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シリアスとユーモアの完璧なバランス『つながれたヒバリ』感想

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 新文芸坐でイジー・メンツェル監督の『つながれたヒバリ』を見てきた。新文芸坐シネマテークだったらしく批評家の大寺眞輔さんの講義もあり、とても面白かった。なんというか、やっと東京に来たな……これだよ、俺がずっと求めていたのは……という謎の感覚を覚えた(謎)。

 

 チェコスロヴァキアの映画。いわゆる「チェコヌーヴェルバーグ」に連なる作品である。プラハの春時代に作られた映画で、というより、プラハの春だから作れた映画であり、したがってプラハの春と同様にこの映画も短命だったが、1990年代にやっと再公開されたという経緯がある。この辺から『つながれたヒバリ』はチェコの歴史を背負った作品であると言える。また大寺氏によると、登場する役者、特に女優たちの中には1950年代に政治的理由で迫害された人たちが多く、かなり意図的に彼女らが起用されていると聞き、そういう意味でふと訪れた春(しかもとても短い)の間に目一杯希望の光を謳歌するべく撮られた映画なのだなあなるし、そういう視点で見ると色々感慨深いものがある。

 まず何よりも背景が完璧な映画だと思う。最初は横パンで工場風景を流すのだけど、これは完全に『天空の城ラピュタ』に出てくる炭鉱街の雰囲気だ。普通にわくわく感がやばい。実写ですものね。しかもラピュタと異なって『つながれたヒバリ』の舞台はスクラップを再錬成する工場なので、捨てられているゴミがいろんなものを象徴しており面白い。スクラップになった戦車の上に座る哲学教授とか、戦争の終わりと新しい全体主義の到来を象徴しており普通にかっこいい。タイプライターとか十字架が捨てられているのも、ジャーナリズムや宗教の敗北という意味合いもあってよい。工場という舞台は、そういう意味でいろんなことを象徴しやすい環境だよなと思った。

 あとこの映画を見て思ったのは、「男の悲劇も国家の悲劇に仮託すればそんなに臭くない」ということである。前提として、私の考えだが、特権階級(男性、支配民族、ぶるじょわ、etc)なりの葛藤というものはそれとして表現する価値があるとは思うのだが、だけどそういうのってナイーブにやれられると見られたもんじゃないのである。『つながれたヒバリ』で描かれるのは、男性の葛藤であり、ブルジョワの葛藤である。囚人監督官に注目すれば、チェコ人という支配的民族の葛藤であると言ってもよい。こんな白々しい映画が2017年に生きる私の目から見て面白いのだろうか? と思っていたのだが、そういう筋での違和感はあんまりなく楽しめたのでよかった。それはやっぱりチェコという共同体全体をカバーできるような配慮が行き届いているからであり、何よりもスラップスティックに徹して、ちゃんと面白くしてるのがいいんだよなと思う。シリアスなユーモアが完全勝利している映画だった。こういうのをもっと見ていきたい*1

*1:どんな表現であっても「お前の葛藤なんて偽物だよ。もっとつらい奴いるんだけど。例えば俺とか?」というマヌケな批判を決して免れ得ないわけで、そういうのに対しては①俺はマンボウの話をしているんだ、というストロングスタイルで行くか、あるいは②徹底的にとぼけることによって回避力を高めるスタイルをとるかのどちらかが必要になってくるとは思っているわけだが、コメディやユーモアって後者の戦略の典型だよなと思う。ただまあ、相当うまくやらないとヤバイけど……。