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非常にうまく童貞っぽさを活用した映画「ラ・ラ・ランド」感想  

 


「ラ・ラ・ランド」本予告

フォーラム映画館で。なぜか1100円で見れた。1100円と言われてあまりにも驚愕してしまったのでしばらく料金表を凝視していたせいか、受付の人にいぶかしげな表情を作らせてしまった。正直すまんかった。

 

ラ・ラ・ランド」とは

ラ・ラ・ランド」は、カリフォルニアで夢を追いかける女優志望のミアと、同じくカリフォルニアでジャズピアニスト修行に励むセブ君が恋に落ちる……というミュージカル・ラブロマンスである。

 

ラ・ラ・ランド」、いろいろと賞をもらっているし監督がデミアン・チャゼルなのでかなり警戒して映画館に臨んだのだが、結論からいうとかなり軽い映画である。というか「セッション」に比べるとエンターテインメントとしてのクオリティが数段低く、1100円ならまあ許せるが、1800円ならブチ切れるクオリティの映画である。いや、お前のための映画じゃないから見に行くなよって話かもしれないが……

 

オープニングナンバーは悪くないが

とりあえずオープニングナンバーであるが、派手で、ナンバー単体としてみればまあ普通にわくわく感もあるのだが、位置づけとしては「ライオンキング」のサークルオブライフみたいなナンバーであり、単なるカリフォルニア的ノリの紹介にしかなっておらず、キャラ紹介の機能が皆無で、以降展開されていくラブロマンスとの接続があんまうまくいってないのでオープニングナンバーとしてちょっと弱いなと思った。ようは「これがサバンナだ!!」ならぬ「これがロスアンゼルスだ!!」というナンバーなんだが、曲とダンスがミアとセブ君の出会いに対してほとんど貢献していないのでうーん……となる。サークルオブライフには舞台紹介に加えて「皇太子殿下ご誕生!!」というシナリオ上の機能があるわけだけど、  "Another Day of Sun"にはそういうのがないわけですよ。いや、あの派手なナンバーの直後に二人は平凡に出会うのだ! というのもそれとして味がある気はするが、そういう「人生ってのは平凡なのさ」的演出はこの映画には明らかに合っていないわけで。まーナンバー自体は良かったけど作品とはかみ合っていない、という印象を受けた。

 

あとナンバーの機能とは別に気になったのが、ナンバーへの入り方である。例えば「シカゴ」では、ナンバーに入る前に必ずロキシーの瞳を映すなどして、映画とミュージカルの折り合いをどうにかつけようと工夫していたと思うのだが、「ラ・ラ・ランド」にはそういった文法的な法則性が無く、私はちょっとそれが嫌だった。

 

ちなみに私がオープニングナンバーを見て「ああ~~やっぱりだめか~~~」となったのは、「ロスアンゼルスの渋滞に巻き込まれている運転手たち」という映画のスタート地点が「フォーリング・ダウン」と全く同じだったからである。「フォーリング・ダウン」は「名誉俺たちの映画(とは?)」で、渋滞に巻き込まれている中年男がブチ切れるところから映画が始まる。「フォーリング・ダウン」的文脈がある人にとっては、渋滞に対してブチ切れず、逆に陽気に踊りだしてしまうロスアンゼルス市民という絵面そのものが結構きつかったんではないかと思う。

 

シナリオは起伏なし

シナリオは正直言って軽い。とにかくタメが浅いのでエピソード一つ一つが軽い。カタルシスがまったくない。とりあえず盛り上がる見せ場であるはずの、①ミアがイマ彼を捨ててセブ君のところに走っていくところと、②最後の「こんな可能性もあったかも」ナンバーの二か所は全く盛り上がらなかったので、脚本としては失敗である。「セッション」と話のピークは似てるんだが、いかんせん説明がなさすぎる。①についていうと、ミアのイマ彼紹介は皆無だし、②についていえば、二人が別れた経緯もわからんし。というか、レストランでの出会いと重なるのは言わなくても分かるので、この演出は正直くどい。if世界もif世界で、いきなりキスされるってどう考えてもおかしいだろ……。そもそもたったの5年で、子供がいてミアのキャリアもだいぶ固まってるってちょいペース早くね??とか、ミアがセブの店の存在を知らないとかいうあまりに童貞すぎる設定やめろや……とかがあるため、最後のナンバーは盛り上がる要素が全くないばかりでなくストーリー上の納得感もかなり薄い。

 

セブ君があまり魅力的ではない

さて本題。ミアとセブ君のラブロマンスであるが……これってキモくない? という感想を私は抱いた。むろんセブ役のライアン・ゴズリングはセクシーなイケメンなんだけど、セブ君のキャラ造形はだいぶキモいだろう。いや、私は別にキモい男子は嫌いじゃないしむしろ好きなのだが、こういうキモ男子映画を褒めるのは社会的な水準としてどーなのと思ってしまうのである。というか、私はこの7年間くらいでこういうキモさを受け入れてはいけないという圧力を受けて(どこから?)暮らしていたので、そろいもそろってこのキモさを絶賛しやがって死ね!!! という感じなんすよ、わりとマジで。しかも舞台はカリフォルニアであるからにして、もーこれは許せんぞ!

 

キモポイントその1はセブ君がキースのバンドに参加する経緯である。これはどういう経緯かというと、ミアが母親に「新しい彼氏は定職についてないけど、まあたぶん大丈夫っしょ」と電話しているのをセブ君が聞いてしまう、というもの。それで危機感を抱いたセブ君は、音楽的方向性がだいぶ違うキースのバンドへと経済的安定を得るために参加する。で、後日セブ君はミアから「やりたくないならキースのバンドやめたら? 自分の夢を追いかけなよ!」とアドバイスを受けるのだが、それに対してセブ君は「君が経済的に安定してる彼氏がいいっぽかったからあんな俗物バンドに入ったんだろ!!」と逆切れするという展開なのだが……これ激しくキモイですよね? 何よりも、経済的なことで彼女に相談できずに勝手にいろいろ決めちゃって、後になってから自分の意思決定の責任を女性側になすりつけてブチ切れる男子って、もうなんつーか昭和? 明治? みたいなゴリゴリ父権的男子って感じで相当にキモイのでは。例えば『こころ』を読んだ私は、奥さんに何も相談しない先生にめっちゃ違和感覚えるわけですが、完全にあれですよ。いやいやセブ君、ミアさんに金とかキャリアのことを相談すれば?!って思いません? まあ、カリフォルニアの風来坊系ジャズピアニストが父権的男子をやってもキモくないってことなんですかねえ。

 

キモポイントその2。最後のナンバーのぶん投げっぷりはひどいしキモイ。まず何よりも、ミアがセブの店を知らないというのはどう考えてもおかしいだろう。さっきも書いたけど、あまりにも童貞的すぎる設定でキモイし、同時に、こういうのはリアル童貞に対する搾取でもあるので即刻やめるべきだと思う。とりあえず、ミアとセブ君くらいの関係に至った恋人同士であれば、別れた後でも普通に連絡くらいは取るだろう*1。あるいはだな、ちょっとずるいツッコミになっちゃうけどさ、二人はフェイスブックで絶対つながってるはずで、店情報はミアに入るに決まってるじゃん。話の流れ的にも、もしセブ君が夢をかなえて店を開いたら、どう考えてもミアに対してハガキの一枚くらいは送るだろうよ。あんとき背中を押してくれてありがとう、ってコメントつけてさ。あるいは「ジャズに詳しいセレブ」であるミアの方から、街で話題のジャズバーをチェックしにいくかもしれんし。つまり私が何を言いたいか。最後のナンバーがロマンチックなのは、「別れた二人がその後連絡を一切とらなかった」という、感傷的でなんか童貞っぽい前提、これが密輸されているからです。でもさ、ミアとセブ君はそういうカップルじゃねえだろ!!!ということです。いや、二人の破局についてもし一定の説明があれば私も納得するかもしれんが(その破局を通じて二人がハードコア童貞になったというならまあ少なくとも論理的ではあるよね?)、この映画はその説明を放棄してるわけで、擁護不能である。はっきり言おう。全編お花畑ラブロマンスをやっといて、パーティとかに平気で出れちゃうようなリア充カルチャー全開で話を進めておいて、最後だけ都合よく童貞っぽい生き様を活用するのはやめろ! 童貞は365日、シリアスに童貞業をやっているのだ! その生き様はラブロマンスに刺激を与えてくれる特性スパイスみたいなものとして活用されてしまっているけれども、スパイスじゃないんだよ! 童貞は大盛りカレーライスなんだよ! 完全食なんだよ! と言いたい。

これだからカリフォルニア人は……

あと最後、あんま関係ないけど、この映画の「俺たちカリフォルニアのウザさを相対化できてっからwww」みたいなノリは我慢できなかった。まー、プリウスは醜悪な車であり映画という芸術作品に登場させてはいけないんだなとはっきり認識できたし、グルテンフリーダイエットとか言って返金を迫る人々に対抗するためにも積極的に米を食っていこうという誓いも新たにすることができた。こういった学びや気づきを得られたことについては感謝したい。

 

*1:もちろんDVとか性暴力があったとかならアレではあるが、まあ映画の筋的にそういうハードコアな設定はおそらくないはずであり……