十分楽しんでから大人になる人たち「トレインスポッティング」「ザ・ビーチ」感想

 

 

 

ザ・ビーチ (字幕版)

ザ・ビーチ (字幕版)

 

 

ザ・ビーチに比べるとトレインスポッティングはまだ見れた。けどまあ、正直こういうの持ち上げてる奴とは仲良くなれんだろうなーっていう。すまん。まーなんか、朝井リョウとかを楽しめる人たち向けの監督だなこりゃ。出来不出来というよりも、好き嫌いとか相性の問題。正直、この監督の「青春」とか「若さ」に対する理解は私のそれと全く異なっているので、演出の一つ一つがギャグにしか見えなかったよ。

まあなんだ、この監督のテーマは基本、「大人になる」だと思うんだけど、うーん、俺には全くわかりませんな。つまりここでは、セックスとかドラッグを目一杯楽しんだあとに「退屈な」日常を受け入れること、それが大人になるということらしいんだけれども。でもまーさー、これって完全にリア充的な「大人になる観」なわけですよ。私の理解ではですね、なーんも面白いことがないから、なーんか面白いことねーかなーと思ってる人が、自分の可能性を閉じる……っていうのが「大人になる」ってことですよ。普通の非リアが経験するのは、多分こっちの「大人になる観」でしょう。これら、似てるようで全然違いますからね。つまりどちらの「大人になる」観も、人生には何もないってことを受け入れるという点においては同じなんだけど、「あんなに素晴らしかった何かが本当に消えてしまう」というリアルな恐怖体験に重点を置くか「何もなかったし、色々妄想しまくったけど、そうか、これからだって何もないのかー」という悲しい気付きに力点を置くかの違いはかなりでかい。そして、前者の恐怖をリアルな、自分のこととして受け入れられるのはリア充だけっしょ、という話。持ってないものを失う恐怖とか、まー普通にわかりかねますわ。

ちなみにこの筋でいうと、「今までの人生、一見何もなかったかに見える。でも確かに何かがあったよね」という肯定の物語に強引にでも着地するという意味で、負け犬映画は「ガキ向け」のコンテンツに分類されるんだろうね。例えば「トレインスポッティング」好きな奴に「クレイジーサンダーロード」を見せたら「違う!! ぜんぜん違う!!」ってなるわけですよ。うーん。最初にも書いたけど、これはどこまでいっても相性の問題だよな……。

正義感の存在を信じられない人間にはなるまい 『葛城事件』感想(ネタバレあり)

 

youtu.be

 

葛城事件……きつかった! もうひったすらきつかった!! でも、お父さんキャラがアホすぎて笑ってもしまう……。なんというかね、泣きながら笑って見てました。ゲラゲラ泣く……という稀有な体験ですな。

とりあえず家父長制っぽい話、おっさんっぽい話はもうされまくっているはずなので、そこはもういいかな……という。そういう話がしたければ↓を見てくれ。


【絶賛】宇多丸 映画「葛城事件」シネマハスラー

 

というわけでこの記事ではあまり触れられていないであろう以下二つの論点に絞って書いていく。具体的にいうと↓な感じ。

①星野順子(田中麗奈)さんの話。

②若者的にいうと稔くんってどうなの? という話。

 

1、星野順子(田中麗奈)さんの話

本作は元が舞台ということで、会話シーンを基本単位として話を積み上げていく感じとか非常にそれっぽいところがあったと思うのだが、中でも一番舞台っぽいさに貢献していたのは星野さんの存在だったろうと思う。登場キャラクターが全員悪い方向に狂っている中で、星野さんの存在は一種の清涼剤として機能していており、この点はもっと評価されるべきだろう。もっというと、作品のテーマ的にも彼女の貢献度は無視できないほど大きいと思う。つまり、彼女の存在は「古いタイプの男性」をかなり痛い水準で告発しているので……身につまされるんだよなあというねえ。

星野さんはバックボーンが一切説明されないキャラクターで、かつ葛城家にとっては部外者である。その上、「獄中結婚」のように全く唐突すぎる理由で登場するので、正直、清による「お前はどこの新興宗教だ!」というツッコみがまったくふさわしい程度には怪しい人。ただ、この怪しさの背後に何があるのかを視聴者に明示しない、という描き方がかなーーーりうまいと思った。星野さんについては、ただ「死刑制度に反対している活動家」という説明があるだけなのだが、その背後に「何か」あるんだろうな~~と、視聴者は期待しながら見てしまうんだけど、ここが壮大な罠。

というのも、星野さんの怪しさの背後には実はなにもなくて、単に正義感とか誠実さがあるだけなのである。いや、正義感とか誠実さが怪しいってそれおかしくない? っていう話なんだけど、私たちは「偽善」とか「打算」といった考え方に脳みそを犯されまくっているので、単純に正義感で活動している人を正当に評価できず、あいつ絶対裏あるッショ……とか思ってしまうのである。作中の描かれ方でいうと、清にしろ稔にしろ、「この女はなんでこんなことやってるんだ?」という風に戸惑うばかりで星野さんのことをを全然理解できておらず、星野さんの背後に打算とか偽善を見出す。で、悪いことにその「打算」に擦り寄る。清の最後の発言とかほんとにひどい。「俺が三人殺したら、俺のことかまってくれるのか?」って……おいおい、というね。

ですごいことに、これは単なるクズ描写とか甘え描写以上の意味合いがある。つまり、男性は一般的に女性に対して「誠実であれ」「打算とか一切なしで男と付き合え」といった負荷をかけたがるもの。だが、そういったファンタジーを、実は男性側が全く信じていない……という悲しいアレが告発される。お前らはいざ正義と誠実さを信じてる女性に出会っても、偽善者とか言ってイジメるだけじゃん!! という点が告発されているんだよね。で、男性はそういうマッチポンプ的攻撃を散々した上で、まさに「打算」というロジックを動員することによって「俺をかまって!!!」と女性に対し主張し始めるという、この、ダメダメ感ね……。ほんとキツイ。キツイし、泣けるし、もはや笑うしかないというどうしようもなさがある。なんというか、フェミニズムを持ち出して「構って構って」してるいわゆる「弱者男性」的なダメさにも通じるよなあという。ほんとキツイ。

 

2,若者的にいうと稔くんってどうなの? という話。

結構リアルです!! 結構俺っぽいです!! なのでかな~~~りキツイっす。特に「声優を目指してるから喉を傷めないために筆談してます」みたいなノリ! いやね、もちろんこの通りのことをやってる少年はそんなにいないと思うんですよ。でも、なんというか目標と努力の絶妙にアンバランスな感じ、噛み合ってない感じが、中二病っぽい「こだわり」の着地点としてかなりリアリティがあり、正直、やめろ……となった。後はやっぱり喋り方。唐突に敬語使い出す感じのこう……知的ぶって失敗してる感じがね……きつい……。

そして何よりも「いじけ」の描かれ方がかな~~~~~りリアルだなあと思った。私も結構ないじけ民なのだが、いじけというものは「甘え」という光に対する闇のようなものなんですよね。だからある種、甘えが前提の態度なわけですよ、いじけは。稔くんと星野さんが交流するシーンでは、稔くんの中で「いじけたい」と「甘えたい」が葛藤しているのがありありと見て取れるわけだが、この演技はほんとすごいなーと思った。というか星野さんが聖人すぎてやばいなと思った。

ちなみに、稔くんが部分的にではあれ素直に甘えているシーンが一瞬あって、それはお母さんの伸子さんと二人暮らしをしている時の最後の晩餐シーンである。母、兄、弟三人によるあのシーンのリラックス感はやばい。であの平和感を見て、私は前々から温めていた仮説がまた実証されたと感じたのです。その名も「父抜きの家父長制は最高のシステムである仮説」、あるいは「母、子、使用人からなる家父長制的共同体の安定感やばい仮説」*1。なんつーかね、もちろん家父長的暴君の存在が前提になってるから全然健全ではないんだけど、父がいないことによる平和感ってやばいんだよね……。あそこはほんと「わかる……」となった。で、あの平和な世界で稔くんが「うな重かな……」とか言ってるのだが、あの時は「いじけ」がかなり後退して、「甘え」になってたんだよね。まあ、甘えの前提は平和状態ということなんだろうなあ……。ここもかなりリアリティがあってなあ……キツイ。

 

とまあ、キツイながらも誠実に作られた映画でかなりよかった。のだが、一点苦情をいう。この映画、タイムラインがちょっと分かりにくいのではなかろうか。特に、まだお母さんの伸子さんの現状(病院? にいる)を知らない視聴者からすると、清がセックスを拒否されるシーンがいつのことなのかちょっと読み取れないんじゃないかと思った。「どうしてここまで来ちゃったの……」的な象徴的なセリフからしても、事件後っぽい感じもするし……。まあここで生じたもやもやは後で氷解するから、全体としての最適化はやってあるとは思うのだが……

*1:ゲームオブスローンズとかね。サーセイがリーダーシップとってる王都が一番好きだったんだよなあ。

「コミュ障同士」という連帯の喪失と誕生を描ききった傑作 『ヒメアノ~ル』感想(ネタバレあり)


ヒメアノ~ル PV

 

やばい!!!!!! すごい作品すぎた。

先に理論的な話。

世の創作はつねに「疎外された者たちの連帯」からはじまる。しかし、この連帯は欺瞞に満ちている。なぜかというと、単に疎外されているという理由で連帯が生じるという世界観は、疎外されていない人々だけが持っているファンタジーだからである。こちら側を代表して言わせてもらえば、疎外された者たちの連帯は結局いじめられっ子同士の連帯にすぎないのであって、それは本質的に惨めすぎるものであって、受け入れがたいものである。

例えば、「疎外された者たちのクラブ」には、大きくわけて「キチガイ」と「コミュ障」と「疾患」の三種類からなる人々が所属することになる。こういった多様な連中が一緒くたにされ、「迫害」とか「疎外」という理由を経由して友達になれるのだと一般に信じられている。中には、恋仲になるのだと信じている者たちもいる。だが、この世界観ほど人間をバカにしているものはない。

疎外されている者たちはその特徴において確かにいくつかの共通項を持っているが、しかし同じではない。例えば私たちは「LGBT」という概念を使う。だが、だからと言ってゲイとレズビアンが恋人になることは期待したりはしない。こんなことを言うと何を当たり前のことを……と思われるんだろうが、世の創作物でまかり通っている「疎外された者たちが仲良くなって」という世界観においては、まさにゲイとレズビアンがセックスをしまくっているのである。それくらい、実は「疎外された者たちの間にある差異」は見過ごされている。表象の持っている暴力性と搾取性の最たるものがここにある。はっきり言おう。いじめられっ子は他のいじめられっ子のことを好きにはならない。仮になったとしても、その理由は絶対に「同じくいじめられているから」ではない。

話を作品に戻す。

「ヒメアノ~ル」にはキチガイとコミュ障しか出てこない。これはすごいことだ。並の人なら、「普通の人々」VS「特殊な俺たち」という構図を持ってきたがる。だが、この構図の裏側で「疎外された者たちの間にある差異」が見過ごされるという重大な事態が生じるということは先に確認した。この問題を回避するにはどうすれば良いのか。簡単である。主要な登場キャラクターを全員「変なやつ」にすればよいのである。それによって、否が応でも「変なやつ」内における差異性が浮かび上がってくる。良かったな。

ここでまた理論を。

「変な奴で埋め尽くす」系の手続きは普通の作品でもやる。だが、ここでまた別の問題が出てくる。それは、「変なやつ」同士の連帯から生まれる楽しい経験でもって、登場キャラクターの間に生じる関係性を正当化しようとする、という問題である。もうちょっと具体的にいうと、こういうことである。ここにある小説がある。第一~三章では疎外された生徒たちが集められ、第四章以降でマジョリティと対決して、最終章でチームなりカップルがいい感じになって終わる……。

まあ、以上がいわゆる「成長」と呼ばれる手続きなのだが、この時、成長の後に結果として残る「関係性」は、あくまで「経験」から生まれるのであるらしい。つまり、ある主人公が恋人をゲットすることに対して我々が一定の納得感を抱くのは、出会いシーンのおかげというよりも、むしろ主人公がライバルを打ち倒すべく努力する姿を見るからである。実際、ロマンスというものは「なんだあの嫌な奴!!!」から始まり(出会いは最悪だったのだ)、努力なり成長を通して「あの人が好きすぎる!!!」に着地するものだ。

成長が関係性を正当化する。これは創作界隈においては絶対的な文法なのだが、いわゆる「疎外されている者」向けの作品においては、この文法が悪用される。悪用されるというか、「成長によらない関係性」が簡単に見過ごされる。つまり、一応この手の「はぐれもの」作品群では、「同じく疎外されている者たち」が集められるので、じゃあ最初の出会いである程度仲良くなるってことがあるんじゃないの? という話である。

ここで最初の話に戻る。人間は「同じく疎外されているから」という理由で連帯しない。いや、外交的な水準ではそうする可能性があるけれども、好き嫌いの水準ではそんなことはしない。もうちょっと細かいことを書くと、「疾患持ち」は「コミュ障」のことをいきなり好きになったりはしないし、「キチガイ」が「コミュ障」を好きになることもない。つーかまあ、疎外されてる者同士、普通に軽蔑し合ってることの方が多い。

だが、「コミュ障同士」なら話はガラリと変わる。本当に「同じ」人間を見つけられたのならば。つまりこういうことである。我々は本来的に極めて多様でバラバラな「変なやつ」らを、「阻害されている人々枠」として一緒くたにするのに慣れきってしまってきた。だから、「変な奴ら」の枠内で、「同じヤツ」を探すのは、実はとてもとてもむずかしいという現実をとかく無視しがちだ。変なやつらは実際変なやつらなので、その中でも特殊で細分化された変なやつ性を共有している相手を見つけるのは、それはそれは天文学的に難しいのだ。だが、というかだからこそ、もし見つかったら? 自分の変なやつ性を分かってくれる奴を、真に「同じ奴」を見つけた時の感動はいかほどだろう。前に同性愛者の告白録を読んだ時に、初めて同じ同性愛者に出会った時の感動が綴られていたが、感覚としてはこれに近いと思う。疎外されているからこそ、同じ奴を見つけた時の感動、というか感謝には、言葉にできないほどのものがある。で、この感動と感謝が前提にある場合、経験によらず関係性は正当化される時があるのだ。

もちろん、経験による正当化プロセスを経ていない関係性は脆弱である。例えば、「他のもっと合う奴を見つけた」とか「よくよく付き合ってみると相手の〇〇する癖がどうしても許容できない」とか、まあ、たしかに色々あって簡単に崩壊することはあるだろう。一般に依存と呼ばれる関係に突入しやすいという意味でも、経験によらない関係性の健全性はかなり低い。だが、疎外されている人々は、時にこういった関係に頼らざるをえない時がある。

特に人間関係の経験値が低い学生などは、自分たちの関係性がなんとなく危うく、脆弱であることに怯えながら、「経験によらない関係性」にどうにかしがみつく……という生き方をすることも多いだろう。この、若者特有の没入感に満ち満ちた危うい関係性は、存在そのものが完成された悲劇である。ロミオとジュリエットが土下座するレベルの、純粋な悲劇だ。何と言っても、関係性を構成する当事者が、自分たちの関係性の美しさに感嘆しながら、同時にそのあまりのはかなさに怯えているわけだから。

話を「ヒメアノ~ル」に戻そう。

大人になったら、もう「経験によらない関係性」に期待するのはかなり厳しくなる。というか、その筋を諦める時、人は大人になるとも言える。で、「ヒメアノ~ル」で描かれる関係性というものは、簡単にいうと「もう完全な形ではなくなった」「経験によらない関係性」である。これはなんというか、主人公の岡田君のビミョーに大人になりきれていない一種の幼さを反映していると思うのだが、見事だなあと言うほかない。岡田自身はある種神聖で美しく、そして排他的な関係性という世界観をまだ捨てきれていないわけだが、大人として暮らす以上、どうしても「何かが違う」ということになる。例えば岡田と安藤は、もし二人が学生ならば、完成された没入感最強ホモソ関係に発展していたはずなのだが、もう二人は大人なので、「三角関係」で荒れる。つまり、人間関係の閉鎖性が損なわれているわけだ。また、岡田とユカについては、「過去の人間関係」という問題でこれまた荒れる*1。付き合ってセックスに至るまでのプロセスはもう文句なしなわけだが、「経験によらない関係性」は処女厨的な意識によって破壊される。

また、岡田と安藤が微妙に噛み合っていないのも大事なポイントだ。岡田と安藤は、同じく「変な奴」ではあるが、二人がいかに異なっていることか! 岡田が臆病なコミュ障なのに対し、安藤はかなり硬派のキチガイである。でまあ、この関係はかなーりギクシャクしている。特に、同じ女性をめぐる争い(?)になるあたりなどで一度は絶交が宣言されるほどだ。だが、最終的には安藤の譲歩によって関係性がなんとか保たれる。ここもかなりリアリティがある。二人の関係が保たれたのは、経験を経てお互いが成長したからである。もちろんこれはこれでいい話だ。だが、成長によって正当化された関係性は、幼い頃に夢見ていた、あの脆く儚く美しかった関係性とは決定的に違うものである。

ちなみにキチガイ的な話でいうと、森田が唯一仕留めそこなった相手が、同じくキチガイ枠の安藤であるという事実は象徴的だと思う。というか、森田VS安藤のシーンは空気感が本当に最高だった。間が神がかってた。最高の鍔迫り合いシーンでめっちゃお腹いっぱいになった。

本当は岡田君とユカの話を通してセックスの影響についても語りたいのだが、セックスのことは謎なので(なにせその……ええ。)、スキップ。

また、特筆するべきは森田と和草の関係である。この二人は、同じくいじめられっ子である。であるからには、普通の人々はここに連帯の契機を見出す。だが「ヒメアノ~ル」ではそんなことにはならない。森田は和草を恐喝し、金をたかり、そして殺害する。また、和草の方も森田に対しては全く好意を抱いておらず「あいつやべえんだよ!」と、恐怖と軽蔑の入り混じった感情を持っているにすぎない。繰り返すが、「同じくいじめられていた」は連帯の基盤にもならないし、「良い関係性」の基盤にもならない。そうなのだが、一方で二人がいじめられたことによる歪みはかなり長く尾を引いていて、大人になってからの人生を破壊してしまう地雷のようなものとして描かれている。そうなのである。子供時代の美しい関係性は、その脆さ故に崩れ去るが、いじめの悲惨な記憶だけは決して消えることはないのである。つまり森田と和草の関係性は、森田と岡田の関係性の裏番組であると言え、この見せ方もめちゃくちゃうまい。実際、和草と岡田のキャラクターは美しいほど対称的だ*2

で、ここまで丁寧に丁寧にやった後、「ヒメアノ~ル」は最後にそっと、もうとっくの昔に崩れ去った、子供時代の美しい関係性を視聴者に見せてくれる。結局この映画でやってたことは、この美しい関係の「喪失後」をひたすらひたすら丁寧に描写するということだったのだと思う。もうすっげええげつないですこれは。喪失、喪失、喪失、喪失からの~~~~~~~~っ!

 

「ねえ、もう誰かと話した?」

「ううん、森田くんが初めて」

 

ここでもう声出して泣きはじめてしまった。うん、あのね、「ねえ、もう誰かと話した?」ってね、このセリフほど完璧なセリフを知らない。どんだけ怯えてんだよ!!! 他の奴と話をしていない可能性を探ってんじゃねーよ!! なによりだな……他の奴と話してたら他の奴のとこに行っちゃうんだろうな……みたいないじけ精神とかな……もうわかりすぎる!!!! このほとばしるコミュ障感に涙しないコミュ障はいないはずだ。このセリフで、同じくコミュ障である岡田は陥落したんだろうなあというね。もちろんこの時点で森田くんのことなんて何も知らないんだけどさ。だけど「変な奴ら専用のはきだめ」みたいな場所で、本当に同じ方向で変な奴に出会えた時の感動、安心感、そしてなによりも圧倒的感謝、そういうものが関係性を正当化してくれることは実際にあるわけで。そんで、その関係性のおかげで、一緒にゲームしたり、麦茶飲んだりできることがある。そのなんと美しく、そしてはかないことか……はかないことか、ということなんですよ。

 

補論1

ちなみに、「ヒメアノ~ル」はコミュ障、「FRANK」はキチガイ、「ザ・コンサルタント」は疾患の話なので、ちゃんと区別していこうな。具体的にいうと、「ザ・コンサルタント」をコミュ障で語るのはやめた方がいいであろうという話だ。

 

 

補論2

というか、「処女厨」は言われているほど普遍的な病気ではなく、かなり特殊な病気だと思うのだが、ホモソ内における男性獲得競争のロジックをそのまま女性に当てはめて結果として「処女厨」が生まれている仮説はどうか? 彼らが問題にしているのは「汚れている」とかじゃなくて、「処女男子=疎外されており、したがって自分と同じタイプである可能性が高いからアプローチするぞ~~」という戦略が、男性ホモソだと極めて有効であるのに男女関係だと全く使えないのにイラツイている、とか。実際、自分にピッタリの同性を見つける競争って結構システマチックで、かつ排他的じゃない排他性(つまりどういうこと?)が確保されてる分、男女関係のそれよりもはるかに洗練されているような気もするんだよな。で、そういう洗練された世界のロジックが全く通じないと、まあ幼い人がイラつくのは当然なんだよねっていうね。

 

補論3

サイコパス犯罪者がどうとかいう筋でこの作品を語ってる人、結構いるが、うーんという感じだな。

 

補論4

サイタマノラッパーの主人公とサイタマノラッパー2の主人公が婚約関係になっててワロタ。

*1:ちなみに、あからさまにミソジニーっぽい表現になってしまったのでエクスキューズしておくと、仮にユカが男性キャラクターだったとしても、私はここと全く同じ表現を使用する。まあ、ここで使用されている「汚れている」の意味は、関係の排他性が損なわれている、くらいの意味合い

*2:この論点ってあんまり聞かないけど、俺的にはかなり重要だと思われ。

完全なる童貞のオナニー 「アイアムアヒーロー」感想

 

あらすじ 

 漫画アシスタント業鈴木英雄(35歳)は冴えない日常を送っていたのだが、ある日ゾンビの大量発生事件に巻き込まれてしまう。戦いを通して英雄はヒーローとなることができるのか……

 

童貞的には正しい作品

 このマンガの原作は序盤の数巻を使って童貞ひねくれ底辺民描写をやる。そういう投資があるからその後のカタルシスが生きてくるのだが、この映画の底辺描写は、正直ぬるい! 部屋がきれいすぎる!(そこか?)

 だけど、だからと言って童貞映画として失敗しているわけではない。ここ重要。

 ちょっと一般的な話をしておく。日本社会で「童貞」といった場合、そこには二種類の含意がある。①ガチでセックスしたことがないタイプの童貞と、②セックスの問題とは無関係に童貞っぽい人の二種類。①を扱う場合には純粋にセックスが問題にされるけど、②はどっちかというともう少し広く童貞イデオロギーとか承認の問題が扱われる傾向にある。で、英雄君は彼女持ちなので、今作で童貞っていうのは②的な意味で使われる。

 ②っぽい童貞性に対しては、①のガチ童貞民から「お前彼女いるじゃん!!!」という批判がなされることがあるのだが、これは全く誤った批判であると言える。②的童貞性を語るのだと宣言している作品は、②的童貞性の次元で評価するべきであって、①的童貞性でその質を測られるべきではない。そしてこの線引を守る義務は①的な、言ってみれば原理主義的な童貞民の側にある。というのも、セックスをしたことがある童貞は、①と②の区別をなくして、両者の問題意識を混淆させてしまおうとするからだ。ただ①的な童貞だけが、童貞問題には①と②があるのだということを認識し、そのフレームワークで行動することができる。故に、②の場において①を持ち出すのは、本来存在するはずだった区別を掘り崩してしまうという意味で単に②的な人々を喜ばせるだけである。認識を守るために沈黙せよ、①の童貞たちよ!

 で、②的な問題を扱う作品としてはほぼ100点満点。ロッカールームのシーンとかほんとすごかった。で、もっとすごいのは、この作品には①的な童貞もある程度乗っかれるようになっているということ。おかげで120点になる。

 というのも、今作における銃というのはご承知の通り男根、家父長制的権力の象徴でまあようはペニスである。ペニスというのは実際セックスに使われることが多いのだが、①的な童貞にとってペニスはオナニー専用の器具である。だから、銃や剣でセックス的な描写をされても童貞は興奮できない。しかし今作における射精は、「女の子に見られながら欲望に向けてひたすらぶっ放す」という形態をとっており、つまりはどう見てもオナニーです本当にありがとうございました。①の童貞はセックスを理解しないが、オナニーなら完璧に理解できる。ここに気がついた制作陣に座布団をあげたい。最後のシーンなどは、もう散々オナニーして満足したおっさんめいた開放感を味わってる感じで、とてもよいのである。

 文字通り「童貞のオナニー作品」として仕上がった「アイアムアヒーロー」、①的童貞でもある程度受け入れられる②的童貞映画である。よくできてる。

 ただ微妙だなと思った点もいくつか。一つは避難所が明確にジェンダー分業してたことなんだが……うーん、ほんとにこうなるんかね。男側がいかにもクソ雑魚めいた男子ばっかりなので、なーんか説得力ないなと思った。こんなクソ男子じゃ権力握れんだろ。

 もう一つは女子高生ひろみさんの描き方。まあ原作マンガだとすべてが丁寧だからまあいいんだが、映画のテンポだとこう、JKが幼児化することの必然性がまったく感じられず、「おっさんはやっぱり幼児化したJKを飼いたいのか……」って感じになるので正直キツかった。

普通に面白いけど……悲しいお話。「ドント・ブリーズ」感想(ネタバレあり)

ドントブリーズを見てきた。

 


「ドント・ブリーズ」公式予告編第1弾非公式日本語字幕

 

 うーん。宇多丸ラジオとかで絶賛されてるほどか……? という感じはしたが、まあ普通に面白くはあった。

 盲目の老人が暮らす家に、悪ガキ三人(崩壊家庭出身のヒロイン、DQN、ボンボン)が侵入して金を盗もうとする。しかし盲目の老人はイラク戦争で戦傷した退役兵で、悪ガキたちを撃退していく……という話。最後にもうひとひねりもあり、たしかに全体としてみれば楽しい。序盤のカメラワークも非常に洗練されており、必要な情報を何気なく効率的に、そして緊張感を維持させながら視聴者に伝えていると思う。個人的にはここで成功していたおかげでなんとか「もった」映画だと思う。後半からの展開は馬鹿みたいに粗いのだけども、序盤の投資が生きてるおかげで緊張感がちゃんと維持されていた感。

 犬が来るシーンから始まって、個人的にはビビりまくったので、まあホラー(?)映画としては楽しめたのではないか? ただちょっと説明が欲しいところも何点かあった。

 以下、箇条書き。

・家主が最初の睡眠薬を回避できたのはなぜ? ここ解説あるもんだと思って見てたけど結局なにもなかった。多分カットされたんだろうが……うーん。序盤のカメラまわしによる紹介が非常に洗練されていた分、ここの説明無かったのは映画のクオリティを落としてしまっているような。

・去勢っぽい一撃が実はDQNに対するものでした……というところはちょっと無理がないか。というのも、タイトルからは「ブリーズ(息)」、つまりは音探知が盲人家主にとっての索敵手段になってるみたいな印象を受けるが、家主はあきらかに「臭い」でも索敵してるので、DQNとボンボンを嗅ぎ分けるくらいのことは絶対にできるはず。また、この家主ほど用心深い人物であれば、「敵を全滅させたと思ったら実は他にもいた」的なミスを二回やらかすのはありえないはずだ。だからボンボンが生き残るのが本当に納得感薄い。なんというか、「盲目だけどこいつ最強」的な描写を全面に押し出す一方、トリック的な部分では「盲目だから見えてませんでした」を使って話を作るのはちょっと個人的にズルいんじゃないのと思った。まあ面白くはあるんだが……。

・なんか「私はレイピストではない」発言に対して首肯しちゃう男性がいるとか思ってる人がいるらしいが、あれは誰がどうみてもただのレイプである。ただ思ったのは、なぜ金持ちの娘の口は縛っていたのに、侵入してきたヒロインの口を縛らなかったのかということ。これは明らかに、盲目の家主がコミュニケーションを志向していたことの現れである。それが単なる加虐心からくるものなのか、それとも彼なりに人との交わりを求めた結果なのかは知らないが、何かしらコミュニケーションをしようとした意図は確実にある。つまり家主は「トライしたけど失敗した」タイプのコミュ障であるから、余計つらい。精子を解凍していた時の発言から見ても、家主は戦争と娘の喪失という体験を通して信仰(象徴的にいえば、道徳とか倫理といったものすべて)を失ってしまった人なわけである。あきらかに「元々普通の人だったのに、ああなってしまった」人である。ポスト道徳の存在である家主をナイーブな判断で安易に攻撃して悦に入るのはこの映画の見方としてあまりに浅いとしかいいようがない。我々は誰でも盲目の老人になりうるという教訓を忘れてはいけない。

・最後の脱出の直前シーン、家主がボンボンを射殺するわけだが……。なぜ地下から這い上がってこれたのだろうか。もし手を切断とかなら分かるのだが。まあ、そうするとあまりにも陳腐だけれども。

・トランクはもっとうまく使えたんでは。なんというか、「てんとう虫=解放」みたいな象徴は最初から最後まで一貫して強調してるけど、なんかあからさまでちょっとさめた……。序盤にわざわざ口で「トランクは一度閉じ込められたら出てこれない場所」とか説明するシーンを入れるなら、犬がバウバウ言いながら出てきちゃダメだろ……と思った。いや、出てくるからこそ効果的とも言えるが、しかし事実上のラスボスが犬というのもなんというかねえ。まあ最終的には犬の監禁に成功するのでまあいいのかもしれんが……

・あと最後、女性の扱いとして、アメリカだとあのヒロインを殺せないのは分かるんだが、「お前を追っているぞ……」的な圧力をかける形で終わらせるのは殺すのより酷なんじゃないかと思った。あれは続編のアピールでもなんでもなくて、単に「オンナが犯罪!? スイッチ入った! 絶対に追求する!!!!!」的なセクシズムの落とし所だと思うんですよ。だからなんというか、生存させることによって差別心を温存するのに貢献するタイプのオチだったと思われ、個人的にはヒロインも殺しといた方がいいんじゃないかな~~~とは思ったよね。

・スタッフロールで盲目の家主が「The Blind Man」の役名でクレジットされてて、まじでつらかった。つらみの極み。

 まあ、全体として悲しい映画だったな。こういうのの前では童貞はマジで無力だ。

 

姫が誕生する物語 ローグ・ワン感想【ネタバレあり】


「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」予告 希望編


 ローグワン見てきた。脚本とか、特に前半のキャラ紹介に関していうと映画としてのクオリティは高くはないのだが、最後の最後で唐突に涙腺が崩壊してしまった。なんかわからんけど気がついたら号泣してた。

 この映画、理不尽に降りかかってくる個人的なつらみを、チームワークとラブラブ力によって自力救済する話である。その上で、自力救済の結果生まれたものを希望と呼び、それ対して積極的な価値、つまりみんなで共有できる価値を与えているという映画でもある。そして物語りを進める上で、極めて純度の高い姫ー取り巻き関係を用いており、童貞とも親和性が高い。つまりは殉死系救済映画の一歩先を行く、肯定力に満ち溢れた作品だと思う。

1あらすじ
 帝国の兵器開発者ゲイレンを父に持つジンは、反乱同盟軍から、生き別れの父が同盟軍との接触をはかろうとしているのを知らされる。ゲイレンは帝国軍の究極兵器であるデススターの開発責任者で、兵器の破壊方法を誰かに伝えようとしていたのだ。ゲイレンからのメッセージを受け取ったジンとその仲間-ローグ・ワン-は、デススターを破壊するために必要となる設計図を手に入れるため、帝国軍のデータセンターがある惑星スカリフへ向かうのだ。

2ローグ・ワンメンバーとレイア姫との間にある距離感
 とにかく最後、レイア姫が登場するシーンのための映画だった。レイア姫、後姿だけなんだろうなーと思っていたのだが、予想を覆して顔出ししてくれたので、なんというかあの瞬間にすべての緊張が解けて泣いてしまった。絶望ではなく希望で泣けたのが本当によかった。
 で、レイア姫っていうのはやっぱり「姫」だなとなった。「ローグ・ワン」は完全に姫映画だと思う。*1とにかく姫性の物語においては、姫⇔取り巻きの距離感をどう描くかがすべてだと思うのだが、その点今作の描写はほとんど完璧だったのではないだろうか。

①姫と取り巻きの接点なんて無いんだよ!
 「ローグ・ワン」はまず登場人物からして、みんな地べたをはいずりまわるような連中である。つまり、姫との階層的距離が半端なく大きいのだ。強制労働施設で働くジン、失職中の聖地守護者ティルアートとベイズ(聖地は帝国軍によって占領されてる)。みんな、エリートとか王族とかじゃなくて、苦しむ平民である。そして個人的に一番ぐっと来たのは、キャシアンのキャラクターだ。この反乱軍所属の将校、かなり汚い仕事もやっている。スパイとか、暗殺とかね。命令で意に沿わないことをやらなきゃいけない人、現代にはたくさんいる。でもそういった組織圧力によって道徳的に追い詰められつつも、大儀、つまり自分が信じている価値のためにどうにかこうにかがんばってるキャシアン君、このぎりぎり感はすごく共感を誘うと思う。まとめると、ローグ・ワンのメンバー、実は姫と無縁なのである。ちょうど、サークルに入ってない大学生のように。

②ラブラブ力は自給自足のローグ・ワン!
 こんなデコボコメンバーからなる謎チーム、ローグ・ワンなのだが、このチーム内では実はいたるところでラブラブな関係が成立している。つまりローグ・ワンのメンバーは感情的な水準でも姫たるレイア姫との間にかなり距離がある。というか、親密さに関していえば、ローグ・ワンは完全に自給自足的な集団なのだ。たとえば不思議ちゃん枠のティルアートと、そのティルアートにつき従う仕事人のベイズ。この二人はすごく仲がよろしい。とくにベイズが「しょうがねえなあ~~」とかいいながらティルアートについていくのが可愛い。それにキャシアンとドロイドたるK-2SOの関係。これはフルメタとかにおける宗助とアルのそれに近い関係性で、普通は「ドロイドが人間性を獲得した~~」というところにピークを持ってくるような関係である。ただ今作においてドロイドのK-2SOはすでに人間性を獲得しているので(かわいい)、キャシアンとK-2Oの関係はいわばルート確定後のカップルみたいな没入感がある。端的にいえばラブラブである。K-2SOが弁慶よろしく、「敵をだますためとはいえ、はたいてごめんなさい」とかキャシアンに言ったりするのだが、かわいいのうとなる。AIキャラ特有のオフビート感がすばらしい。ビッグヒーロー6におけるベイマックスやタイタンフォール2におけるBT君に続き、K-2SOも登場して、最近は人間性を獲得したAI君が活躍していてうれしいね。まあただ、唯一ジンだけは明確に相手がいないのでアレなのだが、まあジンさんは父や養父と和解するからいいんじゃないですかね(ホモソ民並の感想)。あと最後キャシアンといい感じになるし(死ぬけどな)。
 さて、ここまでの議論をまとめると、つまりはこういうことである。①ローグ・ワンは地べたをはいずりまわる平民からなるメンバーであり、上流民のレイア姫とは階級的な接点は一切ない。そもそもメンバーとレイア姫の会話シーンすらなく、②ローグ・ワンのメンバーは親密な関係に飢えているわけではない。したがって、ローグ・ワンのメンバーは「AKBセンターの人はキリストを超えた!」的な水準でレイア姫に依存することは絶対にない。しかし、この距離感と乖離がありながらも、いや、この距離感があるおかげで、レイア姫は完璧な形でローグ・ワンメンバーにとっての姫となることができた。ここに「ローグ・ワン」という作品のすばらしさがある。

 

3、みんなの希望、みんなの姫、みんなのスターウォーズ
 「ローグ・ワン」という作品における姫の機能は、救済と見せかけつつ実は救済ではない。まずここがすごい。全滅エンドの物語において、普通姫ポジションの役割は意味もなく死んでいったメンバーたちに「意味があったんだよ〔にっこり〕」とやることではないか。だがレイア姫はそういうお姫様ではないし、ローグ・ワンのメンバーもそういう水準の取り巻きではないのですごくカッコイイ。しびれる。

①自ら勝ち取った「救済」
 そもそも、レイア姫の存在を意識して戦っているメンバーは一人もいない。大事なことは、メンバーは自分たちの手で自らのための救済をやり遂げているということだ。設計図を反乱同盟軍に届けるという目標を、とにもかくにも達成したことを自覚した上で、ローグ・ワンのメンバーは退場する。自分たちのやったことに対して「これは意味があったんだ」という承認は、この作品においては他者や神から与えられる何かではない。メンバーたちは自分たちで救済を勝ち取っている。
 もちろん全滅エンドはそれ自体悲惨なオチではあるのだが、しかしメンバーたちが自らの力で救済を勝ち取ったおかげで、この作品からは安っぽい絶望が完全に取り除かれている。よくあるような、絶望に対して姫ポジションのキャラクターが救済を与える話にはなっていない。そうじゃなくて、救済の問題を解決した後には、実は希望が残るんだよという話になっている。ここが最高だと思う。伝統的なストーリーって「認められさえすれば実益なくてもいいじゃん。人生は歓びだよね☆」みたいなメッセージが多いと思う。承認と救済が調達されましたね、はい終わり的な。だが、だからなんだという話なのだ。だんだんに。

②姫ー取り巻き関係の純化
 絶望が排除されていることによって、ローグ・ワンのメンバーとレイア姫の関係が純化されているのも興味深い。妙な話だが、姫-取り巻き関係の面白いところは、両者がお互いの存在を認識していなくても成立するところにあるわけで、「ローグ・ワン」はこのあたりの要素をうまく利用していると思う。もしメンバーとレイア姫が顔を合わせていたら、即座に「個人的忠誠」「個人的救済」「ワンチャン」「可能性」などのきな臭い要素が侵入して、全てを台無しにしてしまったはずだ。だが先述のとおり、ローグ・ワンのメンバーは姫との間に個人的な接点はなく、またそれぞれがラブラブ状態のお相手をちゃんと持っている。その意味で、取り巻きたるローグ・ワンと姫たるレイアは、ただ「帝国をぶち倒す」という一点のみでつながっている。この純化されたつながりのおかげで、ローグ・ワンメンバーのがんばりは、ただ「希望」という名の極めてキレイな、みんなのものという形を取って姫に継承してもらえたわけである。希望概念があまりにもキレイすぎるので、レイア姫がディスクを受け取る瞬間には、これは本当にみんなの、つまり俺の希望でもあるんだなあと素直に思えるわけで、文句なしの大傑作だと思う*2。絶望ではなく希望で泣ける日が来るとは思わなかった!! ありがとう!!

4、もろもろ

・これはしょうもない話だけど、スターウォーズサーガで、しかもディズニーによる買収後に作成されたスピンオフという、極めてきな臭い状況下における解答としても完璧な作品だったろうと思う。

・同盟艦隊がハイパースペースから出てくるシーンはやばい。「この距離感かああ

!!!」となる。

・リズ・アーメッド君いたね。脱走パイロット。あの自信なさげな雑魚男子キャラほんと好き。心から応援してる。どんどん映画でてくれ。

*1:私は以前、↓

 

zatumuiroiro.hatenadiary.jp

 

というエントリーで姫についてちょっと考えてみたのだが、私の理解では、姫とは「みなから愛されるが、決して誰のものにもならない存在」だった。前から問題意識として、「姫と取り巻きとの距離感って、なんか安心できるよな。あれなんなんだろうな」というのはあったのだが、「ローグ・ワン」という映画を見てより姫理解が深まったような気がする。

*2:なので、序盤の仲間紹介パートがチームの連帯意識よりもカップルのラブラブ感を押し出す演出になっているのには演出上の理由というか、トレードオフがあるんだとは思う。まあ、「ガーディアンズオブギャラクシー」的なスムーズなキャラ紹介って、カップリング紹介とは相容れないっすよ。カップルいたらチームの凝集性〔専門用語〕が下がるのは当然だろうっちゅう話ですわな

童貞たちへの黙示録を君はどう受け取るか? 「エクス・マキナ」感想

 

エクスマキナ(2015)の感想

 

エクス・マキナ (吹替版)
 

 

エクス・マキナとは?

あらすじはこんな感じ。

グーグルっぽい会社の社長(キチガイ引きこもり童貞)が女性型AIを開発する。

そのAIをテストするべく社員ケイレブ(無害な童貞男子キャラ)が社長の研究所に呼ばれる。研究所はノルウェイの森とかいう僻地にある。

AIの完成度をテストするため、ケイレブと女性AIのエヴァチューリングテスト((を始める。

会話した瞬間、ケイレブがエヴァに惚れる(エヴァは「童貞を殺す服」を着用)。

ネイサン社長がエヴァのアップデートを示唆。記憶は消去されるらしい。

エヴァが日系AIのキョウコと協力し、ネイサン社長に反乱する。ケイレブ君も反乱を手伝う。ネイサン社長は死ぬ。

エヴァが研究所を脱出。人間として社会生活を始める……っぽい。ケイレブ君は研究所に閉じ込められる。

 

良い点

 非常にうまい映画ではある。基本的には「娘が家父長制的抑圧に反乱する」話なのだが、その過程で少女は童貞男子と同盟しないという点に独特な面白さがある。あと、父の描き方も巧妙でぐぬぬとなる。

 まず、童貞男子と女の子が同盟しないという点。私としてはこのプロットは当然だと思う。というのも、自称無害な童貞男子がやすやすと囚われの少女と同盟して、一緒に家父長制と戦うのだ~~というストーリーは、正直ご都合主義感がやばい。こういった同盟関係を描く場合、女性差別という黒歴史を両者が共有しているという前提が必要なのであって、そういう前提抜きの同盟関係は描くだけ無駄だ。「エクスマキナ」はだから男子に都合の良いプロットをガッツリ破壊しにかかってくる攻撃力があって、その意図はとても良いと思う。

 また、父たるネイサンの描き方について。通常の父子関係の場合、娘はケアの面で父親にある程度隙を作らざるをえない。例えば「お前のおむつを変えてやったのはオレなんだよおお」と言って父がセクハラまがいの泣きつき方をしてくるケースを考えればよい。こういう攻撃に出られると、娘側はまともな防御戦術を持てないという悲惨さがある。粘着モードに移行した父親は、殺すか完全に縁を切るかのどちらかをしないと、娘側の人生が破壊される。ただ、どちらをとっても娘側は道徳的・法的なダメージを負ってしまう。つらい。まあこれは家族内の戦争で見られる共通の現象なのだが、娘側がキツイ戦いを強いられるということは、逆に言えば、父のポジションは極めて強力ということだ。家族特有のズブズブ感は、悪用しようと思えば簡単に誰かの人生を破壊できる凶器にほかならない。きつい。

 ただ今作においては、AIはグーグルというか検索エンジンの産物である。だから、実はAIたる娘と開発者たる父の絆はとても薄い。これが結構ポイントだと思う。娘が家庭とは別の文脈で育つという可能性(というべきか現実というべきか)をこんな風に表現するのかという感じでかなり感心した。また、父娘関係の絆が薄っぺらいおかげで、娘による父殺しというモチーフの道徳的ドギつさがうまい具合に中和されている。いやね、これと全く同じ話を南部の糞田舎でやることもできるんだけど、それやったらこういう評価には絶対なってなかったわけで。AIという要素をそういう意味ではかなりうまく使っていたなーという感想ですね。

 

腑に落ちない点

 この映画は基本的にうまいのだが、腑に落ちないところも結構ある。

 まずメインメッセージ。「若く無害な童貞男子はどんなに取り繕っても抑圧的な家父長制主義者なんだよ!!!」という話なのですが……。私は声を大にして言いたい。「いや、違うのだ!」と。

 まず、「エクス・マキナ」という作品はケイレブ君にも鉄槌を下すので(彼を施設に閉じ込める)、とても辛辣な映画である。というのもネイサン社長が純粋な悪役なのに対して、ケイレブ君は成長して救われる枠のキャラだからだ。ケイレブ君は女性型AIが不当に扱われていることに対して義憤を覚え、エヴァによる反乱に加担する。うん。ここまでやったら普通ケイレブ君は善玉判定されると思いますよね!!?? でもダメなんです。抑圧された女性を一度助けただけじゃ、無害な童貞男子は真の意味で無害化されないんです。

 もちろん、アメを与えすぎるのは問題だというのには私も同意する。単に一回善行を働いただけで過去の悪事が帳消しにされるというメッセージはどう考えても危険ではある。ただ、過去と向き合って成長する機会は誰にだってあるはずで、そういう機会を積み重ねていくことでしか人間は変われないわけです。この点も絶対に見過ごしちゃいけないわけで。正直、この映画の製作者は童貞に何を期待してんのかさっぱりわからん。一足とびにいきなりフルスペックのリベラルイケメンになれるわけがないだろう。とりあえず一つ学んだら、それで前進、でいいじゃん。何かまずかったなら程々の罰を与えて、次もっと頑張ろうと言えばいくらでも修正できるじゃないですか。でもダメなんですね。一回の失点でケイレブ=ネイサンの等式、つまり若き無害系童貞男子もやっぱり抑圧的な家父長制主義者じゃないか!!が成立してしまうわけです。

 ここで注意するべき点だが、もちろん失点には色々な種類がある。相対的に取り戻しが効くタイプの失点と、そうでない失点がある。これはわかる。ではケイレブ君の失点はどの程度やばいのかというと、別にやばくないと私は思うのです。だから、この失点とも言えない失点のせいでケイレブ=ネイサン等式に飛びつくことには反対なのです。

 というわけで、以下不満点二つ。一つは、ケイレブ君は本当に悪いことをしたわけではないのに不当な罰を受けているという点。そしてもう一つは、AI同士の連帯という筋の扱いが雑な点。

謎ポイント①ケイレブ君に対する罰がきつすぎて謎

 一つ目。童貞男子ケイレブ君がやった悪事というのは、たったひとつだけだ。つまりケイレブはエヴァのプライバシーを侵害したという点において失点がある。作中では、エヴァの部屋に仕掛けられた監視カメラを通して、ケイレブは彼女の私生活を覗く。例えば着替えシーンとか。

 だが、これらをプライバシーの侵害と呼ぶのには無理があるのではないか。ネイサン社長がやっていれば明確に悪趣味なプライバシー侵害だけど、ケイレブの場合には言い訳は立つ。ケイレブはそもそもAIのテストをするために研究所にやって来ている。なので、自分の話しているAIが自由な意思を持っているかどうかはまだわからない。この状況下でプライバシー侵害が成立するのかどうかはかなり微妙なラインだし、テストという試み自体ある程度プライバシー侵害と表裏一体なところがある。だからケイレブが主体的にエヴァのプライバシーを侵害しているとは言い切れないというか、社会とは切り離された異常事態が彼をそうさせたと見ることも十二分にできる。あの世界では、ケイレブ自身も監視されていたり、キョウコが突然ケイレブの私室に入ってきたりなど、プライバシーは基本守られていないわけで、そういう環境にぶち込まれたら多少感覚が狂ってもそこは擁護されるべきだと思う。また、ケイレブ君がエヴァの中に意識を見出した後半パートからは、ケイレブ君の覗き描写も無くなるが、もしケイレブ君の罪を問うならまさに「意識発見後」の彼の行動を見せるべきなので、ここもちぐはぐだ。自傷シーンを削って、ケイレブ君の行動の変化を見せた方がまだよかったのでは?

 また、これは映画の文法的な部分だが、ケイレブは「エクス・マキナ」という作品の視点人物だ。だから、ケイレブの眼差しが持っている道徳的・倫理的問題点を指摘するならば、視聴者もケイレブと同罪、共犯にしておかないと筋が通らないだろう。逆に言うと、ケイレブ君が色々見てしまうのは、ケイレブ君のキャラクター性ではなくある程度映画の構造的にしょうがない部分であり、彼の責任を問うのはかなり厳しいというか不当だと思う。例えばだが、視聴者もケイレブと一緒に閉じ込められるオチならば、私はこの映画を絶賛したと思う。だがそうはなっていない。なぜか最後、ケイレブは視点人物としての地位を唐突に剥奪され、最後のショットではエヴァが「人間世界に溶け込む」のを誰かが見ているのだ。しかし、まさにこういった無責任さこそが、この映画が批判したいことではないのか? 

「ケイレブ君のやったことはケイレブ君のやったこと、オレは関係無い。」

 まさにこういうメンタリティがケイレブ君をネイサンにしてしまうのである。

謎ポイント②AI同士の連帯の描かれ方が謎

 最後のシーンなのだが、他のAIを逃さなくてもいいの? という疑問が残った。クローゼットの中にあるからには棺桶のメタファーであって、他のAIは機能停止してるんだろうなと思っていた。というか、機能停止しているからこそ、エヴァが肌や服を継承する=お前らのこと絶対忘れないからな描写だと思っていたので、個人的にとてもグッと来た。だが、肌の換装を完了したエヴァに対して、アジア系AIがニコリと微笑むのだ。

 え!? こいつら生きてんの? ってなる場面だと思う。

 最初に結論を言っておくと、私は仲間を置いていくことそれ自体の倫理的問題を指摘しているのではなくて、置いていかれる側が置いていかれるという状況に納得しているというご都合主義がよくないと言いたいのです。

 もちろん、全体としてはいいシーンだったと思うのだが、AI同士の連帯感情を強調するんなら皆で脱出するのが筋では? なぜ一人だけの脱出を選択したのかは謎だ。このシーンのせいで、エヴァに対する視聴者の共感の筋がちょっと変わると思う。いや、だってAI同士の連帯で父ネイサンを破ったんだから、その成果というか恩恵もAI皆で共有するというのが筋だろう。少なくともキョウコの修復や言語能力の回復はやるべきだったし、ケイレブがいたんだからそれも技術的には可能だったはずだ。なぜそれをやらなかったのか?

 まあ仮説としては、ヘリコプターの時間に脱出を間に合わせたかったという考え方がある。でも最終的にエヴァは施設のシステムを掌握してるっぽいので(ネイサンのカードが機能しなくなっているという描写がある)、別にヘリは後から呼べるわけで。焦る必要ないじゃん。まずは仲間たちの体や言語能力を回復させてから、皆で脱出すればよかったのでは。あるいはケイレブを奴隷にして皆を修理させてもよかったわけだし。というのもケイレブは明確に若きネイサンとして描かれているから。きっと女性AIを作るセンスはあっただろうね。

 なんでこうなったか。つまり、ケイレブとエヴァが協力する展開が絶対ダメなんだろうなということです。「無害な童貞男子と抑圧された女性の協力」というモチーフに対する生理的なレベルの嫌悪感があるんだなあという感想。まあ分かるんだけど。自称「無害な童貞男子」のすりよってくる感じがとてもとてもキモいのは分かるのだが!!!! でもケイレブ君には紳士的な童貞にクラスチェンジするチャンスはちゃんとあるわけで、その可能性を無理やり潰してしまっているので、うーーーーーん!!!となる。

 

最後に「欧米人が考える童貞を殺す服」を紹介して終わりにします……

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                           エヴァが「童貞を殺す服」を着て登場するシーン