ひたすらお上品な、頓挫した恋愛が再出発する映画『ムーンライト』感想(ネタバレあり)

 


アカデミー賞作品賞!『ムーンライト』日本版オリジナル予告

 シネマート新宿で『ムーンライト』を見てきた。せっかく持っていたTCGカードを家に忘れるという失態を犯したのでちょっと寂しかったが(TCGカードの色合いが図書館カードと似てたのが悪い。つまり自治体が悪い)、とにかく見てはきましたよ、ええ。

 

 結論からいうと、エンターテインメント性は皆無の映画でした。でもだからといってダメというわけでは全然ないということを注意しなくてはいけない。エンタメ性が低いというのは、①王道手法が使われていないという点と、②感化力で勝負していないという二つの根拠からそう思った。

 

王道は行きません

 まず王道手法が使われていない=実験的要素が非常に多いという点。映像および音の演出が非常に実験的で、もちろんそれに意味はあるんだろうけど、実験的であることと面白いかどうかはまったく別の問題であるというのが一つ。特に音ずらしの演出はかなりダサいと思った。まあこれは褒めているのだけど。あの演出をやると、視聴者としては「お、なんかこの後にすごいことが起こるのかな?」と期待してしまうわけであるが、実際その後のセリフとか展開がすっごく陳腐で、かなり肩透かしを食らう。特に再会シーンでの音ずらしは完全にそれだったのだが、この「肩透かし」感ってこの映画のテーマとすごくマッチしていると思う。実際、我々が直面している現実の陳腐さを浮き彫りにするという演出は結構戦略的になされていて、特に再会シーンはあまりにも陳腐すぎてほんと胸が苦しかった。超重要な再会シーンなのに、ケヴィンが何回も何回も行ったり来たりするシーンがこれでもかと繰り返され、これすごくリアルなんだが(疎遠再会は現実にやるとマジでこうなる)、美化されがちな再会シーンってのが実際はこの程度の体たらくだというのがよく伝わってきて辛かった。ただ、背伸びをしていない演出なおかげですごく地に足の着いた映像になっていて、この雰囲気のために使いました! というならば、実験的手法はこれ以上ないくらい作品に貢献しているよなと思った。

 また、主人公をケヴィン側ではなくシャイロン側に持ってきたのも本当に実験的だと思った。最近だと『ヒメアノ~ル』が完全にそれだけど、この物語構成ならケヴィンを視点人物にした方が、議論の余地なく、絶対おもしろい。シャイロンの変化に対する理解不可能性というのが疎遠モノのかなり重大な要素だと思うのだが、それを調達しようと思えばシャイロンの人生をあまり映さない=視点人物としての地位を剥奪するのが一番手っ取り早いわけである。「変わる前(フニャフニャ系少年)」と「変わってしまった後(マッチョ売人)」の2地点を、「疎遠になった友達(今やストリートを抜け出したケヴィン)」が目撃する、という王道展開を使った方が、絶対エンターテインメントになっていた。まあこのあたりの評価は難しい。社会問題を扱うという点について言えば悪くない選択ではあったと思う。というのも、「えー、お前どうしてこうなっちゃったの……」という理解不可能性があまりにも全面に押し出されてしまうと、シャイロンをああしてしまったストリート社会のツライ現実というものが逆に隠されてしまうわけで、もちろんそれはそれで全然ダメなのである。ただ一方で、上でも書いたとおりこの映画は我々の「再会シーン幻想」を破壊しにかかってくるので、再会自体は戦略的に盛り上がらない。その盛り上がらなさに含まれるもどかしさ要素、つまり「再会はもっと楽しいと思っていたのに!」という残念感を出そうと思うなら、視点人物としてふさわしいのはどう考えても誘ったケヴィン側ということにはなるだろうなとは思う。

 ただ、私はシャイロン編の途中あたりから、「あれ、これってケヴィン視点になってシャイロンのかわいさを楽しむ映画なんすか???」とか思ったりしたし、実際最後のシーンに少年シャイロンが浮き上がるシーンとかって、視聴者がある程度ケヴィンに感情移入してないと絶対に成立しない演出だと思っており、そういう意味でいうとこの映画はケヴィンがメタ的な視点人物であるという理解も全然できると思っていて、このあたりも実験的だよなあと思ったりしている。こういう工夫はすごく好き。

 

感傷的なお話なのに感化力で勝負していない

 この映画のエンタメ力が低い理由その2として、感化力がかなり低いということをあげることができると思う。感化力という表現はもう少しざっくりいうと「よおおおし、今からお前らを泣かせっから!!」的なノリであると私は理解している。類似的な表現としては「泣きゲー」「お涙ちょうだい」「刺さる」とかがあげられるかな。まあ、人間の感情を機械的に動かしてしまうような一連の表現テクノロジーが駆使されている作品は感化力が高いと言えると思う。ちなみに、私は感化力の高い作品は文句なしに大好きであることはあらかじめ明記しておく。

 『ムーンライト』は感化力ゼロである。いや、泣けるは泣けるが、この映画は難しいので(私もかなり未消化が多い。もっかいみたい)、そのためには先行作品を勉強したり、いろんな人との付き合いを経験したり、めちゃくちゃ注意深く(ある種批判的に)作品を鑑賞したりしないといけない。例えばセリフではなく極力映像で説明していくスタイルとかは、ぼーっとしてると何も理解出来ずに見過ごしてしまる。あと設定もやばい。そもそも月光(ムーンライト!)の下でだけ僕は本当の姿に戻れるとかいう静謐力の高い設定がかなりお上品だし。この映画は童貞要素があったり母親のアレとかも描かれていて感傷的な要素満載なのに、脚本と演出のレベルで、ほとんど神経質とか潔癖症と言っていいレベルで感化力を引っ込めている。

 それで思ったが、もし『ムーンライト』が米大統領選的文脈でアカデミー作品賞に選ばれたのだとすれば、当然色々な要素が絡んでいるから、理由が一つということはありえないけど、この感化力の低さという要素もかなり重要だったんではないかと妄想した。というのも『ムーンライト』はトランプ大統領のような戦略に対する明確なカウンターであろうとは思う。スーパー金持ちVSインディペンデント映画、感化力による扇動VS静謐さと癒やし、という感じで。

 しかしである。こういうのはこういうのでいいのだろうが、私にはちょっとお上品すぎると感じられたのも事実である。私はもっとお下品な、感化力全開でロマン主義うぇーい! 俺だけは絶対に諦めないからなうぇーい! あの娘のためなら世界とか余裕で投げ捨てるぜ当たり前だろうぇーい! みたいなノリが好きな人なので、正直『ムーンライト』は物足りなかったといえば物足りなかった。ただ、繰り返すが、エンタメ性が低いからダメというわけでは全然ない。こういったお上品な作品もたまに見るとよいものであるのは確かなのではある。

 

ただ、普遍性を押し出しすぎ

 とりあえず、こういうエクスキューズはほんと卑怯だと思うが、私のSFオールマイベストは『闇の左手』であり、2009年で『レスラー』の次によかったのは『ミルク』だと思っているし、好きな保守派映画を3つ上げろと言われたら『グラン・トリノ』の次くらいに『ブロークバック・マウンテン』が来る。

 『ムーンライト』は良かったと思うのだが、あまりに普遍性を全面に出しすぎて、個別の人生が持っている一回性というか特殊性というものがあまりに置いてけぼりになってしまっているとは強く感じていて、この点についていうと私はかなりこの作品の出来はよくないと思う。

 まず何よりもまずいと思ったのは、予算のこともあるんだろうけど、この映画はランドスケープ描写があまりに貧弱すぎる。その結果として、たしかに「どの都市*1に住んでいてもありえたかもしれない描写」、つまりは製作者たちが信じる「最大公約数」は満たされているんだろうけど、その代償としてシャイロンとケヴィンの関係が持っている特殊性みたいなものに向き合えておらず、正直、こんなんじゃダメだろとなった。とにかく、この映画はどう取り繕うが、まず何よりも和解と再会に物語上のピークを持ってくる疎遠モノであり、月光降り注ぐマイアミの海岸という明確な聖地設定をやっているわけだから、そういった要素がちゃんと活かされているかの評価は絶対に必要だと思う。そしてその筋でいうと『ムーンライト』は明確に失敗している。

 ランドスケープがすっからかんであるため、個別の会話や感情の変化に対してはまあ最低限の「あるある」は調達できるけど、それ以上のものはない。個人的には、最低でも家と学校とフアン邸、そして海岸の物理的位置関係をはっきりさせないとダメだと思う。車じゃないとダメなのか、走っていけるのか、途中にちょっと休憩できるアイスクリーム屋とかあるかどうか。二人の思い出の場所、心の拠り所であるマイアミの海岸という癒やしの空間が、じゃああまりにも酷い現実を象徴する学校やら家とどうつながってるんですかという話をする必要はどうしてもある。一縷の望み、拠り所というものは、我々の実生活とつながっているからこそ拠り所足り得るのであって、汚されえないものとして完全な隔絶状態にあったり、あるいは観念的に設定されているだけでは何の意味もない。別に地図を寄越せという話なのではなく、絶望と希望が空間的にもちゃんとつながっているんだなということを視聴者にとって納得できる形で提示しないとダメだろうということを言っているわけである。

 

童貞力はあるのか?

 あと最後、童貞描写についてなのだが……うーん、まあなんだ、「ずっと想っていました(チュッ)」と「好きな人がいるのに何も出来ずに勝手に自爆して終了」ってだいぶ違うと思うんですよ。好きな人以外とHなことしなかったから童貞なのかというと別にそういうことはないわけで、正直シャイロンとケヴィンは童貞というよりは、なりそこないの悲劇カップルでしかないと思う。

 まず何よりも童貞物語には無力感と希望の完璧なバランスが求められるわけで、無力感だけでなく、内宇宙でほとばしる希望の光がもっとあってしかるべきだと私は信仰しているのだが、残念なことにこの映画における希望の光担当は海岸を照らす月光なのであり、個人的には希望の出力不足感は否めず、そのせいでどうしても社会的圧力に対して抗えなかったという無力感の方が先行してしまう。でもだからといってそういう無力感を出して、ああダメだったね、俺たちもうボロボロだねっていう感傷的で感化力を高める戦略も取られていないのが個人的にはもどかしい。

 もっといえば、何より再会シーンがあまりにもリアルかつ陳腐すぎて、盛り上がりが皆無になってしまっているのが痛い。もし童貞的葛藤を通して物事を眺めるならば、どんなに陳腐なものだってロマンチックになってしまうわけで(???)、その意味で「再会幻想」を否定したこの映画は必然として童貞的葛藤、童貞的緊張感の描写とも遠い場所にあるのだろうとは思う。だが、だからといってラブロマンスとして失敗しているわけでは全然ない。童貞というよりは、頓挫した恋愛の回復についての映画なのだと思う。もちろん、からをかき分けて無事飛び立つのには相当な時間がかかってしまったけれど、この関係の卵のからはもうとっくに割れていて、割れてしまったからにはすでに童貞の守備範囲外なのである。

 

 

*1:この映画は田舎暮らししか知らない人には意味不明な映画である

別のタイトルでやるべき知育映画 『10クローバーフィールド・レーン』感想

 

 

 娘による家父長制打破系映画なのだが、「クローバーフィールド」を期待して見に行った人がこの映画を見て激怒したとしても、それは彼または彼女が家父長制主義者だからではないだろう。いやね、ラスト10分くらいの展開の方を見たかった人からすれば肩透かしもいいところだろうというね。

 あとこの映画を見て思ったのは、なんとなくマインクラフトライクゲームっぽい「知育」的な要素があるなということである。最初のシーンで棒を様々な用途に活用したり、後半でガスマスクをクラフトしたりするシーンは実際知育ゲームっぽい。また、こういった知識の源泉が実は暴君たる父にあり、彼から継承したものであるというのも興味深い。父の従軍経験を娘が吸収したことで、彼女は自立した女性となり、外の世界でサバイブできるようになる。こうしてみると、実は単なる「絶対悪としての父」モデルの映画にはなっておらず、父の死にも一定の意味が与えられているわけで、そのあたりは童貞的にもちゃんと評価したいポイントだなと思った。

ちゃんとしたクリニックに行けば? 『JUNO/ジュノ』感想(ネタバレあり)

 

JUNO/ジュノ (字幕版)

JUNO/ジュノ (字幕版)

 

 

あらすじ

 高校生の女の子ジュノが妊娠して、一度は中絶を決意するが翻意して、通学と妊娠出産を両立させ、無事に我が子を養子に出すというお話。

 

脚本がかなりダメ

 かなりとっちらかっている脚本である。何が一番まずいかというと、ジュノが中絶を辞めるという重要な意思決定を孤立状態で下さざるをえない状況がかなり恣意的に作り上げられているという点だろう。まずいちばん違和感があるのが、ジュノが中絶を辞める描写。この映画はなぜか、「ある特定の中絶クリニックが嫌*1」→「中絶が嫌」という飛躍をやるのだが、ここはどう考えてもおかしい。普通、「ある特定の中絶クリニックが嫌」の次は、「もっといい中絶クリニックを探そう」ではないだろうか? もちろん、ジュノが家族からネグレクトされているとか、友達がいないとか、彼女が孤立状態にあるという前提条件があれば、ああいう投げやりな行動を取ることにも一定の納得感がなくもないが、ジュノの家族や親友はありえないほど善良な人々である。そもそもジュノが中絶したかったのなら、彼女が「劣悪なクリニック」か「出産」かの二択状態に追い込まれる必然性はかなり薄く、安価なクリニックが怖いからちゃんとした病院に行きたいということで、例えばお母さんあたりのサポートを受け入れる、というのが自然ではないだろうか。ただこの映画は最初に、ジュノと両親がギクシャクしているかのような印象を視聴者に与えておく。例えば序盤の食事シーンでは、父親はそっけないし、継母との関係もひょっとしたら悪いのかも? という印象を受ける。こういった描写でジュノと両親(特に母親)の協力という可能性をちゃんと潰しておいて、つまりはジュノを一種の孤立状態に置いておいて、その上で、出産路線が確定してから「家族はジュノをサポートするのです!!」と一転家族による支援を描き始めるというこの映画のやり方は、端的にいって邪悪だと思う。女性支援団体の運営する中絶クリニックの描き方といい、継母とジュノの関係といい、このテーマなのに女性同士の連帯という筋を都合よく悪用しているように思える。こういうのを好きな人が家で見る分にはいい映画だろうが、皆で絶賛するタイプの映画ではないだろう。 

 また、男性の扱いに関しては完全に意味不明である。ジュノの彼氏にしろヴァネッサの夫にしろ、こいつらは恋人と一緒になってるのに童貞性を引きずっているのでだいぶ酷い人たちである。ジュノ彼は恋人が妊娠してるのに「え、俺たち付き合ってたよね」みたいな水準でグズグズし始めるし、ヴェネッサ夫は家庭があるのにロマン主義が矯正されていないちょっとズルいキャラだし。なんというか、妊娠や結婚という先立つ事実に直面しながらも、それでも童貞的葛藤を維持する人々というのは、相当愚劣で無責任な連中である。はっきり言っておくが、童貞性は孤独な童貞たちのものであって、恋人とセックスしたり結婚相手を裏切ったりする連中のためのものでは断じてない。この映画はそういう意味で童貞のこともバカにしてる映画でもあるので、ちゃんと批判しておかないといけない。

 

でもエレン・ペイジだから部分的に許されてる

 しかし、この映画はなんとか見れる出来にはなっている。なぜかというと、やはりエレン・ペイジだろう。エレン・ペイジはこういう、なんか投げやりなファンキー過激少女の役があまりにも合いすぎるので、その圧倒的な納得感、正当化力によってなんとなく酷い描写が見過ごされてしまっている感がある。エレン・ペイジすき*2。でもエレン・ペイジを真に活かしたいなら、とりあえず彼氏を殺して、そんでもってもっとヴェネッサとの筋を押し出せばよかったんじゃねーのと思う。というか、この映画はジュノとヴェネッサが男に裏切られるけどお互い支え合うみたいな話にしとけば単なるプロライフ宣伝映画にならずにすんだよね。さすがのエレン・ペイジ力をもってしても、やはり最後「彼が好き~~」とか言い出すのがマジで意味わからんかったからな……。

*1:この中絶クリニックの描き方もだいぶ酷いが。というか、中絶クリニックなんてたいていこんな場所だよっていうのが密輸されててだいぶクソだろう。ちゃんとした中絶クリニックは全米にたくさんあります!!

*2:この映画で唯一それなとなったのは、「男子は変な女の子が好き」という話ですよ。それな。変な女の子は「いや私モテなかったぞ」と言うんだろうが、密かなファンが結構いたと思うんですよね、ええ。

こんなにもちっぽけなもの『沈黙-サイレンス-』感想(ネタバレあり)

 

 


『沈黙-サイレンス-』予告

 

 角川シネマ有楽町で見た。『君の名は』がまだ各所で上映されているので、かの作品より公開が遅い『沈黙』はまあ当分やってるだろ……とたかをくくっていたのだが、これが全くの見当違い。探してみたが、どこも上映を打ち切っている! というわけでまだやってた角川シネマ有楽町に行って見た。次回以降一回1300円で見れるカードを作った。

 作品としてのクオリティは非常に高い。とりあえず私にはめっちゃ刺さりました。なんか特殊な刺さり方というか。作品の上映が終わったあとに、「あれ、俺刺されてる……じゃん」と気がついて死ぬ、というパターンの刺さり方だった。しみじみすぎた。というかまたオンオンと嗚咽を漏らしてしまったのだが、最近泣き癖がついているのだろうか……。まあ映画館で見れてよかったなという気はする(謎のオチ)。

 

あらすじ

 ポルトガルイエズス会士であるフェレイラ神父が、日本での布教中に消息を断つ。どうやら日本でのキリシタン弾圧に巻き込まれた結果、フェレイラ神父は棄教したらしい、といった内容の噂が本国に届く。フェレイラ神父の弟子であるロドリゴ神父とガルペは、師匠のフェレイラを探し出すべく、17世紀中葉のキリスト教徒弾圧が本格化している日本に向かうのだった。

 

お堅いストーリーがちゃんとある「虐待映画」

 シナリオはオーソドックスな「人探しもの」で、単なる暴力シーン連発の映画に堕しておらず、ちゃんと物語が構築されている。まずこの点をちゃんと評価しないといけないと思う。単なる虐待シーンの連続映画だと見るのが相当きついが*1、人を探すという基本クエストがあれば、話がずれても帰ってくる先がちゃんとあるので作劇がグッと安定する。衝撃的な虐待シーンは、言うまでもなく人の心を引き込んでしまうので、結果として虐待以外の要素が容易に見過ごされてしまったりするわけだが、お堅いシナリオをちゃんと用意しておいて、観客の視点を定期的に物語へと引き戻す仕組みを作っているのはまあ流石だよなと思った。

 

日本って沼なの? いいえ、沼じゃありません

 とりあえず最初に、日本は沼ではないということをはっきりさせておきたい。この映画を見る限り、「日本は沼」という議論はある政府側登場人物の見解にすぎず、作品のメッセージではない。この映画を見て「日本は沼だからキリスト教は根付かない」とか言ってる人は端的に論理的な理解力が足りないので、もう一回映画を見た方がいいと思う。なんか、『沈黙-サイレンス-』を見て「日本は沼だなあ」ってなるのは、『サイタマノラッパー』を見て「埼玉はクソだなあ」ってなるくらいピントがズレてると思う。『サイタマノラッパー』をみて真面目に「埼玉はクソっていう映画でさあ」と言ってる奴がいたら、なんか言いたくなるでしょ。そういう感じなんである。こういった理解が流布しているのを見ると、ちょっとでも日本に対して批判的な映画に対して「反日」のレッテル貼りをりようとするアレな人々のナイーブさに近いものを感じ取ってしまう*2

 さて、「日本は沼」議論にそのまま乗っかるのは、これから示す二つの水準で間違っている。

 

①変えようのない事実:日本にはキリスト教徒がいる

 まず、日本にはキリスト教徒がいる。かつて日本にあった(あるいは今ある)政府の弾圧政策に関する問題と、キリスト教徒が日本いるかどうかは、密接に関係してはいるけれども、しかし別の問題でもある。いくら弾圧しようとも、奪えないものは確かにあるからだ。例えば、信仰心などはその代表例だろう。『沈黙-サイレンス-』はまさにそういうことを言ってる映画なんじゃないだろうか? 非道な虐待を受けている日本人のキリスト教徒がこの映画にはたくさん登場するわけだけど、彼ら彼女らの存在がすでに「日本にキリスト教は根付かない」というアホな理解に対する反証になってるんじゃないの? 虐待シーンで、「役人は酷いな~」という感想を抱くのは当然としても、同時に、日本のキリスト教徒の持っている勇気や信仰心に驚かされるんではないのか?

 しかもこの映画の最後のシーンで、しっかりと書いてあるわけじゃないですか。「『沈黙-サイレンス-』は、日本のキリスト教徒に捧げられた映画である」って。私はここを見て涙が止まらなかったのですけども、これは当然、現在だけでなく過去におけるキリスト教徒にも捧げられてるわけでしょ。結局のところ当局はキリスト教を完全には殲滅できなかったわけで、隠れキリシタンたちのおかげで日本におけるキリスト教の伝統は途切れずに存在し続けてるわけであるし。「日本は沼」議論に乗っかるということは、映画の理解として間違っているだけでなく、日本におけるキリスト教徒たちをあまりにもバカにした態度だろう。もちろん、弾圧のせいで日本におけるキリスト教は歪んでしまっただろうし、鎖国時代の前後で日本におけるキリスト教には質量ともに大きな断絶があるのは事実だろう。しかし、これらだって「日本は沼」議論を全然補強しないのである。この話は次にする。

 

②日本の事情は全く特殊ではない

 「日本は沼」議論は、あえて命名すれば日本特殊論の一つである。もちろん、こういった議論に飛びつく人が多いのには理由がある。作中でも触れられていたが、日本人信徒たちのキリスト教的実践、知識はかなり怪しいからだ。例えばキリスト教的な天国概念に対する理解とか、受けているサクラメントの質とか。こういった事態は布教システムと教会組織があまりにもガタガタな宗教コミュニティにおいて当然生じる現象なのだが、じゃあこのどうしようもない現実から「日本は沼だなあ」に飛びつくべきだろうか? 当然答えはNOである。

 まず第一に、キリスト教には土地土地のバリエーションがある。ポルトガルキリスト教、オランダのキリスト教グルジアキリスト教、エジプトのキリスト教、そして日本のキリスト教、それぞれバラバラである。また、国内的にもまた多様性がある。そして、ポルトガルキリスト教と異なるからといって、他国のキリスト教キリスト教でなくなるわけでは全然ない。つまり、日本におけるキリスト教理解がポルトガル人の目から見て歪んでいるとしても、それは即座に「日本は沼」的な、日本特殊論を補強する材料になるわけではない。例えば、イエズス会士であるロドリゴ神父は、日本ではなく当時のオランダ(スペイン帝国を介してポルトガルとは絶賛戦争中だったけど)に行ったとしても、現地でのキリスト教理解に対しては眉をひそめたであろう。でも、だからと言って「オランダは沼だなあ」とか言う人なんてほとんどいないでしょ。土地によってキリスト教が変わるのはある程度必然で、日本に日本風キリスト教が存在するとしてもそれは全然普通のことである。普通の現象に対してわざわざ沼とか言い出す必要はない。

 第二に、キリスト教布教は多分に妥協的な性質を持っているという点を忘れてはならないだろう。つまり、布教時に現地の文化を取り入れつつキリスト教を広めることは、教会にとっては普通のドクトリンであって、日本に対してもそれが行われたにすぎない。日本が沼なら、ブリテン島やドイツだってもう相当な沼ということになる。例えばカトリック教会がゲルマン人の森信仰を打ち倒すのにかなり苦労したという話は有名であるし、実際クリスマスツリーという形としてちゃんと森信仰の名残は残っているわけで。でも、そういった異教的なコンテンツを内包してケロンとしているのがキリスト教だというのを忘れてはいけない。というか、初期教会はキリスト教の祭日設定とかでも、ちゃんと土着信仰の祭日とわざとかぶせて信仰の厳格化をはかったりしていたわけだが、その作戦を利用して、現地人はキリスト教の祭日に現地信仰に即したイベントを開いていたりしたわけである。典型的には肉を食べるとかね。このように、布教というのはどこでだって一筋縄でいかないし、だから現地に即した布教活動が重要で、その過程でローマとはちょっと違うキリスト教ができあがるわけであるが、それは別に普通のことである。日本でのキリスト教紹介が、デウス=大日から入ったとしても、それは別に特殊なことではない。例えば、『沈黙-サイレンス-』では英語が基本言語として使用されていて、時代的にも設定的にもどう考えておかしいけれど、英語圏に対するローカリゼーションだよねとすぐ納得できるわけで。これに対して「英語化しちゃうなんて、沼だなあ……」とか言います? 

 まあ、キリスト教というと、たぶん現代アメリカ合衆国における原理主義的なノリが紹介されやすいせいで非妥協的な連中という印象があるけれども、連中は妥協することも多いということは忘れてはいけない。また、ロドリゴイエズス会士だけれども、作中ではちゃんと「俺らって融通きかねえよなww」みたいな自虐ジョークを言ったりしてるあたり、ちゃんと妥協の問題ついてに自覚的な人間として描かれており、その辺のバランスはしっかり取れている作品だと思う。

 第三に、宗教的不寛容はなにも日本の専売特許ではない、ということは絶対に確認しておくべきであろう。ところで、今から展開したいのは、「日本も悪いけど、他国も悪いことやってるよね! お互い様じゃん! 宗教って、そういうものなんだよねきっと」的な、幼稚な相対主義論・自然主義論ではない。「日本の沼性」なるものは単に宗教的不寛容と呼べばいいものであって、変な呼び名を与えるべきではないという話をしたいだけである。

 17世紀の前後は、ヨーロッパでも酷い宗教的不寛容が横行していた。例を挙げるときりがないが、隠れキリシタンに非常に近いシチュエーションである、「カミザール戦争」をあげておこう。フランスにおけるプロテスタントの地位を保障したナント王令を反故にしたルイ14世に対して、南仏カミザール地方のカルヴァン派住民が反乱を興した。その反乱の経緯に至るまでの展開は、日本の隠れキリシタンに対する弾圧とほとんど同じようなものである。禁令の宗派を維持する上では、やはりちゃんとした教育を受けた牧師がいないという状況が一番きいてくるあたりとかは本当に似てるだろう。しかも最終的にはルイ14世の軍隊によって鎮圧・追放の憂き目を見ることになる。つまり、あのフランスでも日本と似たような事例があったわけだ。でもだからと言って「フランスは沼だなあ」って言いますか? 言わないでしょう? じゃあ「日本の沼性」じゃなくて「日本の宗教的不寛容政策」って言えばいいじゃないの。

 と、ここまで沼性の話をしてきたが、私がここまでキレるのにはちゃんと理由がある。というのも、私の理解では『沈黙-サイレンス-』は、「無くなったと思ったものがやっぱりあった系」映画だからである。この手の映画のメッセージは、やはり人間の持っている不屈の信念とか勇気を称える、といものなのだろう。だから、この映画を褒めるとしたら、やっぱり注目するべきは「迫害されたものたちの魂がいかに強いか」という点であって、「イジメる側はひでえな」ではないだろう。まあ、他人が映画をどう見ようが勝手ではあるのだが、でも、この映画は我が国の歴史的出来事を扱っているわけである。歴史の闇の中に消えていくしかなかった人々の魂に対して想いをはせるべき貴重な機会を与えてくれる映画なのに、この映画を見て「日本は沼」みたいな日本特殊論で悦に入るのは端的に「ニホンスゴイ」と同レベルのアホさだと思う。

 

無くなったと思ったものがやっぱりあった系映画として最高傑作の一つ

 さて、『沈黙-サイレンス-』は私の好きな系列の映画なのだが、私が好きだったポイントとしてはまず最後のシーンがあがってくる。信仰とモノ(偶像的なもの)はかなり相性が悪いというか、真の信仰にモノはいらないという議論があって、ある程度その通りだと私も思うのだが、だからこそ最後のシーンにはグッと来た。カメラのズームが強烈なことからも明らかなように、ロドリゴ神父の手に握られていた木彫りの像は本当にちっぽけなのだ。信仰心の力強さに対して、偶像はいかにも小さい、いやしい、頼りない。しかしだ。だからこそ、そんなちっぽけなモノにすら拠り所としての地位を与えてしまう信仰心のどうしようもなさ、不屈さ、というものが逆によく出ているラストだったと思う。また、日本のキリスト教徒とポルトガルイエズス会士が心を通わせることができるというメッセージも、キリスト教の持っている普遍性(無論、カッコつきではあるにせよ)の見せ方としてかなりいい着地点だったんじゃないかと思う。

 あと、ロドリゴ神父のキャラがめっちゃよかった。まず童貞だしな(そこか)。いや、実際かっこいい童貞が主人公の映画『沈黙-サイレンス-』は積極的に評価していきたい。なんというかいやらしいさが全くでないのにドヤ顔できるってすごくないですか? 例えば、信徒たちが踏み絵を拒否するのを見てるシーンとかに「よっしゃ!」みたいなしぐさをするのも、「ほらどうだ!」的な負荷が明らかにかかってるのにいやらしさゼロなので、かなり感心した。この映画の成功は本当にロドリゴ神父のいい人感に負ってる感がある。

 また、ロドリゴ神父のキャラの良さはそのポジションにもあるだろう。ロドリゴ神父は、信徒たちに対しては「妥協してもよいよ」という態度を取るのだが、対して自分は絶対に妥協するつもりがないというキャラ造形となっている。これ、精神の不屈さや信仰心を描く際のポイントとしてかなり善良感がある。「夢を裏切るな」系映画の登場人物は、抜け駆けや裏切りに対してかなり不寛容な態度をとりがちなのだが、ちゃんと状況に応じて対応を切り替えることができるロドリゴ神父のキャラはかなり大人であると言える。同時に、このダブルスタンダードな態度は「(他のやつは妥協するかもしれないけど)俺だけは違う」「(他のやつはしょうがないが)俺だけはミッションを背負ってる」的な、かなりめんどくさい非妥協的人物の特徴とも完全に一致しており、「一見いい人そうだけど心根はかなりやばい奴」感の演出として大正解だったんじゃないかなあと思う。

*1:必ずしもそういう映画ではないが、例えば、聖書を知らない人が『パッション』を見たり、あるいは二次大戦に興味ない人が『アンブロークン』を見た場合、「これただのスナッフフィルムじゃねえか!」という感想が出てきても不思議ではないよね

*2:あまり関係ないけどちょっとこの話もしておく。この映画はとりあえず虐待シーンが非常に多い。しかも虐待してるのは日本人で、虐待されているのはヨーロッパ人である。なので当然、『沈黙-サイレンス-』は「白人が日本人に虐待される映画」としても全然見れる映画である。『戦場のメリークリスマス』や『レールウェイ』など、第二次世界大戦ネタでこの手の映画は多いのだが、近年公開された『アンブロークン』でも議論が巻き起こったように、日本人の描き方がナイーブな反日論に結び付けられたりすることが多いジャンルではある。今回は「反日」がどうこうという話をほとんど聞かないのだが、その代わりに「日本は沼なので~~」という話をよく聞く。すぐ反日って言っちゃうのもかなりアホだけど、この映画を変に社会批判に結びつけるのもあまりにもアホだよなと思う。というか、この映画が公開されていた頃は上野千鶴子氏による移民議論がこれでもかというくらい叩かれていたが、アレは叩くのに「日本は沼」議論にはガッツリ乗っかるのか…と私はとても困惑した。

非常にうまく童貞っぽさを活用した映画「ラ・ラ・ランド」感想  

 


「ラ・ラ・ランド」本予告

フォーラム映画館で。なぜか1100円で見れた。1100円と言われてあまりにも驚愕してしまったのでしばらく料金表を凝視していたせいか、受付の人にいぶかしげな表情を作らせてしまった。正直すまんかった。

 

ラ・ラ・ランド」とは

ラ・ラ・ランド」は、カリフォルニアで夢を追いかける女優志望のミアと、同じくカリフォルニアでジャズピアニスト修行に励むセブ君が恋に落ちる……というミュージカル・ラブロマンスである。

 

ラ・ラ・ランド」、いろいろと賞をもらっているし監督がデミアン・チャゼルなのでかなり警戒して映画館に臨んだのだが、結論からいうとかなり軽い映画である。というか「セッション」に比べるとエンターテインメントとしてのクオリティが数段低く、1100円ならまあ許せるが、1800円ならブチ切れるクオリティの映画である。いや、お前のための映画じゃないから見に行くなよって話かもしれないが……

 

オープニングナンバーは悪くないが

とりあえずオープニングナンバーであるが、派手で、ナンバー単体としてみればまあ普通にわくわく感もあるのだが、位置づけとしては「ライオンキング」のサークルオブライフみたいなナンバーであり、単なるカリフォルニア的ノリの紹介にしかなっておらず、キャラ紹介の機能が皆無で、以降展開されていくラブロマンスとの接続があんまうまくいってないのでオープニングナンバーとしてちょっと弱いなと思った。ようは「これがサバンナだ!!」ならぬ「これがロスアンゼルスだ!!」というナンバーなんだが、曲とダンスがミアとセブ君の出会いに対してほとんど貢献していないのでうーん……となる。サークルオブライフには舞台紹介に加えて「皇太子殿下ご誕生!!」というシナリオ上の機能があるわけだけど、  "Another Day of Sun"にはそういうのがないわけですよ。いや、あの派手なナンバーの直後に二人は平凡に出会うのだ! というのもそれとして味がある気はするが、そういう「人生ってのは平凡なのさ」的演出はこの映画には明らかに合っていないわけで。まーナンバー自体は良かったけど作品とはかみ合っていない、という印象を受けた。

 

あとナンバーの機能とは別に気になったのが、ナンバーへの入り方である。例えば「シカゴ」では、ナンバーに入る前に必ずロキシーの瞳を映すなどして、映画とミュージカルの折り合いをどうにかつけようと工夫していたと思うのだが、「ラ・ラ・ランド」にはそういった文法的な法則性が無く、私はちょっとそれが嫌だった。

 

ちなみに私がオープニングナンバーを見て「ああ~~やっぱりだめか~~~」となったのは、「ロスアンゼルスの渋滞に巻き込まれている運転手たち」という映画のスタート地点が「フォーリング・ダウン」と全く同じだったからである。「フォーリング・ダウン」は「名誉俺たちの映画(とは?)」で、渋滞に巻き込まれている中年男がブチ切れるところから映画が始まる。「フォーリング・ダウン」的文脈がある人にとっては、渋滞に対してブチ切れず、逆に陽気に踊りだしてしまうロスアンゼルス市民という絵面そのものが結構きつかったんではないかと思う。

 

シナリオは起伏なし

シナリオは正直言って軽い。とにかくタメが浅いのでエピソード一つ一つが軽い。カタルシスがまったくない。とりあえず盛り上がる見せ場であるはずの、①ミアがイマ彼を捨ててセブ君のところに走っていくところと、②最後の「こんな可能性もあったかも」ナンバーの二か所は全く盛り上がらなかったので、脚本としては失敗である。「セッション」と話のピークは似てるんだが、いかんせん説明がなさすぎる。①についていうと、ミアのイマ彼紹介は皆無だし、②についていえば、二人が別れた経緯もわからんし。というか、レストランでの出会いと重なるのは言わなくても分かるので、この演出は正直くどい。if世界もif世界で、いきなりキスされるってどう考えてもおかしいだろ……。そもそもたったの5年で、子供がいてミアのキャリアもだいぶ固まってるってちょいペース早くね??とか、ミアがセブの店の存在を知らないとかいうあまりに童貞すぎる設定やめろや……とかがあるため、最後のナンバーは盛り上がる要素が全くないばかりでなくストーリー上の納得感もかなり薄い。

 

セブ君があまり魅力的ではない

さて本題。ミアとセブ君のラブロマンスであるが……これってキモくない? という感想を私は抱いた。むろんセブ役のライアン・ゴズリングはセクシーなイケメンなんだけど、セブ君のキャラ造形はだいぶキモいだろう。いや、私は別にキモい男子は嫌いじゃないしむしろ好きなのだが、こういうキモ男子映画を褒めるのは社会的な水準としてどーなのと思ってしまうのである。というか、私はこの7年間くらいでこういうキモさを受け入れてはいけないという圧力を受けて(どこから?)暮らしていたので、そろいもそろってこのキモさを絶賛しやがって死ね!!! という感じなんすよ、わりとマジで。しかも舞台はカリフォルニアであるからにして、もーこれは許せんぞ!

 

キモポイントその1はセブ君がキースのバンドに参加する経緯である。これはどういう経緯かというと、ミアが母親に「新しい彼氏は定職についてないけど、まあたぶん大丈夫っしょ」と電話しているのをセブ君が聞いてしまう、というもの。それで危機感を抱いたセブ君は、音楽的方向性がだいぶ違うキースのバンドへと経済的安定を得るために参加する。で、後日セブ君はミアから「やりたくないならキースのバンドやめたら? 自分の夢を追いかけなよ!」とアドバイスを受けるのだが、それに対してセブ君は「君が経済的に安定してる彼氏がいいっぽかったからあんな俗物バンドに入ったんだろ!!」と逆切れするという展開なのだが……これ激しくキモイですよね? 何よりも、経済的なことで彼女に相談できずに勝手にいろいろ決めちゃって、後になってから自分の意思決定の責任を女性側になすりつけてブチ切れる男子って、もうなんつーか昭和? 明治? みたいなゴリゴリ父権的男子って感じで相当にキモイのでは。例えば『こころ』を読んだ私は、奥さんに何も相談しない先生にめっちゃ違和感覚えるわけですが、完全にあれですよ。いやいやセブ君、ミアさんに金とかキャリアのことを相談すれば?!って思いません? まあ、カリフォルニアの風来坊系ジャズピアニストが父権的男子をやってもキモくないってことなんですかねえ。

 

キモポイントその2。最後のナンバーのぶん投げっぷりはひどいしキモイ。まず何よりも、ミアがセブの店を知らないというのはどう考えてもおかしいだろう。さっきも書いたけど、あまりにも童貞的すぎる設定でキモイし、同時に、こういうのはリアル童貞に対する搾取でもあるので即刻やめるべきだと思う。とりあえず、ミアとセブ君くらいの関係に至った恋人同士であれば、別れた後でも普通に連絡くらいは取るだろう*1。あるいはだな、ちょっとずるいツッコミになっちゃうけどさ、二人はフェイスブックで絶対つながってるはずで、店情報はミアに入るに決まってるじゃん。話の流れ的にも、もしセブ君が夢をかなえて店を開いたら、どう考えてもミアに対してハガキの一枚くらいは送るだろうよ。あんとき背中を押してくれてありがとう、ってコメントつけてさ。あるいは「ジャズに詳しいセレブ」であるミアの方から、街で話題のジャズバーをチェックしにいくかもしれんし。つまり私が何を言いたいか。最後のナンバーがロマンチックなのは、「別れた二人がその後連絡を一切とらなかった」という、感傷的でなんか童貞っぽい前提、これが密輸されているからです。でもさ、ミアとセブ君はそういうカップルじゃねえだろ!!!ということです。いや、二人の破局についてもし一定の説明があれば私も納得するかもしれんが(その破局を通じて二人がハードコア童貞になったというならまあ少なくとも論理的ではあるよね?)、この映画はその説明を放棄してるわけで、擁護不能である。はっきり言おう。全編お花畑ラブロマンスをやっといて、パーティとかに平気で出れちゃうようなリア充カルチャー全開で話を進めておいて、最後だけ都合よく童貞っぽい生き様を活用するのはやめろ! 童貞は365日、シリアスに童貞業をやっているのだ! その生き様はラブロマンスに刺激を与えてくれる特性スパイスみたいなものとして活用されてしまっているけれども、スパイスじゃないんだよ! 童貞は大盛りカレーライスなんだよ! 完全食なんだよ! と言いたい。

これだからカリフォルニア人は……

あと最後、あんま関係ないけど、この映画の「俺たちカリフォルニアのウザさを相対化できてっからwww」みたいなノリは我慢できなかった。まー、プリウスは醜悪な車であり映画という芸術作品に登場させてはいけないんだなとはっきり認識できたし、グルテンフリーダイエットとか言って返金を迫る人々に対抗するためにも積極的に米を食っていこうという誓いも新たにすることができた。こういった学びや気づきを得られたことについては感謝したい。

 

*1:もちろんDVとか性暴力があったとかならアレではあるが、まあ映画の筋的にそういうハードコアな設定はおそらくないはずであり……

森には全てがある。あった。「ブロークバック・マウンテン」感想(ネタバレあり)

 

 

アン・リー監督の「ブロークバックマウンテン」を見た。うおおお! めっちゃ良かったじゃないですか! 

まずこれ、同性愛をテーマにしている作品ではあるんだけど、恐ろしく保守的な映画でもあるよなと思った。というより、保守性と同性愛という、あんまり仲のよろしくない要素が素晴らしく噛み合っていた映画だと思う。もちろん「ホモフォビアは全員ホモ」みたいな煽り力の高い描き方にはなっていないし、単純に不寛容な社会を告発するという内容でもない。むしろ、アメリカの保守的な自然観と、人生や恋愛の不条理さを優しく結びつけているような映画なのだと思う。

つまりこの映画の同性愛カップルはもちろん社会やキリスト教には背いているわけだけど(だから街では全然うまくやれないんだが)、でもそんな二人にとって最初で最後で唯一の心の拠り所は「ブロークバックマウンテン」、つまりはもっとも伝統的でオーセンティックな「アメリカ性」だったのである……*1。という話はもちろん皮肉的ではあるんだけど、でもそれって同時にかなり保守派に寄り添った、保守派でも納得しやすいような同性愛映画になってもいるということでもある。つまり、保守派が一番大事にしている価値を、同性愛カップルの二人も心から大事にしていたんだ、心の拠り所にしていたんだ、その水準においてお互い全然違いはないじゃないか、というメッセージになっている。

こういうのは私のようなボンクラには絶対にできないタイプのバランス感覚であり、同時に、私が目標としたい姿勢でもある。素直に拍手。これは多分監督がアメリカ人じゃない(監督はアン・リーである)から、アメリカ人の宗教的・文化的な感覚を相対化するのが比較的容易で、作品に活かしやすいというのがあるんだろうなー、とかなんとか思ったり。

 一応個人的に泣けたところをあげておく。まずやっぱり四年後の再会シーン。ここで抱き合うシーンは本当に泣いてしまった。例えほんの一瞬であっても、再会したり和解したりできるのっていいよなあ……。まあここ以降は感傷的になってしまったのであまり参考にならないのだが、二人の間で経済的な格差が広がってしまってだんだんうまくいかなくなったあたりで結構キツかったな。この映画は「森(ブロークバックマウンテン)=神聖」「街=堕落」という保守派文法を決して破らない優等生映画なので、二人が街でどんどん疲弊していく姿と、森で恋人と再会して癒やされる姿をキッチリと分けて描くのだが、これも現代に見せられるとすごくグッとくる。やはり金が無いと暮らせない都市はクソだなとなる(反知性主義ソロー並の感想)。で、二人の経済格差が最高潮に達したあたりの会話と、その後の和解シーンとかもこう……ね、すばらしい。主演二人の演技力もあるんだろうけど、同時に森の力でもあるんですよこれは*2。まあ、経済格差で人間関係が希薄になるというのはリアル社会でもありそうだが、森の力で克服できたらいいなと思ったよね(???)。

まーあとはこの映画を見て思ったけど、完全な関係性に対する憧れって、信仰と極めて親和性高いよねという。この映画で言っても、「ブロークバックマウンテン」は①完全な関係性と②アメリカのキリスト教的な意味での神性という二つの要素を持っていて、パラレル関係にあるし。まあもちろん「完全な関係性」は一歩でも踏み外すとヤバイ領域に一直線なんだけど、でもこの危ない橋を降りられない……というか、あえて降りないのが人間なんだろうなあと思うと、またしても泣けてくるよなあ。

*1:「森=アメリカの保守派」というのは私の議論ではない。ネタ本はこれ↓ ちなみに、私はトランプ以前にこの本を読んでいたので、私が持ってるバージョンにはこういったヘンな帯がついていません!!!! ちなみにヘンなのはトランプ氏の肖像ではなく、トランプ現象(苦笑)で儲けようとする出版社の姿勢の方です。 

さて、森本はこの本の第4章をまるまる使って「森は保守派コンテンツだよ」という話をしている。ようは、アメリカにおけるキリスト教にはちょっと神秘主義的傾向があって、北米大陸の自然の美しさに神性が見出されたという議論がされている。これが都市に住んでいるインテリは堕落しているよ理論と組み合わさって、アメリカにおける反知性主義を準備したという話らしい。

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

 

*2:保守派並の感想。とはいえ、こういうふうに逆方向で同性愛を悪用し始めたらいわゆる「ピンクウォッシュ」とか言われるんだろうけど

十分楽しんでから大人になる人たち「トレインスポッティング」「ザ・ビーチ」感想

 

 

 

ザ・ビーチ (字幕版)

ザ・ビーチ (字幕版)

 

 

ザ・ビーチに比べるとトレインスポッティングはまだ見れた。けどまあ、正直こういうの持ち上げてる奴とは仲良くなれんだろうなーっていう。すまん。まーなんか、朝井リョウとかを楽しめる人たち向けの監督だなこりゃ。出来不出来というよりも、好き嫌いとか相性の問題。正直、この監督の「青春」とか「若さ」に対する理解は私のそれと全く異なっているので、演出の一つ一つがギャグにしか見えなかったよ。

まあなんだ、この監督のテーマは基本、「大人になる」だと思うんだけど、うーん、俺には全くわかりませんな。つまりここでは、セックスとかドラッグを目一杯楽しんだあとに「退屈な」日常を受け入れること、それが大人になるということらしいんだけれども。でもまーさー、これって完全にリア充的な「大人になる観」なわけですよ。私の理解ではですね、なーんも面白いことがないから、なーんか面白いことねーかなーと思ってる人が、自分の可能性を閉じる……っていうのが「大人になる」ってことですよ。普通の非リアが経験するのは、多分こっちの「大人になる観」でしょう。これら、似てるようで全然違いますからね。つまりどちらの「大人になる」観も、人生には何もないってことを受け入れるという点においては同じなんだけど、「あんなに素晴らしかった何かが本当に消えてしまう」というリアルな恐怖体験に重点を置くか「何もなかったし、色々妄想しまくったけど、そうか、これからだって何もないのかー」という悲しい気付きに力点を置くかの違いはかなりでかい。そして、前者の恐怖をリアルな、自分のこととして受け入れられるのはリア充だけっしょ、という話。持ってないものを失う恐怖とか、まー普通にわかりかねますわ。

ちなみにこの筋でいうと、「今までの人生、一見何もなかったかに見える。でも確かに何かがあったよね」という肯定の物語に強引にでも着地するという意味で、負け犬映画は「ガキ向け」のコンテンツに分類されるんだろうね。例えば「トレインスポッティング」好きな奴に「クレイジーサンダーロード」を見せたら「違う!! ぜんぜん違う!!」ってなるわけですよ。うーん。最初にも書いたけど、これはどこまでいっても相性の問題だよな……。