「コミュ障同士」という連帯の喪失と誕生を描ききった傑作 『ヒメアノ~ル』感想(ネタバレあり)
やばい!!!!!! すごい作品すぎた。
先に理論的な話。
世の創作はつねに「疎外された者たちの連帯」からはじまる。しかし、この連帯は欺瞞に満ちている。なぜかというと、単に疎外されているという理由で連帯が生じるという世界観は、疎外されていない人々だけが持っているファンタジーだからである。こちら側を代表して言わせてもらえば、疎外された者たちの連帯は結局いじめられっ子同士の連帯にすぎないのであって、それは本質的に惨めすぎるものであって、受け入れがたいものである。
例えば、「疎外された者たちのクラブ」には、大きくわけて「キチガイ」と「コミュ障」と「疾患」の三種類からなる人々が所属することになる。こういった多様な連中が一緒くたにされ、「迫害」とか「疎外」という理由を経由して友達になれるのだと一般に信じられている。中には、恋仲になるのだと信じている者たちもいる。だが、この世界観ほど人間をバカにしているものはない。
疎外されている者たちはその特徴において確かにいくつかの共通項を持っているが、しかし同じではない。例えば私たちは「LGBT」という概念を使う。だが、だからと言ってゲイとレズビアンが恋人になることは期待したりはしない。こんなことを言うと何を当たり前のことを……と思われるんだろうが、世の創作物でまかり通っている「疎外された者たちが仲良くなって」という世界観においては、まさにゲイとレズビアンがセックスをしまくっているのである。それくらい、実は「疎外された者たちの間にある差異」は見過ごされている。表象の持っている暴力性と搾取性の最たるものがここにある。はっきり言おう。いじめられっ子は他のいじめられっ子のことを好きにはならない。仮になったとしても、その理由は絶対に「同じくいじめられているから」ではない。
話を作品に戻す。
「ヒメアノ~ル」にはキチガイとコミュ障しか出てこない。これはすごいことだ。並の人なら、「普通の人々」VS「特殊な俺たち」という構図を持ってきたがる。だが、この構図の裏側で「疎外された者たちの間にある差異」が見過ごされるという重大な事態が生じるということは先に確認した。この問題を回避するにはどうすれば良いのか。簡単である。主要な登場キャラクターを全員「変なやつ」にすればよいのである。それによって、否が応でも「変なやつ」内における差異性が浮かび上がってくる。良かったな。
ここでまた理論を。
「変な奴で埋め尽くす」系の手続きは普通の作品でもやる。だが、ここでまた別の問題が出てくる。それは、「変なやつ」同士の連帯から生まれる楽しい経験でもって、登場キャラクターの間に生じる関係性を正当化しようとする、という問題である。もうちょっと具体的にいうと、こういうことである。ここにある小説がある。第一~三章では疎外された生徒たちが集められ、第四章以降でマジョリティと対決して、最終章でチームなりカップルがいい感じになって終わる……。
まあ、以上がいわゆる「成長」と呼ばれる手続きなのだが、この時、成長の後に結果として残る「関係性」は、あくまで「経験」から生まれるのであるらしい。つまり、ある主人公が恋人をゲットすることに対して我々が一定の納得感を抱くのは、出会いシーンのおかげというよりも、むしろ主人公がライバルを打ち倒すべく努力する姿を見るからである。実際、ロマンスというものは「なんだあの嫌な奴!!!」から始まり(出会いは最悪だったのだ)、努力なり成長を通して「あの人が好きすぎる!!!」に着地するものだ。
成長が関係性を正当化する。これは創作界隈においては絶対的な文法なのだが、いわゆる「疎外されている者」向けの作品においては、この文法が悪用される。悪用されるというか、「成長によらない関係性」が簡単に見過ごされる。つまり、一応この手の「はぐれもの」作品群では、「同じく疎外されている者たち」が集められるので、じゃあ最初の出会いである程度仲良くなるってことがあるんじゃないの? という話である。
ここで最初の話に戻る。人間は「同じく疎外されているから」という理由で連帯しない。いや、外交的な水準ではそうする可能性があるけれども、好き嫌いの水準ではそんなことはしない。もうちょっと細かいことを書くと、「疾患持ち」は「コミュ障」のことをいきなり好きになったりはしないし、「キチガイ」が「コミュ障」を好きになることもない。つーかまあ、疎外されてる者同士、普通に軽蔑し合ってることの方が多い。
だが、「コミュ障同士」なら話はガラリと変わる。本当に「同じ」人間を見つけられたのならば。つまりこういうことである。我々は本来的に極めて多様でバラバラな「変なやつ」らを、「阻害されている人々枠」として一緒くたにするのに慣れきってしまってきた。だから、「変な奴ら」の枠内で、「同じヤツ」を探すのは、実はとてもとてもむずかしいという現実をとかく無視しがちだ。変なやつらは実際変なやつらなので、その中でも特殊で細分化された変なやつ性を共有している相手を見つけるのは、それはそれは天文学的に難しいのだ。だが、というかだからこそ、もし見つかったら? 自分の変なやつ性を分かってくれる奴を、真に「同じ奴」を見つけた時の感動はいかほどだろう。前に同性愛者の告白録を読んだ時に、初めて同じ同性愛者に出会った時の感動が綴られていたが、感覚としてはこれに近いと思う。疎外されているからこそ、同じ奴を見つけた時の感動、というか感謝には、言葉にできないほどのものがある。で、この感動と感謝が前提にある場合、経験によらず関係性は正当化される時があるのだ。
もちろん、経験による正当化プロセスを経ていない関係性は脆弱である。例えば、「他のもっと合う奴を見つけた」とか「よくよく付き合ってみると相手の〇〇する癖がどうしても許容できない」とか、まあ、たしかに色々あって簡単に崩壊することはあるだろう。一般に依存と呼ばれる関係に突入しやすいという意味でも、経験によらない関係性の健全性はかなり低い。だが、疎外されている人々は、時にこういった関係に頼らざるをえない時がある。
特に人間関係の経験値が低い学生などは、自分たちの関係性がなんとなく危うく、脆弱であることに怯えながら、「経験によらない関係性」にどうにかしがみつく……という生き方をすることも多いだろう。この、若者特有の没入感に満ち満ちた危うい関係性は、存在そのものが完成された悲劇である。ロミオとジュリエットが土下座するレベルの、純粋な悲劇だ。何と言っても、関係性を構成する当事者が、自分たちの関係性の美しさに感嘆しながら、同時にそのあまりのはかなさに怯えているわけだから。
話を「ヒメアノ~ル」に戻そう。
大人になったら、もう「経験によらない関係性」に期待するのはかなり厳しくなる。というか、その筋を諦める時、人は大人になるとも言える。で、「ヒメアノ~ル」で描かれる関係性というものは、簡単にいうと「もう完全な形ではなくなった」「経験によらない関係性」である。これはなんというか、主人公の岡田君のビミョーに大人になりきれていない一種の幼さを反映していると思うのだが、見事だなあと言うほかない。岡田自身はある種神聖で美しく、そして排他的な関係性という世界観をまだ捨てきれていないわけだが、大人として暮らす以上、どうしても「何かが違う」ということになる。例えば岡田と安藤は、もし二人が学生ならば、完成された没入感最強ホモソ関係に発展していたはずなのだが、もう二人は大人なので、「三角関係」で荒れる。つまり、人間関係の閉鎖性が損なわれているわけだ。また、岡田とユカについては、「過去の人間関係」という問題でこれまた荒れる*1。付き合ってセックスに至るまでのプロセスはもう文句なしなわけだが、「経験によらない関係性」は処女厨的な意識によって破壊される。
また、岡田と安藤が微妙に噛み合っていないのも大事なポイントだ。岡田と安藤は、同じく「変な奴」ではあるが、二人がいかに異なっていることか! 岡田が臆病なコミュ障なのに対し、安藤はかなり硬派のキチガイである。でまあ、この関係はかなーりギクシャクしている。特に、同じ女性をめぐる争い(?)になるあたりなどで一度は絶交が宣言されるほどだ。だが、最終的には安藤の譲歩によって関係性がなんとか保たれる。ここもかなりリアリティがある。二人の関係が保たれたのは、経験を経てお互いが成長したからである。もちろんこれはこれでいい話だ。だが、成長によって正当化された関係性は、幼い頃に夢見ていた、あの脆く儚く美しかった関係性とは決定的に違うものである。
ちなみにキチガイ的な話でいうと、森田が唯一仕留めそこなった相手が、同じくキチガイ枠の安藤であるという事実は象徴的だと思う。というか、森田VS安藤のシーンは空気感が本当に最高だった。間が神がかってた。最高の鍔迫り合いシーンでめっちゃお腹いっぱいになった。
本当は岡田君とユカの話を通してセックスの影響についても語りたいのだが、セックスのことは謎なので(なにせその……ええ。)、スキップ。
また、特筆するべきは森田と和草の関係である。この二人は、同じくいじめられっ子である。であるからには、普通の人々はここに連帯の契機を見出す。だが「ヒメアノ~ル」ではそんなことにはならない。森田は和草を恐喝し、金をたかり、そして殺害する。また、和草の方も森田に対しては全く好意を抱いておらず「あいつやべえんだよ!」と、恐怖と軽蔑の入り混じった感情を持っているにすぎない。繰り返すが、「同じくいじめられていた」は連帯の基盤にもならないし、「良い関係性」の基盤にもならない。そうなのだが、一方で二人がいじめられたことによる歪みはかなり長く尾を引いていて、大人になってからの人生を破壊してしまう地雷のようなものとして描かれている。そうなのである。子供時代の美しい関係性は、その脆さ故に崩れ去るが、いじめの悲惨な記憶だけは決して消えることはないのである。つまり森田と和草の関係性は、森田と岡田の関係性の裏番組であると言え、この見せ方もめちゃくちゃうまい。実際、和草と岡田のキャラクターは美しいほど対称的だ*2。
で、ここまで丁寧に丁寧にやった後、「ヒメアノ~ル」は最後にそっと、もうとっくの昔に崩れ去った、子供時代の美しい関係性を視聴者に見せてくれる。結局この映画でやってたことは、この美しい関係の「喪失後」をひたすらひたすら丁寧に描写するということだったのだと思う。もうすっげええげつないですこれは。喪失、喪失、喪失、喪失からの~~~~~~~~っ!
「ねえ、もう誰かと話した?」
「ううん、森田くんが初めて」
ここでもう声出して泣きはじめてしまった。うん、あのね、「ねえ、もう誰かと話した?」ってね、このセリフほど完璧なセリフを知らない。どんだけ怯えてんだよ!!! 他の奴と話をしていない可能性を探ってんじゃねーよ!! なによりだな……他の奴と話してたら他の奴のとこに行っちゃうんだろうな……みたいないじけ精神とかな……もうわかりすぎる!!!! このほとばしるコミュ障感に涙しないコミュ障はいないはずだ。このセリフで、同じくコミュ障である岡田は陥落したんだろうなあというね。もちろんこの時点で森田くんのことなんて何も知らないんだけどさ。だけど「変な奴ら専用のはきだめ」みたいな場所で、本当に同じ方向で変な奴に出会えた時の感動、安心感、そしてなによりも圧倒的感謝、そういうものが関係性を正当化してくれることは実際にあるわけで。そんで、その関係性のおかげで、一緒にゲームしたり、麦茶飲んだりできることがある。そのなんと美しく、そしてはかないことか……はかないことか、ということなんですよ。
補論1
ちなみに、「ヒメアノ~ル」はコミュ障、「FRANK」はキチガイ、「ザ・コンサルタント」は疾患の話なので、ちゃんと区別していこうな。具体的にいうと、「ザ・コンサルタント」をコミュ障で語るのはやめた方がいいであろうという話だ。
補論2
というか、「処女厨」は言われているほど普遍的な病気ではなく、かなり特殊な病気だと思うのだが、ホモソ内における男性獲得競争のロジックをそのまま女性に当てはめて結果として「処女厨」が生まれている仮説はどうか? 彼らが問題にしているのは「汚れている」とかじゃなくて、「処女男子=疎外されており、したがって自分と同じタイプである可能性が高いからアプローチするぞ~~」という戦略が、男性ホモソだと極めて有効であるのに男女関係だと全く使えないのにイラツイている、とか。実際、自分にピッタリの同性を見つける競争って結構システマチックで、かつ排他的じゃない排他性(つまりどういうこと?)が確保されてる分、男女関係のそれよりもはるかに洗練されているような気もするんだよな。で、そういう洗練された世界のロジックが全く通じないと、まあ幼い人がイラつくのは当然なんだよねっていうね。
補論3
サイコパス犯罪者がどうとかいう筋でこの作品を語ってる人、結構いるが、うーんという感じだな。
補論4
サイタマノラッパーの主人公とサイタマノラッパー2の主人公が婚約関係になっててワロタ。
翔鶴さんがボケて瑞鶴さんが「〇〇姉!」って突っ込む大喜利
「というわけでやって行きましょう」
「詳細は↓を見てね」
「お財布に200円しかなかった……」
「少額姉」
「私に100円くれないなら……あなたを殴ります」
「恐喝姉!」
「村役場からごみ収集業務を受注したよ」
「嘱託姉!」
「うぅ……敗戦です……」
「ポツダム姉……うぅ」
「将棋やってるといつも千日手になっちゃうんだよね」
「膠着姉!」
「体育会系の先生がお弁当を食べてそう」
「教卓姉!」
「対象を認識するためには意識の統一が必要なのです」
「統覚姉!」
「西洋の戯曲では数ページ続くこともある」
「独白姉!」
「こんな名前の天使、ドクロちゃんというのがいましたね」
「撲殺姉!」
「もし相手が裏切ったら、その瞬間2人の関係は終わるのよ……」
「協約姉!」
「そう……ここの音はピアノからフォルテへと上げていくんですよ」
「強弱姉!」
「元王族で今はVIPPERになってる美少女(18)だけど質問ある? 一応全レス予定 っと……(カタカタ)」
「没落姉……」
「来年度は予算がたくさんもらえるらしいから対空砲を注文することにしたよ」
「調達姉!」
「You wana hot bady?」
「悩殺姉!」
「まあ悩殺とは真逆の歌だけどね」
「このたびはご愁傷様でございます……」
(弔客姉…)
「瑞鶴!!! 水素水、飲もう!」
「じょ、情弱姉……」
「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし!」
「張角姉!」
「月が綺麗ですね」
「超訳姉!(ドキドキ)」
「艦隊における五航戦党の勢力を増すために、今日から駆逐艦の皆さんに飴を配ってみることにしたよ」
「党略姉! 謀略姉! 狡猾姉! 性悪姉!」
「やっぱやめます……」
「あなたは私の権威を尊重するべきでは???」
「高圧姉」
「今年はお米がたくさん実りました」
「豊作姉!」
「でも大豆のできは悪かったのです」
「凶作姉!」
「( ゚д゚ )クワッ!?」
「瞠若姉!」
「」
「省略姉」
「私たちは間違ってないし負けてない」
「忘却姉!」
「マックで女子高生と加賀さんが話してた」
「創作姉……」
「メスカリンを飲んでエッセイを書けば大作家になれる」
「倒錯姉!」
「マドレーヌを食べたら昔のこと思い出したよ」
「要約姉!」
「エミネムとACDC以外はゴミ」
「洋楽姉!」
「総理が死ぬと自動的に成立してしまう」
「倒閣姉!」
「↓こんなのを見つけたよ↓」
「葉脈姉!」
「!? ダイヤブロックが四個、鉄が六個あったよ!」
「鉱脈姉!」
「将来芸能人になったら絶対さらされるアレ」
「卒アル姉!」
「のわー! 昨日髪乾かさずに寝てしまった……」
「蓬髪姉~~~(かわいい)」
「案外新しい建物に使われている建材。神隠しに注意してね」
「モルタル姉!」
「あ……ハチマキが真っ白になってしまった」
「漂白姉!」
「支援に来ない遠征艦隊、実はあれサボりです」
「告発姉!」
「私たちの手下その二」
「城郭姉!」
「うげえ……に、苦い……」
「妙薬姉!」
「敷島の大和、美しすぎわろた」
「国学姉!」
「ウチだと、銀河とか月光」
「双発姉!」
「頑張って勉強しよう。そして立派な空母になるぞ!」
「篤学姉!」
「横須賀一区ははたしてどっちが取るのか……明日の朝には判明するらしい」
「当落姉!」
「おばあちゃんたちはかぼちゃと呼ばずにこう呼ぶ」
「唐茄子姉!」
「OK」
「承諾姉!」
「ここは荒野のウェスタンです」
「直訳姉!」
「いかがどすか」
「ようだすねえ」
「猫と犬と亀とインコを飼いたいな」
「欲張るねえ」
「今日の気分は?」
「Awesomeネー」
「あの……」
「空き地に風雲翔鶴城を建てて、そこの領主になったよ」
「城伯姉!」
「島ああああああああ!!」
「操舵手ね」
「ただの格下だし後追い勢でしかないので別に全然気にしてないですし」
「とうらぶね~」
「ヒント:瑞鶴の大事な人だよ」
「……!」
「翔鶴姉!」
「うふふ。正解」
やったね!
(おわり)
完全なる童貞のオナニー 「アイアムアヒーロー」感想
あらすじ
漫画アシスタント業鈴木英雄(35歳)は冴えない日常を送っていたのだが、ある日ゾンビの大量発生事件に巻き込まれてしまう。戦いを通して英雄はヒーローとなることができるのか……
童貞的には正しい作品
このマンガの原作は序盤の数巻を使って童貞ひねくれ底辺民描写をやる。そういう投資があるからその後のカタルシスが生きてくるのだが、この映画の底辺描写は、正直ぬるい! 部屋がきれいすぎる!(そこか?)
だけど、だからと言って童貞映画として失敗しているわけではない。ここ重要。
ちょっと一般的な話をしておく。日本社会で「童貞」といった場合、そこには二種類の含意がある。①ガチでセックスしたことがないタイプの童貞と、②セックスの問題とは無関係に童貞っぽい人の二種類。①を扱う場合には純粋にセックスが問題にされるけど、②はどっちかというともう少し広く童貞イデオロギーとか承認の問題が扱われる傾向にある。で、英雄君は彼女持ちなので、今作で童貞っていうのは②的な意味で使われる。
②っぽい童貞性に対しては、①のガチ童貞民から「お前彼女いるじゃん!!!」という批判がなされることがあるのだが、これは全く誤った批判であると言える。②的童貞性を語るのだと宣言している作品は、②的童貞性の次元で評価するべきであって、①的童貞性でその質を測られるべきではない。そしてこの線引を守る義務は①的な、言ってみれば原理主義的な童貞民の側にある。というのも、セックスをしたことがある童貞は、①と②の区別をなくして、両者の問題意識を混淆させてしまおうとするからだ。ただ①的な童貞だけが、童貞問題には①と②があるのだということを認識し、そのフレームワークで行動することができる。故に、②の場において①を持ち出すのは、本来存在するはずだった区別を掘り崩してしまうという意味で単に②的な人々を喜ばせるだけである。認識を守るために沈黙せよ、①の童貞たちよ!
で、②的な問題を扱う作品としてはほぼ100点満点。ロッカールームのシーンとかほんとすごかった。で、もっとすごいのは、この作品には①的な童貞もある程度乗っかれるようになっているということ。おかげで120点になる。
というのも、今作における銃というのはご承知の通り男根、家父長制的権力の象徴でまあようはペニスである。ペニスというのは実際セックスに使われることが多いのだが、①的な童貞にとってペニスはオナニー専用の器具である。だから、銃や剣でセックス的な描写をされても童貞は興奮できない。しかし今作における射精は、「女の子に見られながら欲望に向けてひたすらぶっ放す」という形態をとっており、つまりはどう見てもオナニーです本当にありがとうございました。①の童貞はセックスを理解しないが、オナニーなら完璧に理解できる。ここに気がついた制作陣に座布団をあげたい。最後のシーンなどは、もう散々オナニーして満足したおっさんめいた開放感を味わってる感じで、とてもよいのである。
文字通り「童貞のオナニー作品」として仕上がった「アイアムアヒーロー」、①的童貞でもある程度受け入れられる②的童貞映画である。よくできてる。
ただ微妙だなと思った点もいくつか。一つは避難所が明確にジェンダー分業してたことなんだが……うーん、ほんとにこうなるんかね。男側がいかにもクソ雑魚めいた男子ばっかりなので、なーんか説得力ないなと思った。こんなクソ男子じゃ権力握れんだろ。
もう一つは女子高生ひろみさんの描き方。まあ原作マンガだとすべてが丁寧だからまあいいんだが、映画のテンポだとこう、JKが幼児化することの必然性がまったく感じられず、「おっさんはやっぱり幼児化したJKを飼いたいのか……」って感じになるので正直キツかった。
普通に面白いけど……悲しいお話。「ドント・ブリーズ」感想(ネタバレあり)
ドントブリーズを見てきた。
うーん。宇多丸ラジオとかで絶賛されてるほどか……? という感じはしたが、まあ普通に面白くはあった。
盲目の老人が暮らす家に、悪ガキ三人(崩壊家庭出身のヒロイン、DQN、ボンボン)が侵入して金を盗もうとする。しかし盲目の老人はイラク戦争で戦傷した退役兵で、悪ガキたちを撃退していく……という話。最後にもうひとひねりもあり、たしかに全体としてみれば楽しい。序盤のカメラワークも非常に洗練されており、必要な情報を何気なく効率的に、そして緊張感を維持させながら視聴者に伝えていると思う。個人的にはここで成功していたおかげでなんとか「もった」映画だと思う。後半からの展開は馬鹿みたいに粗いのだけども、序盤の投資が生きてるおかげで緊張感がちゃんと維持されていた感。
犬が来るシーンから始まって、個人的にはビビりまくったので、まあホラー(?)映画としては楽しめたのではないか? ただちょっと説明が欲しいところも何点かあった。
以下、箇条書き。
・家主が最初の睡眠薬を回避できたのはなぜ? ここ解説あるもんだと思って見てたけど結局なにもなかった。多分カットされたんだろうが……うーん。序盤のカメラまわしによる紹介が非常に洗練されていた分、ここの説明無かったのは映画のクオリティを落としてしまっているような。
・去勢っぽい一撃が実はDQNに対するものでした……というところはちょっと無理がないか。というのも、タイトルからは「ブリーズ(息)」、つまりは音探知が盲人家主にとっての索敵手段になってるみたいな印象を受けるが、家主はあきらかに「臭い」でも索敵してるので、DQNとボンボンを嗅ぎ分けるくらいのことは絶対にできるはず。また、この家主ほど用心深い人物であれば、「敵を全滅させたと思ったら実は他にもいた」的なミスを二回やらかすのはありえないはずだ。だからボンボンが生き残るのが本当に納得感薄い。なんというか、「盲目だけどこいつ最強」的な描写を全面に押し出す一方、トリック的な部分では「盲目だから見えてませんでした」を使って話を作るのはちょっと個人的にズルいんじゃないのと思った。まあ面白くはあるんだが……。
・なんか「私はレイピストではない」発言に対して首肯しちゃう男性がいるとか思ってる人がいるらしいが、あれは誰がどうみてもただのレイプである。ただ思ったのは、なぜ金持ちの娘の口は縛っていたのに、侵入してきたヒロインの口を縛らなかったのかということ。これは明らかに、盲目の家主がコミュニケーションを志向していたことの現れである。それが単なる加虐心からくるものなのか、それとも彼なりに人との交わりを求めた結果なのかは知らないが、何かしらコミュニケーションをしようとした意図は確実にある。つまり家主は「トライしたけど失敗した」タイプのコミュ障であるから、余計つらい。精子を解凍していた時の発言から見ても、家主は戦争と娘の喪失という体験を通して信仰(象徴的にいえば、道徳とか倫理といったものすべて)を失ってしまった人なわけである。あきらかに「元々普通の人だったのに、ああなってしまった」人である。ポスト道徳の存在である家主をナイーブな判断で安易に攻撃して悦に入るのはこの映画の見方としてあまりに浅いとしかいいようがない。我々は誰でも盲目の老人になりうるという教訓を忘れてはいけない。
・最後の脱出の直前シーン、家主がボンボンを射殺するわけだが……。なぜ地下から這い上がってこれたのだろうか。もし手を切断とかなら分かるのだが。まあ、そうするとあまりにも陳腐だけれども。
・トランクはもっとうまく使えたんでは。なんというか、「てんとう虫=解放」みたいな象徴は最初から最後まで一貫して強調してるけど、なんかあからさまでちょっとさめた……。序盤にわざわざ口で「トランクは一度閉じ込められたら出てこれない場所」とか説明するシーンを入れるなら、犬がバウバウ言いながら出てきちゃダメだろ……と思った。いや、出てくるからこそ効果的とも言えるが、しかし事実上のラスボスが犬というのもなんというかねえ。まあ最終的には犬の監禁に成功するのでまあいいのかもしれんが……
・あと最後、女性の扱いとして、アメリカだとあのヒロインを殺せないのは分かるんだが、「お前を追っているぞ……」的な圧力をかける形で終わらせるのは殺すのより酷なんじゃないかと思った。あれは続編のアピールでもなんでもなくて、単に「オンナが犯罪!? スイッチ入った! 絶対に追求する!!!!!」的なセクシズムの落とし所だと思うんですよ。だからなんというか、生存させることによって差別心を温存するのに貢献するタイプのオチだったと思われ、個人的にはヒロインも殺しといた方がいいんじゃないかな~~~とは思ったよね。
・スタッフロールで盲目の家主が「The Blind Man」の役名でクレジットされてて、まじでつらかった。つらみの極み。
まあ、全体として悲しい映画だったな。こういうのの前では童貞はマジで無力だ。
「異性愛者へ12の質問」への解答
まとめ:異性愛中心主義を相対化した結果がパートナーがいて当然主義とか、涙が出ますよ……
1.あなたの異性愛の原因はなんだと思いますか?
愛を因果関係から理解しようとする人たちは二種類に分けることができます。恋愛工学者と恋愛小説家です。あなたはどっち?
2.自分が異性愛なのだと初めて判断したのはいつですか?
判断できるほど仲良くなった異性いません(苦笑)。
3.異性愛は、あなたの発達の一段階ではないですか?
もちろんそうでしょうね。どう変わっていくかはわかりませんけど、変わってはいくでしょうね。
4.異性愛なのは、同性を恐れているからではないですか?
私が今まで会った中で怖いなと感じた人は、脈絡なくマジギレする類の人たちだけなので、そういう連中は性別に関係なく怖いとしか言いようがないです。
5.一度も同性とセックスをしたことがないなら、なぜ、異性とのセックスの方がよいと決められるのですか?あなたは単に、よい同性愛の経験がないだけなのではないですか?
はい。じゃあ私とセックスしてくれますか?(ウェルベック並の返答)
6.誰かに異性愛者であることを告白したことがありますか?
その時の相手の反応はどうでしたか?
あるけど信じてもらえないことが多いです。
7.異性愛は、他人にかかわらない限り、不愉快なものではありません。それなのに、なぜ多くの異性愛者は、他人をも異性愛に引き込もうと誘惑しようとするのでしょうか?
ナンパとか出会い厨とか合コンは全部クソだって最初から言ってるじゃないですか。私の話聞いてなかったの?
8.子供に対する性的犯罪者の多くが異性愛者です。あなたは自分の子供を異性愛者(特に教師)と接触させることを安全だと思いますか?
だから生徒と結婚してカリフォルニアにサバティカってるような教員を殺す法律を作ろうぜと一貫して言っているんだ。
9.異性愛者はなぜあんなにあからさまで、いつでも彼らの性的志向を見せびらかすのでしょうか?なぜ彼らは普通に生活することができず、公衆の面前でキスしたり、結婚指輪をはめるなどして、異性愛者であることを見せびらかすのでしょうか?
うん。だからそういうのよくないよねってずっとずっと言ってるじゃん。誰に向かって聞いてるんですか?
10.男と女というのは肉体的にも精神的にも明らかに異なっているのに、あなたはそのような相手と本当に満足いく関係が結べますか?
まず、ある人間関係から得られる満足度って、二人の間に存在する差異の大きさによって上がったり下がったりするものなんでしょうかね。その世界観がちょっと受け入れがたいです。差異がないからうまくいくこともあるし、差異があるからうまくいくこともありますわな。
11.異性愛の婚姻は、完全な社会のサポートが受けられるにもかかわらず、今日では、一年間に結婚する夫婦の半分がやがて離婚するといわれています。なぜ異性愛の関係というのは、こんなにうまくいかないのでしょうか。
完全な社会のサポートを受けているからでは??? 迫害されるほどラブラブになれると思うよ。 迫害意識コンプレックスラブラブが私の理想なんですよね。いじめられっ子同士傷を舐め合う連帯が至高。
12.このように、異性愛が直面している問題を考えるにつき、あなたは自分の子供に異性愛になってほしいと思いますか?セラピーで彼らを変えるべきだとは思いませんか?
まずさ、あなた子供いるっしょor将来的に子供持つっしょ? みたいなのやめませんか?
それと、現代のオタクは自分の娘が同性愛者だと知ったら泣いて喜ぶと思う。
姫が誕生する物語 ローグ・ワン感想【ネタバレあり】
ローグワン見てきた。脚本とか、特に前半のキャラ紹介に関していうと映画としてのクオリティは高くはないのだが、最後の最後で唐突に涙腺が崩壊してしまった。なんかわからんけど気がついたら号泣してた。
この映画、理不尽に降りかかってくる個人的なつらみを、チームワークとラブラブ力によって自力救済する話である。その上で、自力救済の結果生まれたものを希望と呼び、それ対して積極的な価値、つまりみんなで共有できる価値を与えているという映画でもある。そして物語りを進める上で、極めて純度の高い姫ー取り巻き関係を用いており、童貞とも親和性が高い。つまりは殉死系救済映画の一歩先を行く、肯定力に満ち溢れた作品だと思う。
1あらすじ
帝国の兵器開発者ゲイレンを父に持つジンは、反乱同盟軍から、生き別れの父が同盟軍との接触をはかろうとしているのを知らされる。ゲイレンは帝国軍の究極兵器であるデススターの開発責任者で、兵器の破壊方法を誰かに伝えようとしていたのだ。ゲイレンからのメッセージを受け取ったジンとその仲間-ローグ・ワン-は、デススターを破壊するために必要となる設計図を手に入れるため、帝国軍のデータセンターがある惑星スカリフへ向かうのだ。
2ローグ・ワンメンバーとレイア姫との間にある距離感
とにかく最後、レイア姫が登場するシーンのための映画だった。レイア姫、後姿だけなんだろうなーと思っていたのだが、予想を覆して顔出ししてくれたので、なんというかあの瞬間にすべての緊張が解けて泣いてしまった。絶望ではなく希望で泣けたのが本当によかった。
で、レイア姫っていうのはやっぱり「姫」だなとなった。「ローグ・ワン」は完全に姫映画だと思う。*1とにかく姫性の物語においては、姫⇔取り巻きの距離感をどう描くかがすべてだと思うのだが、その点今作の描写はほとんど完璧だったのではないだろうか。
①姫と取り巻きの接点なんて無いんだよ!
「ローグ・ワン」はまず登場人物からして、みんな地べたをはいずりまわるような連中である。つまり、姫との階層的距離が半端なく大きいのだ。強制労働施設で働くジン、失職中の聖地守護者ティルアートとベイズ(聖地は帝国軍によって占領されてる)。みんな、エリートとか王族とかじゃなくて、苦しむ平民である。そして個人的に一番ぐっと来たのは、キャシアンのキャラクターだ。この反乱軍所属の将校、かなり汚い仕事もやっている。スパイとか、暗殺とかね。命令で意に沿わないことをやらなきゃいけない人、現代にはたくさんいる。でもそういった組織圧力によって道徳的に追い詰められつつも、大儀、つまり自分が信じている価値のためにどうにかこうにかがんばってるキャシアン君、このぎりぎり感はすごく共感を誘うと思う。まとめると、ローグ・ワンのメンバー、実は姫と無縁なのである。ちょうど、サークルに入ってない大学生のように。
②ラブラブ力は自給自足のローグ・ワン!
こんなデコボコメンバーからなる謎チーム、ローグ・ワンなのだが、このチーム内では実はいたるところでラブラブな関係が成立している。つまりローグ・ワンのメンバーは感情的な水準でも姫たるレイア姫との間にかなり距離がある。というか、親密さに関していえば、ローグ・ワンは完全に自給自足的な集団なのだ。たとえば不思議ちゃん枠のティルアートと、そのティルアートにつき従う仕事人のベイズ。この二人はすごく仲がよろしい。とくにベイズが「しょうがねえなあ~~」とかいいながらティルアートについていくのが可愛い。それにキャシアンとドロイドたるK-2SOの関係。これはフルメタとかにおける宗助とアルのそれに近い関係性で、普通は「ドロイドが人間性を獲得した~~」というところにピークを持ってくるような関係である。ただ今作においてドロイドのK-2SOはすでに人間性を獲得しているので(かわいい)、キャシアンとK-2Oの関係はいわばルート確定後のカップルみたいな没入感がある。端的にいえばラブラブである。K-2SOが弁慶よろしく、「敵をだますためとはいえ、はたいてごめんなさい」とかキャシアンに言ったりするのだが、かわいいのうとなる。AIキャラ特有のオフビート感がすばらしい。ビッグヒーロー6におけるベイマックスやタイタンフォール2におけるBT君に続き、K-2SOも登場して、最近は人間性を獲得したAI君が活躍していてうれしいね。まあただ、唯一ジンだけは明確に相手がいないのでアレなのだが、まあジンさんは父や養父と和解するからいいんじゃないですかね(ホモソ民並の感想)。あと最後キャシアンといい感じになるし(死ぬけどな)。
さて、ここまでの議論をまとめると、つまりはこういうことである。①ローグ・ワンは地べたをはいずりまわる平民からなるメンバーであり、上流民のレイア姫とは階級的な接点は一切ない。そもそもメンバーとレイア姫の会話シーンすらなく、②ローグ・ワンのメンバーは親密な関係に飢えているわけではない。したがって、ローグ・ワンのメンバーは「AKBセンターの人はキリストを超えた!」的な水準でレイア姫に依存することは絶対にない。しかし、この距離感と乖離がありながらも、いや、この距離感があるおかげで、レイア姫は完璧な形でローグ・ワンメンバーにとっての姫となることができた。ここに「ローグ・ワン」という作品のすばらしさがある。
3、みんなの希望、みんなの姫、みんなのスターウォーズ
「ローグ・ワン」という作品における姫の機能は、救済と見せかけつつ実は救済ではない。まずここがすごい。全滅エンドの物語において、普通姫ポジションの役割は意味もなく死んでいったメンバーたちに「意味があったんだよ〔にっこり〕」とやることではないか。だがレイア姫はそういうお姫様ではないし、ローグ・ワンのメンバーもそういう水準の取り巻きではないのですごくカッコイイ。しびれる。
①自ら勝ち取った「救済」
そもそも、レイア姫の存在を意識して戦っているメンバーは一人もいない。大事なことは、メンバーは自分たちの手で自らのための救済をやり遂げているということだ。設計図を反乱同盟軍に届けるという目標を、とにもかくにも達成したことを自覚した上で、ローグ・ワンのメンバーは退場する。自分たちのやったことに対して「これは意味があったんだ」という承認は、この作品においては他者や神から与えられる何かではない。メンバーたちは自分たちで救済を勝ち取っている。
もちろん全滅エンドはそれ自体悲惨なオチではあるのだが、しかしメンバーたちが自らの力で救済を勝ち取ったおかげで、この作品からは安っぽい絶望が完全に取り除かれている。よくあるような、絶望に対して姫ポジションのキャラクターが救済を与える話にはなっていない。そうじゃなくて、救済の問題を解決した後には、実は希望が残るんだよという話になっている。ここが最高だと思う。伝統的なストーリーって「認められさえすれば実益なくてもいいじゃん。人生は歓びだよね☆」みたいなメッセージが多いと思う。承認と救済が調達されましたね、はい終わり的な。だが、だからなんだという話なのだ。だんだんに。
②姫ー取り巻き関係の純化
絶望が排除されていることによって、ローグ・ワンのメンバーとレイア姫の関係が純化されているのも興味深い。妙な話だが、姫-取り巻き関係の面白いところは、両者がお互いの存在を認識していなくても成立するところにあるわけで、「ローグ・ワン」はこのあたりの要素をうまく利用していると思う。もしメンバーとレイア姫が顔を合わせていたら、即座に「個人的忠誠」「個人的救済」「ワンチャン」「可能性」などのきな臭い要素が侵入して、全てを台無しにしてしまったはずだ。だが先述のとおり、ローグ・ワンのメンバーは姫との間に個人的な接点はなく、またそれぞれがラブラブ状態のお相手をちゃんと持っている。その意味で、取り巻きたるローグ・ワンと姫たるレイアは、ただ「帝国をぶち倒す」という一点のみでつながっている。この純化されたつながりのおかげで、ローグ・ワンメンバーのがんばりは、ただ「希望」という名の極めてキレイな、みんなのものという形を取って姫に継承してもらえたわけである。希望概念があまりにもキレイすぎるので、レイア姫がディスクを受け取る瞬間には、これは本当にみんなの、つまり俺の希望でもあるんだなあと素直に思えるわけで、文句なしの大傑作だと思う*2。絶望ではなく希望で泣ける日が来るとは思わなかった!! ありがとう!!
4、もろもろ
・これはしょうもない話だけど、スターウォーズサーガで、しかもディズニーによる買収後に作成されたスピンオフという、極めてきな臭い状況下における解答としても完璧な作品だったろうと思う。
・同盟艦隊がハイパースペースから出てくるシーンはやばい。「この距離感かああ
!!!」となる。
・リズ・アーメッド君いたね。脱走パイロット。あの自信なさげな雑魚男子キャラほんと好き。心から応援してる。どんどん映画でてくれ。
*1:私は以前、↓
というエントリーで姫についてちょっと考えてみたのだが、私の理解では、姫とは「みなから愛されるが、決して誰のものにもならない存在」だった。前から問題意識として、「姫と取り巻きとの距離感って、なんか安心できるよな。あれなんなんだろうな」というのはあったのだが、「ローグ・ワン」という映画を見てより姫理解が深まったような気がする。
*2:なので、序盤の仲間紹介パートがチームの連帯意識よりもカップルのラブラブ感を押し出す演出になっているのには演出上の理由というか、トレードオフがあるんだとは思う。まあ、「ガーディアンズオブギャラクシー」的なスムーズなキャラ紹介って、カップリング紹介とは相容れないっすよ。カップルいたらチームの凝集性〔専門用語〕が下がるのは当然だろうっちゅう話ですわな
童貞とかフェミニズムとか。
・逃げ恥とかが「童貞」とかいう筋で語られてるのがマジでキツイ……
→「なんでお前みたいなのが童貞名乗ってんだよ殺すぞ……」というケースが多すぎる……奪われてる……奪われてる……となる。
→童貞を名乗るかどうかを決めるのは個人の権利だろ。同盟候補者は多い方がいいので、童貞を名乗るハードルは積極的に下げていけ。
→どっちかというと「語り」の道具に使われてるのがムカつく。
・「保育業務を市場に外部化すると月18万円、内部化すれば夫の収入の9割ゲト。だから家事労働その他諸々は市場に外部化せずに家計で内部化した方が合理的」というツイートを見た。アホだなあと思うのだが、こういうレベルであからさまにやってる人が「知的」な反動童貞のイデオローグなのだと思うとマジでキツイ。
→そもそもこの議論は保育業界の賃金水準は規制で決まっているもので、市場競争の結果決まっているわけではないという前提をすっ飛ばしてるので無知そのものなんだよなあ。しかも都合いい時だけ「賃金=生産性」とかいう論理を金科玉条の如く持ち出して女叩きするとか論法としてバカすぎる。
→そもそも童貞ムーブメントに再分配っぽい議論をぶち込むやつらは全員アホだと思う。いや、アホというか、少なくともああいう連中とは一緒にはやれないなと思う。骨の髄までマチズモに染まってる人たちがもし連帯する基盤があるとしたら、やっぱり比較可能性=数値化できるあらゆる要素を徹底的に排除しなくちゃダメなんじゃないかな。つまり「でもお前所得500万円じゃん!」とか「お前そんなこといいつつラインアカウント100個持ってるじゃん」とか、そういうバカな競争を始める余地を排除しなくちゃならない。だから変な理屈をこね回すよりかは、単に「恋人いない歴=年齢」とか「未経験」の方が連帯の基盤としてはるかに筋が良いだろうに。分かりやすいし。
→連帯の基盤とかいいつつ、これ(=童貞の承認問題)って連帯して解決するべき問題なんですかね?
→当たり前だろ。
→キモい、という反応が当然あるだろう。しかし、両者が手を組まないとすれば、それは端的に「分断」といわれてるやつなのではという気はする。少なくとも非モテ男性は結構フェミニストにアタマなでて欲しい感じはあるっぽいしな。
→「フェミニストの言うこと聞いたのにもてナイじゃん!」論については、個人的には間違いだと思っていて、別にモテを期待していたわけではないんだと思う。どっちかというと「フェミニストの言うこと聞いたから褒めてよ!」が正解というか、ようはかなり低い水準の承認が欲しいだけなんだろうなという気はしている。まあフェミニスト側からすればマジでふざけんなという感想だとは思うのだが、褒めるだけでザコ男子との同盟を確保できるなら褒めた方がクレバーなのでは?(暴論)という気はする。それにまあ、フェミニズムとかに理解がある(という体の)男子が増えるというのはどう考えても進歩なので(だよな?)、喜ぶべきでは? とは思う。
→それに一応ザコ男子代表として言わせてもらうと、最初はふりだったけど、最近はマジで露骨なミソジニーとか性差別に乗っかれなくなった。こういう意識の変化ってやっぱりあるもんなんだなあとは思う。
→というかもっと言うと、ザコ男子の周りには本当に一人も女性がいないんですよ。モテ以前の問題。例えば私は女性とラインしたこと無いし、大学時代にゼミ以外の女性と話したのは多分2回くらい。あまりにも女性との交流が無いので、だから、「女性はどんなことを考えてるんだろう???」という疑問からフェミニズム本を手に取るという経路が一定数あると思う。ある種、リアルな女性像を求めて本を取っているというか。まあ私はこの筋です実は。恥を忍んで言うと、もう少し偏差値低めのカルチャーに属していたらモテ理論とか、ナンパとか、情報商材っぽいのにハマってただろうなという感じはあり。まあなんだ、『ジェンダートラブル』と『ザ・ゲーム』は、女性のリアルを知りたいという欲求に応えてくれるという意味では、無知な非モテ男子の中で普通に競合する商品なんだよなあというか、こういう悲惨な知的環境にいる非モテ男子、同情に値するよね……となる。
→あと関連して、「今の若い男性の母親はキャリアウーマンなので、マザコン男子は自立した女性=フェミニストが好き」という理論について。
→個人的にはそこまで外れてない議論のような気もする。私も自立した母親をかなり尊敬しているしな。
→関係ないが、私の両親は同じ職業で、母の方が先に出世して管理職と化したという状況なのだが、なんというかフェミニストが好きそうな状況だなと思った。父からすれば「面白くない」展開だと思うし、実際父は一時期メンタル的に荒れてた感はあった。でも母に対して怒ったりはしなかったし、母も父のことは尊敬しているので、今は乗り越えた感があるのでいいなとは思う。実はわたしはもっと荒れると思っていたのだが、父が変化を飲み込んだという感じだったので、まあ普通に立派だなあと思う。こういうのに対して「当然だろ!!!」と言ってしまわずに、今の社会状況ならまあ威張るほどではないにしろ立派ではあるという形で承認を与えていく地道な作業があるかないかでだいぶ色々変わるのではないか、とか思ったりする。
・童貞ムーブメントは積極的価値を打ち出すべきか?
→「成長!」みたいなのはもううざいので、とりあえず承認を求めていけ。
→経済と再分配の話はしません。年収やら教育を受けた年数の話をした瞬間連帯の契機は失われます。
→そのマチズモ病を治せ! という話はあって当然なんだけど、これは多分一人で直すのは無理。マチズモ的傾向はいろんな人とのコミュニケーションの中で修正されるべき、あるいはコミュニケーションの中でしか修正され得ないものだと思うのですよ。だから順番として、問題を解決してから連帯、というのは成立しない。まずはワンイシューで連帯し、連帯の結果としてのコミュニケーションがあり、最後に相互理解=マチズモの解消があるのだと思う。
→そもそも童貞が求める「承認」ってどうすれば満たされるんですかね。セックスしたらいいのか、恋人出来たらいいのか、それとも、単に「童貞でもいいんだよ」と言ってほしいのか。
→このあたり、「童貞は家父長制度に過剰適応した結果世の中から取り残されてる」と見るか「童貞はマジでそういう連中なんだよ。。。(特に説明はいらない)」と見るかでかなり話は変わってくる。無論、事実としては色々な要素の複合体として童貞があるとは思う。ので、とりあえず「野蛮な単純化と回収はやめてください!! いろんな童貞がいるんですよ!!」くらいは言ってもいいのではないかな。
→その意味でもやっぱり「童貞の多様性」って大事だよな。単純化とか回収を避けるためには複雑化する必要があり、複雑化するためには多様化が絶対必要だ。
→だからまあ結論としては、いろんな奴らが勝手に「童貞」を名乗ったり、童貞に関するいろんな語りがある現状って、そんなに悪くもないのでは……
→いやいや、センセーショナルな利用と承認とは分けて考えろよ!
→ドラマやらアルファツイッタラーに負けるな!!!
→俺も童貞として出撃していかなくちゃならねえ。俺も一翼を担わなくちゃならねえ。