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こんなにもちっぽけなもの『沈黙-サイレンス-』感想(ネタバレあり)

 

 


『沈黙-サイレンス-』予告

 

 角川シネマ有楽町で見た。『君の名は』がまだ各所で上映されているので、かの作品より公開が遅い『沈黙』はまあ当分やってるだろ……とたかをくくっていたのだが、これが全くの見当違い。探してみたが、どこも上映を打ち切っている! というわけでまだやってた角川シネマ有楽町に行って見た。次回以降一回1300円で見れるカードを作った。

 作品としてのクオリティは非常に高い。とりあえず私にはめっちゃ刺さりました。なんか特殊な刺さり方というか。作品の上映が終わったあとに、「あれ、俺刺されてる……じゃん」と気がついて死ぬ、というパターンの刺さり方だった。しみじみすぎた。というかまたオンオンと嗚咽を漏らしてしまったのだが、最近泣き癖がついているのだろうか……。まあ映画館で見れてよかったなという気はする(謎のオチ)。

 

あらすじ

 ポルトガルイエズス会士であるフェレイラ神父が、日本での布教中に消息を断つ。どうやら日本でのキリシタン弾圧に巻き込まれた結果、フェレイラ神父は棄教したらしい、といった内容の噂が本国に届く。フェレイラ神父の弟子であるロドリゴ神父とガルペは、師匠のフェレイラを探し出すべく、17世紀中葉のキリスト教徒弾圧が本格化している日本に向かうのだった。

 

お堅いストーリーがちゃんとある「虐待映画」

 シナリオはオーソドックスな「人探しもの」で、単なる暴力シーン連発の映画に堕しておらず、ちゃんと物語が構築されている。まずこの点をちゃんと評価しないといけないと思う。単なる虐待シーンの連続映画だと見るのが相当きついが*1、人を探すという基本クエストがあれば、話がずれても帰ってくる先がちゃんとあるので作劇がグッと安定する。衝撃的な虐待シーンは、言うまでもなく人の心を引き込んでしまうので、結果として虐待以外の要素が容易に見過ごされてしまったりするわけだが、お堅いシナリオをちゃんと用意しておいて、観客の視点を定期的に物語へと引き戻す仕組みを作っているのはまあ流石だよなと思った。

 

日本って沼なの? いいえ、沼じゃありません

 とりあえず最初に、日本は沼ではないということをはっきりさせておきたい。この映画を見る限り、「日本は沼」という議論はある政府側登場人物の見解にすぎず、作品のメッセージではない。この映画を見て「日本は沼だからキリスト教は根付かない」とか言ってる人は端的に論理的な理解力が足りないので、もう一回映画を見た方がいいと思う。なんか、『沈黙-サイレンス-』を見て「日本は沼だなあ」ってなるのは、『サイタマノラッパー』を見て「埼玉はクソだなあ」ってなるくらいピントがズレてると思う。『サイタマノラッパー』をみて真面目に「埼玉はクソっていう映画でさあ」と言ってる奴がいたら、なんか言いたくなるでしょ。そういう感じなんである。こういった理解が流布しているのを見ると、ちょっとでも日本に対して批判的な映画に対して「反日」のレッテル貼りをりようとするアレな人々のナイーブさに近いものを感じ取ってしまう*2

 さて、「日本は沼」議論にそのまま乗っかるのは、これから示す二つの水準で間違っている。

 

①変えようのない事実:日本にはキリスト教徒がいる

 まず、日本にはキリスト教徒がいる。かつて日本にあった(あるいは今ある)政府の弾圧政策に関する問題と、キリスト教徒が日本いるかどうかは、密接に関係してはいるけれども、しかし別の問題でもある。いくら弾圧しようとも、奪えないものは確かにあるからだ。例えば、信仰心などはその代表例だろう。『沈黙-サイレンス-』はまさにそういうことを言ってる映画なんじゃないだろうか? 非道な虐待を受けている日本人のキリスト教徒がこの映画にはたくさん登場するわけだけど、彼ら彼女らの存在がすでに「日本にキリスト教は根付かない」というアホな理解に対する反証になってるんじゃないの? 虐待シーンで、「役人は酷いな~」という感想を抱くのは当然としても、同時に、日本のキリスト教徒の持っている勇気や信仰心に驚かされるんではないのか?

 しかもこの映画の最後のシーンで、しっかりと書いてあるわけじゃないですか。「『沈黙-サイレンス-』は、日本のキリスト教徒に捧げられた映画である」って。私はここを見て涙が止まらなかったのですけども、これは当然、現在だけでなく過去におけるキリスト教徒にも捧げられてるわけでしょ。結局のところ当局はキリスト教を完全には殲滅できなかったわけで、隠れキリシタンたちのおかげで日本におけるキリスト教の伝統は途切れずに存在し続けてるわけであるし。「日本は沼」議論に乗っかるということは、映画の理解として間違っているだけでなく、日本におけるキリスト教徒たちをあまりにもバカにした態度だろう。もちろん、弾圧のせいで日本におけるキリスト教は歪んでしまっただろうし、鎖国時代の前後で日本におけるキリスト教には質量ともに大きな断絶があるのは事実だろう。しかし、これらだって「日本は沼」議論を全然補強しないのである。この話は次にする。

 

②日本の事情は全く特殊ではない

 「日本は沼」議論は、あえて命名すれば日本特殊論の一つである。もちろん、こういった議論に飛びつく人が多いのには理由がある。作中でも触れられていたが、日本人信徒たちのキリスト教的実践、知識はかなり怪しいからだ。例えばキリスト教的な天国概念に対する理解とか、受けているサクラメントの質とか。こういった事態は布教システムと教会組織があまりにもガタガタな宗教コミュニティにおいて当然生じる現象なのだが、じゃあこのどうしようもない現実から「日本は沼だなあ」に飛びつくべきだろうか? 当然答えはNOである。

 まず第一に、キリスト教には土地土地のバリエーションがある。ポルトガルキリスト教、オランダのキリスト教グルジアキリスト教、エジプトのキリスト教、そして日本のキリスト教、それぞれバラバラである。また、国内的にもまた多様性がある。そして、ポルトガルキリスト教と異なるからといって、他国のキリスト教キリスト教でなくなるわけでは全然ない。つまり、日本におけるキリスト教理解がポルトガル人の目から見て歪んでいるとしても、それは即座に「日本は沼」的な、日本特殊論を補強する材料になるわけではない。例えば、イエズス会士であるロドリゴ神父は、日本ではなく当時のオランダ(スペイン帝国を介してポルトガルとは絶賛戦争中だったけど)に行ったとしても、現地でのキリスト教理解に対しては眉をひそめたであろう。でも、だからと言って「オランダは沼だなあ」とか言う人なんてほとんどいないでしょ。土地によってキリスト教が変わるのはある程度必然で、日本に日本風キリスト教が存在するとしてもそれは全然普通のことである。普通の現象に対してわざわざ沼とか言い出す必要はない。

 第二に、キリスト教布教は多分に妥協的な性質を持っているという点を忘れてはならないだろう。つまり、布教時に現地の文化を取り入れつつキリスト教を広めることは、教会にとっては普通のドクトリンであって、日本に対してもそれが行われたにすぎない。日本が沼なら、ブリテン島やドイツだってもう相当な沼ということになる。例えばカトリック教会がゲルマン人の森信仰を打ち倒すのにかなり苦労したという話は有名であるし、実際クリスマスツリーという形としてちゃんと森信仰の名残は残っているわけで。でも、そういった異教的なコンテンツを内包してケロンとしているのがキリスト教だというのを忘れてはいけない。というか、初期教会はキリスト教の祭日設定とかでも、ちゃんと土着信仰の祭日とわざとかぶせて信仰の厳格化をはかったりしていたわけだが、その作戦を利用して、現地人はキリスト教の祭日に現地信仰に即したイベントを開いていたりしたわけである。典型的には肉を食べるとかね。このように、布教というのはどこでだって一筋縄でいかないし、だから現地に即した布教活動が重要で、その過程でローマとはちょっと違うキリスト教ができあがるわけであるが、それは別に普通のことである。日本でのキリスト教紹介が、デウス=大日から入ったとしても、それは別に特殊なことではない。例えば、『沈黙-サイレンス-』では英語が基本言語として使用されていて、時代的にも設定的にもどう考えておかしいけれど、英語圏に対するローカリゼーションだよねとすぐ納得できるわけで。これに対して「英語化しちゃうなんて、沼だなあ……」とか言います? 

 まあ、キリスト教というと、たぶん現代アメリカ合衆国における原理主義的なノリが紹介されやすいせいで非妥協的な連中という印象があるけれども、連中は妥協することも多いということは忘れてはいけない。また、ロドリゴイエズス会士だけれども、作中ではちゃんと「俺らって融通きかねえよなww」みたいな自虐ジョークを言ったりしてるあたり、ちゃんと妥協の問題ついてに自覚的な人間として描かれており、その辺のバランスはしっかり取れている作品だと思う。

 第三に、宗教的不寛容はなにも日本の専売特許ではない、ということは絶対に確認しておくべきであろう。ところで、今から展開したいのは、「日本も悪いけど、他国も悪いことやってるよね! お互い様じゃん! 宗教って、そういうものなんだよねきっと」的な、幼稚な相対主義論・自然主義論ではない。「日本の沼性」なるものは単に宗教的不寛容と呼べばいいものであって、変な呼び名を与えるべきではないという話をしたいだけである。

 17世紀の前後は、ヨーロッパでも酷い宗教的不寛容が横行していた。例を挙げるときりがないが、隠れキリシタンに非常に近いシチュエーションである、「カミザール戦争」をあげておこう。フランスにおけるプロテスタントの地位を保障したナント王令を反故にしたルイ14世に対して、南仏カミザール地方のカルヴァン派住民が反乱を興した。その反乱の経緯に至るまでの展開は、日本の隠れキリシタンに対する弾圧とほとんど同じようなものである。禁令の宗派を維持する上では、やはりちゃんとした教育を受けた牧師がいないという状況が一番きいてくるあたりとかは本当に似てるだろう。しかも最終的にはルイ14世の軍隊によって鎮圧・追放の憂き目を見ることになる。つまり、あのフランスでも日本と似たような事例があったわけだ。でもだからと言って「フランスは沼だなあ」って言いますか? 言わないでしょう? じゃあ「日本の沼性」じゃなくて「日本の宗教的不寛容政策」って言えばいいじゃないの。

 と、ここまで沼性の話をしてきたが、私がここまでキレるのにはちゃんと理由がある。というのも、私の理解では『沈黙-サイレンス-』は、「無くなったと思ったものがやっぱりあった系」映画だからである。この手の映画のメッセージは、やはり人間の持っている不屈の信念とか勇気を称える、といものなのだろう。だから、この映画を褒めるとしたら、やっぱり注目するべきは「迫害されたものたちの魂がいかに強いか」という点であって、「イジメる側はひでえな」ではないだろう。まあ、他人が映画をどう見ようが勝手ではあるのだが、でも、この映画は我が国の歴史的出来事を扱っているわけである。歴史の闇の中に消えていくしかなかった人々の魂に対して想いをはせるべき貴重な機会を与えてくれる映画なのに、この映画を見て「日本は沼」みたいな日本特殊論で悦に入るのは端的に「ニホンスゴイ」と同レベルのアホさだと思う。

 

無くなったと思ったものがやっぱりあった系映画として最高傑作の一つ

 さて、『沈黙-サイレンス-』は私の好きな系列の映画なのだが、私が好きだったポイントとしてはまず最後のシーンがあがってくる。信仰とモノ(偶像的なもの)はかなり相性が悪いというか、真の信仰にモノはいらないという議論があって、ある程度その通りだと私も思うのだが、だからこそ最後のシーンにはグッと来た。カメラのズームが強烈なことからも明らかなように、ロドリゴ神父の手に握られていた木彫りの像は本当にちっぽけなのだ。信仰心の力強さに対して、偶像はいかにも小さい、いやしい、頼りない。しかしだ。だからこそ、そんなちっぽけなモノにすら拠り所としての地位を与えてしまう信仰心のどうしようもなさ、不屈さ、というものが逆によく出ているラストだったと思う。また、日本のキリスト教徒とポルトガルイエズス会士が心を通わせることができるというメッセージも、キリスト教の持っている普遍性(無論、カッコつきではあるにせよ)の見せ方としてかなりいい着地点だったんじゃないかと思う。

 あと、ロドリゴ神父のキャラがめっちゃよかった。まず童貞だしな(そこか)。いや、実際かっこいい童貞が主人公の映画『沈黙-サイレンス-』は積極的に評価していきたい。なんというかいやらしいさが全くでないのにドヤ顔できるってすごくないですか? 例えば、信徒たちが踏み絵を拒否するのを見てるシーンとかに「よっしゃ!」みたいなしぐさをするのも、「ほらどうだ!」的な負荷が明らかにかかってるのにいやらしさゼロなので、かなり感心した。この映画の成功は本当にロドリゴ神父のいい人感に負ってる感がある。

 また、ロドリゴ神父のキャラの良さはそのポジションにもあるだろう。ロドリゴ神父は、信徒たちに対しては「妥協してもよいよ」という態度を取るのだが、対して自分は絶対に妥協するつもりがないというキャラ造形となっている。これ、精神の不屈さや信仰心を描く際のポイントとしてかなり善良感がある。「夢を裏切るな」系映画の登場人物は、抜け駆けや裏切りに対してかなり不寛容な態度をとりがちなのだが、ちゃんと状況に応じて対応を切り替えることができるロドリゴ神父のキャラはかなり大人であると言える。同時に、このダブルスタンダードな態度は「(他のやつは妥協するかもしれないけど)俺だけは違う」「(他のやつはしょうがないが)俺だけはミッションを背負ってる」的な、かなりめんどくさい非妥協的人物の特徴とも完全に一致しており、「一見いい人そうだけど心根はかなりやばい奴」感の演出として大正解だったんじゃないかなあと思う。

*1:必ずしもそういう映画ではないが、例えば、聖書を知らない人が『パッション』を見たり、あるいは二次大戦に興味ない人が『アンブロークン』を見た場合、「これただのスナッフフィルムじゃねえか!」という感想が出てきても不思議ではないよね

*2:あまり関係ないけどちょっとこの話もしておく。この映画はとりあえず虐待シーンが非常に多い。しかも虐待してるのは日本人で、虐待されているのはヨーロッパ人である。なので当然、『沈黙-サイレンス-』は「白人が日本人に虐待される映画」としても全然見れる映画である。『戦場のメリークリスマス』や『レールウェイ』など、第二次世界大戦ネタでこの手の映画は多いのだが、近年公開された『アンブロークン』でも議論が巻き起こったように、日本人の描き方がナイーブな反日論に結び付けられたりすることが多いジャンルではある。今回は「反日」がどうこうという話をほとんど聞かないのだが、その代わりに「日本は沼なので~~」という話をよく聞く。すぐ反日って言っちゃうのもかなりアホだけど、この映画を変に社会批判に結びつけるのもあまりにもアホだよなと思う。というか、この映画が公開されていた頃は上野千鶴子氏による移民議論がこれでもかというくらい叩かれていたが、アレは叩くのに「日本は沼」議論にはガッツリ乗っかるのか…と私はとても困惑した。