話は賞味期限切れ。でも映画としてやっぱりすごい『グラン・トリノ』感想


グラン・トリノ(予告編)

 

 新文芸坐で『グラン・トリノ』を見てきた(昨日だけどね)。まあなんだ、やっぱりスクリーンで見るといいな!! となるいい鑑賞でした。ちなみに作品自体を見るのは四度目。

  まあ、とりあえず話自体は賞味期限切れである。我々が直面している分断の溝はあまりに深く、2017年に『グラン・トリノ』的な主張はもはや虚しいだけである。結局、現実から目を背ける盲目な保守派の行き着く先は、『グラン・トリノ』的解決では決してなく、あくまで『ドントブリーズ』的な闇なのだなあ、ということだ。悲しいなあ。いやほんと、話ずれるけど、自分の将来像として考えた時に、『グラン・トリノ』がエロ漫画並のファンタジーでしかないのに比べ、『ドントブリーズ』は圧倒的説得力を持っていると思うんですよね。俺は将来「Blind Men」になってしまうんだよ。怖え怖え。

  が、まあ、ストーリーは別にしても、やはりこの映画は完成度が非常に高い。まるで洗練された短編小説のように、教科書的に比喩が使われており、普通に勉強になる。で、ここは恥をしのんで、四回目に視聴した私の気づきポイントを一つあげておく。ちなみに「お前それ気がついてなかったのかよwww」と笑うなかれ。かのミロス・フォアマン監督も言っているように、「観客は明確には分かっていなくとも、小さな違いを無意識のうちに必ず察知することができる」のであり、そこにあるのは単に、言語化できる/できないの違いでしかない。そしてその違いは相対的にどうでもいいものでしかないのだ。

  でどのシーンかというと、最後のクライマックスで、タオが地下室に閉じ込められるシーンだ。自分がはめられたことを悟ったタオは、地下室の出入り口となっている鍵付きのフェンスをガシャガシャと揺らしながらウォルトに訴える。自分を連れて行けと。しかしウォルトは断り、彼は自分の本心をタオに伝える。

  懺悔である。フェンス越しに本心を伝える、ってまんま懺悔なのだが、私はそのことにまったく気がついていなかった。直前の、教会で童貞のパードレに懺悔するシーンが明らかに喜劇的タッチなのにはもちろん違和感を覚えてはいたが、じゃあなんでああならないとダメなのかはまったく理解できていなかった。あの喜劇的タッチは、ウォルトにとっての真の懺悔(タオに対する本心の吐露)シーンを盛り上げるためのタメだったというわけですね。

  なんで今回気がついたかというと、まあ多少の知恵をつけたというのもあるけど、一番は劇場が良かった、ということだ。『グラン・トリノ』は後半に行くにつれてカメラのキレがどんどん良くなる映画で、例えばタオ宅が銃撃を受けた後、ウォルトとパードレが家で話すシーンなんかもうすごい緊張感で、これを劇場で見ると、すごい圧倒されてしまう。そして圧倒されているからこそ、ああいうカッコイイ表情の映し方を平気でやるスタッフが、なんでウォルトがタオにぶちまける大事なシーンをフェンス越しで撮るんだよ! という巨大な違和感を観客に抱かせることができて、でそこまで思考が至った瞬間、視聴者もやっと気がつくことができるわけである。ああ、あのシーンはウォルトにとって本当の懺悔の瞬間なんだ、本心をさらけ出すことができた瞬間なのだ、と。

  真の懺悔をするためには、教会組織や敬虔な神父がいるだけではダメで、友達が必要なんだ、というメッセージは、今や「保守派の政治的ファンタジー」「保守派の妄想」と断じられて当然の『グラン・トリノ』という作品を、それでも良い映画だよこれは、好きなんだよこれ、と胸を張って宣言する私の態度を、強く強く支えてくれているのだ。