雰囲気のある小説 『ニルヤの島』感想

『ニルヤの島』とは?

  生体受像の技術により生活のすべてを記録しいつでも己の人生を叙述できるようになった人類は、宗教や死後の世界という概念を否定していた。唯一死後の世界の概念が現存する地域であるミクロネシア経済連合体の、政治集会に招かれた文化人類学イリアス・ノヴァクは、浜辺で死出の旅のためのカヌーを独り造り続ける老人と出会う。模倣子行動学者のヨハンナ・マルムクヴィストはパラオにて、“最後の宗教”であるモデカイトの葬列に遭遇し、柩の中の少女に失った娘の姿を幻視した。ミクロネシアの潜水技師タヤは、不思議な少女の言葉に導かれ、島の有用者となっていく―様々な人々の死後の世界への想いが交錯する南洋の島々で、民を導くための壮大な実験が動き出していた…。民俗学専攻の俊英が宗教とミームの企みに挑む、第2回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作。

 

感想

『ニルヤの島』を読んだ。感想としては主に2点。1つは純粋にテクニック上の論点であり、もう1つはテーマ上の論点。総合評価は5点中2点といったところか。雰囲気はあるし、エロゲシナリオが繋がったときのような感動はある。が。それでも。私は。

 

1、描写がほぼない。でも、これは「文化人類学小説」なんですよね?

 テクニカルなことを語る上ではフレームワークが必須であるから、とりあえず最初に理論的な話をする。小説というメディアは、①キャラクターによる会話の場面と、②地の文による展開の説明、そして③情景の詳細の描写という三要素から成立している*1。もう少し露骨に書いてしまうと、場面、説明、描写の三要素ということになる。ここではっきりさせておくべきは、この三要素による考え方はあくまで物語の描き方に関するフレームワークであるということだ。つまり、ここでいう「説明」は文字通りの説明を指すのではなくて、童話や神話のようにひたすら話が流れていく箇所のことを指すし、「描写」は細やかな説明が行われている箇所を指す。例えば服装とか行動を丁寧に説明している箇所は、機能的には説明をしているのだが、このフレームワークにおいては描写と呼ばれることになる。

 さて。イマドキの小説はほとんど場面(ようは会話シーン)だけで突っ走る作品が多い。実際、ジャンルによってある程度「場面」「説明」「描写」の比率が変化するのが自然だと思う。なんでこんなことを言うのかというと、例えば学園エンターテイメント小説においてヒロイン5人の服装描写をダラダラやったらテンポが破壊されてしまうし、情景描写をひたすら続けて展開が簡潔に説明されない軍記モノとか想定しがたいわけである。と、まあようは、キャラの掛け合い=場面が面白ければそれでいいんですというのが基本ではある。実際、会話の中で説明をやってしまうことも可能なので、つまり三要素のうち、事実上「説明」は「場面」の下位分類と化しているので、基本的に場面=会話最強である。描写とかいらなかったんや! そもそも誰が服とか家の細かい描写を読みたがるんや!

 が、ここからは私見なのだが、「文化人類学小説」においては厚い描写パートが必須になると思う。それは異世界感にリアリティを与えるために必須というだけでなく、読み手側の読書体験に厚みを持たせるために必要なのではなかろうか。そして何より、こういったテーマに手を出す作家の義務として、誠実な描写が求められるのではないだろうか。

 前者のリアリティ云々についてはすでに一億人の人々によって語られているので置いておくとして、後者の体験云々、義務云々についてもう少し議論したい。文化人類学に触れていて面白い瞬間というのは、自分にとって所与とされている諸々がいかに変数的であるかという気付きを得る瞬間だろう。こういう瞬間を提供しようと思ったときに、作家は、やはり劇的な効果を狙うならば「場面」を用いるべきであるのはその通り。「民俗学者」と「現地民」が交流するのだが、彼ら彼女らの間にある決定的な亀裂が明らかになってしまう……そんな場面が典型的だ。とはいえ、である。もちろん「場面」でやるのは大いに結構だし有効だろうとは思うのだが、その場面を盛り上げるためには、準備段階として徹底的な描写が必要になってくると思う。が……この『ニルヤの島』にはいわゆる「描写」に相当する箇所があまりない、というか、とても薄い。緻密な下積みなしに、つまりは丹念な描写抜きに、場面だけで異世界感を出そうとする戦法を私は個人的に「雰囲気戦法」と呼んでいるのだが、これはかなり薄っぺらいと思う。もちろん、「ミーム」ではないけれども、我々の中にある文化的諸々の蓄積によってこの「雰囲気戦法」は極めて効果的ではある。みなまで言わずとも、簡単な鍵単語さえ散りばめておけば、ああアレっぽいシーンを想像すればいいのね、と大抵了解できるからだ。それに「雰囲気戦法」は、個人的にも別に嫌いではないというかむしろ好きなくらいではある。のだが、やはり違和感は残る。読んだ後は瞬間的にすごい! となるのだが、それは長続きしない。

 それに、「文化人類学」と言った時点で、「ああアレね」という野蛮な回収を読み手がせずに済むようにするのが、つまりそういった回収を排除できるくらいに緻密かつ刺激的な描写をしてみせるのが、「文化人類学」というテーマで作品を書く作家の義務だと思う*2

 

2,これって事実上宗教の小説ですよね

 もう一つの論点はテーマ性に関わるもの。この小説は、基本的に文化という概念を全面に押し出していて、その意味で宗教概念は完全に文化の下位概念として設定されている。これは現在の潮流的に決して間違ってはいないと思うし、文化一元論で多いに結構ではあるのだが、とはいえ、宗教を問題にするなら色々と不満点が残る作品ではあると思う。

 まずミームの扱いなのだが、CHECKMATEパートで様々な理屈が明らかにされる。このパートがわりと不満。まず何よりも、「ミームの伝播」はコンピュータの力を借りずとも勝手に起こる現象であって、そこに対するSF的理屈を与えるのではなく、その逆に、勝手に起こる現象をあえて起こすマシーンを開発しました、という話になってしまっている点。これのどこが問題なのかというか、リニア新幹線がある世界で、すごく早いリニア新幹線の出るSF作品を出されたとして、それって面白いか? という問題だと思ってくれれば良いと思う。例えばオチのシーンにしても、別にこれはよくあることである。SF的後押しが無くても人間はこういうことをやる。宗教的情熱が集団ヒステリーをもたらしたなんて事例はいくらでもあるわけで、せっかく用意した舞台装置を使ってまでやるのがそれかー、となる。正直ミーム云々は綾波レイっぽい美少女かわいそう以上の感想を抱きようがない。それにこのアコーマンというゲームの位置づけも、なんとも言えない。これは数学的にとらえると、チェスの延長線上のゲームである。だから、このゲームの勝ち負けという問題は、技術的にも、また社会的インパクト的にも「ディープブルーが勝った」以上のものではありえないはずで、なのに、「世界が変わるぞ!」みたいなテンションで議論が行れているのが謎。ディープブルーの勝利という事件から人間存在の議論を始めるの、ブログネタとしては適切でも、21世紀のSF小説のモチーフとしては正直あまりかっこよくはないよねっていう。もちろん使い方の問題ではあると思うけど。

 この小説が基本的に文化一元論の立場に立っていて、ミーム的語彙だけで宗教を語りきろうとしているのだが、その点についても少し不満があった。実際、ミームの話と宗教の話のつながりがあまりにガバいと思う。両者は天国という概念一点だけで一緒くたに論じられてるが、別に宗教は天国概念だけに依拠して成立するのではないだろう。

 ワタシ的に謎ポイントが高かったのは、作中において完全に世俗化(化というよりは的とするべきか)したと思われるキャラクターたちの扱いである。特にノヴァク、マルムクヴィスト両博士のキャラ。この二人は、ある種、西洋的な世俗精神を代表するキャラクターで、設定自体は上手いと思う。つまり、基本的に敬虔さなどはとっくに失っているインテリなのだが、なぜか心の中で抱いている葛藤は極めて敬虔というか保守的なもの、という一般ピーポー的道徳の矛盾がうまく表現されている。ノヴァク博士は教科書どおりの家族形成に失敗したという点で悩んでいるし、一方マルムクヴィスト博士に至っては中絶経験がある種のトラウマとなっている。話の基本構造は、この二人の世俗化した科学者が最終的に帰依というか回心するというものなのだが、その理由があやふやにされている、というか、ミーム理論でしか宗教を論じることができていないから、結果として宗教=天国概念という結構よろしくない矮小化が起こっていて、その結果として回心や帰依、信仰に対する疑念といった本来宗教的には重要なイベントが全く何の負荷もかけられずただただ流れていく。これは端的にもったいない。物語的意味づけが無いイベントは何の印象もなく消えていくという点は、まさに著者の指摘している通りだ。

 例えばオチまでの流れだ。理屈としてはミームで説明されるのだが、特にマルムクヴィスト博士は、完全に「心に傷を負った西洋人がパラオ島で安らぎを見つけました……」になっているように思うし、わずか一行の説明でいつのまにか回心してるのは流石に違和感がある。この作品におけるミームシステムは、例えば伊藤計劃っぽい諸々とは違って、もう少し穏健な、言ってしまえば民主的なシステムであると言われている。だから、やっぱりオチにおいては伊藤計劃的な一気呵成感というか狂気とかで説明してはダメで、もうちょっと丁寧な描写、言い換えれば理性的な人間の真摯な意思決定としての回心体験を描写する必要があるのにもかかわらず、この著者はそうしていないから、薄っぺら感がやばい。結論を言うと、宗教を扱うならもうちょっと丁寧にやるべきだったんじゃなかろうかという話である。

 

まとめ

 この小説は基本的に「最後に色々つながっておーとなった」「美少女の雰囲気がよかった」以上の仕組みはない、薄っぺら小説である。その肉付けに、ミームやら宗教やら文化人類学やらとぶち込んではいるが、その設定もガバガバなのでますます薄っぺらさが目立つという結果に終わっているように思う。個人的には『カラマーゾフ兄弟』とか『闇の左手』が好きな人なので、辛口になってしまうのかもしれないけど……

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-712.html

*2:実際、我が国はパラオにおけるモデクゲイ教を迫害したという歴史的事実があるわけだから、そういうった文化的コンテンツに対する視座として、真摯な描写があってしかるべきだったと思う。いや、こういうところに戦線を設定するのが既にして先進国()住民の傲慢さなのかもしれんけど……