洗練された仲直り映画。「SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム」感想

 

SR2 サイタマノラッパー2 ~女子ラッパー☆傷だらけのライム~O.S.T.

SR2 サイタマノラッパー2 ~女子ラッパー☆傷だらけのライム~O.S.T.

 

 「SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム」を見た。

 

 見よう見ようとは思っていたのだが、敬遠していた一本。なぜ敬遠していたのかというと、前作の「SR サイタマノラッパー」があまりにもドストライク作品で、簡単に言えば神作品だったからである。そもそも一般論として、やはり自分の愛する作品の「続編」というものを覗き込むのには勇気がいるものだ。ポシャってたらなんかイヤではないか。

 それに、前作のエンディングは視聴者を突き放す(厳密に言えばちょっと違うのだが、詳細は後述)タイプのそれであったわけで、その突き放し方が完璧だったから賞賛を送った私としては、続編と言われても「いや、帰ってくんなよ」という反応にどうしてもなる。あえて例を出すと、例えばSR1と同系統の映画には「狂い咲きサンダーロード」とか「レスラー」とか色々あると思うのだが、それらの続編を見たいか? と言われるとまあ見たくないわなという話だ。

 敬遠していた理由にはもう一つあって、それはSR2が「女子ラッパー」を描いているという前情報を知っていたから、というもの。「落ちぶれた女性」は、端的に言って描くのが難しい。「落ちぶれ」であるからには一種の自然主義が要求されてしまうのにもかかわらず、コンテンツ産業における「リアルな女像」というものは通常作為的人工物、つまりなんの自然さもない何かに堕す場合が多いからだ。いや、私は別に作為性全開の「落ちぶれたリアルなオンナ」はコンテンツとして好きなのだが、敬愛するサイタマノラッパーというタイトルを冠する作品でそれをやってほしくはない……という屈折した思いがあったというわけである。

 というわけであまり見る気がなかったのだが、ジョン・カーニー監督作品を色々見ているので、そういや我が国にも音楽映画あったなと思って借りるに至ったのであった。

 

感想

 最初に結論を述べてしまうと、「仲直りの映画としてより洗練されたな」とでも言えばいいだろうか。いや、普通に面白かった。女性の描き方も、「虚構性の裏に自然さを覗かせる*1」という体になっていて、警戒していたほどいやらしくなかったので、かなり安心して見ることができたのも大きい。

 まず、前作の話を簡単にしておく。前作、SR1は和解の物語である。「男同士の友情物語」「夢を諦めた人に送る物語」という表現は、もちろん正しくはあるが、サイタマノラッパーはそういった陳腐な解説を逃れうる強力なパワーを持っている。露骨にホモソっぽい空気感を出しつつも、「ラップ」という設定と「仲直り」という物語性を完璧に近い形で絡ませているから、SR1は普遍性をもった神作品であると自信を持って言える。

 もう少し具体的な話をする。SR系譜の作品において、ラップというものは、文化史においてどう扱われているかとは関係無しに映画内在的な話をするが、明確に「本音のぶつけ合い」として描かれている。つまりラップとは、本気の会話であり、露骨な表現をしてしまえばケンカだ。ラップisケンカ。このラップという名のケンカに視聴者をグイグイと引き込んでしまうという点が、SR系譜作品のすごいところなのだ。

 というのも、立派な大人が心をむき出しにしてケンカをするというケースはめったにない、というか、ケンカという営みは他人の共感を得られるようなものではないのである。ケンカはどちらかと言えば、頭の悪い悲惨な連中の生業であるし、何より、ケンカというものは特定の人間関係に内在的なもので、よっぽどのことが無いと他人のケンカに興味を持つことはできない。むろん、「ケンカップル」という概念もあったりするし、仲悪い殺伐としたカップリングが人気となることは、あり得る。だが、おそらく「仲が悪いけどいつも一緒にいる二人に萌える」と、「普通に仲いいけどケンカしちゃった二人に萌える」は、性質として異なると私は思う。いずれにせよ萌えることはできるだろうが、前者の場合ひと目で萌えられるのに対して、後者で萌えるためにはより多くの文脈的知識が必要となるはずだ。よって、仲の良い二人の関係が一度破綻し、そして和解によって再生される過程を説得的に描くためには、二人の関係性についての情報を丁寧に提示していくという、かなり高度な語りの技術が要求されることがお分かりいただけるだろう。それに成功しているサイタマノラッパーは故に、非常に洗練された「仲直り」映画なのだと思う。

 作品の話に入っていきたい。SR系譜作品が最も盛り上がるのは、つまり物語のピークは、最後のラップシーン=ケンカシーンである。これはSR1、SR2共通の要素。さて、ケンカには理由がつきものだが、あいつらは一体なぜケンカするのか。SR系譜作品におけるケンカの原因は、基本的には「夢を裏切ったこと」だ。若き日に親友と一緒に見た夢。それを裏切ってまっとうな世界に逃げ出してしまった友。残された主人公。という悲しいモチーフ。

 だが、この裏切り行為は全く正当なのだ。映画の舞台となる埼玉県や群馬県のような田舎には夢も希望もライブハウスも無いので、音楽をやろうという情熱は圧倒的閉塞感を前にして敗北せざるをえない。でもそれでも、年をとっても、追い詰められても、夢を諦められない人々。「現実」との和解を拒否しようとする主人公たち。でもそんな足掻きも、やっぱり現実には全然歯が立たない。そこで仲間たちは一人ひとり、主人公の前から消えていく。最後まで戦線を支え続けた主人公も、あえなく屈服し、世界から強制された和解案をやむなく受け入れ、カタギな生活を始める……この構造は、SR1、SR2共に共通だ。 

 ここから先は、SR1と2で異なる。先に1の話をしておく。

 SR1のエンディングは危うい。何度も言及している「ラストのラップシーン」は、結局「俺は世界と和解しない!」という強力な意思が現れるシーンなのだ。もはやカタギな生活を始めた主人公と、同じくカタギな生活を始めた仲間が出会う瞬間、二人のラップ=ケンカが始まる。この瞬間、つまり元ラッパー志望だった人々が、そば屋のバイトとして、交通整理のバイトとして再会するというのは、とても気まずい。というか、端的に言って屈辱の瞬間だろう。まさに敗北感が頂点に達する瞬間と言ってもよい。が、絶望の頂点に達した段階で、ラップが始まる。二人の言葉の、本音のぶつけ合いが始まる。一度、世界との間に屈辱的な和解を演じざるを得なかった主人公とその仲間は、ここでお互いに本音をぶつけ合う。しかもその本音をラップに乗せてぶつけるのだ。だからこの本音のぶつけ合いは、本音ではあるんだけどラップの歌詞ですよという保険がかけられていて、「堰を切ったように本音を出しはじめる」ことに対する納得感はかなり強い。もしこれが「キレた二人の若者が絶叫して怒鳴り合う」では、絶対に共感は得られないわけだが(ドン引きである)、音楽に乗せているおかげでギリギリ受け入れられる緊張感に収まっていると言える。作品のほぼ全編を使ってひたすら痛めつけられて屈服した主人公たちが、最後にラップという夢にもう一度帰ってくる、しかもラップの力で!という展開はとても感動的だ。さらに言うならば、SR1は最後に余韻を残すような終わり方をしている。主人公とその仲間が完全に和解する瞬間の、一歩手前で映画を終わらせてしまうのだ。この演出の効果のほどは計り知れない。おかげで視聴者は心の中で和解の解放感を何度も味わえるのだから。また、みなまで映さない演出は、やはり主人公たちの下す結論の危うさとも関係しているだろう。現実との和解を拒否すると、原則として未来は真っ黒なのだ。

 さて、ここからはSR2の話だ。SR2は、1と基本的に同じ話なのだが、和解の構造が違う。1の和解が、お互いの裏切りを強く自覚した上で、ある種「一緒に夢に帰ろう」という危険なものだったのに対して、2の和解構造はもう少し地に足がついているのだ。SR2の場合、最後まで夢の戦線を支えた主人公に対して、早い段階で逃げ出した仲間たちが強い負い目を感じている、という点が特徴的だ。つまり1の和解は対称性が担保された和解だったのだが、2は、どちらかと言えば「裏切り行為を行った仲間が、最後まで戦線に残った主人公に許しを請い、受け入れられた結果」としての和解を描いている。それに、最後のラップによる提案もまるで違う。1は結局「夢を諦めない」以上のことは言っておらず、ある意味で現実と向き合うことを放棄するという危険な投げやり感を含んだラップだった。だが2は「現実と向き合う」という路線にかなり寄せた歌詞になっていて、そういった意味で主人公たちの成長が感じられる展開となっている。そして、これはこれでよいのだと思う。

 1のように、反動パワーを極限まで高め、破滅に向かって一緒に走っていくぞ! というタイプの危うい和解はよいものだ。私は大好きである。しかし一方で、「散々痛めつけられた上でやっと現実と向き合う気になった。もう夢だなんだと言ってられないけど、でも夢が裏切られても、私たちの関係は終わりにしなくてもいいんじゃないか」という感じの脱力感マシマシの和解も、しっとりしていて実にいい。実際、1とは対称的に、2は唐突に映像を切ったりせずに、最後の最後の展開まで画面に映す。最後のシーンは、和解してとてもリラックスした主人公たちが、仲良く田圃道を歩いて行くショットで終わるのだが、こういう絵の良さは、より妥協的な解決を選択した主人公に対するご褒美なんだろうなと思う。

 まとめると、1よりも2の方がより洗練された「仲直り」の話になっていて、そこはとてもよかったと思う。多分もうサイタマノラッパーシリーズは見ないけど、とりあえず2は思っていたより全然よかった。俺も音楽をやりたい人生だった。YO。

*1:この逆、つまり「自然さの裏に虚構性を隠す」が一番まずいが、とりあえずこれは回避できてたんではないか