2017年のバブミ描写はデマンド・サイドから描け! 『湯を沸かすほどの熱い愛』感想(ネタバレあり)

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 新文芸坐で『湯を沸かすほどの熱い愛』を見てきた。うん、よかった! 母性映画なんだけど、「母親の献身!!」で勝負する映画ではなかったので安心して見れた(そもそもそんな映画、2017年に見たいと思うかね?)。私の整理によれば、母性とは「女性が特有に持っている能力」ではなく、「子供性に対してケアと包摂を提供する態度」である。その意味で、実は母性を描く上では供給サイド(例:あの子のために服作ってあげたよ)を描くだけではまったく不十分で、需要サイド(例:この子はなぜ服が欲しいなどという甘えた態度を取っているのか???)の説明が必要となってくる。ところがこの文脈で、「甘えの需要サイド」とでも言うべき側面を描くのは極めて難しい。なぜなら、我々は甘えたクソガキを見せられるのだが大嫌いだからである。深夜アニメでも嫌なのだから、金を払って見る映画ではなおさらである。さて困った、どうするか? という問題に対する回答が『湯を沸かすほどの熱い愛』という作品である。

 『湯を沸かすほどの熱い愛』がなぜ甘えたクソガキを観客に見せつけるのに成功しているのか。その答えは一つ、リアリティがあるから、である。この映画、子供が本当に子供っぽい。子供が映るたび、「うわつ! このいじけ方、俺もやった!」とか「この喋り方完全にちっちゃい頃の俺なんだが……」みたいのが連発されるため、この映画はまず第一にケアの対象である子供の子供性みたいなものを極めて強い説得力で観客に示すことに成功している。ゲロを吐いたりお漏らしをしてしまうシーンとかの使われ方も非常にうまい。まあ、「あ^~~~批評家好みっぽいんじゃ^~~~~~」とはなる演出ではあるのだが、それでも有効であることに変わりはないわけで。説明がない、ということは、美的な美しさを調達するのにも役立っているし、「子供って謎なことするよね」的な子供あるある感の調達にも貢献している。結果として非常に高いレベルで子供性のリアリティが出ているのだと思われる。

 そして「子供性」を語るのに成功したのなら、もう勝負はついているのである。つまり、一定のケアを必要とするところの「子供性」がしっかりと描かれてしまえば、供給の納得感もまた非常に高まる、と私はこの映画を見て感じたのだった。こう書いてしまうと、「女性には遺伝子レベルで母性がインプットされてるから赤ん坊を見ると母性目覚めちゃうんですよ」的な文章に見えなくもないのでアレなのだが……まあ、私の「母性」定義は冒頭に書いている通りである。「無償の愛」路線の母性が完全にオワコンと化した今、我々は供給サイドからの母性映画(お母さん頑張ってるんやで!!「だけ」の映画)を見ても全然楽しめない、というのが前提である。その上で、ではもし「お母さんの愛情」なるものに我々が納得する余地があるとすればそれって何なのよ、という風に考えることで、母性をなんとか救い出そうという試み。それが『湯を沸かすほどの熱い愛』なのではないかと思う。この試みの良し悪しはあるだろうけれども、個人的には好きなタイプの挑戦だったと思っている。

 ちなみに、私はこの映画のオチはすごく嫌だった。まあなんというか、私の宗教的な保守性とでも言えばいいのかなあ。うーん。いや、いいとは思うのだが、しかし……うーん。っていうかフォントも嫌だったし。まあ、ああいう感じで最後シリアスラインを崩さないとヤバすぎるオチではあるだろうから、いいと言えばいいのだろうかねえ。