ひたすらお上品な、頓挫した恋愛が再出発する映画『ムーンライト』感想(ネタバレあり)

 


アカデミー賞作品賞!『ムーンライト』日本版オリジナル予告

 シネマート新宿で『ムーンライト』を見てきた。せっかく持っていたTCGカードを家に忘れるという失態を犯したのでちょっと寂しかったが(TCGカードの色合いが図書館カードと似てたのが悪い。つまり自治体が悪い)、とにかく見てはきましたよ、ええ。

 

 結論からいうと、エンターテインメント性は皆無の映画でした。でもだからといってダメというわけでは全然ないということを注意しなくてはいけない。エンタメ性が低いというのは、①王道手法が使われていないという点と、②感化力で勝負していないという二つの根拠からそう思った。

 

王道は行きません

 まず王道手法が使われていない=実験的要素が非常に多いという点。映像および音の演出が非常に実験的で、もちろんそれに意味はあるんだろうけど、実験的であることと面白いかどうかはまったく別の問題であるというのが一つ。特に音ずらしの演出はかなりダサいと思った。まあこれは褒めているのだけど。あの演出をやると、視聴者としては「お、なんかこの後にすごいことが起こるのかな?」と期待してしまうわけであるが、実際その後のセリフとか展開がすっごく陳腐で、かなり肩透かしを食らう。特に再会シーンでの音ずらしは完全にそれだったのだが、この「肩透かし」感ってこの映画のテーマとすごくマッチしていると思う。実際、我々が直面している現実の陳腐さを浮き彫りにするという演出は結構戦略的になされていて、特に再会シーンはあまりにも陳腐すぎてほんと胸が苦しかった。超重要な再会シーンなのに、ケヴィンが何回も何回も行ったり来たりするシーンがこれでもかと繰り返され、これすごくリアルなんだが(疎遠再会は現実にやるとマジでこうなる)、美化されがちな再会シーンってのが実際はこの程度の体たらくだというのがよく伝わってきて辛かった。ただ、背伸びをしていない演出なおかげですごく地に足の着いた映像になっていて、この雰囲気のために使いました! というならば、実験的手法はこれ以上ないくらい作品に貢献しているよなと思った。

 また、主人公をケヴィン側ではなくシャイロン側に持ってきたのも本当に実験的だと思った。最近だと『ヒメアノ~ル』が完全にそれだけど、この物語構成ならケヴィンを視点人物にした方が、議論の余地なく、絶対おもしろい。シャイロンの変化に対する理解不可能性というのが疎遠モノのかなり重大な要素だと思うのだが、それを調達しようと思えばシャイロンの人生をあまり映さない=視点人物としての地位を剥奪するのが一番手っ取り早いわけである。「変わる前(フニャフニャ系少年)」と「変わってしまった後(マッチョ売人)」の2地点を、「疎遠になった友達(今やストリートを抜け出したケヴィン)」が目撃する、という王道展開を使った方が、絶対エンターテインメントになっていた。まあこのあたりの評価は難しい。社会問題を扱うという点について言えば悪くない選択ではあったと思う。というのも、「えー、お前どうしてこうなっちゃったの……」という理解不可能性があまりにも全面に押し出されてしまうと、シャイロンをああしてしまったストリート社会のツライ現実というものが逆に隠されてしまうわけで、もちろんそれはそれで全然ダメなのである。ただ一方で、上でも書いたとおりこの映画は我々の「再会シーン幻想」を破壊しにかかってくるので、再会自体は戦略的に盛り上がらない。その盛り上がらなさに含まれるもどかしさ要素、つまり「再会はもっと楽しいと思っていたのに!」という残念感を出そうと思うなら、視点人物としてふさわしいのはどう考えても誘ったケヴィン側ということにはなるだろうなとは思う。

 ただ、私はシャイロン編の途中あたりから、「あれ、これってケヴィン視点になってシャイロンのかわいさを楽しむ映画なんすか???」とか思ったりしたし、実際最後のシーンに少年シャイロンが浮き上がるシーンとかって、視聴者がある程度ケヴィンに感情移入してないと絶対に成立しない演出だと思っており、そういう意味でいうとこの映画はケヴィンがメタ的な視点人物であるという理解も全然できると思っていて、このあたりも実験的だよなあと思ったりしている。こういう工夫はすごく好き。

 

感傷的なお話なのに感化力で勝負していない

 この映画のエンタメ力が低い理由その2として、感化力がかなり低いということをあげることができると思う。感化力という表現はもう少しざっくりいうと「よおおおし、今からお前らを泣かせっから!!」的なノリであると私は理解している。類似的な表現としては「泣きゲー」「お涙ちょうだい」「刺さる」とかがあげられるかな。まあ、人間の感情を機械的に動かしてしまうような一連の表現テクノロジーが駆使されている作品は感化力が高いと言えると思う。ちなみに、私は感化力の高い作品は文句なしに大好きであることはあらかじめ明記しておく。

 『ムーンライト』は感化力ゼロである。いや、泣けるは泣けるが、この映画は難しいので(私もかなり未消化が多い。もっかいみたい)、そのためには先行作品を勉強したり、いろんな人との付き合いを経験したり、めちゃくちゃ注意深く(ある種批判的に)作品を鑑賞したりしないといけない。例えばセリフではなく極力映像で説明していくスタイルとかは、ぼーっとしてると何も理解出来ずに見過ごしてしまる。あと設定もやばい。そもそも月光(ムーンライト!)の下でだけ僕は本当の姿に戻れるとかいう静謐力の高い設定がかなりお上品だし。この映画は童貞要素があったり母親のアレとかも描かれていて感傷的な要素満載なのに、脚本と演出のレベルで、ほとんど神経質とか潔癖症と言っていいレベルで感化力を引っ込めている。

 それで思ったが、もし『ムーンライト』が米大統領選的文脈でアカデミー作品賞に選ばれたのだとすれば、当然色々な要素が絡んでいるから、理由が一つということはありえないけど、この感化力の低さという要素もかなり重要だったんではないかと妄想した。というのも『ムーンライト』はトランプ大統領のような戦略に対する明確なカウンターであろうとは思う。スーパー金持ちVSインディペンデント映画、感化力による扇動VS静謐さと癒やし、という感じで。

 しかしである。こういうのはこういうのでいいのだろうが、私にはちょっとお上品すぎると感じられたのも事実である。私はもっとお下品な、感化力全開でロマン主義うぇーい! 俺だけは絶対に諦めないからなうぇーい! あの娘のためなら世界とか余裕で投げ捨てるぜ当たり前だろうぇーい! みたいなノリが好きな人なので、正直『ムーンライト』は物足りなかったといえば物足りなかった。ただ、繰り返すが、エンタメ性が低いからダメというわけでは全然ない。こういったお上品な作品もたまに見るとよいものであるのは確かなのではある。

 

ただ、普遍性を押し出しすぎ

 とりあえず、こういうエクスキューズはほんと卑怯だと思うが、私のSFオールマイベストは『闇の左手』であり、2009年で『レスラー』の次によかったのは『ミルク』だと思っているし、好きな保守派映画を3つ上げろと言われたら『グラン・トリノ』の次くらいに『ブロークバック・マウンテン』が来る。

 『ムーンライト』は良かったと思うのだが、あまりに普遍性を全面に出しすぎて、個別の人生が持っている一回性というか特殊性というものがあまりに置いてけぼりになってしまっているとは強く感じていて、この点についていうと私はかなりこの作品の出来はよくないと思う。

 まず何よりもまずいと思ったのは、予算のこともあるんだろうけど、この映画はランドスケープ描写があまりに貧弱すぎる。その結果として、たしかに「どの都市*1に住んでいてもありえたかもしれない描写」、つまりは製作者たちが信じる「最大公約数」は満たされているんだろうけど、その代償としてシャイロンとケヴィンの関係が持っている特殊性みたいなものに向き合えておらず、正直、こんなんじゃダメだろとなった。とにかく、この映画はどう取り繕うが、まず何よりも和解と再会に物語上のピークを持ってくる疎遠モノであり、月光降り注ぐマイアミの海岸という明確な聖地設定をやっているわけだから、そういった要素がちゃんと活かされているかの評価は絶対に必要だと思う。そしてその筋でいうと『ムーンライト』は明確に失敗している。

 ランドスケープがすっからかんであるため、個別の会話や感情の変化に対してはまあ最低限の「あるある」は調達できるけど、それ以上のものはない。個人的には、最低でも家と学校とフアン邸、そして海岸の物理的位置関係をはっきりさせないとダメだと思う。車じゃないとダメなのか、走っていけるのか、途中にちょっと休憩できるアイスクリーム屋とかあるかどうか。二人の思い出の場所、心の拠り所であるマイアミの海岸という癒やしの空間が、じゃああまりにも酷い現実を象徴する学校やら家とどうつながってるんですかという話をする必要はどうしてもある。一縷の望み、拠り所というものは、我々の実生活とつながっているからこそ拠り所足り得るのであって、汚されえないものとして完全な隔絶状態にあったり、あるいは観念的に設定されているだけでは何の意味もない。別に地図を寄越せという話なのではなく、絶望と希望が空間的にもちゃんとつながっているんだなということを視聴者にとって納得できる形で提示しないとダメだろうということを言っているわけである。

 

童貞力はあるのか?

 あと最後、童貞描写についてなのだが……うーん、まあなんだ、「ずっと想っていました(チュッ)」と「好きな人がいるのに何も出来ずに勝手に自爆して終了」ってだいぶ違うと思うんですよ。好きな人以外とHなことしなかったから童貞なのかというと別にそういうことはないわけで、正直シャイロンとケヴィンは童貞というよりは、なりそこないの悲劇カップルでしかないと思う。

 まず何よりも童貞物語には無力感と希望の完璧なバランスが求められるわけで、無力感だけでなく、内宇宙でほとばしる希望の光がもっとあってしかるべきだと私は信仰しているのだが、残念なことにこの映画における希望の光担当は海岸を照らす月光なのであり、個人的には希望の出力不足感は否めず、そのせいでどうしても社会的圧力に対して抗えなかったという無力感の方が先行してしまう。でもだからといってそういう無力感を出して、ああダメだったね、俺たちもうボロボロだねっていう感傷的で感化力を高める戦略も取られていないのが個人的にはもどかしい。

 もっといえば、何より再会シーンがあまりにもリアルかつ陳腐すぎて、盛り上がりが皆無になってしまっているのが痛い。もし童貞的葛藤を通して物事を眺めるならば、どんなに陳腐なものだってロマンチックになってしまうわけで(???)、その意味で「再会幻想」を否定したこの映画は必然として童貞的葛藤、童貞的緊張感の描写とも遠い場所にあるのだろうとは思う。だが、だからといってラブロマンスとして失敗しているわけでは全然ない。童貞というよりは、頓挫した恋愛の回復についての映画なのだと思う。もちろん、からをかき分けて無事飛び立つのには相当な時間がかかってしまったけれど、この関係の卵のからはもうとっくに割れていて、割れてしまったからにはすでに童貞の守備範囲外なのである。

 

 

*1:この映画は田舎暮らししか知らない人には意味不明な映画である