キスよりすごい建国神話がここにあった。劇場版 うたの☆プリンスさまっ♪ マジ LOVEキングダム感想(ネタバレあり)


「劇場版 うたの☆プリンスさまっ♪ マジ LOVEキングダム」スペシャルライブPV 第2弾

 

 豊洲ユナイテッドシネマでうたプリ劇場版を見て入国してきた。というか豊洲エリア、土地の使い方ほんと贅沢だよな……建物広すぎて最初映画館がどこかわからんかったわ。ただスクリーンデカかったのはよかった。

 

 作品としてはライブ形式の映像で、基本的に①ナンバーが入って②その後出演者によるMC(ふりかえり・まとめトーク)という構造になっていて、①~②が繰り返されることによって進んでいくスタイル。そういう意味では今までみた映画とはまるで趣向が違った。何気に人生初ライブだったので色々と新鮮で面白かったのだが、特に②のMCパートは存在を想定していなかったので(普通にナンバーが流されまくる作品だと思ってたので)興味深い発見だった。最初にMCが入ったときは「いや、話もいいがどんどんナンバー流して……」とか思ってしまったが、ライブが進むにつれ、MCで休憩入れないとこっち側のボルテージが上がりすぎて心臓破裂しますねこれは…… となった。まああと振り返ってみると、キャラ萌え的にもMCは必須だったかな。

 

 作品を通しての一番大きな感想は、この映画(というかライブ)はなによりも三年間待ち続けたファンに向けられたものなんだな、というところ。私は4期まで見終わった次の日に入国したため、どこかアニメの延長という位置づけで「1期のライブみたいなのを大画面で見れたら派手だろうなー」くらいの、言ってしまえば軽い気持ちで見に行ったわけですが……そういのじゃないですねこれは! これは「ずっと会いたかった……!(そして会えた!)」的な感覚で見るべき作品なんだろうなーと思った。ナンバーが全部(多分)新曲なところとか、アイドルたちが常に「みんなのおかげでやってこれた」を強調してるところとか、最高の再会を提供してやるぜ……という制作陣の覚悟というか責任感の強さを感じた。少なくとも1期EDの「マジラブ1000%」くらいは流れるものだと思って行ったのだが、アニメ版の曲とか歌ってる場合じゃないのです!って感じでしたね。まあ、じゃあお前楽しめなかったかよというと……もちろんそういわけではない。めちゃくちゃ楽しめたのだが、しかし、3年間「溜めて」いたら王国での再開にまた別種の感動があったんだろうなーーーとどうしても思ってしまった。年季が足りない!!!

 

 というわけでセトリにそって感想をば……ほんとはキャラごとの横串でやりたいがそれはまたの機会ということで。なお好みの濃淡が感想の分量に現れてしまっているが、一旦目をつぶることにする。

 

・嶺二先輩からの諸注意

 こういうのさあ……オタク的に嬉しいよなほんと。嶺二先輩はゴリゴリのリーダーシップを発揮するようなひとじゃないけど、3グループの代表張れるのは彼くらいだよなあと思った。後は嶺二先輩だとあんま説教臭くならないのがいいすね。

・オープニング

 まず、背景がロンドンなのであった。これはおそらくキングダム=イギリスという割と安直な連想なのだとは思うんだが*1、霧の街ロンドンというロケーションは演出的には結構よかったんではないかと思う。というのも、テーマは「再会」なので、真打ちをちゃんと画面に映すまで観客を思いっきり焦らす必要があると思うのですね。だとすると、「霧のかかるロンドン市内」×「足元だけ映す」という仕組みでキャラを直接映さず、我々がふわっと持っているイメージとしての霧と演出上の霧の掛け算でキャストの顔を隠すというのはかなり上手いと思った。

 そんな感じで、もう散々待ったんだから焦らさないでくれ……! 足元を映すだけでキャラ性分かるとかそういうのいいから……早く顔見せて! となったところでキャラ紹介に入るのだが……はい。劇場版の常として、正面顔を見せられるとあれ、こいつこんなにかっこよかったっけ?となってしまうアレな。みんな輝いてましたね。

・ファンタジック☆プレリュード(ST☆RISH

 オープニングナンバーを飾る曲。オープニングナンバーは作品を象徴するので、どういう曲を持ってくるか結構難しいと思うのだが、個人的にこの曲で「あーー三年前の俺ーーうたプリ見とけ!!!!」となった。これ三年越しで聞けたら泣けるだろうなあ……王国にようこそっていうか、王国におかえりという、そういう感じだった。

・THE WORLD IS MINE(QUARTET NIGHT

 僕はスターリッシュに対する贔屓目を抜きにすると、グループとしてはカルナイが一番好きです(全ギレ)。 この4人は喧嘩→和解という手続きを他グループに比べると結構真面目に踏んでいるのと、人数が少ないのもあって、グループとしてすごいまとまっていて好きだ。あとやはりST☆RISHという存在に対してどうしても2番手的になってしまうところがあると思うのだが、そこに甘んじない強さというか存在感というか、一周回った雑草魂みたいなものにすごく惚れてしまう。私がアニメ版でめちゃくちゃ好きなシーンの一つは、いつもST☆RISHがやってたエンディングのライブパートをカルナイが奪ったやつなのですよ(確か3期のヤツ)。あれはしびれたな……。今回も歌うの2番目だったけど存在感抜群だった。最初アカペラの合唱から入ったので「うおおお! お前らの絆感じるぜえ!」となった(錯乱)。あと黒崎さんが「ナンバーワンもオンリーワンも俺たちだ」って言っててほっこりした(*^^*)。

 あとですね、まず黒を基調としたコスプレがかっこいい。襟強調してるのほんまおしゃれ上級者や。しかも帯剣してるし、しまいには抜刀するし! いやですね、男性同士が抜刀してビシバシやるのは結構「ヤバイ」比喩表現だと思うんですが、でもああいうのってST☆RISHとかHE★VENSみたいな身内バトル少なめの人たちだとちょっと刺激が強すぎてやれないと思うのですよね。比較的大人系で、かついつもじゃれ合ってるカルナイだからこそOKなラインに乗るというかそんな感じがした。雷も落ちて派手やった……。あとこう、妄想かもしれないがオープニングナンバーに比べてカメラまわしが比較的アクロバティックな気がしており、躍動感がすごくて引き込まれてしまった。

・GIRA×2★SEVEN(HE★VENS

 僕はスターリッシュに対する贔屓目を抜きにすると、ライブパフォーマンスとしてはHE★VENSが一番好きです(全ギレ二回目)。なんだろう。まずコスプレの統一感がかっこえかった……原則として、この作品におけるコスプレは雰囲気似てるけど一人ひとり微妙に違っていておしゃれな感じだと思うのだが、HE★VENSの最初の青コスプレはかなり統一感があったと記憶しており、好き。やっぱHE★VENSの特徴は他グループに比べて明確にリーダー枠がいることだと思うのだよな。リーダーシップのもとに統率されてる感が好きなのですよ私は。瑛一くんの指パチンですべてが始まる感は、やっぱり他にない心地よさがある。

 もうちょいコスプレの話をすると、HE★VENSはブーツとか革靴じゃなくてシューズなのもずるい。確かにHE★VENSは他のグループに比べるとカジュアルっぽい格好でステージに出たりするのよな……私は正装の方が好きな人ではあるが、HEAVENSのカジュアルっぽさというか、若干崩してくるところはカッコいいなーと許せてしまう。そういうふうにちょっと崩しておいてダンスとか歌がキレキレだから、そのギャップがいいのかもしれないすね。HE★VENSなんかに負けないんだからね!→カッコいい……となってしまうので毎回悔しい(敗北)。人生は一度さ、冒険しないかー♪がまだ脳内でリフレインしている……

 ちなみに歌詞で「恋よりもすごい歌」というフレーズがあるのだが、これはうたプリ原作のキスよりすごい音楽って本当にあるんだよADVというフレーズを意識したものであると思われ、本来ST☆RISH側が使うべきフレーズだと思うのだが、そこを颯爽と奪っていくのがかっこよかった(敗北済み)

 

↓ここから劇場版用のクロスユニット(正確な言葉遣いかわからんけど許せ)のナンバー。

・Up?Down?Up!(音也・藍・ヴァン)

 第一印象。HE★VENSから来たのが桐生院さんで良かった!!! って感じですね……。4期見終わった直後なので、音也くんのメンタル絶対保護するマン!と化していて、どうしてもそういう視点で音也くんを見てしまう側面が強い。やはり音也くん×HE★VENSというと、4期のアレがトラウマとして蘇ってくるが、曲者が多いHE★VENSの中で桐生院さんはフランクな人間なので音也くんも落ち着いてやれるな、と安心できた。あと何気に、はるかさんにすぐ「好きだ」とか言っちゃうキャラ性として2人は共通点がある気もする。そういう意味で平和そうでよかった……本当に……音也くん平和に暮らせ。そして明らかに自己管理ガバガバそうな二人組に美風先輩という立て付け、いいですね。安定ですわ。お姫様だっこを提案したのはあんたかい……となったが。ただコスプレはちょっとDQN風味だったのでもっとちゃんとした服を着てほしかった(そこか!?)特に美風先輩には常に正装でいてほしいですよ!!

・エゴイスティック(那月・蘭丸・瑛一)

 僕、那月くんの良さがわかった!(にわか)となったナンバー。私はST☆RISHの中だと那月さんだけはどうしても興味が持てなかったのだが、やっと興味が持てた。まず、直前の音也たちのコスプレがダボダボ系だったのに対してピチピチの服だったので、かなり「身体性」が強調されていたと思う。結果、那月くんじつはめっちゃガタイええじゃないか~~!!!!という事に気がつかされてしまった。あの長身から繰り出されるダンス、すごい迫力あった。周りの二人が唯我独尊の大物キャラだけど、その二人に負けない存在感を放っており、うーん、正直見直しましたね! 実際、黒崎さん・瑛一くんと並べられたら那月くんに勝ち目は無いと思っていたのだが……那月くんも男ということですねえ(?)。

 あと、鳥かごを破壊するという演出はたしかにメッセージ性があってよかったですね。黒崎さんが自分重ねてるっぽい感じがエモかった……黒崎さん一番好きだ。。。

・Feather in the hand(真斗・カミュ・瑛二)

 エゴイスティックに比べて「身体性」の強調がほぼ皆無のナンバー、と思った。そういう意味では対比が効いている。コスプレも重層的だし(厚着だと体型わからんよね)、せまい塔の上に突っ立ってるから動きも少ない。が、多分それが正解なんだろうなと思った。基本的に「身体」と「概念」は対立構造になってしまうので、身体性を極力排除することによって、彼らはアイドルとしてより純粋な、真に抽象的な神聖概念となった……って感じのナンバーだと理解した。このナンバーだけ神聖力が高すぎる……まあこのメンツならこういう感じにまとめるのはいいアイディアですわな。ただ、せっかくのライブなので、もっと体使ってほしかったというのが正直なところではある。カミュが猫かぶって喋ってるのには笑ってしまったw 

・相愛トロイメライ(レン・嶺二・綺羅)

 レンさん推しです(全ギレ三回目)。しかも嶺二先輩と同じグループとかやばいすね。ちなみに、私の中でレンさんと嶺二先輩は隣に並べたいキャラクターナンバーワンである。長くなるけど理由を書く。まず、レンさんは余裕かましてるように見えつつ、なんだかんだ言って結構人と張り合ってしまうキャラだと思っている(例えば、スマホCMのときは翔・セシルとガチでバトってしまうし(これはほんと意外だった!)、4期で桐生院さんに負けそうになってムキになったりとかしてた)。そういう意味で、キャパがそんなに多くないというか、実はいっぱいいっぱいなところがあるというか。1期での荒れっぷりも一番やばかったし、実はクッソ繊細なところもある。対して、嶺二先輩は底なし系のキャラでガチで常に余裕を持っているように感じる。カミュとはまた違った水準で「先輩の本気ってどんなもんなの?」と常に思わせられてしまい、キャパの全容が全然把握できない。そういう意味で嶺二先輩は底なし沼みたいな人でもある

 そういう二人だと思っているので、言葉遣いは悪いが、レンさんが嶺二先輩と張り合ったらほんっっとメンタル的にキツイやろなと思うのですよ。レンさんからすれば全力を出しているのに、嶺二先輩はのらりくらりとしながら高い実力を発揮していて、努力しても努力しても嶺二先輩に追いつけるかこれよくわかんねえな……、みたいな、嶺二先輩の沼にハマっちゃいそうな感じがあり。

 私はこういう関係性が好きなので、レンさんの隣に嶺二先輩いてよかった~~~~~~!!(邪悪な感情)となってしまった。レンさんには悪いが……すまん、本当に良かったですよ! レンさんのムッとするところとか!

 ナンバーの話を少しすると、私はこういうストーリー性がありかつ不穏な感じのステージパフォーマンスは好きなのであった。MCでの劇っぽい語りとかも含めて、若干Sound Horizonがやってるようなパフォーマンスで得られるようなよさみがあったですね。ただ、最後マントというかコートをキャストオフする演出があっても良かったかなと思った。というのも、あの衣装はカッコいいけど、ダンスの動きをちょいわかりにくくしていると感じた……。

※なお、私は無口キャラはよくわからないので……綺羅くんすまん。

・Colorfully☆Spark(翔・ナギ・シオン)

 このナンバーはあまり理解できなかった……。私は所詮男性なのでこういう水準でかわいいという評価にはなりにくい……はずだが……なんだ、この心の奥底がむず痒くなる感じは……

 もし何か言うとすれば、翔くんをカワイイ枠で使うのはどうなんだろうか、ってところだろうか。私としては彼にスケボー乗ってほしかったのだが!!!!!!!?(全ギレ四回目) 翔くんの代わりにセシルを配置しておけばよかったのではないですか!?(カタコト) といいつつ、セシルはシオンくんとはアニメ版で組んでるからなあ……難しい。

カレイドスコープ (トキヤ・セシル・大和)

 ライブで一番盛り上がるナンバーの一つではないでしょうか。 謎動力のスケボー……これ、3つしか作れなかったんですかねえ???? あまりにもかっこよかったんで、スケボー量産して全員でスケボー乗ればいいじゃん!!??? という感想しか出てこない……。

 なお、直前で「翔くんがよかった」とか書いたが、トキヤくんとセシルがスケボー枠で良かったとも思っている(どっちだ)。というのも、翔くんとか大和くんは運動神経抜群系で推しているキャラクターなので、そういうキャラクターをスケボー載せても、まあ退屈と言えば退屈なのですよ。そりゃそうだね×10、となってしまうので。対して、トキヤ、セシルが持っている良さというのは、身体性というよりもむしろキャラとしての誠実さだと思っており、誠実なのに体も動かせるとか相反するよさみがアウフヘーベン(?)しててヤバくなっていた。たしかにMCの内容も「練習頑張った」みたいなテーマ性になっており、トキヤくんセシルくんのよさみが、誠実さという人間性の部分をベースとして、身体性という方向性に引き出されており、大変おいしかったと思う(EDで練習シーン映ってたしね)。でも本当はスケボー18個量産するべきだったと思う。ほんとに。

 コスプレの話をすると……一番好きかもしれん。サッシュ(肩にかけてるリボン)がめっっちゃ好きな人なので、襟付き服ボーナス×サッシュでコスプレ点がめっちゃ高かった。シャツが複数色スプライトでかつ縦縞のサッシュとかオシャレ神かよ……普通そんなん破綻するだろう……あとさ、サッシュの色合いがフランス国旗色なのもよかったですよ。サッシュは好きであるものの、とはいえ彼ら3人にはちょっと権威主義的過ぎるアイテムのような気もしたのだが、自由・博愛・平等の色を使ったサッシュだからさわやかで、バランスが取れており最高やった(感涙)。

 

↓ここから各グループごとのナンバー。

 

・愛を捧げよ 〜the secret Shangri-la〜(HE★VENS

 曲はHE★VENSのが一番好きかもしれない。派手さと落ち着きがいい感じでアウフヘーベンしててヤバイ(2回目)。3人ユニットの後の7人グループパフォーマンスだったので、迫力がやばかった……上の方でも書いたHE★VENSのいいところが全部出ていた。こういうシックなのやらせたらHE★VENS一番いいすね。

 まずコスプレが良い。騎兵服! 騎兵服キライなヤツとかおらん。騎兵服は肋骨型の刺繍がボタンホール周りに入るため、装飾的な刺繍は胸の上の方に来てた。他のグループは縦の刺繍だけなので、唯一のダブル刺繍だからHE★VENS優遇だな!!(謎理論) あと騎兵服はマントがカッコいいのだが、シオンくん風のマントが一番好きだった。

 ナンバーの演出としては、なんか途中でステージがクレーン(なのかわからんけど)的なもので吊るされて空中輸送されるところがあり、そこだけカメラが真下から見上げるような入り方になっていて謎だった。アレにはどんな意味があるのか識者に聞きたい……なんらかの性癖に関係しているのだろうか……

・FLY TO THE FUTURE(QUARTET NIGHT

 ライブで一番スキなナンバーだったかもしれない。ステージの作り込みというか演出がなんか限界突破しているような気がする……。なんですかあの時空系召喚技は。。。時空系は最強論議においていつも最強判定されるからな……やはりカルナイ最強か(どうでもいい)まあ、カルナイは4人なので、どうしても7人ダンスと迫力バトルをすると一歩譲ってしまう側面があるような気もするが、全然負けてないですね!! 

 このナンバーはなんか「Fry to the future」部分がコールというか合唱レベルでみんな声出してたのですごくエモかったです……(私も暗記していれば……悔)。3年ぶりということを考えると、この歌詞って正直ST☆RISHあたりに歌わせた方がいいんじゃなかろうかまで思ったが、そこを自分で歌っていくのがカルナイですよ! カルナイ好き。

 MCのとこでカミュが本性出したときはめっちゃ盛り上がってしまった。カミュがおいしすぎる。

・ウルトラブラスト(ST☆RISH

 燃えすぎてヤバイ!!いろんな意味で! まああれか、あの会場には水出る機構もついてたからいざというときは消火もできるのか……(そういう話ではない)正直、すでにHE★VENSとカルナイで盛り上がり切っているところにこれなので、ドキドキがヤバかった。自分の心臓の音を聞くのはいつぶりだろうか……というくらいの盛り上がりだった。

 このナンバーはST☆RISHメンバーの覚悟というか責任感みたいなのが伝わってきて、そこがすごい好きだった。

・胸に灯せ 消えない夢を

星の名の名乗るなら、煌めき歌え!

 ↑みたいな、こういう責任感あふれる歌詞がすきなのですよ。そして応援してくれたファンに対する感謝が溢れており、一緒にやってきたな……という感慨に浸れそうだなと思った。3年間溜めて見てたら泣けただろう(お前ST☆RISHの感想そればっかかよ(本当にそう思うからしょうがないのだ……!))。

・マジLOVEキングダム(全員)

 1000パーから今日まで、のところめっちゃ感動した。。。。。。これが歴史の力である。でも3年間ためてから聞いてたらもっと感動だったろうな(しつこい)。ちなみにここは各グループが別グループのサイン(手の動き的なやつ)をやっており、なんか、お前ら本当に和解できたんやな……(感涙)という気分になった。

 あとこのナンバーで語るべきは、途中から汽車が登場するところだろうか。あの牽引車両が登場した瞬間「え!!!君たち帰っちゃうの!!!??」的な寂しさが押し寄せてきて辛かった……。一応映像的なお作法としては、汽車が走り出して始まった作品なので、汽車に乗って退場するのはすごくキレイだとは思うのだが、でもまだ帰らないでくれよ、という感情が爆発してしまった……。でも最後全員集合で決めてたのは最高だったよたしかに……。18人もいたら迫力あるよほんと……映画館で見れてよかった。

 

・Welcome to UTA☆PRI KINGDOM!!(全員)

 というか開始週はこのアンコールなかったってマジですか? アンコールなかったら寂しすぎて死んでしまうのでは……正直情報量多すぎるのと、ええ終わっちゃうのか辛いよ感でちゃんと細かく見れてないが*2、アンコールなかったら寂しすぎて鬱になってましたねこれは。(いずれにせよ鬱になるけど……)

 

 というあたりがセトリベースの感想。

 

 個人的に、初めて声だしOK上演に行って、詳しい方から「無法地帯」という話も聞いていたので緊張していたが、見る人のマナー普通によくて楽しかった。活気もあったし。しかもなにげに私もちょっと声は出したのですよ。最初のきんぐだーむ!! ってやるやつと、嶺二先輩に「まいぼーい」ってやってもらうところと、あと声出しではないが最後の拍手。みんな最後拍手してて、劇場の雰囲気はとても良かった。視聴環境はみんなで作るものだと思うのだが、そういう意味で責任感というか、自分たちの活動で作品をもり立てていこうという意識のあるファンが多いコンテンツなんだなと思いましたね。

 あとは今後、どういう風に作品が展開されていくのかというところはみんな気になっているんだろうなと思った。確かに永遠に続くモノは無く、これはコンテンツだけではなく人間関係とかも含めてそうだとは思うが、だけど人間の心の中には情熱の炎がある。これを燃やし続ける執念があれば永遠は作れる。今回キングダムで見せてもらった素晴らしいパフォーマンスは、つまりはそういった炎を燃やし続けたファンたちの情熱を映している鏡でもあるんだろうなと思った。

 うたプリの歴史と、それを支えたファンの皆様に敬意と感謝を捧げたい、そう強く思わせてくれる作品だった。

*1:何か私が知らない設定あるのかもしれんけど

*2:ここは何回も見るか推しだけ見てないと何も把握できないと思う……

負けヒロイン的世界観の不滅を証明した傑作『リズと青い鳥』感想(ネタバレあり)


『リズと青い鳥』ロングPV

 

 

 ピカデリーで『リズと青い鳥』を見てきた。久しぶりに映画をみたが、やっぱり映画館はいいな。この作品だったから特にそう感じられたのかもしれないけど。というかほんと忙しいと映画見れなくなる……

 

 さて、『リズと青い鳥』。まず何よりも非常にまとまりのよい映画である。『響け! ユーフォニアム』シリーズのスピンオフ作品とのことだが、特に原作の知識を要求しない作りなので、原作を知らない私のような人間でも楽しめる。また、上映時間は90分で無駄なシーンが無くちゃんと終わるのも素晴らしい。そういう意味でとても洗練されている。

 

 ストーリーはかなりドキドキさせられる作りになっている。言ってしまえば、これは「負けヒロインの逆襲劇」としてまとめることができる映画で、なんというかスピンオフだからこそできる作劇の仕方、という印象がある。明るくてコミュ力もある同級生の希美に対して、憧れと依存の入り混じった感情を抱いていた主人公みぞれ。みぞれはどうなる……というと、まずこの時点で、みぞれに勝ち目がないことが分かるだろう。のぞみは極めて「負けヒロイン」的なメンタリティを持ったキャラクターで、普通にやったら自滅or即死して終わりである。はい、解散解散。

 

 が、しかしである。『リズと青い鳥』では、この正統派負けヒロインが逆襲に成功する。めったにないことである。一体どういうしかけでそれが可能になっているのか。ギミックは2つある。劇中劇による相対化と、青春時代の成長、の2つだ。

 

 ギミックの1つ目は、劇中劇の採用である。通常、負けヒロインが思いつめて自滅する系の話を作ろうとしたら、負けヒロインの極めて狭い思考範囲に対して、作品の方も全力で付き合ってあげなくてはならない。作品のカメラと負けヒロインの視線は、完全に一致していなくてはならないのだ。つまり、観客だけがメタ的に「こいつ思いつめすぎだろ……」とツッコミを入れることができるようにしておかないと駄目なのである。他人の視点を入れてしまうと、深刻さが相対化され、希釈されて、台無しになってしまうからだ。だがその路線で行く場合、負けヒロインは自分の抱えている問題と正しく向き合えず、迂遠な戦略に全リソースをぶっこむので、必ずその宿命を全うする。すなわち、敗北して終わるのである。

 

 じゃあどうすればいいのか。もっと言うと、どうすれば負けヒロインは自分の狭い世界を相対化することができるようになるのか。そう、劇中劇である。劇中劇は言うまでもなく、メタ構造を作品に与えることができるギミックの代表格である。もちろん、劇中劇の内容を主人公たちがどう受け止めるか、という点は結構議論の余地のある問題である。ようは、劇中劇を出した瞬間、その劇中劇がどんなにくだらないものであっても、主人公はそれを真面目に受け取る話の作りにせざるを得なくなる。「でもさ、こんなしょーもねー話に真面目になる高校生がいるか?」というわけだ。『青い鳥』についていえば、この問題はクリアされているだろう。まず何よりも、劇中劇のシチュエーションは当然のことながら、主人公たちが直面しているシチュエーションに似ている。だったらムキになっても変な話ではない。また、細かい演出面を見ていくと、例えば希美が劇中劇の絵本を借りるのに対して、みぞれは岩波文庫の方を借りる、など、こういう幅を作っておくことで、キャラクターが劇中劇にコミットすることの納得感をちゃんと描いている。その辺は丁寧な仕事が光っているところだ。

 

 劇中劇の導入によって、負けヒロインたるみぞれちゃんは、自分が囚われている問題を相対化して眺めることが可能になる。この映画はそこからがとてもおもしろい。というのも、実は負けヒロインキャラがこういう地点に立つことが許されるということは、ほぼないからだ。それこそ二次創作SSとかじゃない限り、という留保はつくが。

 

 ここで、先にもう一つのギミック、「青春時代の成長」についてもまとめておきたい。さて、最初に負けヒロイン理論について整理する。負けヒロインの構成要素として、冒頭にも書いたように「憧れと依存」をあげることができる。依存がある種の視野狭窄をもたらすのに対して、憧れは、能力格差に由来する。グロテスクな競争の場でもある学校という場において、負けヒロインはだいたい、「(何かについて)すごいあの人」と「なんでもない私」という規定を最初に行ってから、妄想に突入する。この場合、仮想的な上下関係・主従関係が想定されているので、負けヒロイン内では、「私は下」というコンプレックスめいた意識がかなり強烈に発生する。だからこそ、負けヒロインは「対等関係」を目指してめっちゃ頑張ったりするわけである。というよりも、負けヒロインにとっては「対等関係」こそが究極的なゴールだったりする。故に、力を求めて悪落ちしたりする負けヒロインも多いのはご存知の通りである。*1

 

 そういった上下関係は、もちろん、健全な形で解消することもできる。だが『青い鳥』が面白いのは、この上下関係を解消させずに(つまり、「対等関係」という飴を安易に与えてしまわずに)、むしろ逆転させてしまうところにある。つまり、負けヒロインが実力で想い人を上回ってしまう、ということだ。言うまでもなく、負けヒロインが脈絡なく高い能力を発揮するのは死にフラグか夢オチかであって、それ以外の理由で高い能力を発揮することは殆ど無い。それこそ、二次創作SSを除けばという話になるが。

 

 まとめよう。『青い鳥』という作品は、極めて正統派・標準的な負けヒロイン的特徴をそなえた主人公であるみぞれが、「憧れ(能力的上下関係)」と「依存(視野狭窄)」を単純に解消するのでなく、むしろそういった問題系の延長線上において、その先に存在している、けれども描かれることの極めて少ない問題に立ち向かう物語、という性格を強く持っている。故に、この構造がはっきりしてからのハラハラ・ドキドキ感は半端ない。みぞれ、お前は一体どうするんだ!? 何になろうとするんだ!? お前は今、日本負けヒロイン界のフロンティアを突き進んでいるんだ! ということである。

 

 結論は、「負けヒロイン的世界観は不滅」ということだと、私は受け取っている。そして私はこの結論を、ひとまず肯定的に評価している。

 

 まず、一転攻勢のやり方が非常に「迂遠」で、これは負けヒロイン的ですごく美しかったと言わねばならない。すなわち、自分の問題を相対化し、自らの高い実力とも向き合うことに成功したみぞれは、希美に逆襲するわけだが、その逆襲は、劇中劇的構造を経由して(間接的アプローチ!)、そして、二人の能力がぶつかり合う戦場とでも言うべき、吹奏楽部での全体練習という場において(これまた音楽という手段によって間接的に!!!)なされる。

 

 この圧倒的大胆さ、あるいはピーキーさ(事前に調整とかしてない! いきなりドカンと来るのが負けヒロインの特権だぜ!)、そういった側面をもちながらも、しかし同時に圧倒的に迂遠で間接的なこの一転攻勢は、感動的なことに、想い人に対してだけ特別なニュアンスを持って、完璧な形でぶち刺さるのである。これは、正統派ヒロインには絶対にできない、負けヒロインにだけ許された告白なのである*2。負けヒロイン的世界観が、スクリーン上で全面的な勝利を収めた瞬間を収めた貴重なフィルム、それが『リズと青い鳥』なのである。

 

「だがちょっとまってくれ! その後ふぐ水槽の近くでいろいろやってただろ!」 

 無論、そのとおりである。だが私は、ふぐ水槽近くでの問答こそ、負けヒロイン的世界観の不滅を証明するシーンだと確信している。というのも、みぞれはあの時ふられている。みぞれはしっかりと想いを伝えた一方、結局希美からは「ゼロ回答」しか引き出せなかったわけである。だが、それがこの映画のオチとして非常におさまりがよいのである。二人は真面目に付き合うこともなかったし、みぞれがその立場を利用して希美を「監禁」することもなかった。あの問答は関係の進展には全く寄与していない。ただし、二人が別々の人間で、別々の生き方があることを両者に強く自覚させることは確実にできた。無論、そんなこと当たり前だ。けれども負けヒロインにとっては、実はこの瞬間こそが一番大事なのだ。つまり、「お互いに別々の生き方を認める」という状況においては、もはや一方通行は終わっていて、そこにはみぞれ→希美というルートだけでなく、希美→みぞれというルート・まなざしも生まれている。そう、あの瞬間、件の「対等な関係」が、単純な能力の話を超えて、二人の人間の間に存在するものとして、しっかりと出現しているのは明らかだろう。そして負けヒロインにとっては、それこそが究極的なゴールなのだ(チューとか付き合うとかじゃなくて)。だからこそ、私はあのふぐ水槽近くの問答が、負けヒロインたるみぞれの成長物語たる『リズと青い鳥』の着地点として、とても辛いんだけど、しかしふさわしいと思うのである*3

 

 

 

*1:なお、負けヒロイン理論に基づけば、悪落ちした負けヒロインが想い人と対決するシーンは、ある種の「対等関係」欲求が完全に満たされた状態なので、負けヒロイン応援勢的には盛り上がるシーンだったりする。

*2:無論、正統派ヒロインにもこれはやれます。ええやれますとも。でもこれが成った時の感動量は、比較になりませんね

*3:そういうビターな着地点だからこそ、最後の「はばたけ!」がとても感動的なのだとも思う。

この時代じゃなくてもいいんじゃない? 『スターウォーズEP7 フォースの覚醒』感想


Star Wars: The Force Awakens Trailer (Official)

 

 EP8に先立って、7を見とかんといかんなということで見た。まあなんだ、正直スターウォーズシリーズの新しい三部作はもっとも面白くできたっしょ……となった。もちろん、いいところはたくさんある映画であるが……期待値が高すぎたんですかね。

 

 最もよかった点は、かつてルーク1人に背負わされていた役割が、複数のキャラクターに分散して配置されていたという点。(逆に考えると、EP4のルークはアホみたいにたくさんの仕事してましたよね。だって、ベイダーとの対決もあれば、デススターへのミサイル攻撃もあるわけだしね。)やはりヒーローひとりでなんでもやってしまうというのはいまどきあまり流行らないわけで、チームワークとかを強調するところは見ていて面白い。各チームの働きがかみ合って何かを成す、という構造はシリーズを通して徹底されているし、『ローグワン』とかではより徹底されていた印象で、スターウォーズフランチャイズの強みだと思われる。また、もっと言ってしまえば、スターウォーズはサーガモノなので、複数のキャラを立てて群像劇的性格を作品に持たせるのは相性としてはいいなと思った。個人的にはポーの絶対的エースって感じがすごく好き。騎兵隊枠だね。

 

 が、よかった点のそのまま裏返しになってしまうが、正直EP7は問題も多い作品のように思われる。まず私が決定的によくないと思ったのは、主人公クラスのキャラクターが多すぎるという点だ。背景説明をおざなりにしかできないため、キャラがどうしても薄っぺらい。フィンの脱走、カイロ・レンのダークサイド堕ちなど、それだけで話が作れるくらい深刻な葛藤があると思うのだが、そういうのもさらりと流されてしまう。新規キャラに加え、ハン・ソロとレイアの筋もあるわけで…… もちろん、随所に見られる過去作リスペクト演出によって、ある程度、逆説的にはあるけれど、作品が単純な再演に堕すことを免れているとは思うのだが、それにしても尺が足りねえ! という印象はぬぐえない。

 

 それから、いわゆる「強い女性」の描き方も、正直テンプレ以下だな、と感じた。なんというか、日本アニメとかでよく「主人公と戦う時だけ敵がアホになる」という現象が指摘されたりするが、そういうノリである。例えば、映画序盤でフィンが唐突に「レイの手を引く」というシーンがあるけれども、個人的に、フィンがああいう行動をとることに対する納得感はほぼなかった。だってフィンは冷酷な殺人マシンとして育成されたと自ら宣言しているわけだし、兵営で暮らしていたなら、知り合いの女性と言えば兵士ばっかりだったんだろうと想像がつく。ということは、「女性=か弱い→助けなきゃ!」みたいな錆びついた回路がフィンの中に形成される余地があるんだろうか、とか、そういうところがかなり疑問だ。というか、そもそもレイが2対1という数的不利をひっくり返してしまう戦闘シーンをわざわざ見せてるわけだから、それでもう視聴者もフィンも、レイの強さを了解できるわけじゃないですか。なのにわざわざあの流れ。しつこいし、ちょっと説教くさい。さらに言えば、あのシチュエーションでレイが「手を引かないで」とか言い出すのも、うーん。それってあの状況でそんなに重要な論点ですか? 黙って手を振りほどいて、「こいつ何やってんの?」的に首をかしげ、ダッシュ、でよくないか。

 

 カイロ・レンの使い方も、あまりうまくないというか、へたくそだと思う。カイロ・レンは絵にかいたような「家父長制内面化失敗男子」である。つまり、甘ったれていて、幼なく、未熟で、その上いじけ癖と癇癪持ち、しかも親を幻滅させるのが得意、というキャラクターとして描かれているわけで、悪党キャラクターというよりも、むしろ主人公とぶつかって改心される枠である。こいつを敵として引っ張る意味はあんまりない。
 なぜなら、まず第一に、今作の主人公はレイなのだから、レイの敵キャラはもっとオーソドックスな強キャラ=乗り越えて意味がある壁として設定するべきだ。だって、そういう単純さこそがスターウォーズの魅力、分かりやすさなわけじゃないですか。カイロ・レンのような未熟な坊やとの戦いを通して、レイは何を学べますか? え? ぐずってる子どものあやし方とか? それこそ差別的だろう(耐え難い差別だ)! 
 第二に、カイロ・レンを引っ張るということは、スターウォーズ新三部作を「強い女の子との戦いを通して、いじけ男子が改心する物語」にするということを意味しているわけで、いや、それはスターウォーズの仕事じゃないだろ、何がどう間違っても! と私はどうしても思っていまうわけである。一応言っておくと、「強い女の子との戦いを通して、いじけ男子が改心する物語」、私は個人的にとても好きだし、カイロ・レンもキャラクターとして単体で見ればとても魅力的だと思うが、スターウォーズという極めて公共的な作品にそれらが必要か、という点で考えると、どうしても疑問符がついてしまう。だってねえ、そんなん見て喜ぶのは一部の自信がない男性諸君だけじゃないですか。スターウォーズは子どもとか、それこそ女性が見ても楽しい作品であるべきなんじゃないんですかねえ?

 

 と、まあ、いろいろ言ったが、最後に一つだけ。ディズニーがスターウォーズを買ったのは、やっぱりいいことじゃないなあ、と改めて思った。正直、今回の三部作は、EP7を見る限り、これまでの積み重ねがかなり悪い方向で作用していると思う。つまり、ディズニーが「シリーズを尊重する」というスタンスを取ることが、変えるべきところすら変えられない怠慢・惰性につながっているのではないかと、と思うのだ。「守る」というエクスキューズによって結果的にシリーズを破壊しないことを祈るが……

 まず何よりも、三部作で扱う時代は変えた方がよかった。だってさ、全然盛り上がらないし、景気悪い話じゃないですか。ハン・ソロの息子が裏切ってベイダーゴッコしてるシチュエーションって、絵がキッついじゃないですか。『ローグワン』の成功からも明らかなように、スターウォーズフランチャイズ作品においては、主要キャラが登場するかどうかとか、原作小説とか、設定とかも、わりとどうでもいいわけで、あんまその辺に引っ張られなくてよかったんじゃないかなと思う。そもそも「旧共和国では日本刀風のセイバーが使われていた」という設定が仮にあるとして(あるのだが)、そんなことは一般視聴者的にはわりとマジでどうでもいいことだし、作品のおもしろさになんら貢献しないじゃないですか。だから正直、EP7~9は、EP6からの流れとか意識せずもっと別の、話的に盛り上がる時間軸を扱った方がよかったんじゃないかなあ、と思いますね。「帝国崩壊後に成立した新共和国に支援されたレジスタンスVS帝国軍残党を背景にしたファーストオーダー」って、ガンダム並みに複雑じゃないですか。説明もないし、よくわからんのですよ。
 そして、まあ言ってはなんだが、俳優も変えた方がよかった。というか、昔と同じ俳優を使うことによって作品がよくなるわけない!!ってみんな分かってるはずじゃないですか!! 三部作で扱う時間軸を規定したのは、一つはまあ「昔から決まってたから」(と同時に、「ディズニーが」その決定事項を動かした、という事態を避けたかったから)だと思うのだが、やっぱり、俳優の年齢、という要素も大きかったんじゃないですかね、と個人的には思っている。ぶっちゃけ、俳優そろえる必要性あったかなあ…… ハリソンフォードの代わりにクリスブラットでもいいじゃん。こういう言い方すると「老人ひっこめ」と取られかねないからもう少し詳しく書くと、結局ですね、「ハリソンフォードにもっかいハン・ソロをやってもらう」、という制約をいくら愚直に守ろうが、脚本とか演出とかキャラ造形とかと向き合わん限り、いい作品は生まれんのですよ、ということを言いたいのですよ。ハン・ソロが「帰ってきたぞ」と発言する数秒がほしいってのなら、映画じゃなくて、トレーラーかショートムービーでやるべきなのである。

 

 まあ、という感じでいろいろアレだったが、義務的に8は見に行く予定です……

 

話は賞味期限切れ。でも映画としてやっぱりすごい『グラン・トリノ』感想


グラン・トリノ(予告編)

 

 新文芸坐で『グラン・トリノ』を見てきた(昨日だけどね)。まあなんだ、やっぱりスクリーンで見るといいな!! となるいい鑑賞でした。ちなみに作品自体を見るのは四度目。

  まあ、とりあえず話自体は賞味期限切れである。我々が直面している分断の溝はあまりに深く、2017年に『グラン・トリノ』的な主張はもはや虚しいだけである。結局、現実から目を背ける盲目な保守派の行き着く先は、『グラン・トリノ』的解決では決してなく、あくまで『ドントブリーズ』的な闇なのだなあ、ということだ。悲しいなあ。いやほんと、話ずれるけど、自分の将来像として考えた時に、『グラン・トリノ』がエロ漫画並のファンタジーでしかないのに比べ、『ドントブリーズ』は圧倒的説得力を持っていると思うんですよね。俺は将来「Blind Men」になってしまうんだよ。怖え怖え。

  が、まあ、ストーリーは別にしても、やはりこの映画は完成度が非常に高い。まるで洗練された短編小説のように、教科書的に比喩が使われており、普通に勉強になる。で、ここは恥をしのんで、四回目に視聴した私の気づきポイントを一つあげておく。ちなみに「お前それ気がついてなかったのかよwww」と笑うなかれ。かのミロス・フォアマン監督も言っているように、「観客は明確には分かっていなくとも、小さな違いを無意識のうちに必ず察知することができる」のであり、そこにあるのは単に、言語化できる/できないの違いでしかない。そしてその違いは相対的にどうでもいいものでしかないのだ。

  でどのシーンかというと、最後のクライマックスで、タオが地下室に閉じ込められるシーンだ。自分がはめられたことを悟ったタオは、地下室の出入り口となっている鍵付きのフェンスをガシャガシャと揺らしながらウォルトに訴える。自分を連れて行けと。しかしウォルトは断り、彼は自分の本心をタオに伝える。

  懺悔である。フェンス越しに本心を伝える、ってまんま懺悔なのだが、私はそのことにまったく気がついていなかった。直前の、教会で童貞のパードレに懺悔するシーンが明らかに喜劇的タッチなのにはもちろん違和感を覚えてはいたが、じゃあなんでああならないとダメなのかはまったく理解できていなかった。あの喜劇的タッチは、ウォルトにとっての真の懺悔(タオに対する本心の吐露)シーンを盛り上げるためのタメだったというわけですね。

  なんで今回気がついたかというと、まあ多少の知恵をつけたというのもあるけど、一番は劇場が良かった、ということだ。『グラン・トリノ』は後半に行くにつれてカメラのキレがどんどん良くなる映画で、例えばタオ宅が銃撃を受けた後、ウォルトとパードレが家で話すシーンなんかもうすごい緊張感で、これを劇場で見ると、すごい圧倒されてしまう。そして圧倒されているからこそ、ああいうカッコイイ表情の映し方を平気でやるスタッフが、なんでウォルトがタオにぶちまける大事なシーンをフェンス越しで撮るんだよ! という巨大な違和感を観客に抱かせることができて、でそこまで思考が至った瞬間、視聴者もやっと気がつくことができるわけである。ああ、あのシーンはウォルトにとって本当の懺悔の瞬間なんだ、本心をさらけ出すことができた瞬間なのだ、と。

  真の懺悔をするためには、教会組織や敬虔な神父がいるだけではダメで、友達が必要なんだ、というメッセージは、今や「保守派の政治的ファンタジー」「保守派の妄想」と断じられて当然の『グラン・トリノ』という作品を、それでも良い映画だよこれは、好きなんだよこれ、と胸を張って宣言する私の態度を、強く強く支えてくれているのだ。

ドイツ的官僚主義を捨て、スラブ的奔放さを取り戻そう『剃髪式』感想

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 新文芸坐でイジー・メンツェルの『剃髪式』を見てきた。私は圧倒的に『つながれたヒバリ』の方が好きだが、まあ普通に楽しめた。今日も映画のあとに一時間ほどのトーク(by 大寺眞輔氏)があって、こちらも面白かった。映画の理解に対する貢献度という観点から言えば今日のトークの方が前回よりありがたかった感じもある。なんというか、この映画は表向き体制迎合そのものという作風なのだが、よくよく考えるとかなり当局にケンカ売ってる内容だよな……と思った。

 まず思ったのは、とりあえずイジー・メンツェル監督作品を見る度に思うのだが、『剃髪式』は2017年に見ると記録映画的な面白さがあるよなということである。豚さばいたり、樽作ったりしてるところは端的にあんま見たことない映像なので素直に面白い。あとやはり背景の街がキレイだよねという点もグッド。ああいう街で暮らしたいなあと思う。豚食べたいなあ。

 豚といえば、大寺氏は豚さばいたり頬に血を塗るシーンが「Pagan」だと言っていたのだが、たしかにその通りで、逆に考えるとこの映画はキリスト教的モチーフが皆無だなと思った(一箇所だけ出てくるけど、それは「ニセのイエス」の話。いかーにもなね)。そもそも剃髪式という、本来聖界入りを象徴するはずの儀式からして、『剃髪式』では俗世的世界に染まる散髪行為に置き換えられているわけだし。たしかに最初の晩餐シーンも、会食=聖餐=仲良し文法を好むアメリカ映画とかと違ってかなり緊張感にあふれる場面になっていたりと、なんかいろんな意味でキリスト教的道徳とちょっとずらしていく演出が多かったように思う。まあキリスト教的な負荷が薄いというのは、だいぶ体制的な負荷を感じるとともに、ある種の解放というか自由な雰囲気の源泉にもなっているのも確かで、このバランス感覚はかなりうまい。抑圧的な政府の下で発揮される芸術家たちの繊細な職人芸だよなあと思った。

 それと、この映画は解放の構造が二重構造になっていて、そのおかげでオーストリア帝国主義*1だけでなく、しっかりと現在(1980年)の社会主義政権に対する批判もなされていて、ある意味では『つながれたヒバリ』よりもはるかに政治的な映画だよなと思った。二重の解放構造というのは、国家と家庭の二層における解放が描かれているという意味である。この映画はまず政治的な水準でチェコスロヴァキアの独立を扱っている。これが解放その1。そして同時に、家庭における「奥さん」の解放も扱っている。これが解放その2。まあなんだ、ぶっちゃけ言えば『剃髪式』は不倫映画です。そして不倫には愛憎の負荷が一切かけられていなくて、あくまで政治的な水準のメタファーがあるだけなのが面白いところ。

 つまり何がいいたいかというと、夫氏がわりと露骨に「チェコスロヴァキア人によって構成されている社会主義政権」だよなということである。例えば夫氏が奥さんを閉じ込めようとするのは、社会主義政権がやった市民の亡命禁止政策そのまんまであり、夫氏の童貞感と奥様の肉食系っぷりの対比が、そのまま当時における政府(管理したい!)と市民(もっと色々やりてえ!)関係のメタファーになっているわけである。奥さん=一般市民、夫=官僚的政府、であり、夫の抑圧から解放された奥さんというモチーフはだからあからさまな政府批判に等しいわけである。でも作品自体には圧倒的説得力がある。誰だって童貞役人といっしょに煙突に登りたくはないだろう。私だっていやだ。

 この不倫は非常に面白くて、官僚的で家父長的権力を振りかざす夫(上司にいびられたストレスを家族にぶつけるという典型的クソムーブを取り、奥さんからドン引きされたりする)VS奔放で官僚的権力から完全に自由な存在であるおじさん、という対立構造があって、大事なのは後者が完全勝利を収めるということである。何が一番皮肉かというと、せっかくドイツ人支配から脱却したのにもかかわらず、ではドイツ人に変わって新たな支配階級になる連中がどういう奴らかというと、そいつらは完全にドイツ的・官僚的エートスに頭を犯されたチェック人連中でしかなく、かなりひでー状況であることに全然変わりはなかったりするのだ……というあたりだろう。せっかく独立したわけだから、ドイツ人的ノリはかなぐり捨て、もっとおじさん的なスラブ性(ってなんだよ)を発揮するべきなのである。

 実際、最後に奥様の妊娠が明らかになるけれども、あれって明らかにおじさんの子供なわけじゃないですか。だってまず夫氏はあからさまに童貞で、しかも挿入されてる歌とかから明らかなように、あの二人って要はセックスレス夫婦なわけですし。そして何より大寺氏が解説で言ってたことですが、原作のフラバルはおじさんをこそ真の父親として見ていたらしいですし。しかも奥様は「未来の作家よ」とか言っちゃうわけで。作家的性格を持ってるキャラクターなんてあの映画の中では「語り部」の能力を持つおじさん以外ありえないので、まあなんだ、童貞はほんとアホだなあ……となる。まあさっきも書いたように、これは愛憎ではなくてちゃんとメタファーだと分かるように作ってあるので、そんなにドギツくはないのが救いではあるがのだが。

 ちな、この映画は1980年生まれのくせに結構童貞男子に厳しい映画である。妻が病気になった瞬間夫婦関係に満足しはじめる夫とか、耳が痛いのでほんとやめて欲しい。鍵厨かな? あとなんかプレゼントのセンスもかなりキモいというか、単純なキモさを超えて妙にリアルキモいのでこころが本当につらくなった。裁縫用具(何も言うことはありませんね?)、謎のガジェット(自分の趣味じゃねーか……あと使い方がきもい)、そして帽子(帽子は外出用の社交的アイテムなのにも関わらず、怪我をして外出できない奥さんにワザワザそういうのを送る。いかにも童貞男子っぽいチョイスである。このあたり、「俺やっちゃうかも……」となったのでほんとつらかった)、こういうのはだいぶきつい。

 まあこの映画、体制に媚びつつもしっかりと体制を批判している映画で、普通にできがいいとは思うのだが、でも私はこういうタイプのあてこすりはあんまり好きではなく、『つながれたヒバリ』のように正面攻撃を仕掛けるタイプのやり方をはるかに好むので、まあ最終的な評価はそんなに高くはならないよね。面白いし、うまいとは思うけど。

*1:まあ、ハプスブルク家によるボヘミア王冠領統治の歴史は大変長いので、ハプスブルク支配構造を『帝国主義』と呼ぶのはかなり違和感があるが、まあ20C頭前後の対立構造に目を向ければ間違った用法ではない

格差カップルがラブラブになるには? 『アマデウス』感想


Amadeus - Trailer

 

 

 ミロス・フォアマンの『アマデウス』を見た。男の嫉妬を完璧に料理した傑作だった。

 まず何よりも最初に思ったのは、この映画を『FRANK』とかあるいは『WHIPLUSH(放題:セッション)』、『シングストリート~未来への歌~』の後に見れて本当によかったな、救われたなということである。基本、リアルタイムでいろんな作品を味わえないという意味で私は同時代性を欠くということのネガティブな面ばかりに目が行ってしまう人なのだが、2017年に80年代ど真ん中作品を見ることができるのはやっぱり2017年に生きているおかげなんだよなとも思えたし、こういう風に過去作品を発見していくことができるという自分の立ち位置のありがたさというか戦略的有利さというものにもっと自覚的になっていった方がいいんだろうなと思った。

 

重さと軽さ

 『アマデウス』の最大の素晴らしさは、まさにシリアスとユーモア、重さと軽さの完璧な融合にあると思われる。男の嫉妬という犬も食わないコンテンツをここまで美しく描くことに成功しているのは、この「軽重融合」あってこそだと思う。おそらくそれは80年代的なノリとも多分関係がある。80年代はシリアスなシーンに笑いを入れても許される空気がちゃんとあった*1。思うに、シリアスに振り切ってしまった先にある笑いというものは確かにあるのであり、そういうユーモアはじゃあシリアスすぎて鬱陶しいかというと別にそういうことはない。例えば、死神に扮したセリオリが二回目に屋敷にやってくるシーンなど、完全なシリアスなのに笑えてしまう。なんというか、シリアス的な負荷がこれ以上かかりようがない地点で笑えたなら、それは一種のピュア自由と言ってもいいかもしれないではないか。あ、しょうもないね、っていう気付きが得られるのは結局そういう地平においてでしかないのかもしれない。特に、癒やしとは無縁の人間たちにとってみれば、多分ひたすら降り掛かってくる負荷から解放されるための戦略はこれしかないんだろうなと思う*2

 

和解と融和

 もう一つ、『アマデウス』で注目しなくてはならないのは、この映画が階級間の融和に関する物語であるということである。もっとざっくり言えば、これは格差カップルの融和と和解についての物語なのである。この視点をミロス・フォアマンが持っているのは自然という他ないだろう。一つの共同体の中で二つの階級が破局するという状況が何をもたらすか。その悲劇を身をもって知っているミロス・フォアマンだからこそ、「格差カップルはどうやったらラブラブになれるのか」という問いを立てられる。否、彼は立てなくてはならなかったのである。

 この問いに対するフォアマンの解答はなんだったのだろうか。私の理解では、それはやはり、神の恩寵を共有することである。すなわち独占からの解放であり、共同作業への参画であろうと思う。そしてそれを達成するためには、モーツァルトは謙虚になり、自らの限界を認め、何よりも制作過程という密室の出来事を公開する必要があった。セリオリも田舎者のままではいられなかったばかりでなく、モーツァルトに対する嫉妬と憧憬をどうにかバランスさせなくてはならなかったのである。ここで「天才」という概念はあえていえば「資本」と同義であることは明らかだ。当初モーツァルトによって独占されていた「天才(資本)」へとセリオリがアクセスした時、二人はふと心を通わせることに成功する。ただ、さすが80年代というべきか、ミロス・フォアマンはセリオリに対して極めて高い水準の努力を要求する。結局、セリオリが自分の可能性を信じて努力しなかったら、彼は絶対にモーツァルトと心を通わせることはできなかったわけで、そういう意味では極めてアメリカ的な「立身出世」的ロジックが入っている側面もたしかにあるだろう。だが私はこの側面を支持したい。むろん、下からの努力が唯一の道であるとは思わない。けれど、セリオリが抱いた夢とあこがれが本物ならば、せめて彼に「凡庸なるものたちの王*3」という称号を、その王冠を与えようではないか。その王冠を持つ限り、もちろん決して嫉妬心からは逃れられないが、しかし世界に確かに存在する良きことにはアクセスできる。この主張こそ80年代を生きた良識ある保守派たちの言いたかったことなのだと思うし、そういう水準で人間が自らの限界と向き合えるのだという素朴な信頼があったのだと思うと、これもまた涙せずにはいられない。人間に対する圧倒的信頼がなかったら、『アマデウス』は撮られなかったのだ。

*1:90年代くらいからどっちかに振り切りことが求められるようになり、ゼロ年代はオトボケ時代なのでそういった区分自体がダサいということになった

*2:結局、視聴者は一定のシリアスさを欲していながら、しかしそのシリアスさの表現として重さ、軽さのどちらを選ぶかという問題で争っているのにすぎないと最近は思っている。実際、シリアスでない方法論でもってシリアスを訴えるのが技術的にも美的にも優れているのは言うまでもないわけで、シリアスさ、重さを拒絶する近年の態度というものはシリアス離れではなく単に視聴者の作品に対する技術的・美的要求の上昇として整理するべきなのだろうなと思う。こういうことを言うと即座に「ひたすら軽さだけを求めた作品群のことをなんだと思っているんだ」という反論が飛んできそうだが、そういった作品群は一般にシリアスと呼ばれる展開を病的な神経質さで持って排除しているわけで、その態度はまさにシリアスそのものであると言わねばならない。

*3:The Champion of mediocrites

シリアスとユーモアの完璧なバランス『つながれたヒバリ』感想

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 新文芸坐でイジー・メンツェル監督の『つながれたヒバリ』を見てきた。新文芸坐シネマテークだったらしく批評家の大寺眞輔さんの講義もあり、とても面白かった。なんというか、やっと東京に来たな……これだよ、俺がずっと求めていたのは……という謎の感覚を覚えた(謎)。

 

 チェコスロヴァキアの映画。いわゆる「チェコヌーヴェルバーグ」に連なる作品である。プラハの春時代に作られた映画で、というより、プラハの春だから作れた映画であり、したがってプラハの春と同様にこの映画も短命だったが、1990年代にやっと再公開されたという経緯がある。この辺から『つながれたヒバリ』はチェコの歴史を背負った作品であると言える。また大寺氏によると、登場する役者、特に女優たちの中には1950年代に政治的理由で迫害された人たちが多く、かなり意図的に彼女らが起用されていると聞き、そういう意味でふと訪れた春(しかもとても短い)の間に目一杯希望の光を謳歌するべく撮られた映画なのだなあなるし、そういう視点で見ると色々感慨深いものがある。

 まず何よりも背景が完璧な映画だと思う。最初は横パンで工場風景を流すのだけど、これは完全に『天空の城ラピュタ』に出てくる炭鉱街の雰囲気だ。普通にわくわく感がやばい。実写ですものね。しかもラピュタと異なって『つながれたヒバリ』の舞台はスクラップを再錬成する工場なので、捨てられているゴミがいろんなものを象徴しており面白い。スクラップになった戦車の上に座る哲学教授とか、戦争の終わりと新しい全体主義の到来を象徴しており普通にかっこいい。タイプライターとか十字架が捨てられているのも、ジャーナリズムや宗教の敗北という意味合いもあってよい。工場という舞台は、そういう意味でいろんなことを象徴しやすい環境だよなと思った。

 あとこの映画を見て思ったのは、「男の悲劇も国家の悲劇に仮託すればそんなに臭くない」ということである。前提として、私の考えだが、特権階級(男性、支配民族、ぶるじょわ、etc)なりの葛藤というものはそれとして表現する価値があるとは思うのだが、だけどそういうのってナイーブにやれられると見られたもんじゃないのである。『つながれたヒバリ』で描かれるのは、男性の葛藤であり、ブルジョワの葛藤である。囚人監督官に注目すれば、チェコ人という支配的民族の葛藤であると言ってもよい。こんな白々しい映画が2017年に生きる私の目から見て面白いのだろうか? と思っていたのだが、そういう筋での違和感はあんまりなく楽しめたのでよかった。それはやっぱりチェコという共同体全体をカバーできるような配慮が行き届いているからであり、何よりもスラップスティックに徹して、ちゃんと面白くしてるのがいいんだよなと思う。シリアスなユーモアが完全勝利している映画だった。こういうのをもっと見ていきたい*1

*1:どんな表現であっても「お前の葛藤なんて偽物だよ。もっとつらい奴いるんだけど。例えば俺とか?」というマヌケな批判を決して免れ得ないわけで、そういうのに対しては①俺はマンボウの話をしているんだ、というストロングスタイルで行くか、あるいは②徹底的にとぼけることによって回避力を高めるスタイルをとるかのどちらかが必要になってくるとは思っているわけだが、コメディやユーモアって後者の戦略の典型だよなと思う。ただまあ、相当うまくやらないとヤバイけど……。