非常にうまく童貞っぽさを活用した映画「ラ・ラ・ランド」感想
フォーラム映画館で。なぜか1100円で見れた。1100円と言われてあまりにも驚愕してしまったのでしばらく料金表を凝視していたせいか、受付の人にいぶかしげな表情を作らせてしまった。正直すまんかった。
「ラ・ラ・ランド」とは
「ラ・ラ・ランド」は、カリフォルニアで夢を追いかける女優志望のミアと、同じくカリフォルニアでジャズピアニスト修行に励むセブ君が恋に落ちる……というミュージカル・ラブロマンスである。
「ラ・ラ・ランド」、いろいろと賞をもらっているし監督がデミアン・チャゼルなのでかなり警戒して映画館に臨んだのだが、結論からいうとかなり軽い映画である。というか「セッション」に比べるとエンターテインメントとしてのクオリティが数段低く、1100円ならまあ許せるが、1800円ならブチ切れるクオリティの映画である。いや、お前のための映画じゃないから見に行くなよって話かもしれないが……
オープニングナンバーは悪くないが
とりあえずオープニングナンバーであるが、派手で、ナンバー単体としてみればまあ普通にわくわく感もあるのだが、位置づけとしては「ライオンキング」のサークルオブライフみたいなナンバーであり、単なるカリフォルニア的ノリの紹介にしかなっておらず、キャラ紹介の機能が皆無で、以降展開されていくラブロマンスとの接続があんまうまくいってないのでオープニングナンバーとしてちょっと弱いなと思った。ようは「これがサバンナだ!!」ならぬ「これがロスアンゼルスだ!!」というナンバーなんだが、曲とダンスがミアとセブ君の出会いに対してほとんど貢献していないのでうーん……となる。サークルオブライフには舞台紹介に加えて「皇太子殿下ご誕生!!」というシナリオ上の機能があるわけだけど、 "Another Day of Sun"にはそういうのがないわけですよ。いや、あの派手なナンバーの直後に二人は平凡に出会うのだ! というのもそれとして味がある気はするが、そういう「人生ってのは平凡なのさ」的演出はこの映画には明らかに合っていないわけで。まーナンバー自体は良かったけど作品とはかみ合っていない、という印象を受けた。
あとナンバーの機能とは別に気になったのが、ナンバーへの入り方である。例えば「シカゴ」では、ナンバーに入る前に必ずロキシーの瞳を映すなどして、映画とミュージカルの折り合いをどうにかつけようと工夫していたと思うのだが、「ラ・ラ・ランド」にはそういった文法的な法則性が無く、私はちょっとそれが嫌だった。
ちなみに私がオープニングナンバーを見て「ああ~~やっぱりだめか~~~」となったのは、「ロスアンゼルスの渋滞に巻き込まれている運転手たち」という映画のスタート地点が「フォーリング・ダウン」と全く同じだったからである。「フォーリング・ダウン」は「名誉俺たちの映画(とは?)」で、渋滞に巻き込まれている中年男がブチ切れるところから映画が始まる。「フォーリング・ダウン」的文脈がある人にとっては、渋滞に対してブチ切れず、逆に陽気に踊りだしてしまうロスアンゼルス市民という絵面そのものが結構きつかったんではないかと思う。
シナリオは起伏なし
シナリオは正直言って軽い。とにかくタメが浅いのでエピソード一つ一つが軽い。カタルシスがまったくない。とりあえず盛り上がる見せ場であるはずの、①ミアがイマ彼を捨ててセブ君のところに走っていくところと、②最後の「こんな可能性もあったかも」ナンバーの二か所は全く盛り上がらなかったので、脚本としては失敗である。「セッション」と話のピークは似てるんだが、いかんせん説明がなさすぎる。①についていうと、ミアのイマ彼紹介は皆無だし、②についていえば、二人が別れた経緯もわからんし。というか、レストランでの出会いと重なるのは言わなくても分かるので、この演出は正直くどい。if世界もif世界で、いきなりキスされるってどう考えてもおかしいだろ……。そもそもたったの5年で、子供がいてミアのキャリアもだいぶ固まってるってちょいペース早くね??とか、ミアがセブの店の存在を知らないとかいうあまりに童貞すぎる設定やめろや……とかがあるため、最後のナンバーは盛り上がる要素が全くないばかりでなくストーリー上の納得感もかなり薄い。
セブ君があまり魅力的ではない
さて本題。ミアとセブ君のラブロマンスであるが……これってキモくない? という感想を私は抱いた。むろんセブ役のライアン・ゴズリングはセクシーなイケメンなんだけど、セブ君のキャラ造形はだいぶキモいだろう。いや、私は別にキモい男子は嫌いじゃないしむしろ好きなのだが、こういうキモ男子映画を褒めるのは社会的な水準としてどーなのと思ってしまうのである。というか、私はこの7年間くらいでこういうキモさを受け入れてはいけないという圧力を受けて(どこから?)暮らしていたので、そろいもそろってこのキモさを絶賛しやがって死ね!!! という感じなんすよ、わりとマジで。しかも舞台はカリフォルニアであるからにして、もーこれは許せんぞ!
キモポイントその1はセブ君がキースのバンドに参加する経緯である。これはどういう経緯かというと、ミアが母親に「新しい彼氏は定職についてないけど、まあたぶん大丈夫っしょ」と電話しているのをセブ君が聞いてしまう、というもの。それで危機感を抱いたセブ君は、音楽的方向性がだいぶ違うキースのバンドへと経済的安定を得るために参加する。で、後日セブ君はミアから「やりたくないならキースのバンドやめたら? 自分の夢を追いかけなよ!」とアドバイスを受けるのだが、それに対してセブ君は「君が経済的に安定してる彼氏がいいっぽかったからあんな俗物バンドに入ったんだろ!!」と逆切れするという展開なのだが……これ激しくキモイですよね? 何よりも、経済的なことで彼女に相談できずに勝手にいろいろ決めちゃって、後になってから自分の意思決定の責任を女性側になすりつけてブチ切れる男子って、もうなんつーか昭和? 明治? みたいなゴリゴリ父権的男子って感じで相当にキモイのでは。例えば『こころ』を読んだ私は、奥さんに何も相談しない先生にめっちゃ違和感覚えるわけですが、完全にあれですよ。いやいやセブ君、ミアさんに金とかキャリアのことを相談すれば?!って思いません? まあ、カリフォルニアの風来坊系ジャズピアニストが父権的男子をやってもキモくないってことなんですかねえ。
キモポイントその2。最後のナンバーのぶん投げっぷりはひどいしキモイ。まず何よりも、ミアがセブの店を知らないというのはどう考えてもおかしいだろう。さっきも書いたけど、あまりにも童貞的すぎる設定でキモイし、同時に、こういうのはリアル童貞に対する搾取でもあるので即刻やめるべきだと思う。とりあえず、ミアとセブ君くらいの関係に至った恋人同士であれば、別れた後でも普通に連絡くらいは取るだろう*1。あるいはだな、ちょっとずるいツッコミになっちゃうけどさ、二人はフェイスブックで絶対つながってるはずで、店情報はミアに入るに決まってるじゃん。話の流れ的にも、もしセブ君が夢をかなえて店を開いたら、どう考えてもミアに対してハガキの一枚くらいは送るだろうよ。あんとき背中を押してくれてありがとう、ってコメントつけてさ。あるいは「ジャズに詳しいセレブ」であるミアの方から、街で話題のジャズバーをチェックしにいくかもしれんし。つまり私が何を言いたいか。最後のナンバーがロマンチックなのは、「別れた二人がその後連絡を一切とらなかった」という、感傷的でなんか童貞っぽい前提、これが密輸されているからです。でもさ、ミアとセブ君はそういうカップルじゃねえだろ!!!ということです。いや、二人の破局についてもし一定の説明があれば私も納得するかもしれんが(その破局を通じて二人がハードコア童貞になったというならまあ少なくとも論理的ではあるよね?)、この映画はその説明を放棄してるわけで、擁護不能である。はっきり言おう。全編お花畑ラブロマンスをやっといて、パーティとかに平気で出れちゃうようなリア充カルチャー全開で話を進めておいて、最後だけ都合よく童貞っぽい生き様を活用するのはやめろ! 童貞は365日、シリアスに童貞業をやっているのだ! その生き様はラブロマンスに刺激を与えてくれる特性スパイスみたいなものとして活用されてしまっているけれども、スパイスじゃないんだよ! 童貞は大盛りカレーライスなんだよ! 完全食なんだよ! と言いたい。
これだからカリフォルニア人は……
あと最後、あんま関係ないけど、この映画の「俺たちカリフォルニアのウザさを相対化できてっからwww」みたいなノリは我慢できなかった。まー、プリウスは醜悪な車であり映画という芸術作品に登場させてはいけないんだなとはっきり認識できたし、グルテンフリーダイエットとか言って返金を迫る人々に対抗するためにも積極的に米を食っていこうという誓いも新たにすることができた。こういった学びや気づきを得られたことについては感謝したい。
*1:もちろんDVとか性暴力があったとかならアレではあるが、まあ映画の筋的にそういうハードコアな設定はおそらくないはずであり……
森には全てがある。あった。「ブロークバック・マウンテン」感想(ネタバレあり)
アン・リー監督の「ブロークバックマウンテン」を見た。うおおお! めっちゃ良かったじゃないですか!
まずこれ、同性愛をテーマにしている作品ではあるんだけど、恐ろしく保守的な映画でもあるよなと思った。というより、保守性と同性愛という、あんまり仲のよろしくない要素が素晴らしく噛み合っていた映画だと思う。もちろん「ホモフォビアは全員ホモ」みたいな煽り力の高い描き方にはなっていないし、単純に不寛容な社会を告発するという内容でもない。むしろ、アメリカの保守的な自然観と、人生や恋愛の不条理さを優しく結びつけているような映画なのだと思う。
つまりこの映画の同性愛カップルはもちろん社会やキリスト教には背いているわけだけど(だから街では全然うまくやれないんだが)、でもそんな二人にとって最初で最後で唯一の心の拠り所は「ブロークバックマウンテン」、つまりはもっとも伝統的でオーセンティックな「アメリカ性」だったのである……*1。という話はもちろん皮肉的ではあるんだけど、でもそれって同時にかなり保守派に寄り添った、保守派でも納得しやすいような同性愛映画になってもいるということでもある。つまり、保守派が一番大事にしている価値を、同性愛カップルの二人も心から大事にしていたんだ、心の拠り所にしていたんだ、その水準においてお互い全然違いはないじゃないか、というメッセージになっている。
こういうのは私のようなボンクラには絶対にできないタイプのバランス感覚であり、同時に、私が目標としたい姿勢でもある。素直に拍手。これは多分監督がアメリカ人じゃない(監督はアン・リーである)から、アメリカ人の宗教的・文化的な感覚を相対化するのが比較的容易で、作品に活かしやすいというのがあるんだろうなー、とかなんとか思ったり。
一応個人的に泣けたところをあげておく。まずやっぱり四年後の再会シーン。ここで抱き合うシーンは本当に泣いてしまった。例えほんの一瞬であっても、再会したり和解したりできるのっていいよなあ……。まあここ以降は感傷的になってしまったのであまり参考にならないのだが、二人の間で経済的な格差が広がってしまってだんだんうまくいかなくなったあたりで結構キツかったな。この映画は「森(ブロークバックマウンテン)=神聖」「街=堕落」という保守派文法を決して破らない優等生映画なので、二人が街でどんどん疲弊していく姿と、森で恋人と再会して癒やされる姿をキッチリと分けて描くのだが、これも現代に見せられるとすごくグッとくる。やはり金が無いと暮らせない都市はクソだなとなる(反知性主義者ソロー並の感想)。で、二人の経済格差が最高潮に達したあたりの会話と、その後の和解シーンとかもこう……ね、すばらしい。主演二人の演技力もあるんだろうけど、同時に森の力でもあるんですよこれは*2。まあ、経済格差で人間関係が希薄になるというのはリアル社会でもありそうだが、森の力で克服できたらいいなと思ったよね(???)。
まーあとはこの映画を見て思ったけど、完全な関係性に対する憧れって、信仰と極めて親和性高いよねという。この映画で言っても、「ブロークバックマウンテン」は①完全な関係性と②アメリカのキリスト教的な意味での神性という二つの要素を持っていて、パラレル関係にあるし。まあもちろん「完全な関係性」は一歩でも踏み外すとヤバイ領域に一直線なんだけど、でもこの危ない橋を降りられない……というか、あえて降りないのが人間なんだろうなあと思うと、またしても泣けてくるよなあ。
*1:「森=アメリカの保守派」というのは私の議論ではない。ネタ本はこれ↓ ちなみに、私はトランプ以前にこの本を読んでいたので、私が持ってるバージョンにはこういったヘンな帯がついていません!!!! ちなみにヘンなのはトランプ氏の肖像ではなく、トランプ現象(苦笑)で儲けようとする出版社の姿勢の方です。
さて、森本はこの本の第4章をまるまる使って「森は保守派コンテンツだよ」という話をしている。ようは、アメリカにおけるキリスト教にはちょっと神秘主義的傾向があって、北米大陸の自然の美しさに神性が見出されたという議論がされている。これが都市に住んでいるインテリは堕落しているよ理論と組み合わさって、アメリカにおける反知性主義を準備したという話らしい。
*2:保守派並の感想。とはいえ、こういうふうに逆方向で同性愛を悪用し始めたらいわゆる「ピンクウォッシュ」とか言われるんだろうけど
十分楽しんでから大人になる人たち「トレインスポッティング」「ザ・ビーチ」感想
ザ・ビーチに比べるとトレインスポッティングはまだ見れた。けどまあ、正直こういうの持ち上げてる奴とは仲良くなれんだろうなーっていう。すまん。まーなんか、朝井リョウとかを楽しめる人たち向けの監督だなこりゃ。出来不出来というよりも、好き嫌いとか相性の問題。正直、この監督の「青春」とか「若さ」に対する理解は私のそれと全く異なっているので、演出の一つ一つがギャグにしか見えなかったよ。
まあなんだ、この監督のテーマは基本、「大人になる」だと思うんだけど、うーん、俺には全くわかりませんな。つまりここでは、セックスとかドラッグを目一杯楽しんだあとに「退屈な」日常を受け入れること、それが大人になるということらしいんだけれども。でもまーさー、これって完全にリア充的な「大人になる観」なわけですよ。私の理解ではですね、なーんも面白いことがないから、なーんか面白いことねーかなーと思ってる人が、自分の可能性を閉じる……っていうのが「大人になる」ってことですよ。普通の非リアが経験するのは、多分こっちの「大人になる観」でしょう。これら、似てるようで全然違いますからね。つまりどちらの「大人になる」観も、人生には何もないってことを受け入れるという点においては同じなんだけど、「あんなに素晴らしかった何かが本当に消えてしまう」というリアルな恐怖体験に重点を置くか「何もなかったし、色々妄想しまくったけど、そうか、これからだって何もないのかー」という悲しい気付きに力点を置くかの違いはかなりでかい。そして、前者の恐怖をリアルな、自分のこととして受け入れられるのはリア充だけっしょ、という話。持ってないものを失う恐怖とか、まー普通にわかりかねますわ。
ちなみにこの筋でいうと、「今までの人生、一見何もなかったかに見える。でも確かに何かがあったよね」という肯定の物語に強引にでも着地するという意味で、負け犬映画は「ガキ向け」のコンテンツに分類されるんだろうね。例えば「トレインスポッティング」好きな奴に「クレイジーサンダーロード」を見せたら「違う!! ぜんぜん違う!!」ってなるわけですよ。うーん。最初にも書いたけど、これはどこまでいっても相性の問題だよな……。
正義感の存在を信じられない人間にはなるまい 『葛城事件』感想(ネタバレあり)
葛城事件……きつかった! もうひったすらきつかった!! でも、お父さんキャラがアホすぎて笑ってもしまう……。なんというかね、泣きながら笑って見てました。ゲラゲラ泣く……という稀有な体験ですな。
とりあえず家父長制っぽい話、おっさんっぽい話はもうされまくっているはずなので、そこはもういいかな……という。そういう話がしたければ↓を見てくれ。
というわけでこの記事ではあまり触れられていないであろう以下二つの論点に絞って書いていく。具体的にいうと↓な感じ。
①星野順子(田中麗奈)さんの話。
②若者的にいうと稔くんってどうなの? という話。
1、星野順子(田中麗奈)さんの話
本作は元が舞台ということで、会話シーンを基本単位として話を積み上げていく感じとか非常にそれっぽいところがあったと思うのだが、中でも一番舞台っぽいさに貢献していたのは星野さんの存在だったろうと思う。登場キャラクターが全員悪い方向に狂っている中で、星野さんの存在は一種の清涼剤として機能していており、この点はもっと評価されるべきだろう。もっというと、作品のテーマ的にも彼女の貢献度は無視できないほど大きいと思う。つまり、彼女の存在は「古いタイプの男性」をかなり痛い水準で告発しているので……身につまされるんだよなあというねえ。
星野さんはバックボーンが一切説明されないキャラクターで、かつ葛城家にとっては部外者である。その上、「獄中結婚」のように全く唐突すぎる理由で登場するので、正直、清による「お前はどこの新興宗教だ!」というツッコみがまったくふさわしい程度には怪しい人。ただ、この怪しさの背後に何があるのかを視聴者に明示しない、という描き方がかなーーーりうまいと思った。星野さんについては、ただ「死刑制度に反対している活動家」という説明があるだけなのだが、その背後に「何か」あるんだろうな~~と、視聴者は期待しながら見てしまうんだけど、ここが壮大な罠。
というのも、星野さんの怪しさの背後には実はなにもなくて、単に正義感とか誠実さがあるだけなのである。いや、正義感とか誠実さが怪しいってそれおかしくない? っていう話なんだけど、私たちは「偽善」とか「打算」といった考え方に脳みそを犯されまくっているので、単純に正義感で活動している人を正当に評価できず、あいつ絶対裏あるッショ……とか思ってしまうのである。作中の描かれ方でいうと、清にしろ稔にしろ、「この女はなんでこんなことやってるんだ?」という風に戸惑うばかりで星野さんのことをを全然理解できておらず、星野さんの背後に打算とか偽善を見出す。で、悪いことにその「打算」に擦り寄る。清の最後の発言とかほんとにひどい。「俺が三人殺したら、俺のことかまってくれるのか?」って……おいおい、というね。
ですごいことに、これは単なるクズ描写とか甘え描写以上の意味合いがある。つまり、男性は一般的に女性に対して「誠実であれ」「打算とか一切なしで男と付き合え」といった負荷をかけたがるもの。だが、そういったファンタジーを、実は男性側が全く信じていない……という悲しいアレが告発される。お前らはいざ正義と誠実さを信じてる女性に出会っても、偽善者とか言ってイジメるだけじゃん!! という点が告発されているんだよね。で、男性はそういうマッチポンプ的攻撃を散々した上で、まさに「打算」というロジックを動員することによって「俺をかまって!!!」と女性に対し主張し始めるという、この、ダメダメ感ね……。ほんとキツイ。キツイし、泣けるし、もはや笑うしかないというどうしようもなさがある。なんというか、フェミニズムを持ち出して「構って構って」してるいわゆる「弱者男性」的なダメさにも通じるよなあという。ほんとキツイ。
2,若者的にいうと稔くんってどうなの? という話。
結構リアルです!! 結構俺っぽいです!! なのでかな~~~りキツイっす。特に「声優を目指してるから喉を傷めないために筆談してます」みたいなノリ! いやね、もちろんこの通りのことをやってる少年はそんなにいないと思うんですよ。でも、なんというか目標と努力の絶妙にアンバランスな感じ、噛み合ってない感じが、中二病っぽい「こだわり」の着地点としてかなりリアリティがあり、正直、やめろ……となった。後はやっぱり喋り方。唐突に敬語使い出す感じのこう……知的ぶって失敗してる感じがね……きつい……。
そして何よりも「いじけ」の描かれ方がかな~~~~~りリアルだなあと思った。私も結構ないじけ民なのだが、いじけというものは「甘え」という光に対する闇のようなものなんですよね。だからある種、甘えが前提の態度なわけですよ、いじけは。稔くんと星野さんが交流するシーンでは、稔くんの中で「いじけたい」と「甘えたい」が葛藤しているのがありありと見て取れるわけだが、この演技はほんとすごいなーと思った。というか星野さんが聖人すぎてやばいなと思った。
ちなみに、稔くんが部分的にではあれ素直に甘えているシーンが一瞬あって、それはお母さんの伸子さんと二人暮らしをしている時の最後の晩餐シーンである。母、兄、弟三人によるあのシーンのリラックス感はやばい。であの平和感を見て、私は前々から温めていた仮説がまた実証されたと感じたのです。その名も「父抜きの家父長制は最高のシステムである仮説」、あるいは「母、子、使用人からなる家父長制的共同体の安定感やばい仮説」*1。なんつーかね、もちろん家父長的暴君の存在が前提になってるから全然健全ではないんだけど、父がいないことによる平和感ってやばいんだよね……。あそこはほんと「わかる……」となった。で、あの平和な世界で稔くんが「うな重かな……」とか言ってるのだが、あの時は「いじけ」がかなり後退して、「甘え」になってたんだよね。まあ、甘えの前提は平和状態ということなんだろうなあ……。ここもかなりリアリティがあってなあ……キツイ。
とまあ、キツイながらも誠実に作られた映画でかなりよかった。のだが、一点苦情をいう。この映画、タイムラインがちょっと分かりにくいのではなかろうか。特に、まだお母さんの伸子さんの現状(病院? にいる)を知らない視聴者からすると、清がセックスを拒否されるシーンがいつのことなのかちょっと読み取れないんじゃないかと思った。「どうしてここまで来ちゃったの……」的な象徴的なセリフからしても、事件後っぽい感じもするし……。まあここで生じたもやもやは後で氷解するから、全体としての最適化はやってあるとは思うのだが……
*1:ゲームオブスローンズとかね。サーセイがリーダーシップとってる王都が一番好きだったんだよなあ。
「コミュ障同士」という連帯の喪失と誕生を描ききった傑作 『ヒメアノ~ル』感想(ネタバレあり)
やばい!!!!!! すごい作品すぎた。
先に理論的な話。
世の創作はつねに「疎外された者たちの連帯」からはじまる。しかし、この連帯は欺瞞に満ちている。なぜかというと、単に疎外されているという理由で連帯が生じるという世界観は、疎外されていない人々だけが持っているファンタジーだからである。こちら側を代表して言わせてもらえば、疎外された者たちの連帯は結局いじめられっ子同士の連帯にすぎないのであって、それは本質的に惨めすぎるものであって、受け入れがたいものである。
例えば、「疎外された者たちのクラブ」には、大きくわけて「キチガイ」と「コミュ障」と「疾患」の三種類からなる人々が所属することになる。こういった多様な連中が一緒くたにされ、「迫害」とか「疎外」という理由を経由して友達になれるのだと一般に信じられている。中には、恋仲になるのだと信じている者たちもいる。だが、この世界観ほど人間をバカにしているものはない。
疎外されている者たちはその特徴において確かにいくつかの共通項を持っているが、しかし同じではない。例えば私たちは「LGBT」という概念を使う。だが、だからと言ってゲイとレズビアンが恋人になることは期待したりはしない。こんなことを言うと何を当たり前のことを……と思われるんだろうが、世の創作物でまかり通っている「疎外された者たちが仲良くなって」という世界観においては、まさにゲイとレズビアンがセックスをしまくっているのである。それくらい、実は「疎外された者たちの間にある差異」は見過ごされている。表象の持っている暴力性と搾取性の最たるものがここにある。はっきり言おう。いじめられっ子は他のいじめられっ子のことを好きにはならない。仮になったとしても、その理由は絶対に「同じくいじめられているから」ではない。
話を作品に戻す。
「ヒメアノ~ル」にはキチガイとコミュ障しか出てこない。これはすごいことだ。並の人なら、「普通の人々」VS「特殊な俺たち」という構図を持ってきたがる。だが、この構図の裏側で「疎外された者たちの間にある差異」が見過ごされるという重大な事態が生じるということは先に確認した。この問題を回避するにはどうすれば良いのか。簡単である。主要な登場キャラクターを全員「変なやつ」にすればよいのである。それによって、否が応でも「変なやつ」内における差異性が浮かび上がってくる。良かったな。
ここでまた理論を。
「変な奴で埋め尽くす」系の手続きは普通の作品でもやる。だが、ここでまた別の問題が出てくる。それは、「変なやつ」同士の連帯から生まれる楽しい経験でもって、登場キャラクターの間に生じる関係性を正当化しようとする、という問題である。もうちょっと具体的にいうと、こういうことである。ここにある小説がある。第一~三章では疎外された生徒たちが集められ、第四章以降でマジョリティと対決して、最終章でチームなりカップルがいい感じになって終わる……。
まあ、以上がいわゆる「成長」と呼ばれる手続きなのだが、この時、成長の後に結果として残る「関係性」は、あくまで「経験」から生まれるのであるらしい。つまり、ある主人公が恋人をゲットすることに対して我々が一定の納得感を抱くのは、出会いシーンのおかげというよりも、むしろ主人公がライバルを打ち倒すべく努力する姿を見るからである。実際、ロマンスというものは「なんだあの嫌な奴!!!」から始まり(出会いは最悪だったのだ)、努力なり成長を通して「あの人が好きすぎる!!!」に着地するものだ。
成長が関係性を正当化する。これは創作界隈においては絶対的な文法なのだが、いわゆる「疎外されている者」向けの作品においては、この文法が悪用される。悪用されるというか、「成長によらない関係性」が簡単に見過ごされる。つまり、一応この手の「はぐれもの」作品群では、「同じく疎外されている者たち」が集められるので、じゃあ最初の出会いである程度仲良くなるってことがあるんじゃないの? という話である。
ここで最初の話に戻る。人間は「同じく疎外されているから」という理由で連帯しない。いや、外交的な水準ではそうする可能性があるけれども、好き嫌いの水準ではそんなことはしない。もうちょっと細かいことを書くと、「疾患持ち」は「コミュ障」のことをいきなり好きになったりはしないし、「キチガイ」が「コミュ障」を好きになることもない。つーかまあ、疎外されてる者同士、普通に軽蔑し合ってることの方が多い。
だが、「コミュ障同士」なら話はガラリと変わる。本当に「同じ」人間を見つけられたのならば。つまりこういうことである。我々は本来的に極めて多様でバラバラな「変なやつ」らを、「阻害されている人々枠」として一緒くたにするのに慣れきってしまってきた。だから、「変な奴ら」の枠内で、「同じヤツ」を探すのは、実はとてもとてもむずかしいという現実をとかく無視しがちだ。変なやつらは実際変なやつらなので、その中でも特殊で細分化された変なやつ性を共有している相手を見つけるのは、それはそれは天文学的に難しいのだ。だが、というかだからこそ、もし見つかったら? 自分の変なやつ性を分かってくれる奴を、真に「同じ奴」を見つけた時の感動はいかほどだろう。前に同性愛者の告白録を読んだ時に、初めて同じ同性愛者に出会った時の感動が綴られていたが、感覚としてはこれに近いと思う。疎外されているからこそ、同じ奴を見つけた時の感動、というか感謝には、言葉にできないほどのものがある。で、この感動と感謝が前提にある場合、経験によらず関係性は正当化される時があるのだ。
もちろん、経験による正当化プロセスを経ていない関係性は脆弱である。例えば、「他のもっと合う奴を見つけた」とか「よくよく付き合ってみると相手の〇〇する癖がどうしても許容できない」とか、まあ、たしかに色々あって簡単に崩壊することはあるだろう。一般に依存と呼ばれる関係に突入しやすいという意味でも、経験によらない関係性の健全性はかなり低い。だが、疎外されている人々は、時にこういった関係に頼らざるをえない時がある。
特に人間関係の経験値が低い学生などは、自分たちの関係性がなんとなく危うく、脆弱であることに怯えながら、「経験によらない関係性」にどうにかしがみつく……という生き方をすることも多いだろう。この、若者特有の没入感に満ち満ちた危うい関係性は、存在そのものが完成された悲劇である。ロミオとジュリエットが土下座するレベルの、純粋な悲劇だ。何と言っても、関係性を構成する当事者が、自分たちの関係性の美しさに感嘆しながら、同時にそのあまりのはかなさに怯えているわけだから。
話を「ヒメアノ~ル」に戻そう。
大人になったら、もう「経験によらない関係性」に期待するのはかなり厳しくなる。というか、その筋を諦める時、人は大人になるとも言える。で、「ヒメアノ~ル」で描かれる関係性というものは、簡単にいうと「もう完全な形ではなくなった」「経験によらない関係性」である。これはなんというか、主人公の岡田君のビミョーに大人になりきれていない一種の幼さを反映していると思うのだが、見事だなあと言うほかない。岡田自身はある種神聖で美しく、そして排他的な関係性という世界観をまだ捨てきれていないわけだが、大人として暮らす以上、どうしても「何かが違う」ということになる。例えば岡田と安藤は、もし二人が学生ならば、完成された没入感最強ホモソ関係に発展していたはずなのだが、もう二人は大人なので、「三角関係」で荒れる。つまり、人間関係の閉鎖性が損なわれているわけだ。また、岡田とユカについては、「過去の人間関係」という問題でこれまた荒れる*1。付き合ってセックスに至るまでのプロセスはもう文句なしなわけだが、「経験によらない関係性」は処女厨的な意識によって破壊される。
また、岡田と安藤が微妙に噛み合っていないのも大事なポイントだ。岡田と安藤は、同じく「変な奴」ではあるが、二人がいかに異なっていることか! 岡田が臆病なコミュ障なのに対し、安藤はかなり硬派のキチガイである。でまあ、この関係はかなーりギクシャクしている。特に、同じ女性をめぐる争い(?)になるあたりなどで一度は絶交が宣言されるほどだ。だが、最終的には安藤の譲歩によって関係性がなんとか保たれる。ここもかなりリアリティがある。二人の関係が保たれたのは、経験を経てお互いが成長したからである。もちろんこれはこれでいい話だ。だが、成長によって正当化された関係性は、幼い頃に夢見ていた、あの脆く儚く美しかった関係性とは決定的に違うものである。
ちなみにキチガイ的な話でいうと、森田が唯一仕留めそこなった相手が、同じくキチガイ枠の安藤であるという事実は象徴的だと思う。というか、森田VS安藤のシーンは空気感が本当に最高だった。間が神がかってた。最高の鍔迫り合いシーンでめっちゃお腹いっぱいになった。
本当は岡田君とユカの話を通してセックスの影響についても語りたいのだが、セックスのことは謎なので(なにせその……ええ。)、スキップ。
また、特筆するべきは森田と和草の関係である。この二人は、同じくいじめられっ子である。であるからには、普通の人々はここに連帯の契機を見出す。だが「ヒメアノ~ル」ではそんなことにはならない。森田は和草を恐喝し、金をたかり、そして殺害する。また、和草の方も森田に対しては全く好意を抱いておらず「あいつやべえんだよ!」と、恐怖と軽蔑の入り混じった感情を持っているにすぎない。繰り返すが、「同じくいじめられていた」は連帯の基盤にもならないし、「良い関係性」の基盤にもならない。そうなのだが、一方で二人がいじめられたことによる歪みはかなり長く尾を引いていて、大人になってからの人生を破壊してしまう地雷のようなものとして描かれている。そうなのである。子供時代の美しい関係性は、その脆さ故に崩れ去るが、いじめの悲惨な記憶だけは決して消えることはないのである。つまり森田と和草の関係性は、森田と岡田の関係性の裏番組であると言え、この見せ方もめちゃくちゃうまい。実際、和草と岡田のキャラクターは美しいほど対称的だ*2。
で、ここまで丁寧に丁寧にやった後、「ヒメアノ~ル」は最後にそっと、もうとっくの昔に崩れ去った、子供時代の美しい関係性を視聴者に見せてくれる。結局この映画でやってたことは、この美しい関係の「喪失後」をひたすらひたすら丁寧に描写するということだったのだと思う。もうすっげええげつないですこれは。喪失、喪失、喪失、喪失からの~~~~~~~~っ!
「ねえ、もう誰かと話した?」
「ううん、森田くんが初めて」
ここでもう声出して泣きはじめてしまった。うん、あのね、「ねえ、もう誰かと話した?」ってね、このセリフほど完璧なセリフを知らない。どんだけ怯えてんだよ!!! 他の奴と話をしていない可能性を探ってんじゃねーよ!! なによりだな……他の奴と話してたら他の奴のとこに行っちゃうんだろうな……みたいないじけ精神とかな……もうわかりすぎる!!!! このほとばしるコミュ障感に涙しないコミュ障はいないはずだ。このセリフで、同じくコミュ障である岡田は陥落したんだろうなあというね。もちろんこの時点で森田くんのことなんて何も知らないんだけどさ。だけど「変な奴ら専用のはきだめ」みたいな場所で、本当に同じ方向で変な奴に出会えた時の感動、安心感、そしてなによりも圧倒的感謝、そういうものが関係性を正当化してくれることは実際にあるわけで。そんで、その関係性のおかげで、一緒にゲームしたり、麦茶飲んだりできることがある。そのなんと美しく、そしてはかないことか……はかないことか、ということなんですよ。
補論1
ちなみに、「ヒメアノ~ル」はコミュ障、「FRANK」はキチガイ、「ザ・コンサルタント」は疾患の話なので、ちゃんと区別していこうな。具体的にいうと、「ザ・コンサルタント」をコミュ障で語るのはやめた方がいいであろうという話だ。
補論2
というか、「処女厨」は言われているほど普遍的な病気ではなく、かなり特殊な病気だと思うのだが、ホモソ内における男性獲得競争のロジックをそのまま女性に当てはめて結果として「処女厨」が生まれている仮説はどうか? 彼らが問題にしているのは「汚れている」とかじゃなくて、「処女男子=疎外されており、したがって自分と同じタイプである可能性が高いからアプローチするぞ~~」という戦略が、男性ホモソだと極めて有効であるのに男女関係だと全く使えないのにイラツイている、とか。実際、自分にピッタリの同性を見つける競争って結構システマチックで、かつ排他的じゃない排他性(つまりどういうこと?)が確保されてる分、男女関係のそれよりもはるかに洗練されているような気もするんだよな。で、そういう洗練された世界のロジックが全く通じないと、まあ幼い人がイラつくのは当然なんだよねっていうね。
補論3
サイコパス犯罪者がどうとかいう筋でこの作品を語ってる人、結構いるが、うーんという感じだな。
補論4
サイタマノラッパーの主人公とサイタマノラッパー2の主人公が婚約関係になっててワロタ。
翔鶴さんがボケて瑞鶴さんが「〇〇姉!」って突っ込む大喜利
「というわけでやって行きましょう」
「詳細は↓を見てね」
「お財布に200円しかなかった……」
「少額姉」
「私に100円くれないなら……あなたを殴ります」
「恐喝姉!」
「村役場からごみ収集業務を受注したよ」
「嘱託姉!」
「うぅ……敗戦です……」
「ポツダム姉……うぅ」
「将棋やってるといつも千日手になっちゃうんだよね」
「膠着姉!」
「体育会系の先生がお弁当を食べてそう」
「教卓姉!」
「対象を認識するためには意識の統一が必要なのです」
「統覚姉!」
「西洋の戯曲では数ページ続くこともある」
「独白姉!」
「こんな名前の天使、ドクロちゃんというのがいましたね」
「撲殺姉!」
「もし相手が裏切ったら、その瞬間2人の関係は終わるのよ……」
「協約姉!」
「そう……ここの音はピアノからフォルテへと上げていくんですよ」
「強弱姉!」
「元王族で今はVIPPERになってる美少女(18)だけど質問ある? 一応全レス予定 っと……(カタカタ)」
「没落姉……」
「来年度は予算がたくさんもらえるらしいから対空砲を注文することにしたよ」
「調達姉!」
「You wana hot bady?」
「悩殺姉!」
「まあ悩殺とは真逆の歌だけどね」
「このたびはご愁傷様でございます……」
(弔客姉…)
「瑞鶴!!! 水素水、飲もう!」
「じょ、情弱姉……」
「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし!」
「張角姉!」
「月が綺麗ですね」
「超訳姉!(ドキドキ)」
「艦隊における五航戦党の勢力を増すために、今日から駆逐艦の皆さんに飴を配ってみることにしたよ」
「党略姉! 謀略姉! 狡猾姉! 性悪姉!」
「やっぱやめます……」
「あなたは私の権威を尊重するべきでは???」
「高圧姉」
「今年はお米がたくさん実りました」
「豊作姉!」
「でも大豆のできは悪かったのです」
「凶作姉!」
「( ゚д゚ )クワッ!?」
「瞠若姉!」
「」
「省略姉」
「私たちは間違ってないし負けてない」
「忘却姉!」
「マックで女子高生と加賀さんが話してた」
「創作姉……」
「メスカリンを飲んでエッセイを書けば大作家になれる」
「倒錯姉!」
「マドレーヌを食べたら昔のこと思い出したよ」
「要約姉!」
「エミネムとACDC以外はゴミ」
「洋楽姉!」
「総理が死ぬと自動的に成立してしまう」
「倒閣姉!」
「↓こんなのを見つけたよ↓」
「葉脈姉!」
「!? ダイヤブロックが四個、鉄が六個あったよ!」
「鉱脈姉!」
「将来芸能人になったら絶対さらされるアレ」
「卒アル姉!」
「のわー! 昨日髪乾かさずに寝てしまった……」
「蓬髪姉~~~(かわいい)」
「案外新しい建物に使われている建材。神隠しに注意してね」
「モルタル姉!」
「あ……ハチマキが真っ白になってしまった」
「漂白姉!」
「支援に来ない遠征艦隊、実はあれサボりです」
「告発姉!」
「私たちの手下その二」
「城郭姉!」
「うげえ……に、苦い……」
「妙薬姉!」
「敷島の大和、美しすぎわろた」
「国学姉!」
「ウチだと、銀河とか月光」
「双発姉!」
「頑張って勉強しよう。そして立派な空母になるぞ!」
「篤学姉!」
「横須賀一区ははたしてどっちが取るのか……明日の朝には判明するらしい」
「当落姉!」
「おばあちゃんたちはかぼちゃと呼ばずにこう呼ぶ」
「唐茄子姉!」
「OK」
「承諾姉!」
「ここは荒野のウェスタンです」
「直訳姉!」
「いかがどすか」
「ようだすねえ」
「猫と犬と亀とインコを飼いたいな」
「欲張るねえ」
「今日の気分は?」
「Awesomeネー」
「あの……」
「空き地に風雲翔鶴城を建てて、そこの領主になったよ」
「城伯姉!」
「島ああああああああ!!」
「操舵手ね」
「ただの格下だし後追い勢でしかないので別に全然気にしてないですし」
「とうらぶね~」
「ヒント:瑞鶴の大事な人だよ」
「……!」
「翔鶴姉!」
「うふふ。正解」
やったね!
(おわり)
完全なる童貞のオナニー 「アイアムアヒーロー」感想
あらすじ
漫画アシスタント業鈴木英雄(35歳)は冴えない日常を送っていたのだが、ある日ゾンビの大量発生事件に巻き込まれてしまう。戦いを通して英雄はヒーローとなることができるのか……
童貞的には正しい作品
このマンガの原作は序盤の数巻を使って童貞ひねくれ底辺民描写をやる。そういう投資があるからその後のカタルシスが生きてくるのだが、この映画の底辺描写は、正直ぬるい! 部屋がきれいすぎる!(そこか?)
だけど、だからと言って童貞映画として失敗しているわけではない。ここ重要。
ちょっと一般的な話をしておく。日本社会で「童貞」といった場合、そこには二種類の含意がある。①ガチでセックスしたことがないタイプの童貞と、②セックスの問題とは無関係に童貞っぽい人の二種類。①を扱う場合には純粋にセックスが問題にされるけど、②はどっちかというともう少し広く童貞イデオロギーとか承認の問題が扱われる傾向にある。で、英雄君は彼女持ちなので、今作で童貞っていうのは②的な意味で使われる。
②っぽい童貞性に対しては、①のガチ童貞民から「お前彼女いるじゃん!!!」という批判がなされることがあるのだが、これは全く誤った批判であると言える。②的童貞性を語るのだと宣言している作品は、②的童貞性の次元で評価するべきであって、①的童貞性でその質を測られるべきではない。そしてこの線引を守る義務は①的な、言ってみれば原理主義的な童貞民の側にある。というのも、セックスをしたことがある童貞は、①と②の区別をなくして、両者の問題意識を混淆させてしまおうとするからだ。ただ①的な童貞だけが、童貞問題には①と②があるのだということを認識し、そのフレームワークで行動することができる。故に、②の場において①を持ち出すのは、本来存在するはずだった区別を掘り崩してしまうという意味で単に②的な人々を喜ばせるだけである。認識を守るために沈黙せよ、①の童貞たちよ!
で、②的な問題を扱う作品としてはほぼ100点満点。ロッカールームのシーンとかほんとすごかった。で、もっとすごいのは、この作品には①的な童貞もある程度乗っかれるようになっているということ。おかげで120点になる。
というのも、今作における銃というのはご承知の通り男根、家父長制的権力の象徴でまあようはペニスである。ペニスというのは実際セックスに使われることが多いのだが、①的な童貞にとってペニスはオナニー専用の器具である。だから、銃や剣でセックス的な描写をされても童貞は興奮できない。しかし今作における射精は、「女の子に見られながら欲望に向けてひたすらぶっ放す」という形態をとっており、つまりはどう見てもオナニーです本当にありがとうございました。①の童貞はセックスを理解しないが、オナニーなら完璧に理解できる。ここに気がついた制作陣に座布団をあげたい。最後のシーンなどは、もう散々オナニーして満足したおっさんめいた開放感を味わってる感じで、とてもよいのである。
文字通り「童貞のオナニー作品」として仕上がった「アイアムアヒーロー」、①的童貞でもある程度受け入れられる②的童貞映画である。よくできてる。
ただ微妙だなと思った点もいくつか。一つは避難所が明確にジェンダー分業してたことなんだが……うーん、ほんとにこうなるんかね。男側がいかにもクソ雑魚めいた男子ばっかりなので、なーんか説得力ないなと思った。こんなクソ男子じゃ権力握れんだろ。
もう一つは女子高生ひろみさんの描き方。まあ原作マンガだとすべてが丁寧だからまあいいんだが、映画のテンポだとこう、JKが幼児化することの必然性がまったく感じられず、「おっさんはやっぱり幼児化したJKを飼いたいのか……」って感じになるので正直キツかった。