やっぱりロマン主義と夢はズッ友! リヴェット『嵐が丘』感想

 新文芸坐ジャック・リヴェットの『嵐が丘』を見てきた。うん。非常に勉強になった。大寺眞輔さんの講義を聞く度に思うが、これこそがインテリの仕事だ……となる。

 とりあえず映画自体の一次的な感想は「ちょ、ちょっと待って!! ロマン主義が入ってないやん! ロマン主義が見たかったから『嵐が丘』を注文したの!」で、ザ・淡白映画だな……という感じだった。だって『嵐が丘』ですよ。パッションと感情の殴り合いになって欲しいじゃないですか。が、そんなことはなく、件の名言も流されていたのでかなり肩透かしという感じだった。あと、語りの構造が『アマデウス』っぽい感じ(つまり二重構造)になるもんだとばかり思っていたのだが、リヴェット版『嵐が丘』は非常に一次元的な(古典的な?)語り文法で終わってしまったので、そこもちょっと残念だった。回想とか、あるいは日記や手紙というものが持っている悲劇性というか感傷性、もう何もかも手遅れなんだよ感は、ロマン主義的演出に必須のアイテムだと私は思っているので、正直、第一次の感想は「お前ことごとく外してきやがんなリヴェットこの野郎……」であった。

 しかし、大寺眞輔さんの講義を聞いて、リヴェットが彼なりに『嵐が丘』に対してアプローチしていたことが分かったので、色々と納得できた。例えば、屋内の構造が迷宮めいていて、それが窒息感の演出や原作が持っている入れ子構造の再演に貢献しているという論点はすごく確かになとなった。やっぱり屋内映画だと「この建物の間取りどうなってんの」的視点は必須だと思い、私も気をつけてみていたのだが、普通にカオスすぎて正直ちょっと不気味だった。たしかにこの込み入ってる感じが非常に『嵐が丘』っぽいとは思う。

 講義で一番おもしろかったのは、リヴェットは非常に自然主義的に『嵐が丘』をやってるんだという話。非常に興味深かった。うん、その通りなんですよ!! でもそれは「アンチ・ロマン主義」なのではなく、リヴェット的な『嵐が丘』表現なのだ、という気もしている。たしかに、ウィリアム・ワイラー的な演出は、ロマン主義のクソダサイ側面が全面化しているので、そういうのと距離を取って『嵐が丘』をやってくれたのはそれはそれでありがたいことなのだなと今は思う。というか、ロマン主義と距離を取りながら自然主義的にロマン主義をやると、ある種ロマン主義が向き合うのが不得意な「現実の陳腐さ」みたいなものとちゃんと向き合える分、その陳腐さの中にしかしちゃんと存在している感情がかなり洗練されて、というか先鋭化されて描かれているのだという考え方もできるよな、と思っており、そういう視点で見ると中盤の盗み聞きシーンは非常にいいシーンだと言えると思う。この考えに至れたのはかなり収穫。

 ちなみに、講義では触れられなかった論点として、「時間」とか「執念」の話をあげておきたい。私見ではあるが、『嵐が丘』を語る時には、時間とか執念の問題を避けて通れないと思う。両者とも極めてロマン主義的な代物だし。小説では、ある意味で作品をサーガモノにしてしまうことで上記の問題を扱っているわけだが、ではリヴェット版ではどう扱っていたのかというと、それは「夢」によって扱っていた、と言えると思う。大寺眞輔さんは夢はバタイユの影響と言っており、それは史的には正しい理解なのだろうが、私はリヴェットの夢表現にロマン主義をビンビン感じた。夢は時間を超越できるので、作中における時間経過を夢によってつなぐのは手法として非常に映画的であると同時に、実はロマン主義っぽいよなと思った。このあたりにリヴェットのエミリー・ブロンテリスペクトを感じることができるのではないかと思う。そして何より、「夢」は「執念」も象徴しているのが私的にグッドポイントだった。リアリティのラインをちょっとズラしてしまうほど想ってるんですよ、というほとばしる情熱を、どうにか陳腐な現実と同居させる方法があるとしたら、それはいろんな意味で「夢」でしかありえないのだろう。やっぱり、ロマン主義と夢はズッ友! なのである。