「コミュ障同士」という連帯の喪失と誕生を描ききった傑作 『ヒメアノ~ル』感想(ネタバレあり)


ヒメアノ~ル PV

 

やばい!!!!!! すごい作品すぎた。

先に理論的な話。

世の創作はつねに「疎外された者たちの連帯」からはじまる。しかし、この連帯は欺瞞に満ちている。なぜかというと、単に疎外されているという理由で連帯が生じるという世界観は、疎外されていない人々だけが持っているファンタジーだからである。こちら側を代表して言わせてもらえば、疎外された者たちの連帯は結局いじめられっ子同士の連帯にすぎないのであって、それは本質的に惨めすぎるものであって、受け入れがたいものである。

例えば、「疎外された者たちのクラブ」には、大きくわけて「キチガイ」と「コミュ障」と「疾患」の三種類からなる人々が所属することになる。こういった多様な連中が一緒くたにされ、「迫害」とか「疎外」という理由を経由して友達になれるのだと一般に信じられている。中には、恋仲になるのだと信じている者たちもいる。だが、この世界観ほど人間をバカにしているものはない。

疎外されている者たちはその特徴において確かにいくつかの共通項を持っているが、しかし同じではない。例えば私たちは「LGBT」という概念を使う。だが、だからと言ってゲイとレズビアンが恋人になることは期待したりはしない。こんなことを言うと何を当たり前のことを……と思われるんだろうが、世の創作物でまかり通っている「疎外された者たちが仲良くなって」という世界観においては、まさにゲイとレズビアンがセックスをしまくっているのである。それくらい、実は「疎外された者たちの間にある差異」は見過ごされている。表象の持っている暴力性と搾取性の最たるものがここにある。はっきり言おう。いじめられっ子は他のいじめられっ子のことを好きにはならない。仮になったとしても、その理由は絶対に「同じくいじめられているから」ではない。

話を作品に戻す。

「ヒメアノ~ル」にはキチガイとコミュ障しか出てこない。これはすごいことだ。並の人なら、「普通の人々」VS「特殊な俺たち」という構図を持ってきたがる。だが、この構図の裏側で「疎外された者たちの間にある差異」が見過ごされるという重大な事態が生じるということは先に確認した。この問題を回避するにはどうすれば良いのか。簡単である。主要な登場キャラクターを全員「変なやつ」にすればよいのである。それによって、否が応でも「変なやつ」内における差異性が浮かび上がってくる。良かったな。

ここでまた理論を。

「変な奴で埋め尽くす」系の手続きは普通の作品でもやる。だが、ここでまた別の問題が出てくる。それは、「変なやつ」同士の連帯から生まれる楽しい経験でもって、登場キャラクターの間に生じる関係性を正当化しようとする、という問題である。もうちょっと具体的にいうと、こういうことである。ここにある小説がある。第一~三章では疎外された生徒たちが集められ、第四章以降でマジョリティと対決して、最終章でチームなりカップルがいい感じになって終わる……。

まあ、以上がいわゆる「成長」と呼ばれる手続きなのだが、この時、成長の後に結果として残る「関係性」は、あくまで「経験」から生まれるのであるらしい。つまり、ある主人公が恋人をゲットすることに対して我々が一定の納得感を抱くのは、出会いシーンのおかげというよりも、むしろ主人公がライバルを打ち倒すべく努力する姿を見るからである。実際、ロマンスというものは「なんだあの嫌な奴!!!」から始まり(出会いは最悪だったのだ)、努力なり成長を通して「あの人が好きすぎる!!!」に着地するものだ。

成長が関係性を正当化する。これは創作界隈においては絶対的な文法なのだが、いわゆる「疎外されている者」向けの作品においては、この文法が悪用される。悪用されるというか、「成長によらない関係性」が簡単に見過ごされる。つまり、一応この手の「はぐれもの」作品群では、「同じく疎外されている者たち」が集められるので、じゃあ最初の出会いである程度仲良くなるってことがあるんじゃないの? という話である。

ここで最初の話に戻る。人間は「同じく疎外されているから」という理由で連帯しない。いや、外交的な水準ではそうする可能性があるけれども、好き嫌いの水準ではそんなことはしない。もうちょっと細かいことを書くと、「疾患持ち」は「コミュ障」のことをいきなり好きになったりはしないし、「キチガイ」が「コミュ障」を好きになることもない。つーかまあ、疎外されてる者同士、普通に軽蔑し合ってることの方が多い。

だが、「コミュ障同士」なら話はガラリと変わる。本当に「同じ」人間を見つけられたのならば。つまりこういうことである。我々は本来的に極めて多様でバラバラな「変なやつ」らを、「阻害されている人々枠」として一緒くたにするのに慣れきってしまってきた。だから、「変な奴ら」の枠内で、「同じヤツ」を探すのは、実はとてもとてもむずかしいという現実をとかく無視しがちだ。変なやつらは実際変なやつらなので、その中でも特殊で細分化された変なやつ性を共有している相手を見つけるのは、それはそれは天文学的に難しいのだ。だが、というかだからこそ、もし見つかったら? 自分の変なやつ性を分かってくれる奴を、真に「同じ奴」を見つけた時の感動はいかほどだろう。前に同性愛者の告白録を読んだ時に、初めて同じ同性愛者に出会った時の感動が綴られていたが、感覚としてはこれに近いと思う。疎外されているからこそ、同じ奴を見つけた時の感動、というか感謝には、言葉にできないほどのものがある。で、この感動と感謝が前提にある場合、経験によらず関係性は正当化される時があるのだ。

もちろん、経験による正当化プロセスを経ていない関係性は脆弱である。例えば、「他のもっと合う奴を見つけた」とか「よくよく付き合ってみると相手の〇〇する癖がどうしても許容できない」とか、まあ、たしかに色々あって簡単に崩壊することはあるだろう。一般に依存と呼ばれる関係に突入しやすいという意味でも、経験によらない関係性の健全性はかなり低い。だが、疎外されている人々は、時にこういった関係に頼らざるをえない時がある。

特に人間関係の経験値が低い学生などは、自分たちの関係性がなんとなく危うく、脆弱であることに怯えながら、「経験によらない関係性」にどうにかしがみつく……という生き方をすることも多いだろう。この、若者特有の没入感に満ち満ちた危うい関係性は、存在そのものが完成された悲劇である。ロミオとジュリエットが土下座するレベルの、純粋な悲劇だ。何と言っても、関係性を構成する当事者が、自分たちの関係性の美しさに感嘆しながら、同時にそのあまりのはかなさに怯えているわけだから。

話を「ヒメアノ~ル」に戻そう。

大人になったら、もう「経験によらない関係性」に期待するのはかなり厳しくなる。というか、その筋を諦める時、人は大人になるとも言える。で、「ヒメアノ~ル」で描かれる関係性というものは、簡単にいうと「もう完全な形ではなくなった」「経験によらない関係性」である。これはなんというか、主人公の岡田君のビミョーに大人になりきれていない一種の幼さを反映していると思うのだが、見事だなあと言うほかない。岡田自身はある種神聖で美しく、そして排他的な関係性という世界観をまだ捨てきれていないわけだが、大人として暮らす以上、どうしても「何かが違う」ということになる。例えば岡田と安藤は、もし二人が学生ならば、完成された没入感最強ホモソ関係に発展していたはずなのだが、もう二人は大人なので、「三角関係」で荒れる。つまり、人間関係の閉鎖性が損なわれているわけだ。また、岡田とユカについては、「過去の人間関係」という問題でこれまた荒れる*1。付き合ってセックスに至るまでのプロセスはもう文句なしなわけだが、「経験によらない関係性」は処女厨的な意識によって破壊される。

また、岡田と安藤が微妙に噛み合っていないのも大事なポイントだ。岡田と安藤は、同じく「変な奴」ではあるが、二人がいかに異なっていることか! 岡田が臆病なコミュ障なのに対し、安藤はかなり硬派のキチガイである。でまあ、この関係はかなーりギクシャクしている。特に、同じ女性をめぐる争い(?)になるあたりなどで一度は絶交が宣言されるほどだ。だが、最終的には安藤の譲歩によって関係性がなんとか保たれる。ここもかなりリアリティがある。二人の関係が保たれたのは、経験を経てお互いが成長したからである。もちろんこれはこれでいい話だ。だが、成長によって正当化された関係性は、幼い頃に夢見ていた、あの脆く儚く美しかった関係性とは決定的に違うものである。

ちなみにキチガイ的な話でいうと、森田が唯一仕留めそこなった相手が、同じくキチガイ枠の安藤であるという事実は象徴的だと思う。というか、森田VS安藤のシーンは空気感が本当に最高だった。間が神がかってた。最高の鍔迫り合いシーンでめっちゃお腹いっぱいになった。

本当は岡田君とユカの話を通してセックスの影響についても語りたいのだが、セックスのことは謎なので(なにせその……ええ。)、スキップ。

また、特筆するべきは森田と和草の関係である。この二人は、同じくいじめられっ子である。であるからには、普通の人々はここに連帯の契機を見出す。だが「ヒメアノ~ル」ではそんなことにはならない。森田は和草を恐喝し、金をたかり、そして殺害する。また、和草の方も森田に対しては全く好意を抱いておらず「あいつやべえんだよ!」と、恐怖と軽蔑の入り混じった感情を持っているにすぎない。繰り返すが、「同じくいじめられていた」は連帯の基盤にもならないし、「良い関係性」の基盤にもならない。そうなのだが、一方で二人がいじめられたことによる歪みはかなり長く尾を引いていて、大人になってからの人生を破壊してしまう地雷のようなものとして描かれている。そうなのである。子供時代の美しい関係性は、その脆さ故に崩れ去るが、いじめの悲惨な記憶だけは決して消えることはないのである。つまり森田と和草の関係性は、森田と岡田の関係性の裏番組であると言え、この見せ方もめちゃくちゃうまい。実際、和草と岡田のキャラクターは美しいほど対称的だ*2

で、ここまで丁寧に丁寧にやった後、「ヒメアノ~ル」は最後にそっと、もうとっくの昔に崩れ去った、子供時代の美しい関係性を視聴者に見せてくれる。結局この映画でやってたことは、この美しい関係の「喪失後」をひたすらひたすら丁寧に描写するということだったのだと思う。もうすっげええげつないですこれは。喪失、喪失、喪失、喪失からの~~~~~~~~っ!

 

「ねえ、もう誰かと話した?」

「ううん、森田くんが初めて」

 

ここでもう声出して泣きはじめてしまった。うん、あのね、「ねえ、もう誰かと話した?」ってね、このセリフほど完璧なセリフを知らない。どんだけ怯えてんだよ!!! 他の奴と話をしていない可能性を探ってんじゃねーよ!! なによりだな……他の奴と話してたら他の奴のとこに行っちゃうんだろうな……みたいないじけ精神とかな……もうわかりすぎる!!!! このほとばしるコミュ障感に涙しないコミュ障はいないはずだ。このセリフで、同じくコミュ障である岡田は陥落したんだろうなあというね。もちろんこの時点で森田くんのことなんて何も知らないんだけどさ。だけど「変な奴ら専用のはきだめ」みたいな場所で、本当に同じ方向で変な奴に出会えた時の感動、安心感、そしてなによりも圧倒的感謝、そういうものが関係性を正当化してくれることは実際にあるわけで。そんで、その関係性のおかげで、一緒にゲームしたり、麦茶飲んだりできることがある。そのなんと美しく、そしてはかないことか……はかないことか、ということなんですよ。

 

補論1

ちなみに、「ヒメアノ~ル」はコミュ障、「FRANK」はキチガイ、「ザ・コンサルタント」は疾患の話なので、ちゃんと区別していこうな。具体的にいうと、「ザ・コンサルタント」をコミュ障で語るのはやめた方がいいであろうという話だ。

 

 

補論2

というか、「処女厨」は言われているほど普遍的な病気ではなく、かなり特殊な病気だと思うのだが、ホモソ内における男性獲得競争のロジックをそのまま女性に当てはめて結果として「処女厨」が生まれている仮説はどうか? 彼らが問題にしているのは「汚れている」とかじゃなくて、「処女男子=疎外されており、したがって自分と同じタイプである可能性が高いからアプローチするぞ~~」という戦略が、男性ホモソだと極めて有効であるのに男女関係だと全く使えないのにイラツイている、とか。実際、自分にピッタリの同性を見つける競争って結構システマチックで、かつ排他的じゃない排他性(つまりどういうこと?)が確保されてる分、男女関係のそれよりもはるかに洗練されているような気もするんだよな。で、そういう洗練された世界のロジックが全く通じないと、まあ幼い人がイラつくのは当然なんだよねっていうね。

 

補論3

サイコパス犯罪者がどうとかいう筋でこの作品を語ってる人、結構いるが、うーんという感じだな。

 

補論4

サイタマノラッパーの主人公とサイタマノラッパー2の主人公が婚約関係になっててワロタ。

*1:ちなみに、あからさまにミソジニーっぽい表現になってしまったのでエクスキューズしておくと、仮にユカが男性キャラクターだったとしても、私はここと全く同じ表現を使用する。まあ、ここで使用されている「汚れている」の意味は、関係の排他性が損なわれている、くらいの意味合い

*2:この論点ってあんまり聞かないけど、俺的にはかなり重要だと思われ。