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ドイツ的官僚主義を捨て、スラブ的奔放さを取り戻そう『剃髪式』感想

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 新文芸坐でイジー・メンツェルの『剃髪式』を見てきた。私は圧倒的に『つながれたヒバリ』の方が好きだが、まあ普通に楽しめた。今日も映画のあとに一時間ほどのトーク(by 大寺眞輔氏)があって、こちらも面白かった。映画の理解に対する貢献度という観点から言えば今日のトークの方が前回よりありがたかった感じもある。なんというか、この映画は表向き体制迎合そのものという作風なのだが、よくよく考えるとかなり当局にケンカ売ってる内容だよな……と思った。

 まず思ったのは、とりあえずイジー・メンツェル監督作品を見る度に思うのだが、『剃髪式』は2017年に見ると記録映画的な面白さがあるよなということである。豚さばいたり、樽作ったりしてるところは端的にあんま見たことない映像なので素直に面白い。あとやはり背景の街がキレイだよねという点もグッド。ああいう街で暮らしたいなあと思う。豚食べたいなあ。

 豚といえば、大寺氏は豚さばいたり頬に血を塗るシーンが「Pagan」だと言っていたのだが、たしかにその通りで、逆に考えるとこの映画はキリスト教的モチーフが皆無だなと思った(一箇所だけ出てくるけど、それは「ニセのイエス」の話。いかーにもなね)。そもそも剃髪式という、本来聖界入りを象徴するはずの儀式からして、『剃髪式』では俗世的世界に染まる散髪行為に置き換えられているわけだし。たしかに最初の晩餐シーンも、会食=聖餐=仲良し文法を好むアメリカ映画とかと違ってかなり緊張感にあふれる場面になっていたりと、なんかいろんな意味でキリスト教的道徳とちょっとずらしていく演出が多かったように思う。まあキリスト教的な負荷が薄いというのは、だいぶ体制的な負荷を感じるとともに、ある種の解放というか自由な雰囲気の源泉にもなっているのも確かで、このバランス感覚はかなりうまい。抑圧的な政府の下で発揮される芸術家たちの繊細な職人芸だよなあと思った。

 それと、この映画は解放の構造が二重構造になっていて、そのおかげでオーストリア帝国主義*1だけでなく、しっかりと現在(1980年)の社会主義政権に対する批判もなされていて、ある意味では『つながれたヒバリ』よりもはるかに政治的な映画だよなと思った。二重の解放構造というのは、国家と家庭の二層における解放が描かれているという意味である。この映画はまず政治的な水準でチェコスロヴァキアの独立を扱っている。これが解放その1。そして同時に、家庭における「奥さん」の解放も扱っている。これが解放その2。まあなんだ、ぶっちゃけ言えば『剃髪式』は不倫映画です。そして不倫には愛憎の負荷が一切かけられていなくて、あくまで政治的な水準のメタファーがあるだけなのが面白いところ。

 つまり何がいいたいかというと、夫氏がわりと露骨に「チェコスロヴァキア人によって構成されている社会主義政権」だよなということである。例えば夫氏が奥さんを閉じ込めようとするのは、社会主義政権がやった市民の亡命禁止政策そのまんまであり、夫氏の童貞感と奥様の肉食系っぷりの対比が、そのまま当時における政府(管理したい!)と市民(もっと色々やりてえ!)関係のメタファーになっているわけである。奥さん=一般市民、夫=官僚的政府、であり、夫の抑圧から解放された奥さんというモチーフはだからあからさまな政府批判に等しいわけである。でも作品自体には圧倒的説得力がある。誰だって童貞役人といっしょに煙突に登りたくはないだろう。私だっていやだ。

 この不倫は非常に面白くて、官僚的で家父長的権力を振りかざす夫(上司にいびられたストレスを家族にぶつけるという典型的クソムーブを取り、奥さんからドン引きされたりする)VS奔放で官僚的権力から完全に自由な存在であるおじさん、という対立構造があって、大事なのは後者が完全勝利を収めるということである。何が一番皮肉かというと、せっかくドイツ人支配から脱却したのにもかかわらず、ではドイツ人に変わって新たな支配階級になる連中がどういう奴らかというと、そいつらは完全にドイツ的・官僚的エートスに頭を犯されたチェック人連中でしかなく、かなりひでー状況であることに全然変わりはなかったりするのだ……というあたりだろう。せっかく独立したわけだから、ドイツ人的ノリはかなぐり捨て、もっとおじさん的なスラブ性(ってなんだよ)を発揮するべきなのである。

 実際、最後に奥様の妊娠が明らかになるけれども、あれって明らかにおじさんの子供なわけじゃないですか。だってまず夫氏はあからさまに童貞で、しかも挿入されてる歌とかから明らかなように、あの二人って要はセックスレス夫婦なわけですし。そして何より大寺氏が解説で言ってたことですが、原作のフラバルはおじさんをこそ真の父親として見ていたらしいですし。しかも奥様は「未来の作家よ」とか言っちゃうわけで。作家的性格を持ってるキャラクターなんてあの映画の中では「語り部」の能力を持つおじさん以外ありえないので、まあなんだ、童貞はほんとアホだなあ……となる。まあさっきも書いたように、これは愛憎ではなくてちゃんとメタファーだと分かるように作ってあるので、そんなにドギツくはないのが救いではあるがのだが。

 ちな、この映画は1980年生まれのくせに結構童貞男子に厳しい映画である。妻が病気になった瞬間夫婦関係に満足しはじめる夫とか、耳が痛いのでほんとやめて欲しい。鍵厨かな? あとなんかプレゼントのセンスもかなりキモいというか、単純なキモさを超えて妙にリアルキモいのでこころが本当につらくなった。裁縫用具(何も言うことはありませんね?)、謎のガジェット(自分の趣味じゃねーか……あと使い方がきもい)、そして帽子(帽子は外出用の社交的アイテムなのにも関わらず、怪我をして外出できない奥さんにワザワザそういうのを送る。いかにも童貞男子っぽいチョイスである。このあたり、「俺やっちゃうかも……」となったのでほんとつらかった)、こういうのはだいぶきつい。

 まあこの映画、体制に媚びつつもしっかりと体制を批判している映画で、普通にできがいいとは思うのだが、でも私はこういうタイプのあてこすりはあんまり好きではなく、『つながれたヒバリ』のように正面攻撃を仕掛けるタイプのやり方をはるかに好むので、まあ最終的な評価はそんなに高くはならないよね。面白いし、うまいとは思うけど。

*1:まあ、ハプスブルク家によるボヘミア王冠領統治の歴史は大変長いので、ハプスブルク支配構造を『帝国主義』と呼ぶのはかなり違和感があるが、まあ20C頭前後の対立構造に目を向ければ間違った用法ではない

格差カップルがラブラブになるには? 『アマデウス』感想


Amadeus - Trailer

 

 

 ミロス・フォアマンの『アマデウス』を見た。男の嫉妬を完璧に料理した傑作だった。

 まず何よりも最初に思ったのは、この映画を『FRANK』とかあるいは『WHIPLUSH(放題:セッション)』、『シングストリート~未来への歌~』の後に見れて本当によかったな、救われたなということである。基本、リアルタイムでいろんな作品を味わえないという意味で私は同時代性を欠くということのネガティブな面ばかりに目が行ってしまう人なのだが、2017年に80年代ど真ん中作品を見ることができるのはやっぱり2017年に生きているおかげなんだよなとも思えたし、こういう風に過去作品を発見していくことができるという自分の立ち位置のありがたさというか戦略的有利さというものにもっと自覚的になっていった方がいいんだろうなと思った。

 

重さと軽さ

 『アマデウス』の最大の素晴らしさは、まさにシリアスとユーモア、重さと軽さの完璧な融合にあると思われる。男の嫉妬という犬も食わないコンテンツをここまで美しく描くことに成功しているのは、この「軽重融合」あってこそだと思う。おそらくそれは80年代的なノリとも多分関係がある。80年代はシリアスなシーンに笑いを入れても許される空気がちゃんとあった*1。思うに、シリアスに振り切ってしまった先にある笑いというものは確かにあるのであり、そういうユーモアはじゃあシリアスすぎて鬱陶しいかというと別にそういうことはない。例えば、死神に扮したセリオリが二回目に屋敷にやってくるシーンなど、完全なシリアスなのに笑えてしまう。なんというか、シリアス的な負荷がこれ以上かかりようがない地点で笑えたなら、それは一種のピュア自由と言ってもいいかもしれないではないか。あ、しょうもないね、っていう気付きが得られるのは結局そういう地平においてでしかないのかもしれない。特に、癒やしとは無縁の人間たちにとってみれば、多分ひたすら降り掛かってくる負荷から解放されるための戦略はこれしかないんだろうなと思う*2

 

和解と融和

 もう一つ、『アマデウス』で注目しなくてはならないのは、この映画が階級間の融和に関する物語であるということである。もっとざっくり言えば、これは格差カップルの融和と和解についての物語なのである。この視点をミロス・フォアマンが持っているのは自然という他ないだろう。一つの共同体の中で二つの階級が破局するという状況が何をもたらすか。その悲劇を身をもって知っているミロス・フォアマンだからこそ、「格差カップルはどうやったらラブラブになれるのか」という問いを立てられる。否、彼は立てなくてはならなかったのである。

 この問いに対するフォアマンの解答はなんだったのだろうか。私の理解では、それはやはり、神の恩寵を共有することである。すなわち独占からの解放であり、共同作業への参画であろうと思う。そしてそれを達成するためには、モーツァルトは謙虚になり、自らの限界を認め、何よりも制作過程という密室の出来事を公開する必要があった。セリオリも田舎者のままではいられなかったばかりでなく、モーツァルトに対する嫉妬と憧憬をどうにかバランスさせなくてはならなかったのである。ここで「天才」という概念はあえていえば「資本」と同義であることは明らかだ。当初モーツァルトによって独占されていた「天才(資本)」へとセリオリがアクセスした時、二人はふと心を通わせることに成功する。ただ、さすが80年代というべきか、ミロス・フォアマンはセリオリに対して極めて高い水準の努力を要求する。結局、セリオリが自分の可能性を信じて努力しなかったら、彼は絶対にモーツァルトと心を通わせることはできなかったわけで、そういう意味では極めてアメリカ的な「立身出世」的ロジックが入っている側面もたしかにあるだろう。だが私はこの側面を支持したい。むろん、下からの努力が唯一の道であるとは思わない。けれど、セリオリが抱いた夢とあこがれが本物ならば、せめて彼に「凡庸なるものたちの王*3」という称号を、その王冠を与えようではないか。その王冠を持つ限り、もちろん決して嫉妬心からは逃れられないが、しかし世界に確かに存在する良きことにはアクセスできる。この主張こそ80年代を生きた良識ある保守派たちの言いたかったことなのだと思うし、そういう水準で人間が自らの限界と向き合えるのだという素朴な信頼があったのだと思うと、これもまた涙せずにはいられない。人間に対する圧倒的信頼がなかったら、『アマデウス』は撮られなかったのだ。

*1:90年代くらいからどっちかに振り切りことが求められるようになり、ゼロ年代はオトボケ時代なのでそういった区分自体がダサいということになった

*2:結局、視聴者は一定のシリアスさを欲していながら、しかしそのシリアスさの表現として重さ、軽さのどちらを選ぶかという問題で争っているのにすぎないと最近は思っている。実際、シリアスでない方法論でもってシリアスを訴えるのが技術的にも美的にも優れているのは言うまでもないわけで、シリアスさ、重さを拒絶する近年の態度というものはシリアス離れではなく単に視聴者の作品に対する技術的・美的要求の上昇として整理するべきなのだろうなと思う。こういうことを言うと即座に「ひたすら軽さだけを求めた作品群のことをなんだと思っているんだ」という反論が飛んできそうだが、そういった作品群は一般にシリアスと呼ばれる展開を病的な神経質さで持って排除しているわけで、その態度はまさにシリアスそのものであると言わねばならない。

*3:The Champion of mediocrites

シリアスとユーモアの完璧なバランス『つながれたヒバリ』感想

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 新文芸坐でイジー・メンツェル監督の『つながれたヒバリ』を見てきた。新文芸坐シネマテークだったらしく批評家の大寺眞輔さんの講義もあり、とても面白かった。なんというか、やっと東京に来たな……これだよ、俺がずっと求めていたのは……という謎の感覚を覚えた(謎)。

 

 チェコスロヴァキアの映画。いわゆる「チェコヌーヴェルバーグ」に連なる作品である。プラハの春時代に作られた映画で、というより、プラハの春だから作れた映画であり、したがってプラハの春と同様にこの映画も短命だったが、1990年代にやっと再公開されたという経緯がある。この辺から『つながれたヒバリ』はチェコの歴史を背負った作品であると言える。また大寺氏によると、登場する役者、特に女優たちの中には1950年代に政治的理由で迫害された人たちが多く、かなり意図的に彼女らが起用されていると聞き、そういう意味でふと訪れた春(しかもとても短い)の間に目一杯希望の光を謳歌するべく撮られた映画なのだなあなるし、そういう視点で見ると色々感慨深いものがある。

 まず何よりも背景が完璧な映画だと思う。最初は横パンで工場風景を流すのだけど、これは完全に『天空の城ラピュタ』に出てくる炭鉱街の雰囲気だ。普通にわくわく感がやばい。実写ですものね。しかもラピュタと異なって『つながれたヒバリ』の舞台はスクラップを再錬成する工場なので、捨てられているゴミがいろんなものを象徴しており面白い。スクラップになった戦車の上に座る哲学教授とか、戦争の終わりと新しい全体主義の到来を象徴しており普通にかっこいい。タイプライターとか十字架が捨てられているのも、ジャーナリズムや宗教の敗北という意味合いもあってよい。工場という舞台は、そういう意味でいろんなことを象徴しやすい環境だよなと思った。

 あとこの映画を見て思ったのは、「男の悲劇も国家の悲劇に仮託すればそんなに臭くない」ということである。前提として、私の考えだが、特権階級(男性、支配民族、ぶるじょわ、etc)なりの葛藤というものはそれとして表現する価値があるとは思うのだが、だけどそういうのってナイーブにやれられると見られたもんじゃないのである。『つながれたヒバリ』で描かれるのは、男性の葛藤であり、ブルジョワの葛藤である。囚人監督官に注目すれば、チェコ人という支配的民族の葛藤であると言ってもよい。こんな白々しい映画が2017年に生きる私の目から見て面白いのだろうか? と思っていたのだが、そういう筋での違和感はあんまりなく楽しめたのでよかった。それはやっぱりチェコという共同体全体をカバーできるような配慮が行き届いているからであり、何よりもスラップスティックに徹して、ちゃんと面白くしてるのがいいんだよなと思う。シリアスなユーモアが完全勝利している映画だった。こういうのをもっと見ていきたい*1

*1:どんな表現であっても「お前の葛藤なんて偽物だよ。もっとつらい奴いるんだけど。例えば俺とか?」というマヌケな批判を決して免れ得ないわけで、そういうのに対しては①俺はマンボウの話をしているんだ、というストロングスタイルで行くか、あるいは②徹底的にとぼけることによって回避力を高めるスタイルをとるかのどちらかが必要になってくるとは思っているわけだが、コメディやユーモアって後者の戦略の典型だよなと思う。ただまあ、相当うまくやらないとヤバイけど……。

実験室に彼女を連れ込む大学教授は"unethical"では?『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』感想


『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』予告編。人はどこまで残酷になれるのか…

 

 新文芸坐で。半券で見れると経済的に大分楽である。まあ帰ってきたなんとかは原作読んだからいいかな、とかなんとか。

 

 とりあえず本作品は『ハンナ・アーレント』に大分近い作風である。ナチス文脈とかアイヒマン裁判どうこう以前に、強烈なリア充映画であるという点において、であるが。まあ言うまでもないがちょっと救いようがないほど不愉快だったぜ……。

 まあなんだ、ナチスは非リアコンテンツなので(適当)、やはり非リア=ナチス枢軸と戦うにはリア充でなくてはならないんだな……と思った。例えばいかにも非リア臭のする私が「ナチス云々」とか言い出すと「うわ、キモッ」となるだけだが、リア充大学教員(アーレントミルグラムなど、ユダヤ系が多いな?(まって、こんなこと言ってるけど僕はアンタイセメティックな人間じゃないんだ!!!))が「ナチズムとは!」って上段に構えると皆平伏するという。やはり大学教員のちからはスゴイ。でもアーレントミルグラム服従や悪に関する議論は2017年のサイレン(聞こえるかい? 僕には聞こえる……)の前ではほとんど反駁されているわけですよね。正直、実証的な水準で「ミルグラム実験」とか「悪の凡庸さ」とか言い出す連中は相当ださいんですよね、たしか……。いや、そんなことはどうでもいい! 映画の話をしろ!

 いちばんアレだったのは、ミルグラム実験中、彼はガールフレンドと一緒に一般市民の道徳的堕落を眺めていた! という衝撃の事実である。演出なのか事実なのか知らないが、事実だったら相当酷い話だ。ミルグラムはカノジョと一緒にマジックミラーの裏側に隠れながら、女の子と手を握り合って、善良なアメリカ市民たちが「ホロコーストにも匹敵する重大な蛮行」にコミットするのを眺めていたらしい。いや……一般人でしかないガールフレンドに研究の様子を見せるなよ。倫理のかけらもあったもんじゃないよ。そしてそんだけ尊大なことをやっといて「プリンストンは傲慢でクソ」とか批判を始めるんだもんな。もう我慢できませんでしたよ。俺も彼女と一緒にアホな一般人が道徳的に堕落していくところを見たいわ!! 自分たちだけは絶対に汚れないという感覚に浸りながらな!! ちょう羨ましいですよほんと。

 まあ、学史的な要素は普通に面白かった。ミルグラムはこうしてみると社会学の面白げな実験や理論と関わりまくってるなーと思う。あと何気に、60年代は「社会関係」が専門だと名乗っていたミルグラムが(しかも彼女から???とされる)、70年代後半くらいから「社会心理学です」とドヤ顔してしかもテレビとか出始めるあたり、社会学の露出度が上がっていった時代を描いた映画でもあるなと思った。ケネディの暗殺が取り上げられたりしているあたりとか、背景に映る若者の服装とかから、微妙にアメリカ史紹介要素もあったりするのねという気もした。背景がいきなりモノクロ写真になる演出とかも学問やアメリカ社会を描く上での通史的な部分に対して結構貢献していたと思われ、そういう意味では単なる批評家好み的演出には堕しておらずよかったんではないかと思った。

 あとは私が好きな役者が出てたのでまあそれだけで大分許せたかなという気もした。新スタートレックチェコフ役をやってるアントン・イェルチンの渋い感じ好きだし、あとは何より正妻役のウィノナ・ライダーですよ! 作中でもフェミニストにキレられてたけど、ウィノナ・ライダーの醸し出す「インテリ男の側にいるいい女感」ですよね、これがすごい。マジで死ねと思うが、ウィノナ・ライダーがやるとなんとなく正当化されてしまうから不思議だ。いやね、ウィノナ・ライダーほんと好きなんすよ(謎のオチ)。

ひたすらお上品な、頓挫した恋愛が再出発する映画『ムーンライト』感想(ネタバレあり)

 


アカデミー賞作品賞!『ムーンライト』日本版オリジナル予告

 シネマート新宿で『ムーンライト』を見てきた。せっかく持っていたTCGカードを家に忘れるという失態を犯したのでちょっと寂しかったが(TCGカードの色合いが図書館カードと似てたのが悪い。つまり自治体が悪い)、とにかく見てはきましたよ、ええ。

 

 結論からいうと、エンターテインメント性は皆無の映画でした。でもだからといってダメというわけでは全然ないということを注意しなくてはいけない。エンタメ性が低いというのは、①王道手法が使われていないという点と、②感化力で勝負していないという二つの根拠からそう思った。

 

王道は行きません

 まず王道手法が使われていない=実験的要素が非常に多いという点。映像および音の演出が非常に実験的で、もちろんそれに意味はあるんだろうけど、実験的であることと面白いかどうかはまったく別の問題であるというのが一つ。特に音ずらしの演出はかなりダサいと思った。まあこれは褒めているのだけど。あの演出をやると、視聴者としては「お、なんかこの後にすごいことが起こるのかな?」と期待してしまうわけであるが、実際その後のセリフとか展開がすっごく陳腐で、かなり肩透かしを食らう。特に再会シーンでの音ずらしは完全にそれだったのだが、この「肩透かし」感ってこの映画のテーマとすごくマッチしていると思う。実際、我々が直面している現実の陳腐さを浮き彫りにするという演出は結構戦略的になされていて、特に再会シーンはあまりにも陳腐すぎてほんと胸が苦しかった。超重要な再会シーンなのに、ケヴィンが何回も何回も行ったり来たりするシーンがこれでもかと繰り返され、これすごくリアルなんだが(疎遠再会は現実にやるとマジでこうなる)、美化されがちな再会シーンってのが実際はこの程度の体たらくだというのがよく伝わってきて辛かった。ただ、背伸びをしていない演出なおかげですごく地に足の着いた映像になっていて、この雰囲気のために使いました! というならば、実験的手法はこれ以上ないくらい作品に貢献しているよなと思った。

 また、主人公をケヴィン側ではなくシャイロン側に持ってきたのも本当に実験的だと思った。最近だと『ヒメアノ~ル』が完全にそれだけど、この物語構成ならケヴィンを視点人物にした方が、議論の余地なく、絶対おもしろい。シャイロンの変化に対する理解不可能性というのが疎遠モノのかなり重大な要素だと思うのだが、それを調達しようと思えばシャイロンの人生をあまり映さない=視点人物としての地位を剥奪するのが一番手っ取り早いわけである。「変わる前(フニャフニャ系少年)」と「変わってしまった後(マッチョ売人)」の2地点を、「疎遠になった友達(今やストリートを抜け出したケヴィン)」が目撃する、という王道展開を使った方が、絶対エンターテインメントになっていた。まあこのあたりの評価は難しい。社会問題を扱うという点について言えば悪くない選択ではあったと思う。というのも、「えー、お前どうしてこうなっちゃったの……」という理解不可能性があまりにも全面に押し出されてしまうと、シャイロンをああしてしまったストリート社会のツライ現実というものが逆に隠されてしまうわけで、もちろんそれはそれで全然ダメなのである。ただ一方で、上でも書いたとおりこの映画は我々の「再会シーン幻想」を破壊しにかかってくるので、再会自体は戦略的に盛り上がらない。その盛り上がらなさに含まれるもどかしさ要素、つまり「再会はもっと楽しいと思っていたのに!」という残念感を出そうと思うなら、視点人物としてふさわしいのはどう考えても誘ったケヴィン側ということにはなるだろうなとは思う。

 ただ、私はシャイロン編の途中あたりから、「あれ、これってケヴィン視点になってシャイロンのかわいさを楽しむ映画なんすか???」とか思ったりしたし、実際最後のシーンに少年シャイロンが浮き上がるシーンとかって、視聴者がある程度ケヴィンに感情移入してないと絶対に成立しない演出だと思っており、そういう意味でいうとこの映画はケヴィンがメタ的な視点人物であるという理解も全然できると思っていて、このあたりも実験的だよなあと思ったりしている。こういう工夫はすごく好き。

 

感傷的なお話なのに感化力で勝負していない

 この映画のエンタメ力が低い理由その2として、感化力がかなり低いということをあげることができると思う。感化力という表現はもう少しざっくりいうと「よおおおし、今からお前らを泣かせっから!!」的なノリであると私は理解している。類似的な表現としては「泣きゲー」「お涙ちょうだい」「刺さる」とかがあげられるかな。まあ、人間の感情を機械的に動かしてしまうような一連の表現テクノロジーが駆使されている作品は感化力が高いと言えると思う。ちなみに、私は感化力の高い作品は文句なしに大好きであることはあらかじめ明記しておく。

 『ムーンライト』は感化力ゼロである。いや、泣けるは泣けるが、この映画は難しいので(私もかなり未消化が多い。もっかいみたい)、そのためには先行作品を勉強したり、いろんな人との付き合いを経験したり、めちゃくちゃ注意深く(ある種批判的に)作品を鑑賞したりしないといけない。例えばセリフではなく極力映像で説明していくスタイルとかは、ぼーっとしてると何も理解出来ずに見過ごしてしまる。あと設定もやばい。そもそも月光(ムーンライト!)の下でだけ僕は本当の姿に戻れるとかいう静謐力の高い設定がかなりお上品だし。この映画は童貞要素があったり母親のアレとかも描かれていて感傷的な要素満載なのに、脚本と演出のレベルで、ほとんど神経質とか潔癖症と言っていいレベルで感化力を引っ込めている。

 それで思ったが、もし『ムーンライト』が米大統領選的文脈でアカデミー作品賞に選ばれたのだとすれば、当然色々な要素が絡んでいるから、理由が一つということはありえないけど、この感化力の低さという要素もかなり重要だったんではないかと妄想した。というのも『ムーンライト』はトランプ大統領のような戦略に対する明確なカウンターであろうとは思う。スーパー金持ちVSインディペンデント映画、感化力による扇動VS静謐さと癒やし、という感じで。

 しかしである。こういうのはこういうのでいいのだろうが、私にはちょっとお上品すぎると感じられたのも事実である。私はもっとお下品な、感化力全開でロマン主義うぇーい! 俺だけは絶対に諦めないからなうぇーい! あの娘のためなら世界とか余裕で投げ捨てるぜ当たり前だろうぇーい! みたいなノリが好きな人なので、正直『ムーンライト』は物足りなかったといえば物足りなかった。ただ、繰り返すが、エンタメ性が低いからダメというわけでは全然ない。こういったお上品な作品もたまに見るとよいものであるのは確かなのではある。

 

ただ、普遍性を押し出しすぎ

 とりあえず、こういうエクスキューズはほんと卑怯だと思うが、私のSFオールマイベストは『闇の左手』であり、2009年で『レスラー』の次によかったのは『ミルク』だと思っているし、好きな保守派映画を3つ上げろと言われたら『グラン・トリノ』の次くらいに『ブロークバック・マウンテン』が来る。

 『ムーンライト』は良かったと思うのだが、あまりに普遍性を全面に出しすぎて、個別の人生が持っている一回性というか特殊性というものがあまりに置いてけぼりになってしまっているとは強く感じていて、この点についていうと私はかなりこの作品の出来はよくないと思う。

 まず何よりもまずいと思ったのは、予算のこともあるんだろうけど、この映画はランドスケープ描写があまりに貧弱すぎる。その結果として、たしかに「どの都市*1に住んでいてもありえたかもしれない描写」、つまりは製作者たちが信じる「最大公約数」は満たされているんだろうけど、その代償としてシャイロンとケヴィンの関係が持っている特殊性みたいなものに向き合えておらず、正直、こんなんじゃダメだろとなった。とにかく、この映画はどう取り繕うが、まず何よりも和解と再会に物語上のピークを持ってくる疎遠モノであり、月光降り注ぐマイアミの海岸という明確な聖地設定をやっているわけだから、そういった要素がちゃんと活かされているかの評価は絶対に必要だと思う。そしてその筋でいうと『ムーンライト』は明確に失敗している。

 ランドスケープがすっからかんであるため、個別の会話や感情の変化に対してはまあ最低限の「あるある」は調達できるけど、それ以上のものはない。個人的には、最低でも家と学校とフアン邸、そして海岸の物理的位置関係をはっきりさせないとダメだと思う。車じゃないとダメなのか、走っていけるのか、途中にちょっと休憩できるアイスクリーム屋とかあるかどうか。二人の思い出の場所、心の拠り所であるマイアミの海岸という癒やしの空間が、じゃああまりにも酷い現実を象徴する学校やら家とどうつながってるんですかという話をする必要はどうしてもある。一縷の望み、拠り所というものは、我々の実生活とつながっているからこそ拠り所足り得るのであって、汚されえないものとして完全な隔絶状態にあったり、あるいは観念的に設定されているだけでは何の意味もない。別に地図を寄越せという話なのではなく、絶望と希望が空間的にもちゃんとつながっているんだなということを視聴者にとって納得できる形で提示しないとダメだろうということを言っているわけである。

 

童貞力はあるのか?

 あと最後、童貞描写についてなのだが……うーん、まあなんだ、「ずっと想っていました(チュッ)」と「好きな人がいるのに何も出来ずに勝手に自爆して終了」ってだいぶ違うと思うんですよ。好きな人以外とHなことしなかったから童貞なのかというと別にそういうことはないわけで、正直シャイロンとケヴィンは童貞というよりは、なりそこないの悲劇カップルでしかないと思う。

 まず何よりも童貞物語には無力感と希望の完璧なバランスが求められるわけで、無力感だけでなく、内宇宙でほとばしる希望の光がもっとあってしかるべきだと私は信仰しているのだが、残念なことにこの映画における希望の光担当は海岸を照らす月光なのであり、個人的には希望の出力不足感は否めず、そのせいでどうしても社会的圧力に対して抗えなかったという無力感の方が先行してしまう。でもだからといってそういう無力感を出して、ああダメだったね、俺たちもうボロボロだねっていう感傷的で感化力を高める戦略も取られていないのが個人的にはもどかしい。

 もっといえば、何より再会シーンがあまりにもリアルかつ陳腐すぎて、盛り上がりが皆無になってしまっているのが痛い。もし童貞的葛藤を通して物事を眺めるならば、どんなに陳腐なものだってロマンチックになってしまうわけで(???)、その意味で「再会幻想」を否定したこの映画は必然として童貞的葛藤、童貞的緊張感の描写とも遠い場所にあるのだろうとは思う。だが、だからといってラブロマンスとして失敗しているわけでは全然ない。童貞というよりは、頓挫した恋愛の回復についての映画なのだと思う。もちろん、からをかき分けて無事飛び立つのには相当な時間がかかってしまったけれど、この関係の卵のからはもうとっくに割れていて、割れてしまったからにはすでに童貞の守備範囲外なのである。

 

 

*1:この映画は田舎暮らししか知らない人には意味不明な映画である

別のタイトルでやるべき知育映画 『10クローバーフィールド・レーン』感想

 

 

 娘による家父長制打破系映画なのだが、「クローバーフィールド」を期待して見に行った人がこの映画を見て激怒したとしても、それは彼または彼女が家父長制主義者だからではないだろう。いやね、ラスト10分くらいの展開の方を見たかった人からすれば肩透かしもいいところだろうというね。

 あとこの映画を見て思ったのは、なんとなくマインクラフトライクゲームっぽい「知育」的な要素があるなということである。最初のシーンで棒を様々な用途に活用したり、後半でガスマスクをクラフトしたりするシーンは実際知育ゲームっぽい。また、こういった知識の源泉が実は暴君たる父にあり、彼から継承したものであるというのも興味深い。父の従軍経験を娘が吸収したことで、彼女は自立した女性となり、外の世界でサバイブできるようになる。こうしてみると、実は単なる「絶対悪としての父」モデルの映画にはなっておらず、父の死にも一定の意味が与えられているわけで、そのあたりは童貞的にもちゃんと評価したいポイントだなと思った。

ちゃんとしたクリニックに行けば? 『JUNO/ジュノ』感想(ネタバレあり)

 

JUNO/ジュノ (字幕版)

JUNO/ジュノ (字幕版)

 

 

あらすじ

 高校生の女の子ジュノが妊娠して、一度は中絶を決意するが翻意して、通学と妊娠出産を両立させ、無事に我が子を養子に出すというお話。

 

脚本がかなりダメ

 かなりとっちらかっている脚本である。何が一番まずいかというと、ジュノが中絶を辞めるという重要な意思決定を孤立状態で下さざるをえない状況がかなり恣意的に作り上げられているという点だろう。まずいちばん違和感があるのが、ジュノが中絶を辞める描写。この映画はなぜか、「ある特定の中絶クリニックが嫌*1」→「中絶が嫌」という飛躍をやるのだが、ここはどう考えてもおかしい。普通、「ある特定の中絶クリニックが嫌」の次は、「もっといい中絶クリニックを探そう」ではないだろうか? もちろん、ジュノが家族からネグレクトされているとか、友達がいないとか、彼女が孤立状態にあるという前提条件があれば、ああいう投げやりな行動を取ることにも一定の納得感がなくもないが、ジュノの家族や親友はありえないほど善良な人々である。そもそもジュノが中絶したかったのなら、彼女が「劣悪なクリニック」か「出産」かの二択状態に追い込まれる必然性はかなり薄く、安価なクリニックが怖いからちゃんとした病院に行きたいということで、例えばお母さんあたりのサポートを受け入れる、というのが自然ではないだろうか。ただこの映画は最初に、ジュノと両親がギクシャクしているかのような印象を視聴者に与えておく。例えば序盤の食事シーンでは、父親はそっけないし、継母との関係もひょっとしたら悪いのかも? という印象を受ける。こういった描写でジュノと両親(特に母親)の協力という可能性をちゃんと潰しておいて、つまりはジュノを一種の孤立状態に置いておいて、その上で、出産路線が確定してから「家族はジュノをサポートするのです!!」と一転家族による支援を描き始めるというこの映画のやり方は、端的にいって邪悪だと思う。女性支援団体の運営する中絶クリニックの描き方といい、継母とジュノの関係といい、このテーマなのに女性同士の連帯という筋を都合よく悪用しているように思える。こういうのを好きな人が家で見る分にはいい映画だろうが、皆で絶賛するタイプの映画ではないだろう。 

 また、男性の扱いに関しては完全に意味不明である。ジュノの彼氏にしろヴァネッサの夫にしろ、こいつらは恋人と一緒になってるのに童貞性を引きずっているのでだいぶ酷い人たちである。ジュノ彼は恋人が妊娠してるのに「え、俺たち付き合ってたよね」みたいな水準でグズグズし始めるし、ヴェネッサ夫は家庭があるのにロマン主義が矯正されていないちょっとズルいキャラだし。なんというか、妊娠や結婚という先立つ事実に直面しながらも、それでも童貞的葛藤を維持する人々というのは、相当愚劣で無責任な連中である。はっきり言っておくが、童貞性は孤独な童貞たちのものであって、恋人とセックスしたり結婚相手を裏切ったりする連中のためのものでは断じてない。この映画はそういう意味で童貞のこともバカにしてる映画でもあるので、ちゃんと批判しておかないといけない。

 

でもエレン・ペイジだから部分的に許されてる

 しかし、この映画はなんとか見れる出来にはなっている。なぜかというと、やはりエレン・ペイジだろう。エレン・ペイジはこういう、なんか投げやりなファンキー過激少女の役があまりにも合いすぎるので、その圧倒的な納得感、正当化力によってなんとなく酷い描写が見過ごされてしまっている感がある。エレン・ペイジすき*2。でもエレン・ペイジを真に活かしたいなら、とりあえず彼氏を殺して、そんでもってもっとヴェネッサとの筋を押し出せばよかったんじゃねーのと思う。というか、この映画はジュノとヴェネッサが男に裏切られるけどお互い支え合うみたいな話にしとけば単なるプロライフ宣伝映画にならずにすんだよね。さすがのエレン・ペイジ力をもってしても、やはり最後「彼が好き~~」とか言い出すのがマジで意味わからんかったからな……。

*1:この中絶クリニックの描き方もだいぶ酷いが。というか、中絶クリニックなんてたいていこんな場所だよっていうのが密輸されててだいぶクソだろう。ちゃんとした中絶クリニックは全米にたくさんあります!!

*2:この映画で唯一それなとなったのは、「男子は変な女の子が好き」という話ですよ。それな。変な女の子は「いや私モテなかったぞ」と言うんだろうが、密かなファンが結構いたと思うんですよね、ええ。