格差カップルがラブラブになるには? 『アマデウス』感想


Amadeus - Trailer

 

 

 ミロス・フォアマンの『アマデウス』を見た。男の嫉妬を完璧に料理した傑作だった。

 まず何よりも最初に思ったのは、この映画を『FRANK』とかあるいは『WHIPLUSH(放題:セッション)』、『シングストリート~未来への歌~』の後に見れて本当によかったな、救われたなということである。基本、リアルタイムでいろんな作品を味わえないという意味で私は同時代性を欠くということのネガティブな面ばかりに目が行ってしまう人なのだが、2017年に80年代ど真ん中作品を見ることができるのはやっぱり2017年に生きているおかげなんだよなとも思えたし、こういう風に過去作品を発見していくことができるという自分の立ち位置のありがたさというか戦略的有利さというものにもっと自覚的になっていった方がいいんだろうなと思った。

 

重さと軽さ

 『アマデウス』の最大の素晴らしさは、まさにシリアスとユーモア、重さと軽さの完璧な融合にあると思われる。男の嫉妬という犬も食わないコンテンツをここまで美しく描くことに成功しているのは、この「軽重融合」あってこそだと思う。おそらくそれは80年代的なノリとも多分関係がある。80年代はシリアスなシーンに笑いを入れても許される空気がちゃんとあった*1。思うに、シリアスに振り切ってしまった先にある笑いというものは確かにあるのであり、そういうユーモアはじゃあシリアスすぎて鬱陶しいかというと別にそういうことはない。例えば、死神に扮したセリオリが二回目に屋敷にやってくるシーンなど、完全なシリアスなのに笑えてしまう。なんというか、シリアス的な負荷がこれ以上かかりようがない地点で笑えたなら、それは一種のピュア自由と言ってもいいかもしれないではないか。あ、しょうもないね、っていう気付きが得られるのは結局そういう地平においてでしかないのかもしれない。特に、癒やしとは無縁の人間たちにとってみれば、多分ひたすら降り掛かってくる負荷から解放されるための戦略はこれしかないんだろうなと思う*2

 

和解と融和

 もう一つ、『アマデウス』で注目しなくてはならないのは、この映画が階級間の融和に関する物語であるということである。もっとざっくり言えば、これは格差カップルの融和と和解についての物語なのである。この視点をミロス・フォアマンが持っているのは自然という他ないだろう。一つの共同体の中で二つの階級が破局するという状況が何をもたらすか。その悲劇を身をもって知っているミロス・フォアマンだからこそ、「格差カップルはどうやったらラブラブになれるのか」という問いを立てられる。否、彼は立てなくてはならなかったのである。

 この問いに対するフォアマンの解答はなんだったのだろうか。私の理解では、それはやはり、神の恩寵を共有することである。すなわち独占からの解放であり、共同作業への参画であろうと思う。そしてそれを達成するためには、モーツァルトは謙虚になり、自らの限界を認め、何よりも制作過程という密室の出来事を公開する必要があった。セリオリも田舎者のままではいられなかったばかりでなく、モーツァルトに対する嫉妬と憧憬をどうにかバランスさせなくてはならなかったのである。ここで「天才」という概念はあえていえば「資本」と同義であることは明らかだ。当初モーツァルトによって独占されていた「天才(資本)」へとセリオリがアクセスした時、二人はふと心を通わせることに成功する。ただ、さすが80年代というべきか、ミロス・フォアマンはセリオリに対して極めて高い水準の努力を要求する。結局、セリオリが自分の可能性を信じて努力しなかったら、彼は絶対にモーツァルトと心を通わせることはできなかったわけで、そういう意味では極めてアメリカ的な「立身出世」的ロジックが入っている側面もたしかにあるだろう。だが私はこの側面を支持したい。むろん、下からの努力が唯一の道であるとは思わない。けれど、セリオリが抱いた夢とあこがれが本物ならば、せめて彼に「凡庸なるものたちの王*3」という称号を、その王冠を与えようではないか。その王冠を持つ限り、もちろん決して嫉妬心からは逃れられないが、しかし世界に確かに存在する良きことにはアクセスできる。この主張こそ80年代を生きた良識ある保守派たちの言いたかったことなのだと思うし、そういう水準で人間が自らの限界と向き合えるのだという素朴な信頼があったのだと思うと、これもまた涙せずにはいられない。人間に対する圧倒的信頼がなかったら、『アマデウス』は撮られなかったのだ。

*1:90年代くらいからどっちかに振り切りことが求められるようになり、ゼロ年代はオトボケ時代なのでそういった区分自体がダサいということになった

*2:結局、視聴者は一定のシリアスさを欲していながら、しかしそのシリアスさの表現として重さ、軽さのどちらを選ぶかという問題で争っているのにすぎないと最近は思っている。実際、シリアスでない方法論でもってシリアスを訴えるのが技術的にも美的にも優れているのは言うまでもないわけで、シリアスさ、重さを拒絶する近年の態度というものはシリアス離れではなく単に視聴者の作品に対する技術的・美的要求の上昇として整理するべきなのだろうなと思う。こういうことを言うと即座に「ひたすら軽さだけを求めた作品群のことをなんだと思っているんだ」という反論が飛んできそうだが、そういった作品群は一般にシリアスと呼ばれる展開を病的な神経質さで持って排除しているわけで、その態度はまさにシリアスそのものであると言わねばならない。

*3:The Champion of mediocrites