みた映画とか

映画館で見た三本。期せずして三本とも頭おかしい人映画。

 

 

エヴェレスト 


岡田准一主演!映画『エヴェレスト 神々の山嶺』予告編

 

 実家に帰っていた時に見た映画。原作小説の著者は『陰陽師』と同じ人で、多分小説の方は面白いんでしょう……

 どんな映画か。一言で言えば、ガチ勢的キチガイキャラ(阿部寛)が山に登る映画である。単にそれだけの映画なのだが、というか、それだけの映画にしておけば最近はやりのガチ勢キチガイが突き抜ける映画として最低限まとまったはずだったのだが……この映画にはカメラマン(岡田准一)が登場する。いわゆる視点人物としてのカメラマン。このカメラマンを通して、私達視聴者はキチガイ登山家の生き様を見ることになるのだが……このカメラマンの使い方が最悪だった。そのせいで映画がぶっ壊れている。

 これは小説を原作とする映画の限界というべきだろう。まず大前提として、小説という媒体においてキチガイの一人称モノなど絶対に成立しない。「この世界には自分の狂気を説明しようとするタイプの狂気が存在する」のも確かだが、普通に考えてサイコパスの独白小説など面白いわけがない。それゆえ、小説でキチガイに突破力に与えるためには、つまりキチガイキチガイ性を際立たせるためには、必ず正常な地平からキチガイを眺める必要があるのであって、そのためには三人称の文体か、あるいは普通の価値観と規範を持った視点人物が必要となる。

 しかし、映画においてはその必要がない。一切ない。なぜなら視聴者は普通の人間だから。普通の視聴者はスクリーンに映るキチガイを見れば、即座に異常性を感知できるのであり、「こいつやべえ」という感覚を楽しむことができる。ある意味で、視聴者が視点人物であるとでもいえばよいだろうか。つまり結論として、キチガイ映画には視点人物はいらない。

 ところがこの「エヴェレスト」なる映画においては、カメラマンという視点人物が導入されている。これだけでも文法上の大失敗だと思うのだが、このカメラマンは、唐突にキチガイ化しようとし始める。これが最悪。例えば動機の側面について言っても、あくまで「山登り」がしたいだけのガチ勢キャラに対し、カメラマンの山登りは単にキャリアのためにすぎない。しかしこの断絶のおかげで、ガチ勢のガチ勢性、異常性が鮮やかに描かれ得たのである。ところが映画の終盤で、突然カメラマンが山登りを始める。これは「キチガイを眺める普通の人」という構造をぶち壊すばかりでなく、キチガイガチ勢の壮絶な生きざまを描くという映画の根本的な要素を掘り崩す行為で(だって、普通の人でもガチ勢と同じことができるんだとすれば、ガチ勢の特殊性なんて無くなるじゃないですか)、正直、全くもって意味不明だった。

 実はカメラマンもキチガイであり、したがってこの映画はキチガイ×キチガイの関係性を描いているのだ、という見方も一応可能である、というか、その筋しかこの映画を救う道はない。とはいえその筋で評価するにしても、キチガイ同士のメチャシコな関係性を描いた「セッション」の後に出た映画でしかないわけで……完成度は雲泥の差である。というか、お金をジャバジャバつぎ込んで作られたこの「エヴェレスト」と、海外ロケやプロモーションとは原則的に無縁だった低予算映画「セッション」とを比較すると、いろいろ虚しくなる。

 「ハーモニー」に続く邦画でしたが、また大失敗でした。

 

 

 フォックスキャッチャー

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 アメリカ映画。なんと史実映画である。統合失調症に陥っていたデュポン家の当主が、子飼いのレスラー二人の人生を狂わせてしまう……という映画なのだが、デュポン家といえばアメリカの大財閥。その当主(多分)が殺人事件を起こしていたなんて知らなかった……実際の事件について詳しくは↓

ジョン・デュポン - Wikipedia

 ただ映画としてはやや図式的だったというか、あまりキチガイ映画ではなかった。主要キャラクターは三人いて、だいたい以下のような役割を担わされている。

 

マーク・シュルツ(アンダークラス民)

 非リア。ぼっち。ネトウヨ。レスラーの金メダリストだけどコミュ症。家族も定職もなく、過去の栄光を糧にしみじみと生きているキャラクターで、図式的にいうとアメリカのアンダークラス民を代表するキャラクター。ある日金持ちに見初められてもう一度スターダムに登ろうと頑張りはじめる。しかし失敗してしまい(ソウル・オリンピックでは勝てなかった)、金持ちにいじめられる。このいじめシーンが結構きつい。脅迫的なおじさんってほんと怖いんだよな…… ところが実の兄がいじめに介入してくれたので、なんとかおじさんの攻撃から身を守ることができるのだが、金持ちおじさんがお兄さんを殺してしまったため、最終的に誰からも守ってもらえなくなる。最後にはネトウヨの姫としてロシア人とプロレスごっこをするまでに落ちぶれてしまう。

 

ジョン・デュポン(軍産複合体アッパー民)

 ハイパー金持ち。レスリングが好き。私有地にレスリング練習施設を作って、そこに選手を集めて育成している。マークくんもそういうノリで集められた選手の一人。あと私有地に陸軍から買い取った戦闘車輌を集めたりしてる人。デュポンは化学産業のラスボス的な存在であり、化学産業は戦争との結びつきが強い産業である。火薬とか砲弾とか。そんなわけでこのキャラクターは、アメリカの軍産複合体とかハイパーリッチ民を代表するキャラクター。頭がおかしい人として描かれているばかりでなく、中流民を殺す役割も担っている。

 

デイブ・シュルツ(中流民)

 中流民。家族も職もある。そして弟であるマークくんのことを大事にしているので、彼が金持ちにいじめられると知ったら、速攻で駆けつけて弟を守る。この一連のシーンはメチャシコ。最終的に頭のおかしい金持ちに殺される。中流民が金持ちに殺されることはよくある。

 

 つまり「キチガイ金持ちが中流民を殺し、アンダークラス民は戦争に駆り立てられる」という筋の映画である。キチガイポジションにいるのはもちろんジョン・デュポンさんなのだが、当然批判的に描かれているので、キチガイ映画の主人公に付与されるある種の英雄性みたいなのは全然無い。むしろポストリーマン・ショック的なノリだけで作られたキャラクターという感じ。そういうわけでキチガイ映画としての質は極めて低い。

 あとはっきりさせておきたいのだが、中流民が身を挺してアンダークラス民を守るってファンタジーもいいとこでしょ。この映画は、兄弟愛に、中流民中心主義的な価値観を密輸してるからそれがあんまりよくない。純粋な兄弟愛モノにしてればまだ見れたかな。

 最後に一つ。この映画、金持ちが陸軍から装甲車を購入して、しかも砲座にオプションで重機関銃までつけさせるシーンをしつこく描いている。もちろん、軍産複合体的なアトモスフィアを描きたかったのは分かるんだが、作中でこの装甲車が実際に使用されることは無く、これがもったいなかった。最後、中流民を殺した金持ちが警察に包囲されるが、その時金持ちが装甲車に乗って警察車輌と戦闘を始めれば(史実映画なので限界があるんだろうけどさ!)、キチガイ映画としてまだ評価できた。「ここは私の私有地だぞ!!!」とか言いながら装甲車で警察車両ぶっ潰すみたいなシーン普通に見たかった。

 

 

 

 

ナイトクローラー 

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  三本の中で一番よかった。百万回見れる映画。

 舞台はカリフォルニア。盗みを働いて生計を立てている主人公のジェイクさんは、家族も友人もなし。ただネットとテレビ鑑賞があり、あとは観葉植物に水を与えるだけの人生だ。しかしある事件をきっかけに、テレビ局に対して、都市で起きる様々な事件の映像を提供する事業に参入。そこでメキメキと頭角を現し、ジェイクさんはサクセスしていく。彼はまさに、アントレプレナー、起業家のなんたるかを体現するようなキャラクターである。

 ジェイクさんは我が国でいうと就活で頭おかしくなった人キャラかな。日常的語彙が頭からすっかり消失しており、経営学や就活ハウツー本から取ってきたような語彙で自分を売り込むのが得意。また他人を説得する際にはネットでかじった心理学実験をエビデンスとして引用したりする。上司との会話では「あなたに対する交渉力(バーゲニングパワー)が低下するから、そんなことはできない」などと口走ったりもして、個人的にこういうのが好き。交渉力という語彙はマネジメント系キチガイが最も好む単語である。ただ普通、自信ないやつが下手にこの戦略を取ると「薄っぺらい」とか言われて一刀両断なのだが、ジェイクはこういったことを自信満々にやるので、なんかそれっぽくなる。役者のルイス・ブルームがうまいんだよなあ。常に目をカッと見開いている演技とか、微妙にまとまってないボサボサの髪とか。ひと目で「こいつやばい」と分かるキャラクターに仕上がっていて、キチガイクオリティは非常に高い。

 当然の事実として、経営学キチガイであるジェイクくんには恋愛感情すら無い。したがってこの映画にはラブロマンスがなく、非モテ民でも安心して視聴できる。セックスや恋愛も、ジェイクさんにとってはサクセスのツールでしかない。いかにソリューション思考が貫徹されているのが分かる。

 ところでこの映画には普通の人がただ一人登場する。彼のおかげで、キチガイキチガイ力が際立つ。それがリックくんである。就活的エートスに過剰適応した結果爆誕したサイコパスであるジェイクに対して、就活的世界観に対してうまく適応できなかったキャラがリックくん。リックくんは自己PRすらしどろもどろであり、寝る場所すらない経済的貧困民。ただし普通の感性は持っていて、ジェイクさん(起業家)に対して「ちゃんと俺を人間として扱え」などと全う極まりない説教をしたりもする。でもそんな道徳的人間はカリフォルニアじゃ生きていけないのである。悲しい。

 映画の見どころはそういうわけで、起業家キチガイVS貧乏な道徳家というバトルなのだが、起業家はエスタブリッシュメント勢力とも戦う。すなわち取引先の大企業に対して、起業家たるジェイクは売り込みをかけなくてはならないのである。ジェイクさんの始めたビジネスは、都市で起こる殺人や交通事故の映像をいち撮影し、それをニュース番組に売りさばくというもの。よって取引先はニュース局である。ニュース番組では当然のごとく視聴率至上主義みたいなものが全面化していて、治安の悪い都心の事件などなんの価値も持っていない。例えば下町でマイノリティが殺された映像を撮影しても、誰も買ってくれない。ニュース番組が求めているのは、郊外の中流白人が事件に巻き込まれるというショッキングな映像なのである。しかし、郊外の治安は実際極めて良好なので、「いい絵」は取りにくい。しかし、起業家のソリューション思考にかかればそんな障害は簡単にソルブされてしまうのだ。ジェイクくんは様々なビジネス上のイノベーション(捏造やガジェットの使用)を展開することによって、ビジネスを拡大していく。

 まあこういう話なので、当然のごとくメディアの視聴率至上主義けしからん!みたいな話になりそうだが、ここにちょっとツイストがかけてある。視聴率至上主義批判をしようと思えば、普通TV局スタッフを悪玉にそえるわけだが、この作品はそんな安易なことをしない。むしろ『帰ってきたヒトラー』みたいな感じで、各々が制度に乗っかってるだけなのに、どんどんエスカレーションが止まらなくなるというヤバみを強調している。そもそも、ニュース番組側はたいていのスタッフが穏健派で、むしろ「視聴率だけがニュースじゃないだろ」などと正論を吐いてしまう人々である。実際、ニュース番組単体で物事をエスカレートさせるというのは無理で、かつ真実というわけではない。過剰なインセンティブ制度に支配された外部マネージャーや、我らが起業家ジェイクなど、多様なステークホルダーに支えらることによって、はじめてジャーナリズムを掘り崩すことができる。より立体的で、説得力のあるマスメディア批判として仕上がっている。

 

 ところで、「ナイトクローラー」が新世代の「タクシー・ドライバー」だ!みたいな煽り文が公式トレーラーに載せられてるけど、これは確かに面白い議論かもしれない。

 社会の爪弾き者が持っている逸脱エネルギーを何に使ってもらうか、という問は古典的なものであるが、それに対して金儲けと答えるのが資本主義である。でも寡占が進んでいたり国の管理が強い経済だと、金儲けとかできない。多くの逸脱映画が、繁華街とかプラント工場をランドスケープとして選択するのは、つまりはそういう意味合いもあるんだと思う。経済活動から疎外されてる的な感覚を喚起するというか。ああいう風景を見れば、身ひとつで生産側に回るなんて無理だと一目で分かる。銀座やニューヨークを見れば小売なんてできねーと分かるし、プラント工場を見れば資本力が競争力とイコールであることがすぐ分かる。前者にはたくさんの人がいて、後者には人が全くいない。でもこれは2つとも「お前はいらない」というメッセージとして逸脱者の心に突き刺さる。このように、基本的に逸脱者というのは、経済的の領域においてはおもいっきり疎外されていなくてはならなかった。例えばタクシー運転手というのは(経済学がいうところの)低技能労働の典型であり、その意味でトラヴィスは典型的な貧乏ライフを送っていた。しかし昨今はインターネットの登場によって「起業家」になることと「逸脱する」ことが100年の時を経てまた重なったのだ……と言うことはできる。そういう意味でナイトクローラーは起業家=逸脱者のラインを復活させたのだ! みたいな……

 まあでも、自分で書いといてアレだがこれはよくある話。結局こういうは全部、インターネットのおかげでキチガイのショウビズ力が高まってるというだけのことである。つまりはショウビズの熱狂にどの程度コミットするか問題にすぎない。そしてこの熱狂というのは無限に拡大するのであって、この熱狂に「逸脱者」としてコミットするか「起業家」としてコミットするかは決定的に重要なのだと思う。典型的な逸脱映画は、主人公が悲劇的な最後を迎えることによってしっかりと熱狂に終止符を打っていた。ある種、逸脱者というのは適応できなかった存在にすぎないわけだし、適応できない存在はただ死ぬしかない。滅びの美学とか、悲劇に対する陶酔、こじらせきったアイデンティティの死守。終わりがなければ逸脱ではない。しかし起業家は違う。実際、ナイトクローラーの主人公は道徳的に正当化不能なことをやりまくったにもかかわらず、なんの報いも受けず、ただビジネスを拡大していくだけである。資本主義に対する過剰適応を体現しているわけだが、無限のビジネスエクスパンションの先に何があるかは全くわからない。個人的には、この対立は収束VS拡散という感じで表現しておくことにする。多分、これからどんどん拡散系の作品が増えると思うが、今後の展開が楽しみだ。