読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

みた映画とか

映画


「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」日本版新予告

確か新宿バルト9で。

 あまりおもしろくない問題設定から生まれた結構見れる友情映画、それがシビルウォーキャプテン・アメリカ。まあキャップとトニーはひと目でメチャシコの関係だから、単純に二人が喧嘩するだけでも面白いんだけど、そこにキャップの元カノに相当するウィンター・ソルジャーまでぶち込んでくるのですごい。個人的には、キャップに裏切られたこと、具体的にはウィンター・ソルジャーによる蛮行をキャップが隠していたことを知った時のトニーさんの演技が迫真で大好き。あれは最近見た中でも一番おいしいシーンの一つ。

 というかキャップみたいな堅物キャラが姫になれるアメコミワールドはやっぱ保守派の聖地だよなあとかなんとか。

 

デッドプール 日本版本予告(90秒)

ピカデリーで。評判がいい。

 なんというかまあいろいろ言われてるんだけど、パロディが多い。でもパロディが手堅すぎた感はちょっとある。パロディの手堅さってなんだよという話だが、私の理解においてパロディの面白さは、それ自体のネタとしてのクオリティと、文脈中断による面白さの2つに分類される。もう少し具体的にいうと、例えば「おー! あいつヒーロ風着地やってんじゃーん!」というツッコミはそれとしてお約束を茶化す面白さがあり、パロディとしてのクオリティが高い。これがパロディの持つ純粋な面白さである。一方、パロディはたいていの場合唐突に導入されるので、話の流れをぶった切るというどこかナンセンスギャグ的な面白さも持っている。この二種類の面白さのうち、私が好きなのは完全に後者からくる面白さなのだなあと思った。デップーのパロディはちょっとナンセンスさが足りないというか、このキャラならそういうツッコミするよね、という蓋然性があるのでスリルが全然ないというか。

 でもその蓋然性ができあがっていくことと、デップーのキャラクターが成立していくプロセスが非常によくかみ合っていて、そこがこの映画の評価ポイントではある。早い話デップーは悲惨な人生を送ってきた可哀想な奴であり、まあアメリカ映画に出てくるアウトロー全般に言えることだけど、そういう人間はパロディ的に生きねばならないわけで、言い換えると、ピエロ的にふざけて生きなければならない。自分のクソな人生に向き合うなんてもはや無理だからである。

 ただこの作品はここで一捻りを入れてくる。つまり、自分の人生から逃げ出す投げやりさのようなもの=無責任さに対して、彼はどこまでも誠実なのである。だから視聴者側からすると、彼がふざければふざけるほど彼の誠実さを見せつけられる気分になる。まあそこが私としてはちょっとさびしいんだけど、でもこの誠実さを見ていて優しい気持ちになれるのも事実だろう。デップーはピエロ化するはするのだが、しかしそこで自意識のこじらせにとどまらず、ピエロ業に対して真剣に取り組むことができるというとんでもない聖人なので、実際尊い。正直現代における承認の問題に対する切り込み方としてかなり正しい作品だと思う。売れてるのも納得。

 

『ズートピア』予告編

 

アートフォーラムで(どこだよw と思ってはいけない)

 ディズニーにしては子供向けだなあという感想。実際作品としての完成度はアナ雪の方がはるかに高い。というかこのテーマはディズニーにやられてもなーという。完全にドリームワークス向けのテーマ。

 まあ社会問題を人間関係に落としこむという手法はわかりやすくはあるんだけど、加害者性の強調が中途半端なんだよなあという。ウサギは単に狐に悪いことをしたのではなく、マイノリティ、ひいては社会全体に対して悪いことをしたのであって、正直その責任の重大さが言及されなさすぎ。あんたがやったことはバッジを返上したり泣きついたりして済む問題じゃないんですよとなる。

 最大の問題として、和解のカタルシスがあんまり無いことがあげられる。つまり、問題設定を人間関係レベルに落とし込んだ時点で、その解決も当然人間関係のレベルにおいて、つまり和解という形をとってなされるべきだと私は思うのだが、この作品はあまり和解のシーンを真面目に扱ってなくて、むしろウサギのトラウマ解消の方に、つまり個人的なレベルの問題解消の方に焦点をあてていて、これが私的には合わなかったなあ。結果としてトラウマも人間関係も両方中途半端になってた感がある。せめてどっちかに振ってればまだ見れたと思われる。

 まあそもそも論として。あまりこういう言い方はしたくないんだけど、差別されたことによって破綻した関係は、純粋に人間関係的仲直り戦術じゃあ修復できないんじゃないのっていうか、二人の人間関係の問題に回収しきれないからこそ差別ってやばいんじゃないのっていう。この作品は明確に差別の問題を人間関係の問題に置き換えていて、まあ被害者/加害者の実像を浮かび上がらせるという意味でそれは戦術的には正しいんだけど、でもその正しさってあくまで戦術的な水準のものにすぎませんよねという。私などはそれって問題の矮小化だよねとどうしても思ってしまう。