品は、私見だが、最後に曲がかかるシーンがおもしろい映画だ。このシーンで、「女はクソ」という極めてストレートなメッセージが童貞的鬱屈と一緒に示されるので、見ていて気持ちいいのである。繰り返すが、これは私見である。あえてフェミニストっぽい言葉遣いをすると、秒速は、ミソジニー的だからおもしろい。

 しかし2016年に生きる童貞はフェミニズムを織り込んでいるため、ミソジニー的主張の上にあぐらをかいているわけにはいかない。もうちょっと本音ベースで書くと、ようは、今「オトコは名前をつけて保存、オンナは上から保存」「これだからオンナは」とか言っても、全くつまらないし、知的潮流からは置いて行かれるだけだし、したがって、そういう発言と童貞性を結びつけておくのは、純粋に危険なのである。なぜなら、童貞とはつまらない人間を指す言葉ではないからだ。童貞とは「コアに居座る逸脱者」であり、「秩序を守ることによってそれをかき乱す」という極めてトリッキーな存在である。つまり、おもしろい連中なのだ、童貞とは。決して単なる落伍者なのではない。

 日々高まる説明と回収の脅威から逃れるため、童貞たる私はその思想と求めるヒロイン像*9を常に更新し続けなくてはならない。この童貞による童貞のためにムーブメントにおいて、私は正直なところ新海誠監督にかなり強い期待を抱いていた。新しいヒロインを提示してくれることを、というよりは、明里さんを超えるファンキーなヒロインが登場することを期待していたのだ。

 では、「君の名は。」における三葉さんはいかにして私の期待に答えたのか。答えは、残念ながら「退屈」という二文字において、である。はっきり言って、三葉さんというキャラクターには何の新規性もない。というか、全体的に保守性の塊みたいなテイストの作品で、ヒロインがここまで保守派向けだと、作品全体のイメージがまっ平らなのっぺらぼうという感じで、なめてんのかこりゃ、となる。こんなポルノにはもう飽き飽きなだよ!

 一人の童貞として宣言するが、私は三葉さんを拒絶する。三葉さんがファンタジーの産物であるからダメとか、あるいはハッピーエンドだからダメとかいう話では全然ない。単に、退屈でつまらないから受け入れないというだけである。はっきり言っておくが、2016年に暮らす童貞は、こういう風に田舎の純情娘を見せられても喜びません!!! 童貞を落したければ、時代の最先端を征くヒロインを連れて来い! これこそが私のメッセージである。新海誠なんてほっといて、カビ臭いペンキがべっとり塗られたくだらんキャンパスなんて打ち捨てて、我々は前に進もう。あの空の、あるいはあの森の、はたまたあの街の向こう側にいる、まだ見ぬ、いや、「まだ名前を知らない」ヒロインに出会うために!

*1:

 バルト9に向かう途中、ちょうどJTBやら伊勢丹やら赤い銀行やらがある大きな交差点で信号待ちをしていると、突然、日傘とサングラスを装備したクールな通行人から「この辺詳しいですか?」と話しかけられた。「あ……うぇっと」みたいなオドオドっぷりを発揮していたら、「バルト9ってどこかわかります?」と聞かれた。これから向かう場所だし、それこそバルト9のすぐ近くで聞かれたので(1区画先がバルト9だ)、道順を教えるという基礎会話プロトコルを持たない私は「えーと、すぐ近くですよ。私も行くんでお送りしましょうか」と言ってしまった(ああ!)。

 が、相手が露骨に迷惑そうな表情を作るやいなや(訂正。正しくは、相手の反応を確認する前に、である。再訂正。実際、相手は「あ! ひょっとしてあなたも舞台挨拶目当ての方ですか!」と笑顔で聞いてきた)、私は自分の発言がなんと恐れ多かったのかと後悔しはじめ、自分を呪い、いきなり方針を転換し、唐突にその場所からバルト9までの道のりを説明しはじめた。「マルイの向こう側にあるビルの上の方です」。

 脈絡の無い、拙い説明を聞かされた相手は、しかし「ありがとうございました!」と笑顔で私にお礼を述べると、私からかなり離れた場所に陣取って信号を待ち始めた(この配慮は本当にありがたかった)。信号が変わると、そのクールな通行人は早足でバルト9方面に向かった。私はその10メートルほど後ろをトボトボと歩いて行った。

 ところがである。テンパっていた私は、緊張のあまり脳みそが初期化されていたので、道を尋ねられた地点からバルト9への道のりではなく、新宿駅東口地点からバルト9への道筋を相手に教えてしまった(馬鹿め)! 端的に言うと、私は一区画ズレた道案内をしてしまったのだ。なので、私は10メートル後ろから、かのクールな通行人がスマホとにらめっこをしながら、私の説明を信じ(ああ)、バルト9を素通りして、世界堂まで歩いて行ってしまったのを、ただ無力感を胸に抱きながら眺めるしかなかった。

 しかし……私にどんな選択肢があったというのだろうか。まさか、走ってその通行人のところまで行って、不躾にも話しかけ、「はあ……はあ……あの! ボクが間違っていました! ……ボクが間違っていたんです!!」とか言えばよかったのだろうか? 冗談じゃない! そんな行為が許されるのは新宿が舞台のアニメ映画、例えば……そう、新海誠監督のアニメ映画の中だけなんだ!

 という事件があって辛かったのさ……

*2:

 

 

新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している - Excite Bit コネタ(1/7)

 

 

 

 

 

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tiger3.hatenablog.com

 

 

 

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*3:たしかにエロいポイントではある。でも、聞くが、伝統事業とかいう名目で少女にエロいことさせるためだけにアイテムを導入する映画があったら、それはただのセクハラであって、間違っても青春映画ではないだろうと思う。

*4:しかもそういう保守性の裏側で、花火みたいな派手で綺麗なものとして「災害」を描いている。こういう批判の仕方は嫌いだけど(だから脚注でやるんだが)、「災害」のスタイリッシュな使い方は、普通に道徳的問題があると思う。いわゆる「不謹慎」というのは、こういうのを叩くためにある。もちろん、私は不謹慎を持ちだして創作を叩くのが馬鹿げているとは思うのだが、絶賛の嵐なので、あえて宣言するものである。「君の名は。」における「災害」の描き方は、不謹慎だと思う。

*5:このメッセージもなあ……他の要素が説明不足なので、そっちの尺削ってまでやる必要あるか~~~??となる。けど、こういう主張をちゃっかりやるあたりに保守性が出てて、キモい。言っておきますが、もっと正々堂々と家父長制度の復活を掲げるなら、話は違ってくるんだが、この映画はそういう保守派っぽいメッセージを隠蔽してるから、私はそこがダメ。

*6:ママンの名前である

*7:まあ変なこと言うけど、災害にはオールジャパンで対抗するのが筋。東京を救う話と岐阜の田舎町を救う話、質的に同じであるべきだろ。なんの話とは言わないけどさ

*8:三葉さんがやってたのは、針を使ってないので、厳密には裁縫と言わんのだろうが

*9:ここまで言っといてまだヒロインを必要とするのか……と呆れる方もいるだろうが、ヒロイン概念抜きの童貞など成立しない