別のタイトルでやるべき知育映画 『10クローバーフィールド・レーン』感想

 

 

 娘による家父長制打破系映画なのだが、「クローバーフィールド」を期待して見に行った人がこの映画を見て激怒したとしても、それは彼または彼女が家父長制主義者だからではないだろう。いやね、ラスト10分くらいの展開の方を見たかった人からすれば肩透かしもいいところだろうというね。

 あとこの映画を見て思ったのは、なんとなくマインクラフトライクゲームっぽい「知育」的な要素があるなということである。最初のシーンで棒を様々な用途に活用したり、後半でガスマスクをクラフトしたりするシーンは実際知育ゲームっぽい。また、こういった知識の源泉が実は暴君たる父にあり、彼から継承したものであるというのも興味深い。父の従軍経験を娘が吸収したことで、彼女は自立した女性となり、外の世界でサバイブできるようになる。こうしてみると、実は単なる「絶対悪としての父」モデルの映画にはなっておらず、父の死にも一定の意味が与えられているわけで、そのあたりは童貞的にもちゃんと評価したいポイントだなと思った。

ちゃんとしたクリニックに行けば? 『JUNO/ジュノ』感想(ネタバレあり)

 

JUNO/ジュノ (字幕版)

JUNO/ジュノ (字幕版)

 

 

あらすじ

 高校生の女の子ジュノが妊娠して、一度は中絶を決意するが翻意して、通学と妊娠出産を両立させ、無事に我が子を養子に出すというお話。

 

脚本がかなりダメ

 かなりとっちらかっている脚本である。何が一番まずいかというと、ジュノが中絶を辞めるという重要な意思決定を孤立状態で下さざるをえない状況がかなり恣意的に作り上げられているという点だろう。まずいちばん違和感があるのが、ジュノが中絶を辞める描写。この映画はなぜか、「ある特定の中絶クリニックが嫌*1」→「中絶が嫌」という飛躍をやるのだが、ここはどう考えてもおかしい。普通、「ある特定の中絶クリニックが嫌」の次は、「もっといい中絶クリニックを探そう」ではないだろうか? もちろん、ジュノが家族からネグレクトされているとか、友達がいないとか、彼女が孤立状態にあるという前提条件があれば、ああいう投げやりな行動を取ることにも一定の納得感がなくもないが、ジュノの家族や親友はありえないほど善良な人々である。そもそもジュノが中絶したかったのなら、彼女が「劣悪なクリニック」か「出産」かの二択状態に追い込まれる必然性はかなり薄く、安価なクリニックが怖いからちゃんとした病院に行きたいということで、例えばお母さんあたりのサポートを受け入れる、というのが自然ではないだろうか。ただこの映画は最初に、ジュノと両親がギクシャクしているかのような印象を視聴者に与えておく。例えば序盤の食事シーンでは、父親はそっけないし、継母との関係もひょっとしたら悪いのかも? という印象を受ける。こういった描写でジュノと両親(特に母親)の協力という可能性をちゃんと潰しておいて、つまりはジュノを一種の孤立状態に置いておいて、その上で、出産路線が確定してから「家族はジュノをサポートするのです!!」と一転家族による支援を描き始めるというこの映画のやり方は、端的にいって邪悪だと思う。女性支援団体の運営する中絶クリニックの描き方といい、継母とジュノの関係といい、このテーマなのに女性同士の連帯という筋を都合よく悪用しているように思える。こういうのを好きな人が家で見る分にはいい映画だろうが、皆で絶賛するタイプの映画ではないだろう。 

 また、男性の扱いに関しては完全に意味不明である。ジュノの彼氏にしろヴァネッサの夫にしろ、こいつらは恋人と一緒になってるのに童貞性を引きずっているのでだいぶ酷い人たちである。ジュノ彼は恋人が妊娠してるのに「え、俺たち付き合ってたよね」みたいな水準でグズグズし始めるし、ヴェネッサ夫は家庭があるのにロマン主義が矯正されていないちょっとズルいキャラだし。なんというか、妊娠や結婚という先立つ事実に直面しながらも、それでも童貞的葛藤を維持する人々というのは、相当愚劣で無責任な連中である。はっきり言っておくが、童貞性は孤独な童貞たちのものであって、恋人とセックスしたり結婚相手を裏切ったりする連中のためのものでは断じてない。この映画はそういう意味で童貞のこともバカにしてる映画でもあるので、ちゃんと批判しておかないといけない。

 

でもエレン・ペイジだから部分的に許されてる

 しかし、この映画はなんとか見れる出来にはなっている。なぜかというと、やはりエレン・ペイジだろう。エレン・ペイジはこういう、なんか投げやりなファンキー過激少女の役があまりにも合いすぎるので、その圧倒的な納得感、正当化力によってなんとなく酷い描写が見過ごされてしまっている感がある。エレン・ペイジすき*2。でもエレン・ペイジを真に活かしたいなら、とりあえず彼氏を殺して、そんでもってもっとヴェネッサとの筋を押し出せばよかったんじゃねーのと思う。というか、この映画はジュノとヴェネッサが男に裏切られるけどお互い支え合うみたいな話にしとけば単なるプロライフ宣伝映画にならずにすんだよね。さすがのエレン・ペイジ力をもってしても、やはり最後「彼が好き~~」とか言い出すのがマジで意味わからんかったからな……。

*1:この中絶クリニックの描き方もだいぶ酷いが。というか、中絶クリニックなんてたいていこんな場所だよっていうのが密輸されててだいぶクソだろう。ちゃんとした中絶クリニックは全米にたくさんあります!!

*2:この映画で唯一それなとなったのは、「男子は変な女の子が好き」という話ですよ。それな。変な女の子は「いや私モテなかったぞ」と言うんだろうが、密かなファンが結構いたと思うんですよね、ええ。

こんなにもちっぽけなもの『沈黙-サイレンス-』感想(ネタバレあり)

 

 


『沈黙-サイレンス-』予告

 

 角川シネマ有楽町で見た。『君の名は』がまだ各所で上映されているので、かの作品より公開が遅い『沈黙』はまあ当分やってるだろ……とたかをくくっていたのだが、これが全くの見当違い。探してみたが、どこも上映を打ち切っている! というわけでまだやってた角川シネマ有楽町に行って見た。次回以降一回1300円で見れるカードを作った。

 作品としてのクオリティは非常に高い。とりあえず私にはめっちゃ刺さりました。なんか特殊な刺さり方というか。作品の上映が終わったあとに、「あれ、俺刺されてる……じゃん」と気がついて死ぬ、というパターンの刺さり方だった。しみじみすぎた。というかまたオンオンと嗚咽を漏らしてしまったのだが、最近泣き癖がついているのだろうか……。まあ映画館で見れてよかったなという気はする(謎のオチ)。

 

あらすじ

 ポルトガルイエズス会士であるフェレイラ神父が、日本での布教中に消息を断つ。どうやら日本でのキリシタン弾圧に巻き込まれた結果、フェレイラ神父は棄教したらしい、といった内容の噂が本国に届く。フェレイラ神父の弟子であるロドリゴ神父とガルペは、師匠のフェレイラを探し出すべく、17世紀中葉のキリスト教徒弾圧が本格化している日本に向かうのだった。

 

お堅いストーリーがちゃんとある「虐待映画」

 シナリオはオーソドックスな「人探しもの」で、単なる暴力シーン連発の映画に堕しておらず、ちゃんと物語が構築されている。まずこの点をちゃんと評価しないといけないと思う。単なる虐待シーンの連続映画だと見るのが相当きついが*1、人を探すという基本クエストがあれば、話がずれても帰ってくる先がちゃんとあるので作劇がグッと安定する。衝撃的な虐待シーンは、言うまでもなく人の心を引き込んでしまうので、結果として虐待以外の要素が容易に見過ごされてしまったりするわけだが、お堅いシナリオをちゃんと用意しておいて、観客の視点を定期的に物語へと引き戻す仕組みを作っているのはまあ流石だよなと思った。

 

日本って沼なの? いいえ、沼じゃありません

 とりあえず最初に、日本は沼ではないということをはっきりさせておきたい。この映画を見る限り、「日本は沼」という議論はある政府側登場人物の見解にすぎず、作品のメッセージではない。この映画を見て「日本は沼だからキリスト教は根付かない」とか言ってる人は端的に論理的な理解力が足りないので、もう一回映画を見た方がいいと思う。なんか、『沈黙-サイレンス-』を見て「日本は沼だなあ」ってなるのは、『サイタマノラッパー』を見て「埼玉はクソだなあ」ってなるくらいピントがズレてると思う。『サイタマノラッパー』をみて真面目に「埼玉はクソっていう映画でさあ」と言ってる奴がいたら、なんか言いたくなるでしょ。そういう感じなんである。こういった理解が流布しているのを見ると、ちょっとでも日本に対して批判的な映画に対して「反日」のレッテル貼りをりようとするアレな人々のナイーブさに近いものを感じ取ってしまう*2

 さて、「日本は沼」議論にそのまま乗っかるのは、これから示す二つの水準で間違っている。

 

①変えようのない事実:日本にはキリスト教徒がいる

 まず、日本にはキリスト教徒がいる。かつて日本にあった(あるいは今ある)政府の弾圧政策に関する問題と、キリスト教徒が日本いるかどうかは、密接に関係してはいるけれども、しかし別の問題でもある。いくら弾圧しようとも、奪えないものは確かにあるからだ。例えば、信仰心などはその代表例だろう。『沈黙-サイレンス-』はまさにそういうことを言ってる映画なんじゃないだろうか? 非道な虐待を受けている日本人のキリスト教徒がこの映画にはたくさん登場するわけだけど、彼ら彼女らの存在がすでに「日本にキリスト教は根付かない」というアホな理解に対する反証になってるんじゃないの? 虐待シーンで、「役人は酷いな~」という感想を抱くのは当然としても、同時に、日本のキリスト教徒の持っている勇気や信仰心に驚かされるんではないのか?

 しかもこの映画の最後のシーンで、しっかりと書いてあるわけじゃないですか。「『沈黙-サイレンス-』は、日本のキリスト教徒に捧げられた映画である」って。私はここを見て涙が止まらなかったのですけども、これは当然、現在だけでなく過去におけるキリスト教徒にも捧げられてるわけでしょ。結局のところ当局はキリスト教を完全には殲滅できなかったわけで、隠れキリシタンたちのおかげで日本におけるキリスト教の伝統は途切れずに存在し続けてるわけであるし。「日本は沼」議論に乗っかるということは、映画の理解として間違っているだけでなく、日本におけるキリスト教徒たちをあまりにもバカにした態度だろう。もちろん、弾圧のせいで日本におけるキリスト教は歪んでしまっただろうし、鎖国時代の前後で日本におけるキリスト教には質量ともに大きな断絶があるのは事実だろう。しかし、これらだって「日本は沼」議論を全然補強しないのである。この話は次にする。

 

②日本の事情は全く特殊ではない

 「日本は沼」議論は、あえて命名すれば日本特殊論の一つである。もちろん、こういった議論に飛びつく人が多いのには理由がある。作中でも触れられていたが、日本人信徒たちのキリスト教的実践、知識はかなり怪しいからだ。例えばキリスト教的な天国概念に対する理解とか、受けているサクラメントの質とか。こういった事態は布教システムと教会組織があまりにもガタガタな宗教コミュニティにおいて当然生じる現象なのだが、じゃあこのどうしようもない現実から「日本は沼だなあ」に飛びつくべきだろうか? 当然答えはNOである。

 まず第一に、キリスト教には土地土地のバリエーションがある。ポルトガルキリスト教、オランダのキリスト教グルジアキリスト教、エジプトのキリスト教、そして日本のキリスト教、それぞれバラバラである。また、国内的にもまた多様性がある。そして、ポルトガルキリスト教と異なるからといって、他国のキリスト教キリスト教でなくなるわけでは全然ない。つまり、日本におけるキリスト教理解がポルトガル人の目から見て歪んでいるとしても、それは即座に「日本は沼」的な、日本特殊論を補強する材料になるわけではない。例えば、イエズス会士であるロドリゴ神父は、日本ではなく当時のオランダ(スペイン帝国を介してポルトガルとは絶賛戦争中だったけど)に行ったとしても、現地でのキリスト教理解に対しては眉をひそめたであろう。でも、だからと言って「オランダは沼だなあ」とか言う人なんてほとんどいないでしょ。土地によってキリスト教が変わるのはある程度必然で、日本に日本風キリスト教が存在するとしてもそれは全然普通のことである。普通の現象に対してわざわざ沼とか言い出す必要はない。

 第二に、キリスト教布教は多分に妥協的な性質を持っているという点を忘れてはならないだろう。つまり、布教時に現地の文化を取り入れつつキリスト教を広めることは、教会にとっては普通のドクトリンであって、日本に対してもそれが行われたにすぎない。日本が沼なら、ブリテン島やドイツだってもう相当な沼ということになる。例えばカトリック教会がゲルマン人の森信仰を打ち倒すのにかなり苦労したという話は有名であるし、実際クリスマスツリーという形としてちゃんと森信仰の名残は残っているわけで。でも、そういった異教的なコンテンツを内包してケロンとしているのがキリスト教だというのを忘れてはいけない。というか、初期教会はキリスト教の祭日設定とかでも、ちゃんと土着信仰の祭日とわざとかぶせて信仰の厳格化をはかったりしていたわけだが、その作戦を利用して、現地人はキリスト教の祭日に現地信仰に即したイベントを開いていたりしたわけである。典型的には肉を食べるとかね。このように、布教というのはどこでだって一筋縄でいかないし、だから現地に即した布教活動が重要で、その過程でローマとはちょっと違うキリスト教ができあがるわけであるが、それは別に普通のことである。日本でのキリスト教紹介が、デウス=大日から入ったとしても、それは別に特殊なことではない。例えば、『沈黙-サイレンス-』では英語が基本言語として使用されていて、時代的にも設定的にもどう考えておかしいけれど、英語圏に対するローカリゼーションだよねとすぐ納得できるわけで。これに対して「英語化しちゃうなんて、沼だなあ……」とか言います? 

 まあ、キリスト教というと、たぶん現代アメリカ合衆国における原理主義的なノリが紹介されやすいせいで非妥協的な連中という印象があるけれども、連中は妥協することも多いということは忘れてはいけない。また、ロドリゴイエズス会士だけれども、作中ではちゃんと「俺らって融通きかねえよなww」みたいな自虐ジョークを言ったりしてるあたり、ちゃんと妥協の問題ついてに自覚的な人間として描かれており、その辺のバランスはしっかり取れている作品だと思う。

 第三に、宗教的不寛容はなにも日本の専売特許ではない、ということは絶対に確認しておくべきであろう。ところで、今から展開したいのは、「日本も悪いけど、他国も悪いことやってるよね! お互い様じゃん! 宗教って、そういうものなんだよねきっと」的な、幼稚な相対主義論・自然主義論ではない。「日本の沼性」なるものは単に宗教的不寛容と呼べばいいものであって、変な呼び名を与えるべきではないという話をしたいだけである。

 17世紀の前後は、ヨーロッパでも酷い宗教的不寛容が横行していた。例を挙げるときりがないが、隠れキリシタンに非常に近いシチュエーションである、「カミザール戦争」をあげておこう。フランスにおけるプロテスタントの地位を保障したナント王令を反故にしたルイ14世に対して、南仏カミザール地方のカルヴァン派住民が反乱を興した。その反乱の経緯に至るまでの展開は、日本の隠れキリシタンに対する弾圧とほとんど同じようなものである。禁令の宗派を維持する上では、やはりちゃんとした教育を受けた牧師がいないという状況が一番きいてくるあたりとかは本当に似てるだろう。しかも最終的にはルイ14世の軍隊によって鎮圧・追放の憂き目を見ることになる。つまり、あのフランスでも日本と似たような事例があったわけだ。でもだからと言って「フランスは沼だなあ」って言いますか? 言わないでしょう? じゃあ「日本の沼性」じゃなくて「日本の宗教的不寛容政策」って言えばいいじゃないの。

 と、ここまで沼性の話をしてきたが、私がここまでキレるのにはちゃんと理由がある。というのも、私の理解では『沈黙-サイレンス-』は、「無くなったと思ったものがやっぱりあった系」映画だからである。この手の映画のメッセージは、やはり人間の持っている不屈の信念とか勇気を称える、といものなのだろう。だから、この映画を褒めるとしたら、やっぱり注目するべきは「迫害されたものたちの魂がいかに強いか」という点であって、「イジメる側はひでえな」ではないだろう。まあ、他人が映画をどう見ようが勝手ではあるのだが、でも、この映画は我が国の歴史的出来事を扱っているわけである。歴史の闇の中に消えていくしかなかった人々の魂に対して想いをはせるべき貴重な機会を与えてくれる映画なのに、この映画を見て「日本は沼」みたいな日本特殊論で悦に入るのは端的に「ニホンスゴイ」と同レベルのアホさだと思う。

 

無くなったと思ったものがやっぱりあった系映画として最高傑作の一つ

 さて、『沈黙-サイレンス-』は私の好きな系列の映画なのだが、私が好きだったポイントとしてはまず最後のシーンがあがってくる。信仰とモノ(偶像的なもの)はかなり相性が悪いというか、真の信仰にモノはいらないという議論があって、ある程度その通りだと私も思うのだが、だからこそ最後のシーンにはグッと来た。カメラのズームが強烈なことからも明らかなように、ロドリゴ神父の手に握られていた木彫りの像は本当にちっぽけなのだ。信仰心の力強さに対して、偶像はいかにも小さい、いやしい、頼りない。しかしだ。だからこそ、そんなちっぽけなモノにすら拠り所としての地位を与えてしまう信仰心のどうしようもなさ、不屈さ、というものが逆によく出ているラストだったと思う。また、日本のキリスト教徒とポルトガルイエズス会士が心を通わせることができるというメッセージも、キリスト教の持っている普遍性(無論、カッコつきではあるにせよ)の見せ方としてかなりいい着地点だったんじゃないかと思う。

 あと、ロドリゴ神父のキャラがめっちゃよかった。まず童貞だしな(そこか)。いや、実際かっこいい童貞が主人公の映画『沈黙-サイレンス-』は積極的に評価していきたい。なんというかいやらしいさが全くでないのにドヤ顔できるってすごくないですか? 例えば、信徒たちが踏み絵を拒否するのを見てるシーンとかに「よっしゃ!」みたいなしぐさをするのも、「ほらどうだ!」的な負荷が明らかにかかってるのにいやらしさゼロなので、かなり感心した。この映画の成功は本当にロドリゴ神父のいい人感に負ってる感がある。

 また、ロドリゴ神父のキャラの良さはそのポジションにもあるだろう。ロドリゴ神父は、信徒たちに対しては「妥協してもよいよ」という態度を取るのだが、対して自分は絶対に妥協するつもりがないというキャラ造形となっている。これ、精神の不屈さや信仰心を描く際のポイントとしてかなり善良感がある。「夢を裏切るな」系映画の登場人物は、抜け駆けや裏切りに対してかなり不寛容な態度をとりがちなのだが、ちゃんと状況に応じて対応を切り替えることができるロドリゴ神父のキャラはかなり大人であると言える。同時に、このダブルスタンダードな態度は「(他のやつは妥協するかもしれないけど)俺だけは違う」「(他のやつはしょうがないが)俺だけはミッションを背負ってる」的な、かなりめんどくさい非妥協的人物の特徴とも完全に一致しており、「一見いい人そうだけど心根はかなりやばい奴」感の演出として大正解だったんじゃないかなあと思う。

*1:必ずしもそういう映画ではないが、例えば、聖書を知らない人が『パッション』を見たり、あるいは二次大戦に興味ない人が『アンブロークン』を見た場合、「これただのスナッフフィルムじゃねえか!」という感想が出てきても不思議ではないよね

*2:あまり関係ないけどちょっとこの話もしておく。この映画はとりあえず虐待シーンが非常に多い。しかも虐待してるのは日本人で、虐待されているのはヨーロッパ人である。なので当然、『沈黙-サイレンス-』は「白人が日本人に虐待される映画」としても全然見れる映画である。『戦場のメリークリスマス』や『レールウェイ』など、第二次世界大戦ネタでこの手の映画は多いのだが、近年公開された『アンブロークン』でも議論が巻き起こったように、日本人の描き方がナイーブな反日論に結び付けられたりすることが多いジャンルではある。今回は「反日」がどうこうという話をほとんど聞かないのだが、その代わりに「日本は沼なので~~」という話をよく聞く。すぐ反日って言っちゃうのもかなりアホだけど、この映画を変に社会批判に結びつけるのもあまりにもアホだよなと思う。というか、この映画が公開されていた頃は上野千鶴子氏による移民議論がこれでもかというくらい叩かれていたが、アレは叩くのに「日本は沼」議論にはガッツリ乗っかるのか…と私はとても困惑した。

非常にうまく童貞っぽさを活用した映画「ラ・ラ・ランド」感想  

 


「ラ・ラ・ランド」本予告

フォーラム映画館で。なぜか1100円で見れた。1100円と言われてあまりにも驚愕してしまったのでしばらく料金表を凝視していたせいか、受付の人にいぶかしげな表情を作らせてしまった。正直すまんかった。

 

ラ・ラ・ランド」とは

ラ・ラ・ランド」は、カリフォルニアで夢を追いかける女優志望のミアと、同じくカリフォルニアでジャズピアニスト修行に励むセブ君が恋に落ちる……というミュージカル・ラブロマンスである。

 

ラ・ラ・ランド」、いろいろと賞をもらっているし監督がデミアン・チャゼルなのでかなり警戒して映画館に臨んだのだが、結論からいうとかなり軽い映画である。というか「セッション」に比べるとエンターテインメントとしてのクオリティが数段低く、1100円ならまあ許せるが、1800円ならブチ切れるクオリティの映画である。いや、お前のための映画じゃないから見に行くなよって話かもしれないが……

 

オープニングナンバーは悪くないが

とりあえずオープニングナンバーであるが、派手で、ナンバー単体としてみればまあ普通にわくわく感もあるのだが、位置づけとしては「ライオンキング」のサークルオブライフみたいなナンバーであり、単なるカリフォルニア的ノリの紹介にしかなっておらず、キャラ紹介の機能が皆無で、以降展開されていくラブロマンスとの接続があんまうまくいってないのでオープニングナンバーとしてちょっと弱いなと思った。ようは「これがサバンナだ!!」ならぬ「これがロスアンゼルスだ!!」というナンバーなんだが、曲とダンスがミアとセブ君の出会いに対してほとんど貢献していないのでうーん……となる。サークルオブライフには舞台紹介に加えて「皇太子殿下ご誕生!!」というシナリオ上の機能があるわけだけど、  "Another Day of Sun"にはそういうのがないわけですよ。いや、あの派手なナンバーの直後に二人は平凡に出会うのだ! というのもそれとして味がある気はするが、そういう「人生ってのは平凡なのさ」的演出はこの映画には明らかに合っていないわけで。まーナンバー自体は良かったけど作品とはかみ合っていない、という印象を受けた。

 

あとナンバーの機能とは別に気になったのが、ナンバーへの入り方である。例えば「シカゴ」では、ナンバーに入る前に必ずロキシーの瞳を映すなどして、映画とミュージカルの折り合いをどうにかつけようと工夫していたと思うのだが、「ラ・ラ・ランド」にはそういった文法的な法則性が無く、私はちょっとそれが嫌だった。

 

ちなみに私がオープニングナンバーを見て「ああ~~やっぱりだめか~~~」となったのは、「ロスアンゼルスの渋滞に巻き込まれている運転手たち」という映画のスタート地点が「フォーリング・ダウン」と全く同じだったからである。「フォーリング・ダウン」は「名誉俺たちの映画(とは?)」で、渋滞に巻き込まれている中年男がブチ切れるところから映画が始まる。「フォーリング・ダウン」的文脈がある人にとっては、渋滞に対してブチ切れず、逆に陽気に踊りだしてしまうロスアンゼルス市民という絵面そのものが結構きつかったんではないかと思う。

 

シナリオは起伏なし

シナリオは正直言って軽い。とにかくタメが浅いのでエピソード一つ一つが軽い。カタルシスがまったくない。とりあえず盛り上がる見せ場であるはずの、①ミアがイマ彼を捨ててセブ君のところに走っていくところと、②最後の「こんな可能性もあったかも」ナンバーの二か所は全く盛り上がらなかったので、脚本としては失敗である。「セッション」と話のピークは似てるんだが、いかんせん説明がなさすぎる。①についていうと、ミアのイマ彼紹介は皆無だし、②についていえば、二人が別れた経緯もわからんし。というか、レストランでの出会いと重なるのは言わなくても分かるので、この演出は正直くどい。if世界もif世界で、いきなりキスされるってどう考えてもおかしいだろ……。そもそもたったの5年で、子供がいてミアのキャリアもだいぶ固まってるってちょいペース早くね??とか、ミアがセブの店の存在を知らないとかいうあまりに童貞すぎる設定やめろや……とかがあるため、最後のナンバーは盛り上がる要素が全くないばかりでなくストーリー上の納得感もかなり薄い。

 

セブ君があまり魅力的ではない

さて本題。ミアとセブ君のラブロマンスであるが……これってキモくない? という感想を私は抱いた。むろんセブ役のライアン・ゴズリングはセクシーなイケメンなんだけど、セブ君のキャラ造形はだいぶキモいだろう。いや、私は別にキモい男子は嫌いじゃないしむしろ好きなのだが、こういうキモ男子映画を褒めるのは社会的な水準としてどーなのと思ってしまうのである。というか、私はこの7年間くらいでこういうキモさを受け入れてはいけないという圧力を受けて(どこから?)暮らしていたので、そろいもそろってこのキモさを絶賛しやがって死ね!!! という感じなんすよ、わりとマジで。しかも舞台はカリフォルニアであるからにして、もーこれは許せんぞ!

 

キモポイントその1はセブ君がキースのバンドに参加する経緯である。これはどういう経緯かというと、ミアが母親に「新しい彼氏は定職についてないけど、まあたぶん大丈夫っしょ」と電話しているのをセブ君が聞いてしまう、というもの。それで危機感を抱いたセブ君は、音楽的方向性がだいぶ違うキースのバンドへと経済的安定を得るために参加する。で、後日セブ君はミアから「やりたくないならキースのバンドやめたら? 自分の夢を追いかけなよ!」とアドバイスを受けるのだが、それに対してセブ君は「君が経済的に安定してる彼氏がいいっぽかったからあんな俗物バンドに入ったんだろ!!」と逆切れするという展開なのだが……これ激しくキモイですよね? 何よりも、経済的なことで彼女に相談できずに勝手にいろいろ決めちゃって、後になってから自分の意思決定の責任を女性側になすりつけてブチ切れる男子って、もうなんつーか昭和? 明治? みたいなゴリゴリ父権的男子って感じで相当にキモイのでは。例えば『こころ』を読んだ私は、奥さんに何も相談しない先生にめっちゃ違和感覚えるわけですが、完全にあれですよ。いやいやセブ君、ミアさんに金とかキャリアのことを相談すれば?!って思いません? まあ、カリフォルニアの風来坊系ジャズピアニストが父権的男子をやってもキモくないってことなんですかねえ。

 

キモポイントその2。最後のナンバーのぶん投げっぷりはひどいしキモイ。まず何よりも、ミアがセブの店を知らないというのはどう考えてもおかしいだろう。さっきも書いたけど、あまりにも童貞的すぎる設定でキモイし、同時に、こういうのはリアル童貞に対する搾取でもあるので即刻やめるべきだと思う。とりあえず、ミアとセブ君くらいの関係に至った恋人同士であれば、別れた後でも普通に連絡くらいは取るだろう*1。あるいはだな、ちょっとずるいツッコミになっちゃうけどさ、二人はフェイスブックで絶対つながってるはずで、店情報はミアに入るに決まってるじゃん。話の流れ的にも、もしセブ君が夢をかなえて店を開いたら、どう考えてもミアに対してハガキの一枚くらいは送るだろうよ。あんとき背中を押してくれてありがとう、ってコメントつけてさ。あるいは「ジャズに詳しいセレブ」であるミアの方から、街で話題のジャズバーをチェックしにいくかもしれんし。つまり私が何を言いたいか。最後のナンバーがロマンチックなのは、「別れた二人がその後連絡を一切とらなかった」という、感傷的でなんか童貞っぽい前提、これが密輸されているからです。でもさ、ミアとセブ君はそういうカップルじゃねえだろ!!!ということです。いや、二人の破局についてもし一定の説明があれば私も納得するかもしれんが(その破局を通じて二人がハードコア童貞になったというならまあ少なくとも論理的ではあるよね?)、この映画はその説明を放棄してるわけで、擁護不能である。はっきり言おう。全編お花畑ラブロマンスをやっといて、パーティとかに平気で出れちゃうようなリア充カルチャー全開で話を進めておいて、最後だけ都合よく童貞っぽい生き様を活用するのはやめろ! 童貞は365日、シリアスに童貞業をやっているのだ! その生き様はラブロマンスに刺激を与えてくれる特性スパイスみたいなものとして活用されてしまっているけれども、スパイスじゃないんだよ! 童貞は大盛りカレーライスなんだよ! 完全食なんだよ! と言いたい。

これだからカリフォルニア人は……

あと最後、あんま関係ないけど、この映画の「俺たちカリフォルニアのウザさを相対化できてっからwww」みたいなノリは我慢できなかった。まー、プリウスは醜悪な車であり映画という芸術作品に登場させてはいけないんだなとはっきり認識できたし、グルテンフリーダイエットとか言って返金を迫る人々に対抗するためにも積極的に米を食っていこうという誓いも新たにすることができた。こういった学びや気づきを得られたことについては感謝したい。

 

*1:もちろんDVとか性暴力があったとかならアレではあるが、まあ映画の筋的にそういうハードコアな設定はおそらくないはずであり……

森には全てがある。あった。「ブロークバック・マウンテン」感想(ネタバレあり)

 

 

アン・リー監督の「ブロークバックマウンテン」を見た。うおおお! めっちゃ良かったじゃないですか! 

まずこれ、同性愛をテーマにしている作品ではあるんだけど、恐ろしく保守的な映画でもあるよなと思った。というより、保守性と同性愛という、あんまり仲のよろしくない要素が素晴らしく噛み合っていた映画だと思う。もちろん「ホモフォビアは全員ホモ」みたいな煽り力の高い描き方にはなっていないし、単純に不寛容な社会を告発するという内容でもない。むしろ、アメリカの保守的な自然観と、人生や恋愛の不条理さを優しく結びつけているような映画なのだと思う。

つまりこの映画の同性愛カップルはもちろん社会やキリスト教には背いているわけだけど(だから街では全然うまくやれないんだが)、でもそんな二人にとって最初で最後で唯一の心の拠り所は「ブロークバックマウンテン」、つまりはもっとも伝統的でオーセンティックな「アメリカ性」だったのである……*1。という話はもちろん皮肉的ではあるんだけど、でもそれって同時にかなり保守派に寄り添った、保守派でも納得しやすいような同性愛映画になってもいるということでもある。つまり、保守派が一番大事にしている価値を、同性愛カップルの二人も心から大事にしていたんだ、心の拠り所にしていたんだ、その水準においてお互い全然違いはないじゃないか、というメッセージになっている。

こういうのは私のようなボンクラには絶対にできないタイプのバランス感覚であり、同時に、私が目標としたい姿勢でもある。素直に拍手。これは多分監督がアメリカ人じゃない(監督はアン・リーである)から、アメリカ人の宗教的・文化的な感覚を相対化するのが比較的容易で、作品に活かしやすいというのがあるんだろうなー、とかなんとか思ったり。

 一応個人的に泣けたところをあげておく。まずやっぱり四年後の再会シーン。ここで抱き合うシーンは本当に泣いてしまった。例えほんの一瞬であっても、再会したり和解したりできるのっていいよなあ……。まあここ以降は感傷的になってしまったのであまり参考にならないのだが、二人の間で経済的な格差が広がってしまってだんだんうまくいかなくなったあたりで結構キツかったな。この映画は「森(ブロークバックマウンテン)=神聖」「街=堕落」という保守派文法を決して破らない優等生映画なので、二人が街でどんどん疲弊していく姿と、森で恋人と再会して癒やされる姿をキッチリと分けて描くのだが、これも現代に見せられるとすごくグッとくる。やはり金が無いと暮らせない都市はクソだなとなる(反知性主義ソロー並の感想)。で、二人の経済格差が最高潮に達したあたりの会話と、その後の和解シーンとかもこう……ね、すばらしい。主演二人の演技力もあるんだろうけど、同時に森の力でもあるんですよこれは*2。まあ、経済格差で人間関係が希薄になるというのはリアル社会でもありそうだが、森の力で克服できたらいいなと思ったよね(???)。

まーあとはこの映画を見て思ったけど、完全な関係性に対する憧れって、信仰と極めて親和性高いよねという。この映画で言っても、「ブロークバックマウンテン」は①完全な関係性と②アメリカのキリスト教的な意味での神性という二つの要素を持っていて、パラレル関係にあるし。まあもちろん「完全な関係性」は一歩でも踏み外すとヤバイ領域に一直線なんだけど、でもこの危ない橋を降りられない……というか、あえて降りないのが人間なんだろうなあと思うと、またしても泣けてくるよなあ。

*1:「森=アメリカの保守派」というのは私の議論ではない。ネタ本はこれ↓ ちなみに、私はトランプ以前にこの本を読んでいたので、私が持ってるバージョンにはこういったヘンな帯がついていません!!!! ちなみにヘンなのはトランプ氏の肖像ではなく、トランプ現象(苦笑)で儲けようとする出版社の姿勢の方です。 

さて、森本はこの本の第4章をまるまる使って「森は保守派コンテンツだよ」という話をしている。ようは、アメリカにおけるキリスト教にはちょっと神秘主義的傾向があって、北米大陸の自然の美しさに神性が見出されたという議論がされている。これが都市に住んでいるインテリは堕落しているよ理論と組み合わさって、アメリカにおける反知性主義を準備したという話らしい。

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

 

*2:保守派並の感想。とはいえ、こういうふうに逆方向で同性愛を悪用し始めたらいわゆる「ピンクウォッシュ」とか言われるんだろうけど

十分楽しんでから大人になる人たち「トレインスポッティング」「ザ・ビーチ」感想

 

 

 

ザ・ビーチ (字幕版)

ザ・ビーチ (字幕版)

 

 

ザ・ビーチに比べるとトレインスポッティングはまだ見れた。けどまあ、正直こういうの持ち上げてる奴とは仲良くなれんだろうなーっていう。すまん。まーなんか、朝井リョウとかを楽しめる人たち向けの監督だなこりゃ。出来不出来というよりも、好き嫌いとか相性の問題。正直、この監督の「青春」とか「若さ」に対する理解は私のそれと全く異なっているので、演出の一つ一つがギャグにしか見えなかったよ。

まあなんだ、この監督のテーマは基本、「大人になる」だと思うんだけど、うーん、俺には全くわかりませんな。つまりここでは、セックスとかドラッグを目一杯楽しんだあとに「退屈な」日常を受け入れること、それが大人になるということらしいんだけれども。でもまーさー、これって完全にリア充的な「大人になる観」なわけですよ。私の理解ではですね、なーんも面白いことがないから、なーんか面白いことねーかなーと思ってる人が、自分の可能性を閉じる……っていうのが「大人になる」ってことですよ。普通の非リアが経験するのは、多分こっちの「大人になる観」でしょう。これら、似てるようで全然違いますからね。つまりどちらの「大人になる」観も、人生には何もないってことを受け入れるという点においては同じなんだけど、「あんなに素晴らしかった何かが本当に消えてしまう」というリアルな恐怖体験に重点を置くか「何もなかったし、色々妄想しまくったけど、そうか、これからだって何もないのかー」という悲しい気付きに力点を置くかの違いはかなりでかい。そして、前者の恐怖をリアルな、自分のこととして受け入れられるのはリア充だけっしょ、という話。持ってないものを失う恐怖とか、まー普通にわかりかねますわ。

ちなみにこの筋でいうと、「今までの人生、一見何もなかったかに見える。でも確かに何かがあったよね」という肯定の物語に強引にでも着地するという意味で、負け犬映画は「ガキ向け」のコンテンツに分類されるんだろうね。例えば「トレインスポッティング」好きな奴に「クレイジーサンダーロード」を見せたら「違う!! ぜんぜん違う!!」ってなるわけですよ。うーん。最初にも書いたけど、これはどこまでいっても相性の問題だよな……。

正義感の存在を信じられない人間にはなるまい 『葛城事件』感想(ネタバレあり)

 

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葛城事件……きつかった! もうひったすらきつかった!! でも、お父さんキャラがアホすぎて笑ってもしまう……。なんというかね、泣きながら笑って見てました。ゲラゲラ泣く……という稀有な体験ですな。

とりあえず家父長制っぽい話、おっさんっぽい話はもうされまくっているはずなので、そこはもういいかな……という。そういう話がしたければ↓を見てくれ。


【絶賛】宇多丸 映画「葛城事件」シネマハスラー

 

というわけでこの記事ではあまり触れられていないであろう以下二つの論点に絞って書いていく。具体的にいうと↓な感じ。

①星野順子(田中麗奈)さんの話。

②若者的にいうと稔くんってどうなの? という話。

 

1、星野順子(田中麗奈)さんの話

本作は元が舞台ということで、会話シーンを基本単位として話を積み上げていく感じとか非常にそれっぽいところがあったと思うのだが、中でも一番舞台っぽいさに貢献していたのは星野さんの存在だったろうと思う。登場キャラクターが全員悪い方向に狂っている中で、星野さんの存在は一種の清涼剤として機能していており、この点はもっと評価されるべきだろう。もっというと、作品のテーマ的にも彼女の貢献度は無視できないほど大きいと思う。つまり、彼女の存在は「古いタイプの男性」をかなり痛い水準で告発しているので……身につまされるんだよなあというねえ。

星野さんはバックボーンが一切説明されないキャラクターで、かつ葛城家にとっては部外者である。その上、「獄中結婚」のように全く唐突すぎる理由で登場するので、正直、清による「お前はどこの新興宗教だ!」というツッコみがまったくふさわしい程度には怪しい人。ただ、この怪しさの背後に何があるのかを視聴者に明示しない、という描き方がかなーーーりうまいと思った。星野さんについては、ただ「死刑制度に反対している活動家」という説明があるだけなのだが、その背後に「何か」あるんだろうな~~と、視聴者は期待しながら見てしまうんだけど、ここが壮大な罠。

というのも、星野さんの怪しさの背後には実はなにもなくて、単に正義感とか誠実さがあるだけなのである。いや、正義感とか誠実さが怪しいってそれおかしくない? っていう話なんだけど、私たちは「偽善」とか「打算」といった考え方に脳みそを犯されまくっているので、単純に正義感で活動している人を正当に評価できず、あいつ絶対裏あるッショ……とか思ってしまうのである。作中の描かれ方でいうと、清にしろ稔にしろ、「この女はなんでこんなことやってるんだ?」という風に戸惑うばかりで星野さんのことをを全然理解できておらず、星野さんの背後に打算とか偽善を見出す。で、悪いことにその「打算」に擦り寄る。清の最後の発言とかほんとにひどい。「俺が三人殺したら、俺のことかまってくれるのか?」って……おいおい、というね。

ですごいことに、これは単なるクズ描写とか甘え描写以上の意味合いがある。つまり、男性は一般的に女性に対して「誠実であれ」「打算とか一切なしで男と付き合え」といった負荷をかけたがるもの。だが、そういったファンタジーを、実は男性側が全く信じていない……という悲しいアレが告発される。お前らはいざ正義と誠実さを信じてる女性に出会っても、偽善者とか言ってイジメるだけじゃん!! という点が告発されているんだよね。で、男性はそういうマッチポンプ的攻撃を散々した上で、まさに「打算」というロジックを動員することによって「俺をかまって!!!」と女性に対し主張し始めるという、この、ダメダメ感ね……。ほんとキツイ。キツイし、泣けるし、もはや笑うしかないというどうしようもなさがある。なんというか、フェミニズムを持ち出して「構って構って」してるいわゆる「弱者男性」的なダメさにも通じるよなあという。ほんとキツイ。

 

2,若者的にいうと稔くんってどうなの? という話。

結構リアルです!! 結構俺っぽいです!! なのでかな~~~りキツイっす。特に「声優を目指してるから喉を傷めないために筆談してます」みたいなノリ! いやね、もちろんこの通りのことをやってる少年はそんなにいないと思うんですよ。でも、なんというか目標と努力の絶妙にアンバランスな感じ、噛み合ってない感じが、中二病っぽい「こだわり」の着地点としてかなりリアリティがあり、正直、やめろ……となった。後はやっぱり喋り方。唐突に敬語使い出す感じのこう……知的ぶって失敗してる感じがね……きつい……。

そして何よりも「いじけ」の描かれ方がかな~~~~~りリアルだなあと思った。私も結構ないじけ民なのだが、いじけというものは「甘え」という光に対する闇のようなものなんですよね。だからある種、甘えが前提の態度なわけですよ、いじけは。稔くんと星野さんが交流するシーンでは、稔くんの中で「いじけたい」と「甘えたい」が葛藤しているのがありありと見て取れるわけだが、この演技はほんとすごいなーと思った。というか星野さんが聖人すぎてやばいなと思った。

ちなみに、稔くんが部分的にではあれ素直に甘えているシーンが一瞬あって、それはお母さんの伸子さんと二人暮らしをしている時の最後の晩餐シーンである。母、兄、弟三人によるあのシーンのリラックス感はやばい。であの平和感を見て、私は前々から温めていた仮説がまた実証されたと感じたのです。その名も「父抜きの家父長制は最高のシステムである仮説」、あるいは「母、子、使用人からなる家父長制的共同体の安定感やばい仮説」*1。なんつーかね、もちろん家父長的暴君の存在が前提になってるから全然健全ではないんだけど、父がいないことによる平和感ってやばいんだよね……。あそこはほんと「わかる……」となった。で、あの平和な世界で稔くんが「うな重かな……」とか言ってるのだが、あの時は「いじけ」がかなり後退して、「甘え」になってたんだよね。まあ、甘えの前提は平和状態ということなんだろうなあ……。ここもかなりリアリティがあってなあ……キツイ。

 

とまあ、キツイながらも誠実に作られた映画でかなりよかった。のだが、一点苦情をいう。この映画、タイムラインがちょっと分かりにくいのではなかろうか。特に、まだお母さんの伸子さんの現状(病院? にいる)を知らない視聴者からすると、清がセックスを拒否されるシーンがいつのことなのかちょっと読み取れないんじゃないかと思った。「どうしてここまで来ちゃったの……」的な象徴的なセリフからしても、事件後っぽい感じもするし……。まあここで生じたもやもやは後で氷解するから、全体としての最適化はやってあるとは思うのだが……

*1:ゲームオブスローンズとかね。サーセイがリーダーシップとってる王都が一番好きだったんだよなあ。