魔導史科の人々

某市場に出したやつ。

【話の内容】

 近世百合ファンタジー。魔法がある世界における30年戦争っぽい戦争について議論している二人を描いた短編。

【本文】

魔導史科の人々

 

 プラキア市の旧市街地にある小さなカフェ「メモリア」は、いつも朝の十時に開店する。それは春夏秋冬、三六五日にわたって変わらない法則のようなもので、たとえばその日は八月の非常に暑い日だったのだが、やはり店主は朝十時に店を開けた。

 入り口のドアを開けて通りに出てきた店主は、まず本日のオススメメニューが書かれた看板を店先に立てかけた。かぼちゃケーキは八クラウン、かぼちゃのプリンは十クラウンである。両手を腰に当てて、満足そうに看板を眺めた店主は、今度は店先の花壇に目をやった。近づいてかかがみこむと、店主は花壇に植えられたペチュニアを少しだけ世話した。日照りが続いているせいで、ここのところペチュニアはどんどん元気を失っているようだった。カサカサに乾いてしまった葉を指でいとおしげにさすりながら、店主は物憂げな表情をつくった。ひょっとしたら、このペチュニアたちは店の裏に移動させた方がいいかもしれない・・・・・・。しかし旧市街組合の景観協定では、通りに面しているカフェは店先に花壇を配置することになっている。ペチュニアの命か、組合の協定か。市外出身の店主にとって組合との関係はないがしろにできるようなものではなく、なかなか難しい選択と言えた。

 店主がそんなことを考えていると、通りの反対側から二人の若者がカフェに近づいて来るのが見えた。見るからにプラキア大生といった風貌の二人組だ。片方は、長い銀髪を揺らしている長身で、上は白のレース付きブラウス、下は薄い生地のパンツといった出で立ち。左の手首には黒のビロードを巻いているようだったが、そのワンアクセントは、白を基調とした服装だから遠くからでも目立った。表情は明るく、まるで開城したプラキア市の城鍵を受け取ったかのような自信にあふれていた。服装と表情の方は軽やかだったが、しかしこの銀髪の若者は大きな、重そうなトートバックを脇に抱えていた。

 一方、もう片方の若者は、クセの強そうな黒髪が特徴的で、背丈は銀髪よりも少しだけ低い。服装の方は、全身黒ローブというおよそ夏らしくない風貌であるが、店主はこのローブを着込んだ学生を何回か見たことがあった。黒ローブはプラキア大の礼服で、入学式や卒業式のシーズンには黒ローブ姿のプラキア大生が町にあふれかえるのだ。ただ、今はどちらのシーズンでもない。黒髪がまとっていたローブは聖職者が着る法服のように体のラインを覆い隠すタイプではなく、むしろ体型にピッタリ合ったローブで四肢の動きが見て取れるので、最低限の軽やかさが与えられているようだった。幅の広い腰のベルトはバックルが銀製で、きちんと磨かれているせいか日光を受けて清潔な光を放っている。いかにも「さきほど起こされました」と主張している眠たげな表情のせいか、黒髪の若者にはどこか落ち着いた雰囲気があった。持ち物は少なく、こじんまりとしたショルダーバックを肩から下げているだけだった。

 並んで歩を進める二人は店先までやってくると、ペチュニア花壇の前にたたずんでいた店主に向かって朝の挨拶をした。とはいえ、銀髪の方の挨拶はいかにも慇懃無礼という感じだったし、黒髪の方はといえばいかにも気だるげな調子だったので、店主は心の中で頭を抱えた。

「あんたら、今日も粘るつもりで来たんだろ」

 店主も朝の挨拶を返すと、二人の客の前に立ちはだかり、さきほど立てかけた「本日のオススメメニュー」の看板を両方の人差し指で差した。パンプキンケーキは八クラウン、カボチャプリンは十クラウンなのだ。しかし二人の客は看板に目もくれず、曖昧な表情のままぞろぞろと店内に入っていった。呆れ顔の店主もそれに続いた。

 二人の客のうち、注文カウンターに向かったのは銀髪の方だった。手入れの行き届いた長い銀髪は、色合いとしてはブラウスのレースに溶け込んではいるものの、いざ髪を後ろに送るような場合には自らの存在を主張し始めるかのようだった。髪がかきあげられ、手首に巻きつられた黒いビロードが銀髪の海に埋もれていく段になると、深い黒とのコントラストのおかげで、銀髪の美しさがいよいよ引き立てられるのだった。

 銀髪は丁寧に言った。

「珈琲を。二つ。東部シトー産の豆で」

「なるほど。悪くない選択と言えるかもしれません。それは確かです。しかし・・・・・・」

 カウンターの奥側に立った店主は、げっそりとした表情をして最後の抵抗を見せた。

「今日はパンプキンのケーキもあるんですがね。全部天然素材ですし、味は保証しますよ。しかもセットにすると大変お得なるんです」

 が、銀髪の客はニッコリと微笑むと、上品な動作で四クラウン硬貨をカウンターに置いた。そして片方はミルク多めで、と注文をつけてから、連れが陣取った席に向かった。店主は悔しそうな顔をして、四クラウン硬貨をレジにしまい込んだ。

 席の占領を担当していた黒髪は、首尾よく店内で一番よい席を確保していた。席は窓側で四人がけ。窓が近く通りにならぶ露天が見渡せ、店外に設置されたオーニングのおかげで日当たりも心地よく、店内の冷房からも程よい距離だ。テーブルや椅子などの調度品もビーン島風。店主にとっては、パンプキンケーキを注文するような客のために用意した席そのものであったが、しかし店主は為す術もないようで、面の皮が厚い二人の客が席を占拠するのにまかせるしかなかった。

「あんたと来たら」

 先に席について、頬杖をつきながら厚紙製のメニューを眺めていた黒髪の客が言った。夏なのに真っ黒な長いローブに身を包んでいるものだからやはり暑いらしく、冷房にありつけてひとごこちついたという様子だ。

「私にまたあの苦い豆のだし汁を飲ませようという腹なわけだ」

「一昨日あなたに言われて試したけど、ここの紅茶美味しくないし」

「あんたは紅茶のことを何も分かってない」

「あなたが珈琲のことを何も分かってない程度にはそうでしょうね」

  銀髪はトートバックを奥の席に置くと、自分は黒髪の正面に腰を落ち着けた。

 

 

 銀髪の客は相方の向かいに腰を落ち着け、あー重かったとつぶやくと、トートバックから古めかしいハードカバーの本を何冊か取り出した。そして「店を開きはじめる」という表現の良いお手本となるような動作で、一冊一冊丁寧に並べていった。一方の黒髪は、几帳面な面持ちで書店を開店させている銀髪を呆れ顔で眺めると、自分はショルダーバックから小さなメモ帳を取り出し、無造作にテーブルに置いた。

「そういえば」本を並び終えると、銀髪の客は付箋と切り抜きのせいで分厚くなった大判のノートを開き、テラノ製の万年筆をノートの隣に置いた。

「聞いた? ティリ先生、コーン教授といよいよ一騎打ちらしいね。はたして史学研究科長の座はどちらの手に渡るのか?」

「どうでもいい。そもそも魔導史学科と君侯史学科の統合に私は反対だから」

「それは知ってるけど……でも、ティリ先生が劣勢ってことは? だから」

 銀髪が続けようとしたのを、黒髪が手をそっとあげて遮った。

「今日は学内政治の話をしに来たんじゃない。一昨日の続きに入ろう」

「あら、学内政治と私たちの研究が区別できるわけ? そういう態度を取るのってずるいと思うけど?」

 銀髪は水を得た魚もかくやという生気を撒き散らしながら語り始める。

 黒髪は、まーた始まった、とうんざりしたようにつぶやくと、窓から見渡せる通りに視線を送った。プラキア城と大学が中心の旧市街地と異なり、繁華街であるこの通りには多種多様な露天が並ぶ。

「まあ、話したくないんなら別にいいけど……」

 銀髪は餌を取り上げられた犬のような調子で急に押し黙ると、相棒の注意を引き戻そうとして言った。

「それで、一昨日はどこまでやったっけ?」

 黒髪は苦々しげな表情を作った。

「あんたに宿題を出したところまでだよ。《大叙爵》に関する資料整理。『一三三一年の皇帝勅書』を現代語に訳してくる約束だった。とりあえず勅書第四部が必要なんだけど、見せてくれる?」

 新市街地から視線を戻すと、黒髪は秀才特有のあの傲慢さに満ちた調子で言った。私が知っているのだからあなたも知っていて当然。私ができるのだからあなたもできて当然。

 反論は早かった。銀髪の珈琲党はノートをめくり、一番最初のページを指差した。ノートには学内誌の切り抜きが貼り付けてあった。

「でも指定されてるテーマは『一六七一年に行われた、シーン王とミナ王による共同戴冠の経緯と意義について、コーン仮説に言及しつつ論ぜよ』でしょ? 一六七一年に執り行われた共同戴冠の、つまりは三百年以上前に起こった《大叙爵》から論述をスタートさせるのはさ、どう考えても冗長だと思わない? 私はどっちかというと戴冠式の方を詳しく書きたいんだけど?」

「……はい? 蒸し返さないでくれる?」

 黒髪の紅茶党はイラつきを隠さずにまくし立てた。伸ばされたままになっている人差し指の爪を、コツコツとテーブルに当てながら。

「その論点についてはもう十分話したろ。両研究科統合記念の懸賞論文なんだよ? もちろん魔導史と君侯史、二つのアプローチからの回答が期待されてると見るべきだろう。つまり、《大叙爵》によって君侯化した魔女たちが、君侯たちの汚い戦いに巻き込まれ、最後には政治権力という汚物まで獲得してしまう、というね。私に言わせれば、共同戴冠の意義とは『魔女の世俗化が完了し、魔女がこの世界から消え去ったこと』に他ならないね」

「そうかな? 私としては、《大叙爵》によって君侯としての実力を得た魔女たちだけが、魔導大戦という悲惨な迫害を跳ね返すことに成功した、って書きたいところね。だからシーンとミナによる共同戴冠の意義は『魔女の政治的独立を確定させたこと』にあると思う。っていうか、まずここの不一致を解決してしまった方がいいような気がするけどね」

 銀髪が駄々をこねるようにして言った。このままベタベタと流れを持っていかれては困るということで、黒髪がやや強引に話を戻した。

「……話をそらさないでよ。ちゃんと翻訳してきたわけ? ほら。皇帝勅書の。第四部。翻訳。よこしなさい」

「翻訳、翻訳……翻訳ね。でもさ、それって本当に必要かな? お互い古テラノリアル語は読めるんだし、原典ベースで議論した方がよくない?」

「関係ないね。懸賞論文は現代語で書かなきゃならないんだから」

「えーと」銀髪の客はノートからそっと手を引いた。

「昨日はちょっと用事があって」

「なに」

「用事が」

「具体的になに」

「男の子と映画を」

「はあ!?」

「アルバ監督の撮った最新作なんだけどね。『道と馬』っていうタイトル。それなりに面白かった」

「いや、聞いてないから」

「だってさ、具体的に聞きたかったんじゃ?」

「わざとやってるな」

「どういう意味」

「じゃああたし帰るから」

 黒髪の客が席を立つと、その話し相手は表情をほころばせながら、諭すように言った。

「待って待って。一緒に懸賞論文を書き上げるって約束したじゃない? 約束は守ろうよ」

「ああ約束したとも! 忘れないでほしいね、他にいくらでも相手がいそうなものをあんたの方から頼んできたんじゃないか。どうしてもと言うから、あんたが夏季休暇をこの論文に捧げるという条件で私は共同執筆者になってやったんだ。なのに何! あたしが図書館で史料探しをしている間に、あんたは映画館で男探しというわけだ!」

「……別に映画館で男の子は探してない。一緒に行く人とはバスの停留所で集合したから」

「あーやだやだ! あんたのそういうトボけたところにはもー耐えられない!」

「ミルク多めの方はどちら?」

 テーブルにやって来た給仕係が、二人の客の議論に割って入った。給仕係はミア地方の貴族に仕えていたお仕着せたちを模した風貌で、片手で支えられた銀色のトレーにはカップが二組、サイフォンが二つ、ポッドが一つ乗せられている。

「あちらの方です」

 銀髪の客も姿勢を正すと、舞踏会で意中の相手をダンスに誘うプリンスたちのような動作で右腕全体をしならせた。その大げさな動作にこれまた大げさな礼で応えた給仕係は、さっそくコーヒの給仕を始めた。陶器製のソーサーを几帳面な面持ちでテーブルに配置し、その上にソーサーと同じ柄のカップを配置していく。カップはやや高めの口が小さいタイプで、珈琲を楽しむのに向いている型だ。カップの設置が終わると、控えめな回転とともにサイフォンから珈琲が注がれた。さきほどまで口論をしていた二人の客は、どこかきまずかったせいか、給仕係がくそまじめな表情で珈琲をカップにそそぎ込むのを、これまたくそまじめで神妙な顔つきで見つめる。

「お砂糖いただけます?」

 給仕が終わるやいなや、黒髪の客が唐突に尋ねた。

「おやめなさい」

 と銀髪がしずかな声で制止したが、その時すでに黒髪は仕事に取り掛かっていた。給仕係から木製の砂糖入れを受け取ると、黒髪はスプーンで砂糖を大量にすくい、何度も何度も珈琲に注ぎ始めた。砂糖はだばだばと音を立てて珈琲に降り注ぐ。黒髪の動作には、図書館で史料を扱う史学徒めいた繊細さは見られず、むしろ労働者がスクラップを高炉に投げ入れるかのようないい加減さだけがあった。

 銀髪の客はまゆをつりあげる。

「ああ、東部シトー産の豆が台無しだ」

 と、珈琲に砂糖を投入しながら、黒髪が楽しそうに言った。銀髪は、黒髪が砂糖の投入をやめるのを辛抱強く待っていたが、その兆候は全く見られず、小さなスプーンは砂糖入れとコーヒーカップの上を何度も何度も往復するので、ついにしびれを切らした。

「……ちょっと! もう十分でしょ。ただでさえミルク入りなのに。どれだけお砂糖入れるつもりなわけ?」

「甘くなるまで」

 小さく口をあけて絶句してしまった銀髪は、おぞましい異教の儀式に遭遇した聖職者めいた表情で相方の珈琲カップを眺めた。しかし深呼吸によってなんとか平静を取り戻すと、まるで自分だけは手元の珈琲の真価を理解しているのだとでも言いたげに、両手で大事そうにカップを包んでから、もったいぶってカップを口に近づけ、東部シトー産珈琲の香りを楽しみ始めたのだった。黒髪のカップがなるべく視線に入らないようにしながら。

 

「まあ・・・・・・、論述を《大叙爵》から始めるのはいいにしても」銀髪の客がカップをゆっくりとソーサーに戻しながら言った。

「論文でその《大叙爵》をどう位置づけるかについては私達の間で決着がついてないでしょ。まずそこから始めない?」

「議論の余地は無いね。東部の魔女たちがコーラルⅣ世による《大叙爵》を受け入れたのは失敗だった。まさに致命的と言うべき失敗さ。そのせいで本来権力と無縁だった魔女たちが、世俗の汚らしい政治闘争に巻き込まれてしまったんだからねえ。シーンとミナの共同戴冠なんてのはあんた、魔女の生き方が君侯どもの論理に取って代わられていった数々の悲劇の中でも、その最たるものと言えるだろうね」

 と、珈琲をかき混ぜる作業に没頭しながら黒髪。視線は珈琲渦の中心に向けられている。

「あらそう? 私は全く逆の意見なんだけど? 十四世紀の《大叙爵》で帝国諸侯としての地位を手に入れていなかったら、東部の魔女たちは早い段階……おそらく、一六世紀の《蔑視の時代》までに根絶されていたと思う。実際、一五四三年の第十二次聖公会議で正式に宣言されたように、魔女としての生き方を貫いた西部の連中はあの時点で根こそぎやられちゃったわけだし」

 銀髪の言葉を聞いた黒髪は顔をあげて、忌々しげに銀髪を見つめると、静かに言った。

「それならそれで良かったんだ。時代の流れに逆らってまで生き残ってもしょうがない。一体全体、そうまでして生き残る価値があるのかね、魔女たちに」

「もちろんそういった価値判断は学問のしごとではないけれど」銀髪はもう一度もったいぶってカップを持ち上げた。

「私はあると思うけどね」

 黒髪はふんと鼻を鳴らすと、また前かがみになって珈琲をかき混ぜる作業に戻った。だが今回だけは、この粗野で異教的な行いを、銀髪は愛おしげに見つめていたのだった。

「ふふ。まるで魔法薬を精製してる魔女みたいよ、あなた」

「あんたにもできるはずだ。砂糖ならあるんだから」

 ぐいと木製の砂糖入れを押し出した黒髪に対して、銀髪は慈しみの笑顔を苦笑いに切り替え、表情そのままに視線をノートに戻した。

「それで、話を戻すけど。あなたは《大叙爵》を、魔女の生き方が変わり始めたその第一歩として見ているわけね?」

「堕落の歴史だよ、《大叙爵》以降の魔導史は」

「じゃああの悲惨な疫病に対して、魔女たちは何もするべきではなかったと?」  

「……難しいところをついたつもりだろうが、私の意見は変わらないね」

 黒髪はニヤリと笑ってから、カップを口に近づけようと試みた。が、その匂いを嗅ぐとまたカップをソーサーに置いてしまった。

「あんたの言う通り……十四世紀に入ってすぐの頃、大陸で悲惨な疫病が流行した。特に子供たちに罹りやすい病で、君侯の子だろうが農民の子だろうが関係なくばたばたと死んでいった。で、どうなったか?」

「当時ならよくあることでしょ」

 銀髪の解答を不服そう受け流す黒髪。

「皇帝は魔女に助けを求めてきたのさ! なんたる厚顔無恥! そして当然、魔女の解答はNOだった。歴代の皇帝が放った遠征軍は少なく見積もっても南部で十二、北部で八、一番弾圧が苛烈だった西部では十八もの魔導協会を容赦なく潰していたから、魔女たちとしては皇帝の要請を蹴り返す他なかったんだ。各地の魔女は一般にサバトと呼ばれる協会会議を開き対応を協議したが、どこの魔導協会も全会一致で帝国と人間への不協力を決議した。魔女としては当然の対応だ」

 黒髪が大演説を終えて一息ついているのを相方が引き継いだ。

「でもたった一つの協会が、他とは違う対応を選んだ。ここプラキア市を本拠地として、帝国東部地域で活動していた魔導協会ね。通称《十三人協会》。懸賞論文のテーマにあるシーン王もミナ王も、元々はこの協会のメンバーだった、つまりコテコテの魔女だったことが分かっている……と」

 銀髪の客がノートをめくりながらそう言うと、黒髪はむきになって言った。

「なーにが『たった一つの協会』だよ。まるで帝国への協力が《十三人協会》全体の意思だったかのような言い方をするのはやめてもらいたいね。事実に反するから」

「あら。事実でしょ。少なくとも三冊の一次資料にそう書いてるあるけどね」

 銀髪がとぼけて言ってみせると、つい先程そうしたように、黒髪の客はまたしても人差し指の爪をテーブルに打ちつけ始め、自分の言葉に弾みをつけるようにして言った。

「確かに結果として帝国に協力する形にはなったが、元々《十三人協会》の内部でも意見は割れてたんだ。正確に言えば、ああなったのは造反者、裏切り者が出たせいなのさ」

呆れ顔で割って入る銀髪。

「裏切り……ね。でもこんな言葉を知ってる? 『裏切りはかならずしも悪人と善人の間でおこるとは限らない』ってね」

「もちろんその通り。だが、健全な魔女と堕落した魔女の間で起こることはあるんだ」

「なるほど」

 銀髪は観念したように両手を上げると、黒髪の言葉を促した。

「事実はこうさ。《十三人協会》の魔女たちが残している議事録によればだ、神聖皇帝コーラルⅣ世の要請に対してどう返答するべきかを相談したサバトでは、終始拒絶派が優勢だった。名誉職ではあったが会長を努めていた《黒の魔女》ミナ以下、一三人中十二人の魔女が拒絶に投票した。それほどコーラルⅣ世による迫害は苛烈で、魔女たちの警戒心は強かったんだよ。なのに一人だけ、神聖皇帝への協力を訴える魔女がいた。それが《嵐の魔女》シーン。後のシーン共同王その人というわけだ」

 黒髪が続けようとすると、銀髪がまたしても唐突に割って入った。

「私その魔女好き。歴史を勉強しているとお気に入りの人物っていうのがどうしても出てくるものだけど、《嵐の魔女》シーンは特別お気に入り」

「あっそ」

 忌々しげに言葉を切る黒髪。だがなんとかして一言だけ付け足した。

「あたしは嫌いだよ」

「転科のことまだ根に持ってるわけ?」

 黒髪は珈琲を唐突にあおった。が、やはり無理をしていたのか、さっそく咳き込んでしまう。なんてひどい……しんじられない……などとつぶやきながら、ハンカチを求め脇においていたショルダーバックを漁る黒髪。

 その様子を見つめながら、銀髪が呟いた。

「あなただって本当は魔女シーンが好きでしょうに」

 黒髪の客はハンカチで口を覆いながらい銀髪を一瞬睨みつけた。そうしておいて、空いている方の手を無気力に振って何か言おうとした銀髪を黙らせた。

「とにかくだ。シーンの奴が受諾票を投じたせいで、《十三人協会》の開いた協会会議は魔導上の拘束力を発揮できなくなってしまった。本来サバトでの決定は魔女たちを契約魔法によって拘束することができるんだが、それが可能なのは全会一致を見た時だけだからだ。《嵐の魔女》シーンはサバトが終了するやいなや、皇帝の宮殿に飛んでいった。疫病にやられていた皇子たちを治療するためにね」

「それって問題あるわけ? 協会としてではなく、シーンが一人の魔女としてやったことじゃない。よく言うでしょ、『魔女はなんだって一人でできる』」

「知ってるよ。だがその言葉はこう締めくくられる。『ではなぜ魔女は協会を必要とするか?』とね。魔導協会の連帯というものを、シーンはなし崩しにしやがったのさ。かの高名な《十三人協会》の正式メンバー、それも最も格式が高くそして古い歴史を持つ魔女の一人である《嵐の魔女》が、コーラルⅣ世の宮廷で皇子たちの疫病を見事治療したという噂はあっという間に大陸中に広がり、帝国中の連中がここプラキア市に群がってきた。その殆どは子供が疫病にやられた親たちでね」

「かわいそうじゃない。たすけてあげないと」

 銀髪がひょうひょうと口を挟む。黒髪は眉を寄せて続ける。

「とにかく、人々の流入によって市の衛生状態は崩壊寸前に陥ったし、治療を求める人々も暴徒化寸前。実際、一部は暴徒と化して橋への攻撃を始める始末さ。市街に通じる一番大きな橋だったロベルツ橋の管理塔を包囲側に奪われた段階で、プラキアの市政会まで妥協路線へと舵を切った。《十三人協会》側、特に《黒の魔女》ミナは徹底抗戦の構えを見せていたが、足元の市政会が城門の鍵を開けたがっていたんだから戦えるわけがない。魔女シーンの作り出した状況に押し流される形で、結局《十三人協会》は帝国と人間への協力を約束した。やむなくね。一三二九年の段階で《嵐の魔女》シーンと神聖皇帝コーラルⅣ世が妥結していた秘密協定が『黄山の協定』で、その協定の正式版が『一三三一年の皇帝勅書』……あんたに現代語訳を頼んだ文書だね……それで、その勅書を根拠として、その年の終わりにピカデリー宮殿で、魔女に対する《大叙爵》が盛大にとり行われたというわけだ。帝国を疫病から救った功績に対し、というお題目でね。魔女の神聖帝国諸侯、という学問上の難題が登場した瞬間だ」

 

「《十三人協会》のメンバーでも約一名、爵位を受け取らなかった魔女がいるけどね……」

 黙って珈琲を飲みながら黒髪の大演説を聞いていた銀髪が、肩をすくめていった。

「一三三一年の《大叙爵》を描いたタペストリー、『ピカデリー宮殿での叙爵式』に描かれているように、《黒の魔女》ミナは皇帝への宣誓を拒否した。そのせいで、爵位を貰い損ねた。ゼルン領圏公爵および選定大公の地位が約束されていたのに……本当に、もったいないというか、意固地だよねえ、ミナっていう魔女は」

「あくまで魔導史科所属の研究者として言うんだが」

 黒髪は楽しそうに椅子の背もたれに寄りかかった。

「あれは皇帝が悪いよ。叙爵式の直前になって、黒ローブを着用している者に叙爵はできない、なんて言い出すんだから」

「着替えればいいだけでしょ!? 魔女シーンが用意していたドレスがあったんだから!」

 銀髪は乱暴にノートをめくり、貼り付けてあった絵柄を指で突いた。

「あぁ、それ。何ていうんだっけ? その、当時流行していた、模様のある薄い布は……」

「ひょっとしてレースのことを言ってるんじゃないでしょうね?」

 銀髪の肩から力が抜ける。

「そうレース。魔女シーンときたら、そういうレース付きのドレスに鞍替えして叙爵式に出席したからね。魔女の服装は黒ローブと決まってるのにだ。二重で裏切ったというわけだ」

「叙爵式にどんな服装で出るかなんて瑣末な問題でしょ……?」

「魔導史的には瑣末じゃないね」

「あきれた」

 銀髪は大きなため息をつくと、少しきつい調子でまくし立てた。

「これは複数の年代記に書かれていることだけど、宣誓拒否の話を聞いた魔女シーンはこの時、相当怒ったらしいよ。本来ミナに与えられるはずだった議会爵位の票は、帝国議会で魔女たちが立場を確保する上で欠くべからざるものだったんですもの。シーンはちゃんと色々計算して、皇帝と交渉してたのよ。それが魔女ミナのせいでめちゃくちゃにされちゃったわけ」

「それは典っ型的な君侯側のロジックだね。シーン史観と言ってもいい。魔女が神聖帝国議会に出席してる方がおかしいんだ」

「……またそういう話をするの? 叙爵が行われたとはいえ、皇帝や君侯と魔女たちが和解したわけでは全然なかったわけでしょ? むしろ、喉元過ぎれば熱さを忘れるって調子。《大叙爵》以降疫病がすっかり収束してしまうと、君侯たちは魔女が露骨な権力を獲得していくのを妨害し始めた。君侯たちは教会と結託して、魔導諸公国に対して軍事上、外交上、経済上の制限を押し付けたというわけ。帝国議会令の名の下にね。でも、もしミナの票があったら、せめて軍事権だけは確保できていたはず」

「だからさ、魔女には軍事権も外交権も経済特権もいらないんだよ。そういった世俗の汚らしさとは離れたところで、ローブと杖と魔本と一緒に生きるのが魔女なんだ」

「だから、そういう態度を取っていたからこそ、魔女は迫害に対して無力だったと私は言っているのに、あなたは決して聞こうとはしないよね。どうして?」

「さあ……? 魔導史専攻だからかな?」

 黒髪の全く動じない態度を見て、銀髪は一度珈琲を手に取った。黒髪を切り崩すためには、十分なエネルギーが必要だった。

「とにかく! 魔女シーンの始めたプロジェクトは、のっけから身内の反乱で破綻の危機に陥ったの。そこで、十五世紀に入ったあたりかな、フルスペックの君侯国としての地位を獲得するため、魔女シーンは皇帝に接近した。まあ、しょうがなくという意味だけど……。当時の皇帝エーファンリムⅡ世は中央集権化政策を進めたがっていた皇帝ね。ただ、『大陸諸侯の古き権利を守る』ことを旨とする帝国議会は、皇帝大権の拡大なんてことは絶対に許しはしなかったから、議会対皇帝の対決は進展せず、何十年と膠着状態が続いていた。ところが、そこに魔女という新たなファクターが現れたわけ」

 黒髪は片手を癖の強い前髪をいじり始めた。

「あまり聞きたくない部分だ」

 銀髪はお構いなしで続ける。

「その時代、魔女は皇帝に協力することによって自らの権力を拡大させたわけ。数次に渡る《王滅戦争》時代――これはまあ、ざっくり言うと皇帝と大貴族の戦いなんだけど――、魔導諸公国は皇帝側に立って参戦した。皇帝派の勝利によって、帝国における大貴族は倒れ、皇帝独裁路線が確定し、魔女たちには独自の軍事権が許された。魔導騎士団の正式召集が一四八〇年、その二十二年後にはゼーレン川以北における都市、鉱山、市場、運河についての特許状発行権が皇帝から委任された。魔女シーンが《東部における帝権代理人》を名乗り始めたのはこの頃と言われているわね」

 黒髪は皮肉的な、かわいた拍手を送った。

「結構結構。大いに結構じゃないか。皇帝の忠犬と化した魔女たちも、今や立派な騎士団と肩書を得た。代わりに魔女としての誇りを失ったけどね」

 銀髪は表情を曇らせる。

「まあ、あなたの言う通りだったら良かったんだけど……。つまり、本当に魔女が魔女で無くなっていたのだとしたら、それはそれでよかった。というのもね、いざ魔女が露骨な権力を獲得してしまうと、今度は皇帝と魔女の関係がギクシャクしはじめた。皇帝としては使い勝手のいい忠犬が、いつの間にか鋭い牙を持った獅子になってしまった、ってことなんでしょうけどね。当然、強力すぎる臣下は邪魔なだけ。しかも間の悪いことに、時の皇太子、後の皇帝エーファンリムⅢ世は教会司教たちに囲まれて育ったような人だったから、当然大の魔女嫌いと来ていた。シーンの努力も虚しく、皇帝は即位と同時に、《大叙爵》以来停止されていた魔女排除令を復活させた。これを契機に始まるのが、魔女に対する大反動の時代、通称《蔑視の時代》ね。一六世紀に入ったあたりから、魔女排除令の取り下げを要求するシーン率いる魔導諸公国と、皇帝大権を立てに頑として要求を拒絶する皇統政府との緊張がどんどん高まっていく。一方の皇帝は西部の魔女迫害に乗り出し、一方のシーンはその報復に東北部のゾニアル諸侯を『保護』下に置いた」

 黒髪はふてくされたように頬杖をついた。

「だがそんな生ぬるい対応をしていた結果が、一五四三年の第十二次聖公会議での宣言――つまり、帝国西部における魔女殲滅宣言――というのでは全く話にならないけどね。結局、シーンは魔女を裏切った。本当に、本当に最低だよ」

「……その宣言が発せられた後、皇帝と魔導諸公国の緊張は極限まで高まっていった。そして、一五五五年の正月。シーンはついに自らが《東部における王》であると宣言した。当然、王号を認めるのは明確に皇帝大権の一部だから、シーンがやったことは帝権の侵害にあたる。皇帝エーファンリムⅢ世は激怒。シーンの宣言を黙殺し、逆に魔女たちの持っていた議会爵位、領圏爵位の剥奪を宣言した。まあ、これが事実上の宣戦布告ね。実際には一五五五年の六月、《渓谷の魔女》ロベルツ率いる魔導騎士団の一隊が南部皇統領に侵入することで、軍事的にも魔導大戦が始まった。一六七一まで続く、最後の迫害戦争がね。まあ、結論を先に行ってしまうと、この戦争は魔女側の勝利に終わるわけですが……」

「はっ、勝利ねえ? その戦役中、十三人いた協会の元メンバーは、ミナとシーンの二人にまで減ってしまったわけだけど?」

「そう見るか、あるいはシーンとミナが生き残ったと見るかでしょう。多大な犠牲を出しつつも、最終的には迫害を跳ね返すことができたんですもの。しかもその成果として、シーンは皇帝から王冠を勝ち取ることができた。皇帝からの独立の象徴をね。その王冠をシーンとミナが戴いたのが一六七一年の共同戴冠式よ。だから懸賞論文の問に素直に応えるなら、おそらくこう言うべきでしょうね。『シーンとミナによる共同戴冠の意義は、魔女の政治的独立を最終的に確定させたことにあった』と。でも……ああ、なんて皮肉なの!」

これまで一貫して自信に満ちた態度を維持してきた銀髪が、初めて黒髪の表情を伺いながら言った。

「シーンは戴冠式の直後に暗殺されてしまった。三百年もかけて手に入れたすべてを、一瞬で奪われた……皮肉っていうのはそういう意味、一応」

 

 二人が注文した珈琲はすっかり冷えてしまったばかりでなく、全く減っていなかった。黒髪はほとんど口にしようとしなかったし、銀髪の方は最初のうちだけ香りを楽しんでいたのだが、議論が白熱するにつれて珈琲を楽しむ余裕が無くなった。

銀髪がカップを自分の方に軽く傾けながら言った。

「新しいのに代えて、ってお願いしたら代えてもらえると思う?」

「相変わらず面の皮が厚いねえ、スティラは」

「いやいや……自覚が無いのでしたら教えて差し上げますけどミナ、あなたも相当だから」

 銀髪の客、スティラは最後にもう一度だけ珈琲カップを口に運んだが、やはり悲しげな調子ですぐにカップをソーサーに戻した。

 そうしておいてスティラはさっそくこれみよがしな視線をカウンターの店主に向け始めた。店主は頑として応じようとはしなかった。もはや、すわパンプキンケーキの注文かと期待する素振りすらない。とはいえ店内にはスティラたち以外の客は一人もいなかったので、店主は最終的に客商売人としての矜持に従ったようだった。 

 店主がカウンターから出てスティラたちの席に歩み寄ろうとした瞬間、しかし、ずっとうつむいていた黒髪の客、ミナが切り出した。スティラははっとして視線をミナに戻す。見捨てられた店主はカウンターに戻って不機嫌そうに腕を組んだ。

「シーンが暗殺されたことに関してだけど、皮肉でもなんでもない。あれはね、およそ三百年に渡って国政をひっかきまわした《嵐の魔女》シーンに対する、神聖帝国側からの正当な反動だったのさ」

「……なんですって?」

「スティラ、あんたは魔女の独立がどうのこうのといかにも君侯史学らしいことを言うけどね、シーンのやったことに一体どんな意味があった? いずれにせよ、もう魔女はいなくなったんだ」

「厳密に言えば、まだ一人だけいるけどね」

「いないのと同じだよ」

「違います。全然違う」

 これまで黒髪の大演説も黙って聞いていたスティラだったが、堰を切ったように言葉が溢れた。

「まったく信じられない。随分な言い草とはこのことね。シーンに対する暗殺が正当? それ本気で言ってる? あのね、私が言うまでもないでしょうけど、言わせて。《大叙爵》という法制上の抜け道は、疫病の蔓延、君侯の子弟たちの大量死という極めて特殊な状況下で、かろうじて正当化されたに過ぎない異常事態だったわけ。神聖帝国諸侯でありながら同時に魔女でもあるという十二人の魔導貴族は、どう考えても収まりが悪い存在であり続けた。第一、教会は古代から今にかけてずっと、正式に魔女排除令を出してるんだから。つまりね、魔女の権力基盤なんてものはいつ掘り崩されても全くおかしくないほど脆弱で、《大叙爵》以降の三百年は、まさに綱渡りそのものだった。そんな危険な世界で、シーンはよく踊りきったと思う。その手腕は評価されてしかるべきだわ。そりゃ、シーンは表向き魔導史の破壊者かもしれないけれど、でもあの魔女が実質的に何をやっていたか、同僚たちはちゃんと理解していたわけでしょ? 当然、《黒の魔女》ミナだって」

「さあてね」

 ミナの発言を受け流すかのように、スティラはテーブルに開店させたいくつかの研究書について、その問題点をあげつらい始めた。

「……つまり、このあたりを全く織り込めていないから、最近の研究動向は救い難く歪んでるわけ。誰かが舵を引き戻さないと!」

「はは、そんなことを言っていいのかねえ。まさにその、最近の研究動向を引っ張っているコーン教授の研究室に出入りしてる人が」

「つまり、近年流行している研究の嚆矢であり、懸賞論文での言及が要求されているコーン仮説とは」

 スティラは相方のちゃちゃを無視して続けた。

「シーン暗殺事件の下手人を《黒の魔女》ミナであるとする説。その論拠としてコーン教授が上げているのが、三年前にプラキア城の《時の間》で発見された魔女ミナによる日記よ。どうやらその文書内で、ミナはシーンのことを散々にこき下ろしているらしい。それこそ憎しみに近い調子で綴っているとかなんとか」

「はあ。らしいっていうのは?」

「読んでないの。私があの文書を読むことは決して無いでしょう」

ミナの表情が曇った。

「嘘でしょ……課程に入ったら真っ先に読まされる文書だよ?」

「知ってる」

「基礎読本の講義でどう単位を取った……の?」

「方法は常にある」

「最重要文書であるミナの手記抜きでコーン仮説に反駁できるとでも? 必ず引用される文献なんだよ?」

「できる。コーン仮説は三年以内に私が潰す。私たちの懸賞論文が反撃の狼煙となるでしょう」

 スティラは力強く宣言し、姿勢を正した。それから分厚くなった大半のノートを、まだ書き込みが無いページまでめくった。もうすぐ次のノートに移行する必要がありそうだ。

「……まったく、二十二とは思えない思慮深さだ!」

 背もたれに大きく体重をあずけたミナは、大げさな身振りでまくしたてた。

「これは踏み絵だよスティラ。わざわざコーン仮説への言及を要求してるってのは、次期研究科長への忠誠を示せって意味だ。自分でもよくよくわかってるんだろ? 特にあんたの場合……魔史科から移った身だから、君侯史学プロパーってわけじゃないし……コーン仮説を叩くとますます味方がいなくなるよ」

 スティラはノートに視線を落したまま応える。

「私が移ったのは、シーンの研究に関していえば君侯史学科の方がはるかに先進的だったから。それに。研究テーマとしてこれほど面白いものは無いのも事実。三百年もの間、一人の人物が一貫して一つの政治目標――つまり、魔女の政治的独立の獲得ってことだけど――を追求する事例なんて、世界中全部を見渡してもシーンのケースただ一つがあるだけなんですもの。私の研究を進める上で転科は絶対に必要なことだったし、コーン教授の仕事を尊敬してもいる。でも、それとコーン仮説を叩くかどうかは全く別の話」

 ミナはうろたえながら切り出した。

「あ、ああ……。ただ、そうは言うが、コーン仮説は推論としても悪くない。よくできているよ。攻め込む隙がほとんどないくらいだ。なにせ、たしかにあの日記には多分いろいろ書いてあるから……。だから気持ちはうれしいけどスティラ、私たちの論文はコーン仮説に沿った内容にするべきだと思う。何か特別な史料でも見つからない限りはね……それに、あんたのキャリアのことだってあるし。学位を取るまではあまり波風を立てるべきじゃない」

「あーもう!」

スティラはすっと席を立つ。

「ミナさんの方にやる気が無いなら結構です。私一人でやりますから。」

テーブルに開店していた本市をしまいにして、スティラはトートバックにガサガサと古書を詰め込んでいった。途中、スティラの恨めしげな視線を受け止めたミナが言った。

「その……古書はもっと大事に扱わないと」

 スティラは眉をつり上げると、バッグを肩にかけ、カフェの出口に向かって二歩進んだ。

ミナが観念したようにして言った。ほうほうの体というところだ。

「待て待て……」

「当然、そういった発言があって然るべきでしょうね。どうぞ続けて」

 スティラは回れ右をすると、両手を腰にあててミナの言葉を待った。

「き、聞いてなかったのかい? 私の話を。ちゃんと」

 ミナは一度小さな咳払いをしてから続けた。 

「私は攻め込む隙がほとんど無いと言ったんだ。ほとんどというのはつまり、隙がないわけじゃないということだ」

 腕を組んで一度押し黙ると、ミナは記憶の海から情報を引き出した。

マリル湖畔のデマリルという街に……たしか、ヴァンデマリル家のマチルダという小公子がいる」

「小公子ってミナ……今その御方、御年七十歳よ。もしあなたが、大陸議会で保険議員を十期努めたマチルダ・ヴァンデマリルのことを言ってるならだけど」

「……マチルダ元議員がいる。マチルダの先祖に、魔導大戦第四期に帝国大元帥だったロチ・フォン・ヴァンデマリルというのがいてね。元議員の屋敷には、ロチが残している大元帥公式手記が秘蔵されていたはずだ、たしか」

「ロチ大元帥ですって! 私の見立てでは、シーン暗殺の下手人はそいつよ!」

 スティラはミナのところに走り寄って、机に思いっきり両手をついた。

「……まあ落ち着きなさい。ただ、マチルダと最後に会ったのはアレが十八歳くらいのころだ。今は年をとって気難しくなってる可能性が高い。素直にロチの手記を見せてくれるかどうか」

「なるほどねえ。年をとると気難しくなる、なんてことがあるんだ。私全然知らなかった」

「うむ。十分警戒しなくてはならない。だから、マチルダとの交渉は全面的に私にまかせてくれるなら……」

「くれるなら?」

「幸い、まだ夏季休暇も残っていることだし。マリル湖は避暑地としても悪くないし」

「し?」

「……文脈から明らかだろ。私に言わせたいのか」

「その方がお互いのためだと思うの」

「つまりだね……」

「お客さん方、そろそろ夕方の部ですので!」

 ミナが口を開きかけたところで、カウンターからやってきた店主が二人に言った。客たちが反射的に時間を確認すると、まだ一五時だ。むろん、カフェには他のお客はいない。

 スティラが水を得た魚もかくやという生気をほとばしらせながら、店主に反論するべく口を開きかけた。が、窓側の壁に貼ってあったポスターに気がついたミナが、すんでところで、相方を小声で制した。どうやら、夕方からはどこかのバンドを呼んで貸し切りのパーティを開く予定があるらしい。

 笑顔を急造したスティラは、美味しい珈琲でした、また来ますねと慇懃な調子で述べてから席を立った。ミナもそれに続いた。店主もまたどうぞと義務的に言い放つと、どこかからかかってきた電話に出るべくカウンターに戻っていった。

 出口のドアを押しながらスティラが小声で言った。

「ここの店主ってデリカシー無いと思ったことない?」

「いいや、おもてなし精神の塊みたいな人だよ」

 カフェから出ると、まだ日は高く気温も高いようで、ミナは目の上に手をかざしてうめいた。スティラはしゃがみこんで、太陽光を受けていよいよ弱っている店先のペチュニアに目をつけた。指でつんつんとつついて、弱ったペチュニアに追い打ちをかけるスティラ。

 ミナが何気なくたずねた。

マリル湖に行くとすると一日二日じゃ済まないが。男の子はいいのかい? アルバ監督の映画を一緒に見たとかいう」

「今から会ってくる」

 すっと立ち上がるスティラ。

「へえ」

「昨日映画に行ったのはある人へのあてつけでしたって、ちゃんと謝らないと」

「……あんたのそういうところ、ふりなのか、マジなのか」

「わからない」

「それは私の質問の意味がわからないということ? それともどっちなのかが自分でも判断がつかなくなってきている?」

 スティラは肩をすくめると、それじゃと短く言葉を切って新市街地方面に早足で歩いていった。重そうなトートバックを数回持ち直しながら歩いて行くスティラが角を曲がって見えなくなってしまうと、ミナも旧市街地の大学寮に向けて一歩踏み出す。

 プラキア大の夏期休暇は、もう少しだけ残っている。