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結婚式に行ってきたようです

創作

・このブログ記事はフィクションです。

・無意識のうちに筆者の過去の経験が反映されるのを防ぐため、作中に登場する数値は、整合性が保たれる範囲で全てランダムなものに置き換えられています。

 

 

1

 ある土曜日の朝である。真夏なのに閉め切られた1Kの狭苦しい部屋に、布団が一枚敷かれていた。部屋にある他の家具と言えば、机と椅子、そしてゴミ箱に読書灯くらいなもの。そんな部屋の真ん中で、独男は目を覚ました。むっくりと布団から起き上がり、枕元にあるスペースに手を伸ばす。様々な書類が乱雑にまとめられているスペースだ。すぐ手が届くので、独男にとって重要な書類が全て集約されている。生活費関係、それに官公庁への提出書類など、全てだ。あるいは集約されているというより、散らかっていると言った方が適切か。

 書類の山から彼が掴んだのは、結婚式の招待状である。差出人は大学時代の友人、Sだ。より厳密にいえば、Sと、そのお相手。

(‘A`)「やべえな……いよいよ今日か」

 が、せっかく掴みあげたのに、招待状が入った封筒を独男は弱々しく離してしまった。一応開封はしてあるが、まだ招待状をしっかりと読んだことはない。彼にとって結婚式の招待状という書類は、とても直視できるような性質のものではなかった。例えれば、もぐらにとっての太陽のようなものだ。

 (‘A`)「今5時か……最近良く眠れねーんだよな。とりあえず、二度寝か」

 独男はまた布団に入った。左足のつま先を使って、足元にある扇風機に電源を入れた。強さは中、タイマーは二時間。それから自分を慰めた。自慰行為には問題を相対化する力がある。独男はそう信じている。とはいえ同時に、その力もセックスほどではないんだろうなと確信してもいる。

 

 二度寝を3回ほど繰り返した後、独男はついに目を覚ますことにした。つまり、本日合計四回もあった起床との出会いの中から、本命となる起床を選びとったというわけだ。一般に本命という言葉は「本命チョコ」「彼が本命なの」などと、恋愛の領域において使用されるわけではあるが、だからといって六畳間という小さな王国で本命という言葉を使ってはいけない、などということがあろうか。俺はお前を選んでやったぞ、四度目の起床よ。独男は今度こそ起き上がった。

(‘A`)「とりあえず風呂……か」

 時間はすでに10時を少しまわっていた。

 

 独男は毎日1時間ほど風呂に入る男だ。もちろん、立派なユニットバスがあるわけではない。部屋に添えつけてあるのは平凡なバストイレ一体型の惨めな浴槽なのだが、とはいえ、入浴にもまた問題を相対化する力がある。これもまた独男の信念なのだった。入浴が自慰行為よりも優れている点は、と独男は狭い浴槽につかりながら独りごちた。なんと言っても体力を消耗しないってことだな。1回抜いてしまうと、2時間は寝ないと回復しないからな……。

 とはいえ、自慰行為にしろ入浴にしろ、独男の内的な問題を相対化するのには役立つのかもしれないが、だからといって、独男と世界の両方に関わる問題までも相対化してくれるわけではない。独男と世界の両方に関わる問題。すなわち、式の開始時間。その正確な時間を、まだ独男は知らない。おぼろげに、「2時ごろ」「らしい」という記憶があるばかりなのだ。

 

 入浴を終えた独男はスーツに着替えると、椅子に深々と座り込んで、歯ブラシを口に突っ込みながら机の上の招待状と相対していた。

(‘A`)「ビビるなんて馬鹿げてる。招待状とはいえ、たかが紙にすぎねえ」

 たかが紙にすぎないのだが、この巨大な社会においては紙こそが全て。紙こそが管理者、紙こそが神。独男はそううそぶいた。

(‘A`)「紙こそが神なんだ……」

 独男はそう独りごちながら、部屋の壁にたてかけてあったかばんを引っ張った。招待状を開くという仕事はあまりにも困難であったため、それは後回しにして、彼は迂回路を通ることにした。

 まず、ご祝儀を包んでしまおう。招待状を見るのは、それからでいい。独男は3万円が入った封筒をカバンから取り出した。

(‘A`)「新社会人に3万円はつらかろう。だが、昨日フェイスブックでゼミの人に金額聞いといたからな。やっぱみんな3万円らしい。さすがに人並みには出しとかねーと」

 実際、3万円は大きい。だが金額の多寡よりも問題となるのは、新札の調達だった。新札を調達する方法はいくつかあるが、最もオーソドックスなのは銀行窓口での交換である。とはいえ、銀行産業はその成立以来一貫して顧客に対する強力な権力を有しているので、顧客に寄り添うということを知らない。窓口は夕方に閉められてしまう。一体、どうやって銀行を訪れればいいのか? まあ、答えは簡単である。独男は一昨日、昼休みを有効活用することによって、銀行の傲慢さと対決していたのだった。お昼に勤め先を抜け出し、自らの口座がある銀行の窓口で、新札の3万円を引き出した。ゆえに彼の手元にはつやつやとした連番の新札があった。

 この3万円を包むのがご祝儀袋だ。独男は購入済みのご祝儀袋を手に取ると、ビニールをなげやりに破り、中からそっと紙袋を取り出した。

(‘A`)「このご祝儀袋ってやつに名前を書くのか……。お、袋の中にさらに袋があって……ああ、こっちには住所とか金額ね。マトリョーシカみてーだな」

 3万円を銀行の封筒から取り出し、向きに気をつけながらお札を入れていく。「お金の入れ忘れを防ぐために、まず最初にお札を中袋に入れてしまいましょう」とはマナーメモにある記述だ。雑貨屋で40分かけて選んだご祝儀袋には、冠婚葬祭に関するマナー指南メモが添えられていたため、社会常識の無い独男でも、メモ通りに作業すればなんとかご祝儀袋を完成させることができた。

 とはいえ、初めてのことだ。不安だったので、独男は当然ネットでもマナーを調べた。グーグルで検索を行い、すでに紫色に染まった検索結果から、いくつかのQ&A形式のサイトとまとめサイトを改めて訪れ、メモの記述が概ね正しかったことを確認した。彼は少し安心して、コメント欄に目を通した。マナーに対して意識の低い若者と思しき人の投稿が、コメントによって袋叩きにされているようだった。

(‘A`)「なんで冠婚葬祭ってなると」独男はご祝儀袋をかばんに収めながら独りごちた。「みんなこんなにムキになるんだろうな……。こういう儀式は精神的なものであって、形式はあくまで形式にすぎねえ。大事なのは気持ちだ。もし形式で躓いてしまったら、そいつは精神的つながりに加わることができねーなんてさ、偏狭もいいところだ」

 だが、この疑問に対してはピッタリなコメントがあった。

「形式すらしっかりと整えられない人間が、本心だけホンモノっていうのは、典型的な言い訳。心から儀式に参加するつもりがあるなら、自ずから形式も整ってくるはず。外からは判断できない『本心』みたいなのは持ち出すのは卑怯だし、逃げてるだけじゃん」

 まさに俺のことが書いてあったな。このコメ主ほど俺のことを知る人間はいないのではないか。独男はカラカラと笑いながらブラウザを閉じた。

 

 ご祝儀袋は完成され、かばんに収められた。もはや迂回路は残っていない。それに、そろそろ時間の確認をしておきたい。

 覚悟を決める時だった。

(‘A`)「えいや!」

 独男は小さく声をあげ、招待状を開ける。

(‘A`)「ぐわあああ! ここには幸福がある!」

 彼は悶絶しつつ招待状を読み進めた。彼に必要なのは、幸福ではなく事務的な数字なのだ。

(‘A`)「おー。よかったよかった。式は午後3時からだけど、披露宴は午後5時ごろだ。もう一回寝るか。あるいはゲームでもすっか」

 一安心した独男。だが、招待状から小さなカードがぽろりと落ちた。

 拾って読んでみると、式への出席を願うという趣旨。

(‘A`)「え……式も、でんのか……?」

 独男の知識によれば、式は身内だけで行う厳粛なものであって、自分のような人間が出席を許されるような場ではない。Sは仲のよい友人ではあったが、しかし、結婚式に出るほどかというとやはり疑問が残る。自分は「身内」ではない。独男には漠然とそうした意識があった。

 式に参加してほしい、というカードを発見した時、だから、独男は2つの問題をつきつけられる形となった。

 第1の問題は、3時から始まる式に間に合うかという問題。概算しても、ギリギリ、というところだ。急いで出発しなくてはならない。

 第2の問題は、では俺はSとの関係を不当にも軽視していたのだろうか、という問題だ。Sは式に呼ぶべき人間として自分を扱ったのに、俺の方はそうではない。こういった非対称性は、独男にとって極めて不愉快だった。

 そして第2問題は純粋に良心に関わる問題であり、第1問題に比べ、独男にとってははるかに重要だった。彼はまたブラウザを開き、ネットで検索を始めた。もう時間はないからインターネットをしている場合ではない。だが仕事に優先順位をつけるのは、独男の苦手分野だった。

 「結婚式 出席 仲がいい」「結婚式 出席 条件」 ワードを並べ、まとめサイトと質問掲示板をめぐる。

(‘A`)「……あー」独男は独りごちた。「チャペルだからか。チャペルだと、人いっぱい入れるんだ。だから結婚式と披露宴の参加者が一致してるわけか」

 つまり、自分は有象無象の一人でいられたということだ。独男はだいぶ気持ちが楽になったのを感じた。

(‘A`)「だが時間がやべえwww つーか間に合うかこれ?」

 独男は部屋の電気を消した。そして固い革靴に足を滑りこませ、駆け出した。

 

 

2

 グーグル・マップで検索したところによれば、自宅から駅まで20分、駅からホテルの最寄り駅まで40分、そして駅からホテルまでのバスが15分で、目的地までの合計所要時間は1時間と15分。そして現在、集合時間まで残り1時間と30分。15分もの余裕があった。なんとかなる。グーグルの予言通りの所要時間で駅に至った独男は、そう思った。

(‘A`)「あっ……あ~~~!」

 改札の前に立った独男は小さく声を上げた。後ろに並んでいた中年の女性が不愉快そうに独男を睨む。独男は頭を下げて改札ラインから後退した。

(‘A`)「財布わすれた……」

 自身でよく分かっていたことである。だからあえて言うまでもないのだが、これは致命的だった。

(‘A`)「やっべー。ばっかやろう!」

 独男は懸命にかばんの中を漁った。大した財産も無いくせに、独男は4つの銀行口座に自分の貯金を分散してある。だから、4枚のうちの1枚でもキャッシュカードがあれば、いや、お札が1枚入っているだけでも問題は解決する。そもそも必要な交通費は千円程度。完全にゼロかイチか、白か黒かの問題なのだ。

(‘A`)「うわーーー。さいあくだ」

 が、黒だった。ゼロだった。キャッシュカードどころかクレジットカードもない。かばんには小銭1枚なかった。

(‘A`)「帰る……か?」

 自宅と駅を往復するとタイムオーバーだ。

(‘A`)「あー。どうすっか……」

 自分を呪っている時間など無かったはずである。だが、独男はまず自分を呪った。

(‘A`)「俺がこんなミスを犯すのは、やっぱり本心から祝えてないからなのかなあ……俺は心の中で結婚式を呪ってるのか」

 独男は額の汗を拭いながら言った。

(‘A`)「行きたくない……のか、俺は」

 

 彼は一通り絶望した後、いくつかの選択肢を練りだした。

 プランA、これは往復論である。一度帰宅し、財布を取得する。だがこれを選択すると、式には確実に間に合わない。

(‘A`)「うーん。どうにもなんねえ」

 プランBは、Aからの派生計画である。すなわち、どうせ式に出ることができないのなら、バックレるかという発想である。ラインで連絡を入れればよいのではないか? 今日は出席できない。ご祝儀は後で郵送します……と。

(‘A`)「あ……スマホも忘れた。今日のために昨日ちゃんと充電しといたのになー……さすがに、無断欠席はねえな……つーか仮に連絡入れようが、当日に欠席とかさすがに……席を空けちまうのはありえん」

 次のプランに思考が移る。プランCは独男ならではというものだろう。すなわち、誰かから千円を借りる、というものだ。結婚式に遅れそうだ、という理由なら、善良な誰かが千円ほど貸してくれるのではないか? 街ゆく一般市民たち。人々の善良さに賭けることはできないだろうか?

(‘A`)「……そんなコミュ力ねー! 見ず知らずの人から千円借りるとか! ブラック企業の研修かよ!」 

 プランA、B、C、共に破棄せざるを得ないような選択肢である。独男には企画力がなかった。

(‘A`)「やばい! どうすれば!」

 

 

( ^ω^)「落ち着くお、独男」

(‘A`)「……なんだ。またテメエかよ、内藤」

 独男は小さくつぶやいた。

( ^ω^)「よく考えるんだお。独男は何週間も前から結婚式についてググってたはずだお。その情報を組み合わせるんだお。きっと何かいい考えが浮かぶお」

(‘A`)「ググってたのはご祝儀関係だけで……それ以外は全然。チャペルでの結婚式についてだって、今日ギリギリで……」

 独男はかばんの取ってを握りしめた。

(‘A`)「待てよ……そうか! 交通費が一円も無いと思ってたが……金なら、ある!」

 独男はそう言ってかばんを漁り、中からご祝儀袋を取り出した。

(‘A`)「3万だ!」

( ^ω^)「……だお」

 が、独男は大げさに肩を落としながら言った。

(‘A`)「でもこれは……もう包んじまったもんだ。俺の金じゃねえ。Sのもんだ。新郎のもんだ。神聖なもんだ。これを開けるのは嫌だ。手を付けたくねえ」

( ^ω^)「往路に必要な交通費は千円に収まってるお。だから1万円札が崩れても、2万9千円分の札が残るお。それを渡せばいいじゃねーかお。形式より気持ち、それが独男の考えじゃねーのかお」

(‘A`)「駄目だ。結婚式で渡すのは絶対に割り切れない数字じゃなくちゃダメだ。普通3万なんだ。1万円札3枚が必要なんだ」

( ^ω^)「馬鹿かおwww3万は割り切れる数値だおwww2で割って1万5千になるお。3万が割り切れないなら、2万9千円だって十分割り切れない数値じゃねーかおw 謎理論押し付けんなお」

(‘A`)「だまれ。それにな、神聖な結婚式にはな、人の手に渡ってるボロボロの札なんか持ってけねえ。新札が必要なんだよ! この券売機から新札が出てくるか? なわけねえ! ボロボロの札を見たSはなんて思うんだ!?」

( ^ω^)「おっおっ! 独男は結婚式のマナーに詳しいお!」

(‘A`)「……これには、手を付けられない。俺が開けたら汚れちまう。汚れたら、もう渡せねえ。結婚式は全てが神聖でなくちゃいけねえんだ」

( ^ω^)「だけど独男、時間は容赦なく過ぎていくお。時間はお前を待たねーお」

(‘A`)「……」

( ^ω^)「そろそろ、10分経つお。猶予は、もう残り5分。結婚式に出てSを祝ってあげるためには、もう手段は一つしか残ってねーんだお……」

 独男はもう一度、かばんの取っ手を強く握りしめた。カバンから祝儀袋を取り出すと、中から真新しい1万円札を取り出し、それから、券売機に入れた。券売機からは切符と小銭、ボロボロになった千円札9枚が帰ってきた。

 到着より10分遅れで、独男はやっと改札を通過した。

 ホームに折よく到着した電車は、独男を向かい入れると加速を始めた。

 

(‘A`)「あー」

 ガラガラの車内で、だらしなく座席に座る独男がつぶやいた。

( ^ω^)「どったお」

(‘A`)「どっかのサイトで読んだこと思い出した。結婚式会場では普通、新札に両替してくれる人がいるって。ってことは、現地に行って知り合いから千円借りれば、その千円とこの汚ねえ9千円を合わせて、新札の1万円札を錬成できる……ってことじゃね? さすがに大学の知り合い来るし……あんま仲いいわけじゃねーけど、さすがの俺も千円くらいの信用はあるだろうし……ってことはだ」

 独男は大きく溜息をついた。

(‘A`)「とりあえず、新札の3万円は多分揃えられるはずだ。会場にさえつけば、だ」

( ^ω^)「いろいろ調べた知識が活きたお!」

(‘A`)「まあ一度閉じたご祝儀袋を開けたという点に関してはどうしようもないが……」独男はゆっくりと目を閉じた。「とりあえず、新札の3万はどうにかなる。どうにかなれ……」

( ^ω^)「さっきから同じことばっか言ってるお」

(‘A`)「あー。ほんと助かった。そうだ。新札の3万円が手に入りゃあ、とりあえず、最低限は……」

( ^ω^)「しつけえおwww」

 

 数十分が経った後、独男は乗り換えが可能なターミナル駅にやってきた。ここで別の路線へと乗り換え、ホテルの最寄り駅へと向かうのだ。

 独男は早足に電車を降り、乗り換え用の改札へと走った。

(‘A`)「ふあ!」

 が、赤いランプが灯り、独男はまたしても改札で止められてしまった。本日2回目のトラブルだ。駅員が苛ついた様子で言った。乗り換えなら新しく切符を買ってください。しまっと、と独男は肩を落とす。いつもICカードを利用していた彼は、切符の仕様をよく理解していなかった。

(‘A`)「このロスはデカイ……ぞ」

 そもそも5分しか余裕の無い旅路だったのだ。払い戻しを受け、新しい切符を購入しているうちに、独男は乗るはずだった電車を逃した。グーグル・マップの予言は守られなかった。予言とは神からの命令であり、それをないがしろにする人間には、伝統的に、神からのキツイおしおきが加えられてきた。グーグル・マップを裏切った独男の支払う代償もまた、その類のものだ。代償は大きく、致命的である。

 

 一本遅れで乗り換えをこなした独男は、満員電車の手すりにつかまりながら独りごちた。

(‘A`)「やべー。やべー。バス間に合わねーかもしれねーな。ほんとギリギリだ」

( ^ω^)「グーグル・マップによれば、最寄り駅からホテルまでは、バスで15分かかるらしいお。走ったとしても30分以上かかる距離ってことだお」

(‘A`)「バスを逃したら、式に出れねえ。そういうことか」

 そこで独男は一計を案じた。グーグルで最寄り駅名を検索し、グーグル・マップを参照しつつ、駅のホームと出口、そしてバス停の位置関係を下調べする。

(‘A`)「どうやら、ダッシュすればどうにかなる距離ではあるが……」

( ^ω^)「とはいえ、人通りの多さとか、あとは信号、そして道路の混雑状況などの不確定要素が大きいお」

(‘A`)「だが俺は走り抜けて見せるぜ……」

 独男の降りる駅が近づいてきて、電車がホームに滑り込む。独男はドアの前に立ち、頭の中でバス停までの道のりをシミュレートした。

 電車のドアが開く。

(‘A`#)「うおおおお!」

 独男はホームを走り抜けた。右手で持ったカバンが通行人にあたり、うめき声が聞こえてきた。ホームから改札に向かうエレベーターの前まで来ると、右側のレーンに滑り込んで、二段飛ばしで駆け上がった。左レーンに立っている通行人たちが不思議そうな視線を独男に向けた。

( ^ω^)「お、改札があったお。出て、道路向こうの通りを南に曲がって、20メートルほど行った場所がバス停だお」

 独男は切符を改札に滑りこませ、走りながら周辺を確認した。目の前の道路は、信号の都合で車が全く走っていなかった。独男は左右確認もおざなりに道路を走りぬけ、そしてバス停の方向に視線を向けた。

 バスは、すでに停留所に停車していた。

(‘A`)「ああああ!」

 走った。バス停を目指し、独男は走り抜けた。

(‘A`)「うおおおお! あ……あぁ……」

( ^ω^)「ああ……行ってしまったお。残り10メートルも無かったお。今日あったトラブルのどれか一つでも無ければ、余裕で間に合ってたお」

 バスを見送り、歩幅を狭めながらも、しかし独男は不思議な安堵感に包まれていた。自分は精一杯頑張ったが、しょうがなかった。これほど甘美的な、あるいは完備的な言い訳は他にないではないか。いや、より正確にいえば、これで結婚式に出ずにすむ。どこか湿ったような、腐ったような安心感が、汗と共にじわじわと体中に広がっていく。

 バス停に到着した独男は、次のバスの時間を確認した。どうやら次のバスが来るのは、式が始まった後らしい。

(‘A`)「オワタ……」

( ^ω^)「お……バスが……来た?」

 独男が顔をあげると、停留所にバスが近づいてくるのが見えた。

(‘A`)「は? もうとっくに時間は過ぎてんだぞ」

 独男はもう一度バス停に駆け寄って、時刻表を確認する。どの方向から読んでも、バスが来る時間ではない。しかし、現にバスがこちらに向かってくる。バスの路線名が違うのではないかと疑ったが、「◯X」という省略コードはグーグル・マップが示したものと全く同じだ。

(‘A`)「これ……だったのか? 一体どういうことだ……?」

( ^ω^)「なんだかわからんお。本当にわからんお。運行が遅れていたのかもしれないお。バスは電車より遅れやすい乗り物だお」

(‘A`)「じゃあさっきここを出てったバスはなんだったんだ?」

( ^ω^)「僕に聞くなおwww 知るわけねーお」

(‘A`)「……ほんと、なんなんだ」独男はうつむいて独りごちた。「これじゃあ間に合っちまうじゃねーか……」

 

 バスのドアが開いた。どうやら、一律料金、先払いタイプのバスらしい。独男はスラックスのポケットに手を突っ込み、指定された金額を取り出そうとした。ポケットには、新札の一万円を崩した時に残った小銭が入っている。

(‘A`)「あ、やべ」

 10枚ほどの硬貨が音をたててバスの床に散らばった。運転手は優しそうな視線を独男に向けると、ゆっくり拾ってください、と言った。独男は(彼なりにではあるが)手早く硬貨を拾い上げ、指定金額を料金箱に投入すると、すみませんと言って、運転手から逃げ出すかのようにガラガラの車内を奥に奥にと進んでいった。そして一番後ろの座席にだらしなく腰を落ち着けると、大きなため息をついた。一瞬、ネクタイを取ってしまおうとしたが、これから向かう場所を思い出してそれはやめておいた。

 バスは出発し、道路を進んでいく。渋滞もなく、停車もしない。

(‘A`)「これマジで間に合うな……奇跡、か」

( ^ω^)「……? そんなことより独男、運転手さんがなんか言ってるお」

(‘A`)「あん?」

 独男が聞き耳を立ててみると、確かに、運転手が一定間隔で何かをアナウンスしていた。独男には内容までうまく聞き取れなかったが、何か怒っているようにも聞こえた。

(‘A`)「あ、俺の座り方注意されてんのかもしんねえ」

 一番後ろの座席の、それも真ん中にだらしなく座っていた独男は、そのまま右方向にスライドしていって、姿勢を正した。そして、次のアナウンスを待って耳を澄ませた。

( ^ω^)「あ、単に『誰も待ってないし誰も降りねーから〇〇停留所はスルーします』って趣旨のことを言ってるだけだったわ」

(‘A`)「よく聞いてみりゃそんなこと言ってるな……ビビっちまったよ、ったくよ」

 また座席にだらしなく座り直した独男は、ひとり、外の景色を眺めた。左手の方から大きな建物が見えてくるのが分かった。

(‘A`)「あれ、か……」

( ^ω^)「はえー! 立派な建物だお。こんなとこで結婚式かお。すげーお」

 数分後、独男は集合時間ギリギリのタイミングで、結婚式会場に到着した。

 

 

 

3

「待合室2番になります。」どこか誇らしげに独男が差し出した招待状を確認したスタッフは、そう告げた。「待合室2番は向かって左手すぐのお部屋です。」

(‘A`)「ダッシュ! 汗やべえけどしゃあねえ!」

( ^ω^)「お、ついたお」

 独男は、あまりにも時間がギリギリであり、時間のことしか頭になかったので、「結婚式の待合室」が一体どんな環境なのかについてなんの考察、妄想、準備をしていなかった。劣悪な環境に直面して初めて、独男は環境の劣悪さを知った。一般に、手遅れと呼ばれる状況だった。

(‘A`)(やべえ……なんだこいつら!?)独男は心の中で独りごちた。(そうか、そもそも半分は新婦の関係者だから俺が知るわけねーんだ。やべーよ、このアウェー感!)

 独男は待合室に入ると、キョロキョロと辺りを見回しながら、知り合いを探した。独男とSが所属していたゼミのメンバーたちだ。

「お、颯爽と現れたね~~ドっくん」

 そう声がした方を向くと、見知った顔ぶれがあった。独男は彼ら彼女らに紛れるべく、小走りでそちらに向かっていった。

(‘A`)「おーあー。どうもお久しぶりです。みなさんが大学出た後だから、3年ぶりですかね」

 「なぜ敬語w」先ほどと同じ声、リーダー格のハンサムな青年が言った。

(‘A`)「あー敬語?w 確かにね! えーと、それでさ、ちょっとお願いがあるんだけど……」

 独男は再開の挨拶もほどほどに(そもそも、彼は再開を喜んでいなかった)、さっそく「本題」に入ることにした。すなわち、財布を忘れてしまったため、ご祝儀を崩してしまった、という話だ。

(‘A`)「ってわけで……そのですね、どなたか千円を貸していただけないでしょうか。早くホテルの人に両替してもらわないと……」

 本人は面白い話をしたつもりはなかった。が、聞き手にとっては面白い話題であったらしい。皆声をあげて笑った。

「つーかマジで敬語やめーやw いーよ、貸す貸す。ご祝儀使うとかワイルドだねえ! さすがドっくん!」

 独男はハンサムな青年からお金を受け取ると、そそくさと待合室を抜けだした。そして付近に立っていた会場のスタッフらしき女性におずおずと声をかけた。

(‘A`)「あのすみません」

「はい」

(‘A`)「えっとあの……S家の結婚式に出る者なんですけど、えっと、これ、招待状です。それでその、ご祝儀なんですけど、新札を用意するのに失敗してしまいまして、えーと、会場の方に頼めば新札に変えてくれる、っていう話を聞いたんですけれども」

 スタッフの女性は露骨に怪訝そうな顔をした。そりゃ新札に変えてやることはやるけど、それでも、ちゃんと新札を揃えろよ。そう顔が語っていた。

「もちろん、お取り替え致します。ただ……」スタッフの女性が怪訝そうな顔を崩さずに言った。「でも、もうすぐ式が始まりますから。会計課は4階でございます。ここから向かいますと、ちょっと……。式が終わった後向かわれてはどうでしょう?」

(‘A`)「あっ、式と披露宴の間に、そういうことできる時間あるんですか」

「はい。その方がよろしいかと」

(‘A`)「分かりました。ありがとうございます」

 独男はそそくさと待合室に戻った。

「なんだってドっくん?」お調子者のメンバーが言った。

(‘A`)「あー。えーとね、時間あんまないから披露宴の後に交換してくれるってさ」

「というか、ドっくん。荷物は?」背の高い女性のメンバーが言った。

(‘A`)「あ。どっかで預けるのか」

「クロークあるよ」ダークな雰囲気の青年が言った。彼もまた元ゼミメンバーだ。

(‘A`)「クローク? あ、預けるやつか。よし、ちょっと預けてくる!」

 独男はまた待合室を飛び出した。部屋に出たり入ったりするのは彼だけだったので、嫌でも人目を引いてしまったが、時間に追い詰められていた独男はすでにいっぱいいっぱいであり、そういった問題にさいなまれるだけの余裕がなかった。

 付近のクロークまでやって来た独男は、さっそくカバンを預けた。プラスチック製の、71番の引換証を受け取り、胸ポケットに入れる。

 他にございますか? と、カバンを受け取ったクローク係の女性がいった。独男は反射的に大丈夫ですと返した。が、スラックスのポケットには帰りの電車賃が入っている。この数百円は彼にとっての命綱であり、定義的に言えば明らかに貴重品だった。それに、小銭はチャリチャリと音がする。式に臨むにあたり、音が出るものをポケットに入れておくのは不適切ではないだろうか。小銭をカバンに入れておいた方がよかったか。独男はそう思ったが、しかし、クローク係の女性はすでに荷物を奥に持って行ってしまった。やっぱり持ってきてくれないか、この小銭をカバンに入れたいもんで……とは言えず、独男はポケットの中で小銭を握りながら待合室に向かった。

( ^ω^)「おいすー」

(‘A`)「んだよ、また内藤か」

( ^ω^)「独男、間に合ってよかったお。ちゃんと、式出れるお! 独男のダッシュは無駄じゃなかったんだお!」

(‘A`)「うるせー」

( ^ω^)「おっおっ!」

 

 独男が待合室に帰ってくるや否や、着物を来た担当者が入ってきて、お時間ですと言った。待合室にいた男女は連れ立って、式場へと向かった。式場の入り口では、キーロー、すなわちPとXからなるキリスト教の象徴たる紋章があしらわれた礼服を着た、ラテン系の男が立っていた。わざとらしい片言の日本語で、列席者を誘導していく。

「ドーゾ、ソノママオススミクダサイ」

 誘導にしたがって進んでいった独男たちは、小さな連絡路を通りチャペルに向かった。そして、雅やかなチャペルの、かなり後ろの方の座席をあてがわれた独男は、ゆっくりと席についた。

(‘A`)(映画やゲームでは見たことあったが……リアルでこれ見んのは初めてだ。一列あたり6人くらい座れる座席が、左右に並べられてる。右側座席が新郎関係者、左側座席が新婦関係者、そしてその真中がいわゆるヴァージン・ロードというやつ……か。窓の配置が上手いから、おかげで空間全体が自然な明るさで満たされてるな。さすがに大ホテル。よく出来たチャペルだ、こりゃ)

 まもなく、新郎が入場されます。司会者と思しき女性がそう言うと、壇上右側のオルガン奏者が演奏を始めた。独男流に言えば、これはスペクタクルが始まる合図なのだった。

(‘A`)(かくして、世俗化した宗教と巨大なホテル産業は)独男はそう独りごちた。(神聖なる婚姻の儀の名において、自由恋愛の落とし子達に祝福を与えん、か……)

( ^ω^)(かっけえwww)

 

 

4

 式が済んだ後は、披露宴に移る。それが一般的な結婚式の構造だ。披露宴の準備が整うまで、少々の休憩時間があった。3階にある会計課で新札を調達することに成功した独男は、ご祝儀袋を包み直すことができた。だいぶ、心が軽くなったようだった。新札を3枚、用意できたのだ。ご祝儀袋を布に包み、胸ポケットに入れた後、独男は参加者が待機する休憩室に向かった。

 休憩室では、元ゼミメンバーたちが固まって歓談しているのが見えた。独男はあえてその輪には加わらないよう、部屋の外縁部へと向かった。

「いい式だったねえ。俺、結婚式は要らない派だったけど、俺も結婚式したくなってきちゃったよ。やっぱ大事だな、区切りとしてな」近くにいたお調子者の元ゼミメンバーがそう言ったのが聞こえた。実際、自分が結婚することを少しも疑っていない者だからこんなことが言える。恋人の存在は、この場合、前提なのであって、実のところ「獲得するべきもの」ですらないのだ。

(‘A`)「しかし、この手の男が発揮する傲慢さは」独男は部屋の隅に陣取ると、うつむきがちになりながら独りごちた。「決して糾弾されることはない。なぜなら彼と彼女との関係は、自由恋愛において調達された合意に基づいているからだ。かたや……」

( ^ω^)「……独男、ジュースあるお。ノミホーだお!」

 独男がふと壁際のテーブルに目を向けると、そこには大量のグラスが並べられていた。道中ずっと走り続けた独男は、式が終わって初めて、自分の喉が乾いていることに気がついたのだった。それに、その日はとても蒸し暑かった。さすがに水分補給が必要だ。独男はテーブルに近づいていった。

(‘A`)「あ、すみません」独男が給仕係の女性に言った。「これって飲んでいいんですか」

「はい。どうぞ」給仕係は短く答える。

(‘A`)「えっと、これってなんですか」独男は薄い色のジュースが注がれているグラスの列をさして言った。

「グレープフルーツジュースでございます。こちらはりんごジュースになります」

(‘A`)「ではグレープフルーツジュースをいただくことにします」

 特に必要ではない宣言を聞かされた給仕係の女性はニッコリと微笑むと、休憩室を去っていった。独男はひとつグラスを取り上げ、再度部屋の隅に向かった。

 

(‘A`)「んめー。これドトールで頼んだら600円くらいか? 得した得した」

( ^ω^)「おっおっ」

(‘A`)「もう一杯、いくかな。今度はりんごジュース飲んでみるか」

 たいていの人間は一杯で済んでいるようだが、独男は喉の渇きからか、ガブガブと飲むものだから、あっという間にジュースは無くなってしまう。今度はりんごジュースを確保して、独男はまたしても部屋の隅という(独男が言う所の)「安置」に陣取った。が、気がつくと彼は元ゼミメンバーたちに包囲されていた。

「ねえ、式の間神父さんが喋ってた言葉って、なんだったんだろうね。英語でもないし」

背の高い女性メンバーが言った。どうやら彼ら彼女らは、サクラメントの最中に宣教師が発していた言語がなんであったのかについて論じ合っていたらしい。なるほどね、独男は心の中で拍手を送った。なるほどなるほど。なんとも「知的」な会話じゃないか! サクラメントで使わる言語が一体なんなのかが、議論の題材になるとは!

ヘブライ語じゃないかと思うんだよね」お調子者のメンバーが言った。

 なるほどね、推理としては悪く無い。でも…… 

「もしカソリック教会の公用語ヘブライ語なら」独男は頭の中で言った。「ジュリアン・ソレルはどう頑張ってもレナール夫人とヤレなかっただろうね。だってヴァルノ氏は息子たちのために、ラテン語の堪能なジュリアンじゃなくて、ユダヤ人の家庭教師を雇っただろうから。ああそうだ、むしろこの点を議論するのは楽しいんじゃないか? もし家庭教師がユダヤ人だったら、レナール夫人はそいつと寝たかどうか。僕は寝なかったと思うね。あの女は救いがたく保守的な田舎者だから、ユダヤと寝るのはさすがに憚っただろう。若くハンサムで知的なキリスト教徒とは不貞を働くくせに、だ。その点、マチルダ嬢なら宗教に関わらず男と寝ただろう。あの子は開明的だから。だから僕はレナール夫人よりもマチルダ嬢のことを好ましい、と考えるわけさ」

 だがこんなことを言えるほど独男は勇敢ではなかった。実際、小説の登場人物でなければこんなセリフを吐くことなどできない。それに、聞き手のメンバーたちは確実にスタンダールの『赤と黒』を読んでいないから、そもそも話は通じないはずだった。

 独男は笑顔を作り、少し声のトーンを上げて言った。

(‘A`)「あ~~、確かに聞いたこと無い言葉だったよね~。なんだったんだろ? 確かに英語ではなかったよね~」

 独男は適当に話を流しつつ、そのままメンバーたちによる包囲網が解除されるのを辛抱強く待つ作戦に出た。実際、議論の材料など無きに等しいわけで、(そもそも議論の材料となる知識の欠片でもありさえすれば、こんな問は立てられることすら無かった。サクラメントに使われる言語が何かとは! 西方系諸宗派の公用語は基本的にラテン語であることは、キリスト教に関わる知識の中でも一番基本的なものなのだから)、この議題はお流れになった。

 が、代わりの議題はもっとたちの悪いものだった。

「次は誰になるんだろうねえ」

 待ってました、どばかりに独男は身構えた。結婚式である。そして3年ぶりの再開である。当然、覚悟はしていたが、しかし独男にとってこの話題を乗り切るのは苦痛になるはずだった。独男は何週間も前からこの瞬間が訪れることを恐れていた。

 この場では彼以外の者には、皆恋人がいる。彼らにとって結局、結婚というのは純粋に順番の問題にすぎない。だからそれほど露骨な政治問題ではないのだ。まあ、積極的に話すことでもないが、かと言って冗談の対象にしてはいけないほどデリケートなわけでもない。何年も付き合っている大事な恋人がすでにいるのだから。だが、この場には一人仲間はずれがいた。故に

「ドっくんはいつ結婚するんですか」

 という、どこかから真っ先になされた質問は完全に礼を失していた。少なくとも独男はそう考えた。彼ら彼女らにとっては順番や時期の問題でも、独男にとって、結婚は、できるかどうかまったくわからない、という性質のものだったし、それに、おそらくできないだろうという諦念は、独男の中でここ数年の間に急激に根を張り、もはや取り除くことはできないほど複雑かつ強固に彼の精神に絡みついていた。だからせめて、ドっくんは結婚「できそうですか」と、彼ら彼女らはそう質問するべきだった。

(‘A`)「あー。まー次は皆さんじゃない?」

 「最近遠距離恋愛になってねー、大変なんだよ」とお調子者が言った。それで話題がそちらに移ると思ったので、独男は安心し、話を聞きたくてたまらないという表情(彼なりの、ではあるが)をお調子者の彼に向けた。実際、独男は他人(したがって「身内」でない人間)の恋愛話を聞くのは好きである。間接的にではあれ恋愛に触れられる瞬間というのは、独男の人生においてせいぜいそれくらいだからである。

 だが、また誰かが言葉を放った。もう少し独男をイジりたいようだ。

「ドっくんはまだ硬派やってるの?」

(‘A`)「っ……」

 独男は息を飲んだ。

「確か学部の時にさー、ゼミの後の飲み会で、男女で手をつないで歩こうってなった時あったじゃん。そんときドっくんだけ、女の子と手はつなげないって拒否ってたよね。結婚する人以外とは手をつなげないって言ってさ」

 実際、面白い思い出話だったのだろう。一人を除いて皆笑っている。

「いや、俺すごくいいと思うよそういうの」

 独男はうつむいた。彼はもうそんなことは忘れていたが(というのも、彼にとっては自然な価値判断に基づいた行為だったからだ。食べたパンの枚数を覚えている者が何人いるのだろう?)、他のメンバーは覚えていたらしい。

 一体全体、付き合ってもいない異性と「ノリ」で手をつなぐようなことができるだろうか? 独男にそんなことはできなかったし、今もできないだろう。

(‘A`)(しかし現代において)独男は思った。(男性は『奥手』でいることなど出来ない。『貞淑』? あるいは誰かが言ったように『硬派』? とんでもない! 『女性が苦手』でもギリギリだ。もしそういった男性がいれば、彼は古めかしく保守的な、女を見下すクズとして認識されるだけだ。もし手をつなぐ機会があれば、手をつなぐべきなんだ。それが正しい生き方なんだ)

 また誰かが言った。

「それでドっくん、大切な人はできましたか?」

 独男は心の中で反論した。

(‘A`)「もう一度言ってみろ! お前ら非リアをおちょくるつもりなら受けて立つからな!」 

 実際、数年前の独男なら敢然とそう言い放っていたはずだ。当時の彼は今よりもっと癇癪を起こしやすかったし、それに、独男は自分の癇癪癖のことを、まだ「義憤」だと誤認していた。

 しかし、ここは結婚式場なのだった。

(‘A`)(結婚式は神聖なもんだ。Sの晴れ舞台なんだ。俺が癇癪を起こしてこいつらと揉めたら、Sの結婚式にケチがついちまう。……そんなことは絶対に許されねえ!)

 女性の元ゼミメンバーが続けていった。どこか誇らしげに。

「あ、でもでも、ドっくんはご祝儀いくら包むかって、私に聞いてきたんだよ。フェイスブックで」

 皆驚いた。独男が女性にフェイスブックでメッセージを送るのは、彼らにとって何か「冒涜的」なことらしい。そして、彼女の発言は事実だった。ご祝儀にいくら包むのかを確認するにあたって、独男が問い合わせた相手はその女性メンバーだったのだ。というのも、独男によれば、それには合理的根拠があったのである。少なくとも、この文脈で語られるべき事柄ではない。彼は言った。

(‘A`)「いや、それはフェイスブックのログインリストを見て、〇〇さんが一番高い頻度でログインしてて、他の人全然ログインしてないみたいだったから、反応してもらえると思って聞いたんだよ」

「あー、じゃあしょうがなくってことなんだ」

 というツッコミが入る。独男は耳を疑った。自分の説明は、フェイスブックでの質問は、事務的な次元で完結しうる範囲の行為であった、という趣旨のものであったのに、それに対して「しょうがなく」などという感情的次元の説明が帰ってきたからである。

 合理的根拠があるけれども「しょうがなく」女に頼る男、というのが独男に対するメンバーたちの評価なのだった。おそらく間違っていないのだろう。ようは女嫌いの男だと思われているのだ。もちろん独男はそういった問題について反論する勇気と気概、あるいは自尊心というものをとっくに失っていたから、訂正を加えようとは思えない。しかし、さすがに「しょうがなく」女に頼った男にされてしまうのは苦痛以外何者でもなかったので、独男はなるべく小さな声で、論争的性格をなるべく付与しないよう注意しながら、言った。

(‘A`)「いや、しょうがなくじゃないよ。本当に教えてもらいたいと思ってさ」

 が、独男の声が小さすぎたため、彼の言葉は「いや、しょうがなく」として皆に伝わり、メンバーたちは満足したように言った。「しょうがなくってのは〇〇さんに失礼なんじゃない?」

(‘A`)(……そうだな。俺は失礼な、女嫌いの男子だ。いや、もうおっさんか。中々救えねーな)

 独男は訂正を諦めて、微妙なはにかみを浮かべながらりんごジュースを飲み干した。

(‘A`)「お、もうジュースが無い。ちょっとグレープフルーツジュースとってくるわ」

 人の輪を離れた独男は、心の中でつぶやいた。

(‘A`)(Sの結婚式を人質にとって俺をなぶるとは、下衆な連中め)

 ジュースをヤケ飲みしていると、会場のスタッフが大きな声で告げた。どうやら急いでいるようだった。

「皆さん、披露宴の準備が整いましたので、会場にご移動ください!」

 声にしたがって、参加者たちはぞろぞろと列をなして会場に向かう。独男は人の移動が一段落するまで、グレープフルーツジュースを飲んで待つことにした。

 

( ^ω^)「独男」

(‘A`)「んだよ、また内藤かよ」

( ^ω^)「独男、披露宴では席が指定されるお。おそらく、大学メンバーは一つのテーブルに固まるはずだお」

(‘A`)「だからなんだってんだ」

( ^ω^)「Sの結婚式、ちゃんと、全部祝ってあげるんだお。多少煽られようが、昔みたいに癇癪を起こしたりすんなお」

(‘A`)「分かってる」

( ^ω^)「がんばれお」

 独男はグレープフルーツジュースを飲み干すと、一人会場へと向かった。

(‘A`)「あー、今日はグレープフルーツジュースを2杯も飲んじまったなー」

( ^ω^)「もう一杯飲むかお。いっぱい余ってるお……もったいねー」

(‘A`)「いいさ。もうドトール単位で1200円分は飲んだ。つまりはマクドナルド12個分の消費ってことなんだよ。それは俺にとって過ぎたものなんだ」独男はひとりごちた。周りに誰もいないので、少し、声が大きくなった。

(‘A`)「……俺は、今までずっと高望みをしていたんだ。実際、何にも値しない人間なのにな」

 

 

 

 

 

5

 披露宴が終了した。参加者はグループごとに新郎新婦と会話をかわしてから、会場を出て行った。二次会の開始まで時間を潰すため、何をするか。どこか開放的な気分になった参加者は、思い思いに会場のロビーをうろついていた。

 独男を含むメンバーたちも、そういった口だった。そんな雰囲気の中で、独男は唐突に言った。

(‘A`)「じゃあ俺、帰るから」

「お、ドっくんの帰り癖が出たな」とメンバーたち。

 ゼミメンバーの独男に対する理解は「二次会に参加しない奴」だった。独男は飲み会が大の苦手なのだ。もちろん、直属の上司との関係上断れなければ膝を屈する程度のポリシーではあるのだが、それでも、二次会への参加回数はまだ片手で数えられるほど。大学時代も含め、ゼミのメンバーと二次会に行ったことは無かった。

「帰る? 普通参加するもんなんじゃねーのかー? マナー的に。式と披露宴に出てるんだしさ」とお調子者。

(‘A`)「ところがどっこい。俺は招待受けてねーんだな、二次会の」

 場が凍りつく。

 そんな間隙の後、一同は各々驚きの声をあげた。

「S君からラインで二次会の話されたけどねー」と女性メンバー。

(‘A`)「ほほー。まあ皆さんがどうかはしらんけど、俺は披露宴までなんだな。いていいのは」

 独男はネクタイを解きながら言った。

「皆に連絡行ってるもんだと思ってた」とダークな雰囲気の青年が言う。

(‘A`)「まー」独男は今日一番誇り高い調子で言った。「誘われてないのに行くのは失礼にあたるからな。マナー上、俺は帰る。帰らざるを得ない」

 マナー違反。これは飲み会をバックレるにあたって最高に優秀な正当化自由だな、と独男は思った。そして、まさにそう言い放った瞬間、自分を二次会に誘わなかったSの意図がなんとなく分かった気がして、少し涙ぐんだ。二次会には、新郎新婦にとってより広い交友関係から人々が集まる。つまりは飲み会の規模は、大きい。それに、場の雰囲気も極めてフランクになるはずである。つまりもし独男が二次会に参加すれば、彼は見ず知らずのテンションが高い人々と、何時間も一緒に過ごさなくてはならない。それは独男が耐えられるような環境ではなかったし、そして、Sも、ゼミのメンバーも、そのことを知っていた。なんと言っても、同じゼミに所属していたのだから。違ったのはその対応だけだ。Sは独男に対して飲み会から逃げ出す口実を与え、そして、他のメンバーは彼を引き止めた。

 独男はネクタイをゆるめながら言った。どこか、開放的な気分になりながら。

(‘A`)「じゃあ俺、走って帰るはwww」

「走るって?」

 もちろん、すっかり油断してしまった独男は、最後にまたつけ込む隙を相手に献上した。言わなくてもいいことを言うから、独男はドツボにハマるのだ。

 彼の財産について簡単に計算すれば分かるが、独男には金が無かった。元々交通費としての千円だけが実質的な所持金であったが、往路の電車とバスで使った金額はすでに500円を超えていた。家まで帰り着くためには、バスを諦め、そして電車に乗る区間も縮めねばならなかった。おそらく1時間、あるいは2時間ほどの単独徒歩行軍が、この後独男を待っているはずだった。

「あーお金ないのか。貸すよ貸すよ~」とハンサムな青年。独男が現在数百円しか持っていない、その経緯に関する思い出し笑いが起こる。

(‘A`)「いや、これ以上借りは作りたくない! すでに千円も負債があるし……」

 独男はかなりまじめに、権力関係上の問題を意識してこの発言を選んだわけだが、メンバーたちはこれをギャグとして受け取り盛大に笑った。

「いやいや、何かあったら困るし、貸すよ」

 独男にはもはや抗う力は無かった。それに、実際独男は不安だったのも確かなのだ。もし100円玉一つでもなくしたりしたら(今日のボロボロぶりを見れば、十分あり得ることだ)、家まで帰れない。スマホも無いのだ。彼はハンサムな青年から千円を受け取ると(この瞬間借金は2倍になった)、そのお札を胸ポケットに入れた。独男はとても惨めな気分になったが、とはいえ、それは慣れていることではあった。慣れているかといって惨めさは変わらないのではあるが。

 そうこうしているうちに、女性メンバー2人がお手洗いに向かった。包囲網の力が弱まったのを感じた独男は、チャンスだとばかりに会場を後にすることにした。

(‘A`)「じゃ! 今日はほんとうにいい式だったね! いろいろありがとう」

 いつもなら強引に引きとめようとする彼らも、今日ばかりは意気が揚がらなかった。というのも、独男が二次会不参加というのは、Sの意志だからであり、そして、今日はSの結婚式なのだ。当然、その意志は尊重されるべきだった。

 メンバーを振り切って、独男は歩き出した。クロークで荷物を受け取り、いざバス停へ!

 ところがロビーの出口で、お手洗いから帰ってきた女性メンバーが待ち伏せしていた。背の高い女性が言った。

「なんで私に何も言わないで帰っちゃうの?」

 独男は、ああ、そういう風に解釈されてしまうのか、と思った。彼女は怒っている。つまり、このアメリカ帰りの帰国子女は、独男の行為を「侮辱」として受け取った。しかもその侮辱の根拠は「女性だから」だと思ったのだろう。

 実際、彼女たちに対してお別れの挨拶を述べずに帰ろうとする独男の行為は、単に「失礼」なだけではなく、彼女たちのような大卒キャリアの自立した女性にとっては明確な「差別的」態度と映ったことだろうし(なにせ独男ときたら、残った男性勢に対してはお別れを述べているのだ)、そう追求されたら、独男が社会的に完敗するのは明らかなのだ。

 しかし、全く理不尽なことじゃないか。疲れきった独男は思った。こいつらは俺を政治的感覚を持たない、まるでゾウかクマみたいな動物であるかのように扱う。しかしこんな場面になった瞬間、唐突に俺の邪悪な意図を読み込もうとする。どう考えてもずるいじゃないか。独男からすればこうであるが、とはいえこんな言い分は彼だけのものであって、誰からも共感され得ないものだ。

(‘A`)「俺は別に……あんたらに相対するとき、何も特別な意図は持っちゃいない」

 独男は言った。今度は大きな声で。独りごちではなかった。

('A`)「俺はただ、『帰りたい』ってだけだよ。もし仮に男子勢が席を離れてたら、俺はあなた方女性陣にさよならを言って、男子に何も言わず帰ったさ。帰るチャンスがあるなら、利用するまでだ。これまでも一貫してそうしてきたし、きっとこれからもそうし続けるだろうよ」

 独男は自動ドアを通って、バス停に向かって歩き出した。

(‘A`)「さようなら。帰ります」

(‘A`)(Sに対する義務は、もう果たした)

 歩き出して少したってから、独男は立ち止まり、控えめに振り向いた。

(‘A`)「お幸せに、Sよ。誘ってくれて、ありがとう。本当にいい式だったよ」

 

 

 義務を果たした独男は、軽やかな歩調でバス停に駆け寄る。バス停の近くには奇妙な立て札があった。札には、無料送迎バス、とある。独男は恐る恐るバスの乗口に近づいて、運転手に聞いた。

(‘A`)「あの~~、これって誰でも利用可能なのでしょうかあ~~」

 そうだよ、もう出るから、乗るなら乗って! バスの運転手は忙しそうにしながら言った。

 独男は愕然とした。タダでバスに乗れるなら、ハンサム青年から追加的借り入れをする必要はなかったではないか! しかもこのバスは大きなターミナル駅に向かうようだった。今やポケットの中には、帰るのに十分な電車賃があるということだ。独男は一瞬、金を突き返しに行こうかと思った(とはいえ、それでも千円の借金は残るのだが)。

「はい、バス出ます!」と運転手が言った。

 独男はいそいそと満員のバスに乗り込み、独りごちた。

(‘A`)「あ~~~、俺ってなんでこう間が悪いんだろ」

 ところが今回の独りごちは、緊張がとけたせいか、少々音量が大きすぎた。目の前の座席に座っていた強面の青年が舌打ちをし、露骨に不愉快な視線を独男に向けたため、独男は小声で謝りつつ頭を下げ、青年の座席とは逆方向を向いて立つことにした。実際、ひとりごとをつぶやく男というのは見ていて不気味なものである。もし殴り返されるリスクがなさそうなら、舌打ちか何かを浴びせかけるのが正しい対応だ。

(‘A`)(ふあ~~~、まいったまいった。だがこれで帰れる。帰れるんだ)

 夕方の町並みを走るバスは、時々渋滞に巻き込まれながらも、20分程度の運行を終えて駅の西口に止まった。

 

 

5

 街のど真ん中に、独男は一人降り立った。所持金は現在、千円札が一枚と、小銭が少々。

( ^ω^)「バス代浮いたから、電車賃を差し引いても、千円は丸々余るお。フヒヒっ……ちょっとした豪遊ができる金だお」

(‘A`)「んだよ……またおまえかよ、内藤」

( ^ω^)「おっおっ!」

(‘A`)「しかしまあ、そうだな……喫茶店にでも入るか」

( ^ω^)「人から借りた金を他の目的に使うのUMEEEかお?」

(‘A`)「わかんね」独男はブツブツと独りごちを続ける。

(‘A`)「ただ、すげー惨めな気分になるとな、不思議と面の皮は厚くなるんだよ」

( ^ω^)「そんな理論聞いたことねーおw」

(‘A`)「独男理論だよ。よっしゃ、ハンサム青年から借りた金をパーッと溶かそうや! 豪遊だ!」

 独男は一人、よく知らないターミナル駅の構内を散策した。そして人気の少ない通りに面した、小さなこじんまりとした、しかし小洒落ていて、でもお客があまり入っていないカフェを見つけた。

(‘A`)「……いいじゃんさ。まさに俺の求めてたもんだ」

( ^ω^)「おー」

 独男はドアを押して入店した。

(‘A`)「こんちはー」

「お一人様?」

(‘A`)「はい」

「おタバコは?」

(‘A`)「あ、えーと……吸わないです」

 奥まった四人がけの席に通された独男は少し笑顔になりながらおしぼりを受け取る。なんとなく、尊重されているという気分になれた。

( ^ω^)「タバコ吸わねーくせになんであの質問に対してきょどんだおwww」

(‘A`)「うるせー。吸いませんって言うか吸わないですって言うか、はたまた禁煙席でって言うか迷った結果だ」

 独男はメニュー表を開きつらつらと読み進めた。コーヒー、紅茶、そしてソフトドリンクという並びだった。ソフトドリンクの欄にはグレープフルーツジュースがあり、それが引き金となってフラッシュバックが起こって、独男は結婚式に思いを馳せるはめになった。

(‘A`)「Sは……なんで俺を二次会に招待しなかったんだろうな」

( ^ω^)「その話ですか……」

(‘A`)「解釈には2通りある。1つは、俺のためを思ってくれた。そしてもう1つは、俺にブチ切れてたか……あいつは俺に対して怒っていても不思議じゃない」

( ^ω^)「普通に考えてブチ切れてたら式に呼ばねーお……」

(‘A`)「とは思う。けどなあ……前に会った時なあ……」

( ^ω^)「前にSに誘われて二人で会った時、Sは独男にすごく優しくしてくれたお。独男と話していて楽しいと言ってくれたお。敬意すら表して独男の話を聞いてくれたお。それに、毒男のことを心配してくれていたようだったお。だけど独男は、あの時……」

(‘A`)「思い出させんなや……」

( ^ω^)「Sが結婚式場の下見に行ったって話されて、お前はブチ切れたんだお」

(‘A`)「はあ……」

( ^ω^)「なんでブチ切れたのかさっぱり分からねーお。Sはイケメンでコミュ力もあって金も持ってるお。彼女くらいいてあたりめーだおwww 結婚する権利も資格も能力もあるんだお。幸福に値する男なんだお」

(‘A`)「昔は……リア充と見れば全員に喧嘩を売っていた。そうしてれば、俺の両翼にも非リア連合が形成されて、最後はリア充を全員倒せると本気で信じてた。でもな、だーれも本気でリア充を憎んだりしてないんだよ。『リア充爆発しろ』ほど欺瞞的なスローガンを俺は知らない。あれくらいライトに慣れ合うのがちょうどいいって、なんでもっと早く気付けなかったんだろうな。本気で闘争をする奴はただのキチガイ。あるいは面白いピエロか」

(‘A`)「でもSだけはな、唯一、俺の癇癪を真面目に受け取ってくれたリア充だったんだよ。それが分かってて、甘えたかったのかもな。あいつだけは俺を人として扱ってくれたって言えば、言い過ぎかもしんねーけど……」

( ^ω^)「ダセー話だお」

(‘A`)「まあ、俺が傷つけるのに成功したのは、最も善良なタイプのリア充だけだったって話だな、つまりは。本当に何の意味もない戦役だった」

( ^ω^)「じゃあなんで今日は癇癪を我慢したんだお。あんなに煽られてたのに。戦うのがお前の生き方だったんじゃねーのかお」

(‘A`)「……さすがにな……Sの式をぶち壊したくなかった。もう、俺もだいぶ弱ったんだよ」

(‘A`)「あとはあんま言いたくないけど、やっぱ、金だな。文字通り今日、俺は文無しで……あいつらは俺より先に働き始めてるから、金もある。まー、経済的に言えば俺はかなり落ちぶれてるからな。今の社会環境で俺がキレたら、俺があいつらの豊かな恋愛経験に嫉妬してんのか、それともあいつらの所得と資産と肩書に嫉妬してんのか、わかんなくなっちまう」

( ^ω^)「発狂してる非リアとして見られるのは良くても、論争好きの貧乏人に見られるは嫌なのかお」

(‘A`)「まー俺も馬鹿げてるとは思うよ。でも一度受験とかの競争を経験しちまうと、やっぱりなー、能力とか、地位とか、そういうのをめぐるゲームを少なからず意識しちまうもんだろーなー。一方、恋愛経験で言えば俺は人生通してなんもないからな……嫌だけど、どうしようもなく愛してもいるんだ、いわゆる『非リア』としての俺をな」

( ^ω^)「そんなもんかお」

(‘A`)「そんなもんだ」

 独男は独りごちるのをやめた。給仕係の女性が注文を取りに来たからだ。独男はメニューを開き、予め決めておいたメニューを注文した。

(‘A`)「この……グレープフルーツジュースをください」

「かしこまりました」

( ^ω^)「800円のグレープフルーツジュースwwwいつもは一番安いメニューしか頼まないくせに。他人の金だと散財力ぱねえお」

 注文が終わって安心した独男は、カバンから一冊の本を取り出し、座席にだらしなく座り直して、本をお腹の上に、背表紙がテーブルの縁に支えられるように置いた。姿勢と行儀が悪い、しかし独男にとっては一番楽な読書スタイルだった。

( ^ω^)「……何読んでんだお」

(‘A`)「んあ? これか? これはなー、ケン・リュウのSF架空戦記だな。『紙の動物園』は良かったが、これはいまんとこまんま『史記』って感じでなー。どっからオリジナリティが出てくるか楽しみってところだな。まあ非中華文化圏の連中には『史記』そのままでもウケるのかもしんねーけどさ、やっぱいろいろ新展開欲しいよな、日本人としちゃーな」

( ^ω^)「僕にも読ませろお」

(‘A`)「こっち来んなや……暑苦しい」

 独男は読書を続けながら、また独りごちた。

(‘A`)「……つーかさ、お前、なんなんだよ。いい加減白状しとけ」

( ^ω^)「まず、独男の仮説を聞きたいお」

(‘A`)「まー間違いなく多重人格とかのアレだろうな。ビューティフル・マインドファイトクラブ俺たちに翼はない素晴らしき日々、まあいろいろだが、抑圧された俺の意識がお前を生み出したんだ」

( ^ω^)「僕はタイラー・ダーデンってことかお。ブラピかお。かっけーお」

(‘A`)「でも理想にしてはお前はなんかこう……ルックスも微妙だし……カッコいいセリフ連発してくれねーし……」

( ^ω^)「うふふ」

(‘A`)「だからまーなんか、俺の良心みたいなもんだと思ってる」

( ^ω^)「僕が良心だとしたら、お前はなんなんだお? 独男の本質、かお?」

(‘A`)「アイデンティティってのはなんとも90年代って感じで、2016年に発言すると馬鹿げてるよなあ……」

( ^ω^)「そうだお。『僕は一体何者なんだ』と問うのは罠だお」

(‘A`)「だが俺は自意識を殺す気はない。俺は他人とは違う何者かでいたい」

( ^ω^;)「そうあることを激しくオススメするお……もしお前が自意識を殺すと、僕死んじゃうお」

(‘A`)「……なるほどな」

( ^ω^)「僕は独男の、『肥大化した自意識』そのものだお。やっと気がついたかお」

(‘A`)「……なんで美少女じゃねーんだ」

( ^ω^)「サーセンwwwつーか最初のツッコミそれとかオタクきめーおw」

(‘A`)「肥大化……あっ、だからお前ピザなのか……」

( ^ω^)「ピキピキ」

(‘A`)「でもそうか。これが世間で言われてるところの自意識ってやつか。こうして見ると、まあなんともはや」

( ^ω^)「僕が独男に与えているのは、『意味』であり『物語』だお。僕がいるおかげで、独男のなんも意味もない生き方も劇的に見えるんだお。今日のことなんてお前、統失気味のコミュ症が、ひたすらポカやらかしてるだけだお。一行の説明に回収可能な、なんの意味もねーことだお」

(‘A`)「だが……そうだな……」

( ^ω^)「そうだお。僕のおかげで独男は、『友達の結婚式を守るために頑張る俺』になれたんだお」

( ^ω^)「それをサポートしてやったお」

(‘A`)「マッチポンプじゃねーか。自演じゃねーか」

( ^ω^)「それでいいんだお」

( ^ω^)「独男、現状を受け入れるお。もうおめーは僕無しでは生きられんお。その上で、でも、お前にはまだいくらでも可能性は残ってるお。どんな無意味なことだって、僕が感動的な物語に仕立て上げてやるお!」

( ^ω^)「だから独男! どんどん前に進んでいくんだお! お前の旅路は確実に劇的だお。僕がいる限り。お前が僕を殺さない限り。お前の生きる道はロマンチックであり続けるんだお。特別であり続けるんだお。意味を持ち続けるんだお!」

(‘A`)「内藤……」

( ^ω^)「さあ、なんでもやってみろお、独男! なんだって物語にしてやるお! 僕の肥大化っぷりなめんなお!!」

 独男はゆっくりとグレープフルーツジュースを口に含んだ。結婚式上で飲んだジュースと比べ、少し味が薄かったけれど、はちみつの風味が効いていて、どこか豪勢に感じた。

(‘A`)(あー、今日はグレープフルーツジュースを3杯も飲んじまったなー。しめて2000円分のグレープフルーツジュース。マック換算でいえば、ハンバーガー20個分だ)

 ハンバーガー20個というのは大量と言える数だった。独男の頭の中で、20個のハンバーガーがふわふわと浮かんだ。随分間抜けな光景だった。すぐに、かつて5つのハンバーガーを注文して食べたことを思い出した。20個といえば、あの時の4倍だ。思い浮かべただけで、独男は喉が渇いてくるような気がした。彼はグレープフルーツジュースをごくごくと飲み干してしまうと、座席に座り直し、辺りを見回した。客は彼以外いないようだった。グラスが空になったことを認めた店員が、独男の方にやってきた。もう注文した飲み物を全て飲み干してしまったので、追い出されるのではないかと独男は警戒した。しかし店員は微笑んで、独男にお冷のおかわりをついだ。この喫茶店は居心地がいいから、と独男は思った。もう少しここにいてもいいな。

 そう、彼はもう少しだけ、ここにいてもいいのだ。