こんなにもちっぽけなもの『沈黙-サイレンス-』感想(ネタバレあり)
角川シネマ有楽町で見た。『君の名は』がまだ各所で上映されているので、かの作品より公開が遅い『沈黙』はまあ当分やってるだろ……とたかをくくっていたのだが、これが全くの見当違い。探してみたが、どこも上映を打ち切っている! というわけでまだやってた角川シネマ有楽町に行って見た。次回以降一回1300円で見れるカードを作った。
作品としてのクオリティは非常に高い。とりあえず私にはめっちゃ刺さりました。なんか特殊な刺さり方というか。作品の上映が終わったあとに、「あれ、俺刺されてる……じゃん」と気がついて死ぬ、というパターンの刺さり方だった。しみじみすぎた。というかまたオンオンと嗚咽を漏らしてしまったのだが、最近泣き癖がついているのだろうか……。まあ映画館で見れてよかったなという気はする(謎のオチ)。
あらすじ
ポルトガルのイエズス会士であるフェレイラ神父が、日本での布教中に消息を断つ。どうやら日本でのキリシタン弾圧に巻き込まれた結果、フェレイラ神父は棄教したらしい、といった内容の噂が本国に届く。フェレイラ神父の弟子であるロドリゴ神父とガルペは、師匠のフェレイラを探し出すべく、17世紀中葉のキリスト教徒弾圧が本格化している日本に向かうのだった。
お堅いストーリーがちゃんとある「虐待映画」
シナリオはオーソドックスな「人探しもの」で、単なる暴力シーン連発の映画に堕しておらず、ちゃんと物語が構築されている。まずこの点をちゃんと評価しないといけないと思う。単なる虐待シーンの連続映画だと見るのが相当きついが*1、人を探すという基本クエストがあれば、話がずれても帰ってくる先がちゃんとあるので作劇がグッと安定する。衝撃的な虐待シーンは、言うまでもなく人の心を引き込んでしまうので、結果として虐待以外の要素が容易に見過ごされてしまったりするわけだが、お堅いシナリオをちゃんと用意しておいて、観客の視点を定期的に物語へと引き戻す仕組みを作っているのはまあ流石だよなと思った。
日本って沼なの? いいえ、沼じゃありません
とりあえず最初に、日本は沼ではないということをはっきりさせておきたい。この映画を見る限り、「日本は沼」という議論はある政府側登場人物の見解にすぎず、作品のメッセージではない。この映画を見て「日本は沼だからキリスト教は根付かない」とか言ってる人は端的に論理的な理解力が足りないので、もう一回映画を見た方がいいと思う。なんか、『沈黙-サイレンス-』を見て「日本は沼だなあ」ってなるのは、『サイタマノラッパー』を見て「埼玉はクソだなあ」ってなるくらいピントがズレてると思う。『サイタマノラッパー』をみて真面目に「埼玉はクソっていう映画でさあ」と言ってる奴がいたら、なんか言いたくなるでしょ。そういう感じなんである。こういった理解が流布しているのを見ると、ちょっとでも日本に対して批判的な映画に対して「反日」のレッテル貼りをりようとするアレな人々のナイーブさに近いものを感じ取ってしまう*2。
さて、「日本は沼」議論にそのまま乗っかるのは、これから示す二つの水準で間違っている。
①変えようのない事実:日本にはキリスト教徒がいる
まず、日本にはキリスト教徒がいる。かつて日本にあった(あるいは今ある)政府の弾圧政策に関する問題と、キリスト教徒が日本いるかどうかは、密接に関係してはいるけれども、しかし別の問題でもある。いくら弾圧しようとも、奪えないものは確かにあるからだ。例えば、信仰心などはその代表例だろう。『沈黙-サイレンス-』はまさにそういうことを言ってる映画なんじゃないだろうか? 非道な虐待を受けている日本人のキリスト教徒がこの映画にはたくさん登場するわけだけど、彼ら彼女らの存在がすでに「日本にキリスト教は根付かない」というアホな理解に対する反証になってるんじゃないの? 虐待シーンで、「役人は酷いな~」という感想を抱くのは当然としても、同時に、日本のキリスト教徒の持っている勇気や信仰心に驚かされるんではないのか?
しかもこの映画の最後のシーンで、しっかりと書いてあるわけじゃないですか。「『沈黙-サイレンス-』は、日本のキリスト教徒に捧げられた映画である」って。私はここを見て涙が止まらなかったのですけども、これは当然、現在だけでなく過去におけるキリスト教徒にも捧げられてるわけでしょ。結局のところ当局はキリスト教を完全には殲滅できなかったわけで、隠れキリシタンたちのおかげで日本におけるキリスト教の伝統は途切れずに存在し続けてるわけであるし。「日本は沼」議論に乗っかるということは、映画の理解として間違っているだけでなく、日本におけるキリスト教徒たちをあまりにもバカにした態度だろう。もちろん、弾圧のせいで日本におけるキリスト教は歪んでしまっただろうし、鎖国時代の前後で日本におけるキリスト教には質量ともに大きな断絶があるのは事実だろう。しかし、これらだって「日本は沼」議論を全然補強しないのである。この話は次にする。
②日本の事情は全く特殊ではない
「日本は沼」議論は、あえて命名すれば日本特殊論の一つである。もちろん、こういった議論に飛びつく人が多いのには理由がある。作中でも触れられていたが、日本人信徒たちのキリスト教的実践、知識はかなり怪しいからだ。例えばキリスト教的な天国概念に対する理解とか、受けているサクラメントの質とか。こういった事態は布教システムと教会組織があまりにもガタガタな宗教コミュニティにおいて当然生じる現象なのだが、じゃあこのどうしようもない現実から「日本は沼だなあ」に飛びつくべきだろうか? 当然答えはNOである。
まず第一に、キリスト教には土地土地のバリエーションがある。ポルトガルのキリスト教、オランダのキリスト教、グルジアのキリスト教、エジプトのキリスト教、そして日本のキリスト教、それぞれバラバラである。また、国内的にもまた多様性がある。そして、ポルトガルのキリスト教と異なるからといって、他国のキリスト教がキリスト教でなくなるわけでは全然ない。つまり、日本におけるキリスト教理解がポルトガル人の目から見て歪んでいるとしても、それは即座に「日本は沼」的な、日本特殊論を補強する材料になるわけではない。例えば、イエズス会士であるロドリゴ神父は、日本ではなく当時のオランダ(スペイン帝国を介してポルトガルとは絶賛戦争中だったけど)に行ったとしても、現地でのキリスト教理解に対しては眉をひそめたであろう。でも、だからと言って「オランダは沼だなあ」とか言う人なんてほとんどいないでしょ。土地によってキリスト教が変わるのはある程度必然で、日本に日本風キリスト教が存在するとしてもそれは全然普通のことである。普通の現象に対してわざわざ沼とか言い出す必要はない。
第二に、キリスト教布教は多分に妥協的な性質を持っているという点を忘れてはならないだろう。つまり、布教時に現地の文化を取り入れつつキリスト教を広めることは、教会にとっては普通のドクトリンであって、日本に対してもそれが行われたにすぎない。日本が沼なら、ブリテン島やドイツだってもう相当な沼ということになる。例えばカトリック教会がゲルマン人の森信仰を打ち倒すのにかなり苦労したという話は有名であるし、実際クリスマスツリーという形としてちゃんと森信仰の名残は残っているわけで。でも、そういった異教的なコンテンツを内包してケロンとしているのがキリスト教だというのを忘れてはいけない。というか、初期教会はキリスト教の祭日設定とかでも、ちゃんと土着信仰の祭日とわざとかぶせて信仰の厳格化をはかったりしていたわけだが、その作戦を利用して、現地人はキリスト教の祭日に現地信仰に即したイベントを開いていたりしたわけである。典型的には肉を食べるとかね。このように、布教というのはどこでだって一筋縄でいかないし、だから現地に即した布教活動が重要で、その過程でローマとはちょっと違うキリスト教ができあがるわけであるが、それは別に普通のことである。日本でのキリスト教紹介が、デウス=大日から入ったとしても、それは別に特殊なことではない。例えば、『沈黙-サイレンス-』では英語が基本言語として使用されていて、時代的にも設定的にもどう考えておかしいけれど、英語圏に対するローカリゼーションだよねとすぐ納得できるわけで。これに対して「英語化しちゃうなんて、沼だなあ……」とか言います?
まあ、キリスト教というと、たぶん現代アメリカ合衆国における原理主義的なノリが紹介されやすいせいで非妥協的な連中という印象があるけれども、連中は妥協することも多いということは忘れてはいけない。また、ロドリゴはイエズス会士だけれども、作中ではちゃんと「俺らって融通きかねえよなww」みたいな自虐ジョークを言ったりしてるあたり、ちゃんと妥協の問題ついてに自覚的な人間として描かれており、その辺のバランスはしっかり取れている作品だと思う。
第三に、宗教的不寛容はなにも日本の専売特許ではない、ということは絶対に確認しておくべきであろう。ところで、今から展開したいのは、「日本も悪いけど、他国も悪いことやってるよね! お互い様じゃん! 宗教って、そういうものなんだよねきっと」的な、幼稚な相対主義論・自然主義論ではない。「日本の沼性」なるものは単に宗教的不寛容と呼べばいいものであって、変な呼び名を与えるべきではないという話をしたいだけである。
17世紀の前後は、ヨーロッパでも酷い宗教的不寛容が横行していた。例を挙げるときりがないが、隠れキリシタンに非常に近いシチュエーションである、「カミザール戦争」をあげておこう。フランスにおけるプロテスタントの地位を保障したナント王令を反故にしたルイ14世に対して、南仏カミザール地方のカルヴァン派住民が反乱を興した。その反乱の経緯に至るまでの展開は、日本の隠れキリシタンに対する弾圧とほとんど同じようなものである。禁令の宗派を維持する上では、やはりちゃんとした教育を受けた牧師がいないという状況が一番きいてくるあたりとかは本当に似てるだろう。しかも最終的にはルイ14世の軍隊によって鎮圧・追放の憂き目を見ることになる。つまり、あのフランスでも日本と似たような事例があったわけだ。でもだからと言って「フランスは沼だなあ」って言いますか? 言わないでしょう? じゃあ「日本の沼性」じゃなくて「日本の宗教的不寛容政策」って言えばいいじゃないの。
と、ここまで沼性の話をしてきたが、私がここまでキレるのにはちゃんと理由がある。というのも、私の理解では『沈黙-サイレンス-』は、「無くなったと思ったものがやっぱりあった系」映画だからである。この手の映画のメッセージは、やはり人間の持っている不屈の信念とか勇気を称える、といものなのだろう。だから、この映画を褒めるとしたら、やっぱり注目するべきは「迫害されたものたちの魂がいかに強いか」という点であって、「イジメる側はひでえな」ではないだろう。まあ、他人が映画をどう見ようが勝手ではあるのだが、でも、この映画は我が国の歴史的出来事を扱っているわけである。歴史の闇の中に消えていくしかなかった人々の魂に対して想いをはせるべき貴重な機会を与えてくれる映画なのに、この映画を見て「日本は沼」みたいな日本特殊論で悦に入るのは端的に「ニホンスゴイ」と同レベルのアホさだと思う。
無くなったと思ったものがやっぱりあった系映画として最高傑作の一つ
さて、『沈黙-サイレンス-』は私の好きな系列の映画なのだが、私が好きだったポイントとしてはまず最後のシーンがあがってくる。信仰とモノ(偶像的なもの)はかなり相性が悪いというか、真の信仰にモノはいらないという議論があって、ある程度その通りだと私も思うのだが、だからこそ最後のシーンにはグッと来た。カメラのズームが強烈なことからも明らかなように、ロドリゴ神父の手に握られていた木彫りの像は本当にちっぽけなのだ。信仰心の力強さに対して、偶像はいかにも小さい、いやしい、頼りない。しかしだ。だからこそ、そんなちっぽけなモノにすら拠り所としての地位を与えてしまう信仰心のどうしようもなさ、不屈さ、というものが逆によく出ているラストだったと思う。また、日本のキリスト教徒とポルトガルのイエズス会士が心を通わせることができるというメッセージも、キリスト教の持っている普遍性(無論、カッコつきではあるにせよ)の見せ方としてかなりいい着地点だったんじゃないかと思う。
あと、ロドリゴ神父のキャラがめっちゃよかった。まず童貞だしな(そこか)。いや、実際かっこいい童貞が主人公の映画『沈黙-サイレンス-』は積極的に評価していきたい。なんというかいやらしいさが全くでないのにドヤ顔できるってすごくないですか? 例えば、信徒たちが踏み絵を拒否するのを見てるシーンとかに「よっしゃ!」みたいなしぐさをするのも、「ほらどうだ!」的な負荷が明らかにかかってるのにいやらしさゼロなので、かなり感心した。この映画の成功は本当にロドリゴ神父のいい人感に負ってる感がある。
また、ロドリゴ神父のキャラの良さはそのポジションにもあるだろう。ロドリゴ神父は、信徒たちに対しては「妥協してもよいよ」という態度を取るのだが、対して自分は絶対に妥協するつもりがないというキャラ造形となっている。これ、精神の不屈さや信仰心を描く際のポイントとしてかなり善良感がある。「夢を裏切るな」系映画の登場人物は、抜け駆けや裏切りに対してかなり不寛容な態度をとりがちなのだが、ちゃんと状況に応じて対応を切り替えることができるロドリゴ神父のキャラはかなり大人であると言える。同時に、このダブルスタンダードな態度は「(他のやつは妥協するかもしれないけど)俺だけは違う」「(他のやつはしょうがないが)俺だけはミッションを背負ってる」的な、かなりめんどくさい非妥協的人物の特徴とも完全に一致しており、「一見いい人そうだけど心根はかなりやばい奴」感の演出として大正解だったんじゃないかなあと思う。
*1:必ずしもそういう映画ではないが、例えば、聖書を知らない人が『パッション』を見たり、あるいは二次大戦に興味ない人が『アンブロークン』を見た場合、「これただのスナッフフィルムじゃねえか!」という感想が出てきても不思議ではないよね
*2:あまり関係ないけどちょっとこの話もしておく。この映画はとりあえず虐待シーンが非常に多い。しかも虐待してるのは日本人で、虐待されているのはヨーロッパ人である。なので当然、『沈黙-サイレンス-』は「白人が日本人に虐待される映画」としても全然見れる映画である。『戦場のメリークリスマス』や『レールウェイ』など、第二次世界大戦ネタでこの手の映画は多いのだが、近年公開された『アンブロークン』でも議論が巻き起こったように、日本人の描き方がナイーブな反日論に結び付けられたりすることが多いジャンルではある。今回は「反日」がどうこうという話をほとんど聞かないのだが、その代わりに「日本は沼なので~~」という話をよく聞く。すぐ反日って言っちゃうのもかなりアホだけど、この映画を変に社会批判に結びつけるのもあまりにもアホだよなと思う。というか、この映画が公開されていた頃は上野千鶴子氏による移民議論がこれでもかというくらい叩かれていたが、アレは叩くのに「日本は沼」議論にはガッツリ乗っかるのか…と私はとても困惑した。
非常にうまく童貞っぽさを活用した映画「ラ・ラ・ランド」感想
フォーラム映画館で。なぜか1100円で見れた。1100円と言われてあまりにも驚愕してしまったのでしばらく料金表を凝視していたせいか、受付の人にいぶかしげな表情を作らせてしまった。正直すまんかった。
「ラ・ラ・ランド」とは
「ラ・ラ・ランド」は、カリフォルニアで夢を追いかける女優志望のミアと、同じくカリフォルニアでジャズピアニスト修行に励むセブ君が恋に落ちる……というミュージカル・ラブロマンスである。
「ラ・ラ・ランド」、いろいろと賞をもらっているし監督がデミアン・チャゼルなのでかなり警戒して映画館に臨んだのだが、結論からいうとかなり軽い映画である。というか「セッション」に比べるとエンターテインメントとしてのクオリティが数段低く、1100円ならまあ許せるが、1800円ならブチ切れるクオリティの映画である。いや、お前のための映画じゃないから見に行くなよって話かもしれないが……
オープニングナンバーは悪くないが
とりあえずオープニングナンバーであるが、派手で、ナンバー単体としてみればまあ普通にわくわく感もあるのだが、位置づけとしては「ライオンキング」のサークルオブライフみたいなナンバーであり、単なるカリフォルニア的ノリの紹介にしかなっておらず、キャラ紹介の機能が皆無で、以降展開されていくラブロマンスとの接続があんまうまくいってないのでオープニングナンバーとしてちょっと弱いなと思った。ようは「これがサバンナだ!!」ならぬ「これがロスアンゼルスだ!!」というナンバーなんだが、曲とダンスがミアとセブ君の出会いに対してほとんど貢献していないのでうーん……となる。サークルオブライフには舞台紹介に加えて「皇太子殿下ご誕生!!」というシナリオ上の機能があるわけだけど、 "Another Day of Sun"にはそういうのがないわけですよ。いや、あの派手なナンバーの直後に二人は平凡に出会うのだ! というのもそれとして味がある気はするが、そういう「人生ってのは平凡なのさ」的演出はこの映画には明らかに合っていないわけで。まーナンバー自体は良かったけど作品とはかみ合っていない、という印象を受けた。
あとナンバーの機能とは別に気になったのが、ナンバーへの入り方である。例えば「シカゴ」では、ナンバーに入る前に必ずロキシーの瞳を映すなどして、映画とミュージカルの折り合いをどうにかつけようと工夫していたと思うのだが、「ラ・ラ・ランド」にはそういった文法的な法則性が無く、私はちょっとそれが嫌だった。
ちなみに私がオープニングナンバーを見て「ああ~~やっぱりだめか~~~」となったのは、「ロスアンゼルスの渋滞に巻き込まれている運転手たち」という映画のスタート地点が「フォーリング・ダウン」と全く同じだったからである。「フォーリング・ダウン」は「名誉俺たちの映画(とは?)」で、渋滞に巻き込まれている中年男がブチ切れるところから映画が始まる。「フォーリング・ダウン」的文脈がある人にとっては、渋滞に対してブチ切れず、逆に陽気に踊りだしてしまうロスアンゼルス市民という絵面そのものが結構きつかったんではないかと思う。
シナリオは起伏なし
シナリオは正直言って軽い。とにかくタメが浅いのでエピソード一つ一つが軽い。カタルシスがまったくない。とりあえず盛り上がる見せ場であるはずの、①ミアがイマ彼を捨ててセブ君のところに走っていくところと、②最後の「こんな可能性もあったかも」ナンバーの二か所は全く盛り上がらなかったので、脚本としては失敗である。「セッション」と話のピークは似てるんだが、いかんせん説明がなさすぎる。①についていうと、ミアのイマ彼紹介は皆無だし、②についていえば、二人が別れた経緯もわからんし。というか、レストランでの出会いと重なるのは言わなくても分かるので、この演出は正直くどい。if世界もif世界で、いきなりキスされるってどう考えてもおかしいだろ……。そもそもたったの5年で、子供がいてミアのキャリアもだいぶ固まってるってちょいペース早くね??とか、ミアがセブの店の存在を知らないとかいうあまりに童貞すぎる設定やめろや……とかがあるため、最後のナンバーは盛り上がる要素が全くないばかりでなくストーリー上の納得感もかなり薄い。
セブ君があまり魅力的ではない
さて本題。ミアとセブ君のラブロマンスであるが……これってキモくない? という感想を私は抱いた。むろんセブ役のライアン・ゴズリングはセクシーなイケメンなんだけど、セブ君のキャラ造形はだいぶキモいだろう。いや、私は別にキモい男子は嫌いじゃないしむしろ好きなのだが、こういうキモ男子映画を褒めるのは社会的な水準としてどーなのと思ってしまうのである。というか、私はこの7年間くらいでこういうキモさを受け入れてはいけないという圧力を受けて(どこから?)暮らしていたので、そろいもそろってこのキモさを絶賛しやがって死ね!!! という感じなんすよ、わりとマジで。しかも舞台はカリフォルニアであるからにして、もーこれは許せんぞ!
キモポイントその1はセブ君がキースのバンドに参加する経緯である。これはどういう経緯かというと、ミアが母親に「新しい彼氏は定職についてないけど、まあたぶん大丈夫っしょ」と電話しているのをセブ君が聞いてしまう、というもの。それで危機感を抱いたセブ君は、音楽的方向性がだいぶ違うキースのバンドへと経済的安定を得るために参加する。で、後日セブ君はミアから「やりたくないならキースのバンドやめたら? 自分の夢を追いかけなよ!」とアドバイスを受けるのだが、それに対してセブ君は「君が経済的に安定してる彼氏がいいっぽかったからあんな俗物バンドに入ったんだろ!!」と逆切れするという展開なのだが……これ激しくキモイですよね? 何よりも、経済的なことで彼女に相談できずに勝手にいろいろ決めちゃって、後になってから自分の意思決定の責任を女性側になすりつけてブチ切れる男子って、もうなんつーか昭和? 明治? みたいなゴリゴリ父権的男子って感じで相当にキモイのでは。例えば『こころ』を読んだ私は、奥さんに何も相談しない先生にめっちゃ違和感覚えるわけですが、完全にあれですよ。いやいやセブ君、ミアさんに金とかキャリアのことを相談すれば?!って思いません? まあ、カリフォルニアの風来坊系ジャズピアニストが父権的男子をやってもキモくないってことなんですかねえ。
キモポイントその2。最後のナンバーのぶん投げっぷりはひどいしキモイ。まず何よりも、ミアがセブの店を知らないというのはどう考えてもおかしいだろう。さっきも書いたけど、あまりにも童貞的すぎる設定でキモイし、同時に、こういうのはリアル童貞に対する搾取でもあるので即刻やめるべきだと思う。とりあえず、ミアとセブ君くらいの関係に至った恋人同士であれば、別れた後でも普通に連絡くらいは取るだろう*1。あるいはだな、ちょっとずるいツッコミになっちゃうけどさ、二人はフェイスブックで絶対つながってるはずで、店情報はミアに入るに決まってるじゃん。話の流れ的にも、もしセブ君が夢をかなえて店を開いたら、どう考えてもミアに対してハガキの一枚くらいは送るだろうよ。あんとき背中を押してくれてありがとう、ってコメントつけてさ。あるいは「ジャズに詳しいセレブ」であるミアの方から、街で話題のジャズバーをチェックしにいくかもしれんし。つまり私が何を言いたいか。最後のナンバーがロマンチックなのは、「別れた二人がその後連絡を一切とらなかった」という、感傷的でなんか童貞っぽい前提、これが密輸されているからです。でもさ、ミアとセブ君はそういうカップルじゃねえだろ!!!ということです。いや、二人の破局についてもし一定の説明があれば私も納得するかもしれんが(その破局を通じて二人がハードコア童貞になったというならまあ少なくとも論理的ではあるよね?)、この映画はその説明を放棄してるわけで、擁護不能である。はっきり言おう。全編お花畑ラブロマンスをやっといて、パーティとかに平気で出れちゃうようなリア充カルチャー全開で話を進めておいて、最後だけ都合よく童貞っぽい生き様を活用するのはやめろ! 童貞は365日、シリアスに童貞業をやっているのだ! その生き様はラブロマンスに刺激を与えてくれる特性スパイスみたいなものとして活用されてしまっているけれども、スパイスじゃないんだよ! 童貞は大盛りカレーライスなんだよ! 完全食なんだよ! と言いたい。
これだからカリフォルニア人は……
あと最後、あんま関係ないけど、この映画の「俺たちカリフォルニアのウザさを相対化できてっからwww」みたいなノリは我慢できなかった。まー、プリウスは醜悪な車であり映画という芸術作品に登場させてはいけないんだなとはっきり認識できたし、グルテンフリーダイエットとか言って返金を迫る人々に対抗するためにも積極的に米を食っていこうという誓いも新たにすることができた。こういった学びや気づきを得られたことについては感謝したい。
*1:もちろんDVとか性暴力があったとかならアレではあるが、まあ映画の筋的にそういうハードコアな設定はおそらくないはずであり……
森には全てがある。あった。「ブロークバック・マウンテン」感想(ネタバレあり)
アン・リー監督の「ブロークバックマウンテン」を見た。うおおお! めっちゃ良かったじゃないですか!
まずこれ、同性愛をテーマにしている作品ではあるんだけど、恐ろしく保守的な映画でもあるよなと思った。というより、保守性と同性愛という、あんまり仲のよろしくない要素が素晴らしく噛み合っていた映画だと思う。もちろん「ホモフォビアは全員ホモ」みたいな煽り力の高い描き方にはなっていないし、単純に不寛容な社会を告発するという内容でもない。むしろ、アメリカの保守的な自然観と、人生や恋愛の不条理さを優しく結びつけているような映画なのだと思う。
つまりこの映画の同性愛カップルはもちろん社会やキリスト教には背いているわけだけど(だから街では全然うまくやれないんだが)、でもそんな二人にとって最初で最後で唯一の心の拠り所は「ブロークバックマウンテン」、つまりはもっとも伝統的でオーセンティックな「アメリカ性」だったのである……*1。という話はもちろん皮肉的ではあるんだけど、でもそれって同時にかなり保守派に寄り添った、保守派でも納得しやすいような同性愛映画になってもいるということでもある。つまり、保守派が一番大事にしている価値を、同性愛カップルの二人も心から大事にしていたんだ、心の拠り所にしていたんだ、その水準においてお互い全然違いはないじゃないか、というメッセージになっている。
こういうのは私のようなボンクラには絶対にできないタイプのバランス感覚であり、同時に、私が目標としたい姿勢でもある。素直に拍手。これは多分監督がアメリカ人じゃない(監督はアン・リーである)から、アメリカ人の宗教的・文化的な感覚を相対化するのが比較的容易で、作品に活かしやすいというのがあるんだろうなー、とかなんとか思ったり。
一応個人的に泣けたところをあげておく。まずやっぱり四年後の再会シーン。ここで抱き合うシーンは本当に泣いてしまった。例えほんの一瞬であっても、再会したり和解したりできるのっていいよなあ……。まあここ以降は感傷的になってしまったのであまり参考にならないのだが、二人の間で経済的な格差が広がってしまってだんだんうまくいかなくなったあたりで結構キツかったな。この映画は「森(ブロークバックマウンテン)=神聖」「街=堕落」という保守派文法を決して破らない優等生映画なので、二人が街でどんどん疲弊していく姿と、森で恋人と再会して癒やされる姿をキッチリと分けて描くのだが、これも現代に見せられるとすごくグッとくる。やはり金が無いと暮らせない都市はクソだなとなる(反知性主義者ソロー並の感想)。で、二人の経済格差が最高潮に達したあたりの会話と、その後の和解シーンとかもこう……ね、すばらしい。主演二人の演技力もあるんだろうけど、同時に森の力でもあるんですよこれは*2。まあ、経済格差で人間関係が希薄になるというのはリアル社会でもありそうだが、森の力で克服できたらいいなと思ったよね(???)。
まーあとはこの映画を見て思ったけど、完全な関係性に対する憧れって、信仰と極めて親和性高いよねという。この映画で言っても、「ブロークバックマウンテン」は①完全な関係性と②アメリカのキリスト教的な意味での神性という二つの要素を持っていて、パラレル関係にあるし。まあもちろん「完全な関係性」は一歩でも踏み外すとヤバイ領域に一直線なんだけど、でもこの危ない橋を降りられない……というか、あえて降りないのが人間なんだろうなあと思うと、またしても泣けてくるよなあ。
*1:「森=アメリカの保守派」というのは私の議論ではない。ネタ本はこれ↓ ちなみに、私はトランプ以前にこの本を読んでいたので、私が持ってるバージョンにはこういったヘンな帯がついていません!!!! ちなみにヘンなのはトランプ氏の肖像ではなく、トランプ現象(苦笑)で儲けようとする出版社の姿勢の方です。
さて、森本はこの本の第4章をまるまる使って「森は保守派コンテンツだよ」という話をしている。ようは、アメリカにおけるキリスト教にはちょっと神秘主義的傾向があって、北米大陸の自然の美しさに神性が見出されたという議論がされている。これが都市に住んでいるインテリは堕落しているよ理論と組み合わさって、アメリカにおける反知性主義を準備したという話らしい。
*2:保守派並の感想。とはいえ、こういうふうに逆方向で同性愛を悪用し始めたらいわゆる「ピンクウォッシュ」とか言われるんだろうけど
十分楽しんでから大人になる人たち「トレインスポッティング」「ザ・ビーチ」感想
ザ・ビーチに比べるとトレインスポッティングはまだ見れた。けどまあ、正直こういうの持ち上げてる奴とは仲良くなれんだろうなーっていう。すまん。まーなんか、朝井リョウとかを楽しめる人たち向けの監督だなこりゃ。出来不出来というよりも、好き嫌いとか相性の問題。正直、この監督の「青春」とか「若さ」に対する理解は私のそれと全く異なっているので、演出の一つ一つがギャグにしか見えなかったよ。
まあなんだ、この監督のテーマは基本、「大人になる」だと思うんだけど、うーん、俺には全くわかりませんな。つまりここでは、セックスとかドラッグを目一杯楽しんだあとに「退屈な」日常を受け入れること、それが大人になるということらしいんだけれども。でもまーさー、これって完全にリア充的な「大人になる観」なわけですよ。私の理解ではですね、なーんも面白いことがないから、なーんか面白いことねーかなーと思ってる人が、自分の可能性を閉じる……っていうのが「大人になる」ってことですよ。普通の非リアが経験するのは、多分こっちの「大人になる観」でしょう。これら、似てるようで全然違いますからね。つまりどちらの「大人になる」観も、人生には何もないってことを受け入れるという点においては同じなんだけど、「あんなに素晴らしかった何かが本当に消えてしまう」というリアルな恐怖体験に重点を置くか「何もなかったし、色々妄想しまくったけど、そうか、これからだって何もないのかー」という悲しい気付きに力点を置くかの違いはかなりでかい。そして、前者の恐怖をリアルな、自分のこととして受け入れられるのはリア充だけっしょ、という話。持ってないものを失う恐怖とか、まー普通にわかりかねますわ。
ちなみにこの筋でいうと、「今までの人生、一見何もなかったかに見える。でも確かに何かがあったよね」という肯定の物語に強引にでも着地するという意味で、負け犬映画は「ガキ向け」のコンテンツに分類されるんだろうね。例えば「トレインスポッティング」好きな奴に「クレイジーサンダーロード」を見せたら「違う!! ぜんぜん違う!!」ってなるわけですよ。うーん。最初にも書いたけど、これはどこまでいっても相性の問題だよな……。
正義感の存在を信じられない人間にはなるまい 『葛城事件』感想(ネタバレあり)
葛城事件……きつかった! もうひったすらきつかった!! でも、お父さんキャラがアホすぎて笑ってもしまう……。なんというかね、泣きながら笑って見てました。ゲラゲラ泣く……という稀有な体験ですな。
とりあえず家父長制っぽい話、おっさんっぽい話はもうされまくっているはずなので、そこはもういいかな……という。そういう話がしたければ↓を見てくれ。
というわけでこの記事ではあまり触れられていないであろう以下二つの論点に絞って書いていく。具体的にいうと↓な感じ。
①星野順子(田中麗奈)さんの話。
②若者的にいうと稔くんってどうなの? という話。
1、星野順子(田中麗奈)さんの話
本作は元が舞台ということで、会話シーンを基本単位として話を積み上げていく感じとか非常にそれっぽいところがあったと思うのだが、中でも一番舞台っぽいさに貢献していたのは星野さんの存在だったろうと思う。登場キャラクターが全員悪い方向に狂っている中で、星野さんの存在は一種の清涼剤として機能していており、この点はもっと評価されるべきだろう。もっというと、作品のテーマ的にも彼女の貢献度は無視できないほど大きいと思う。つまり、彼女の存在は「古いタイプの男性」をかなり痛い水準で告発しているので……身につまされるんだよなあというねえ。
星野さんはバックボーンが一切説明されないキャラクターで、かつ葛城家にとっては部外者である。その上、「獄中結婚」のように全く唐突すぎる理由で登場するので、正直、清による「お前はどこの新興宗教だ!」というツッコみがまったくふさわしい程度には怪しい人。ただ、この怪しさの背後に何があるのかを視聴者に明示しない、という描き方がかなーーーりうまいと思った。星野さんについては、ただ「死刑制度に反対している活動家」という説明があるだけなのだが、その背後に「何か」あるんだろうな~~と、視聴者は期待しながら見てしまうんだけど、ここが壮大な罠。
というのも、星野さんの怪しさの背後には実はなにもなくて、単に正義感とか誠実さがあるだけなのである。いや、正義感とか誠実さが怪しいってそれおかしくない? っていう話なんだけど、私たちは「偽善」とか「打算」といった考え方に脳みそを犯されまくっているので、単純に正義感で活動している人を正当に評価できず、あいつ絶対裏あるッショ……とか思ってしまうのである。作中の描かれ方でいうと、清にしろ稔にしろ、「この女はなんでこんなことやってるんだ?」という風に戸惑うばかりで星野さんのことをを全然理解できておらず、星野さんの背後に打算とか偽善を見出す。で、悪いことにその「打算」に擦り寄る。清の最後の発言とかほんとにひどい。「俺が三人殺したら、俺のことかまってくれるのか?」って……おいおい、というね。
ですごいことに、これは単なるクズ描写とか甘え描写以上の意味合いがある。つまり、男性は一般的に女性に対して「誠実であれ」「打算とか一切なしで男と付き合え」といった負荷をかけたがるもの。だが、そういったファンタジーを、実は男性側が全く信じていない……という悲しいアレが告発される。お前らはいざ正義と誠実さを信じてる女性に出会っても、偽善者とか言ってイジメるだけじゃん!! という点が告発されているんだよね。で、男性はそういうマッチポンプ的攻撃を散々した上で、まさに「打算」というロジックを動員することによって「俺をかまって!!!」と女性に対し主張し始めるという、この、ダメダメ感ね……。ほんとキツイ。キツイし、泣けるし、もはや笑うしかないというどうしようもなさがある。なんというか、フェミニズムを持ち出して「構って構って」してるいわゆる「弱者男性」的なダメさにも通じるよなあという。ほんとキツイ。
2,若者的にいうと稔くんってどうなの? という話。
結構リアルです!! 結構俺っぽいです!! なのでかな~~~りキツイっす。特に「声優を目指してるから喉を傷めないために筆談してます」みたいなノリ! いやね、もちろんこの通りのことをやってる少年はそんなにいないと思うんですよ。でも、なんというか目標と努力の絶妙にアンバランスな感じ、噛み合ってない感じが、中二病っぽい「こだわり」の着地点としてかなりリアリティがあり、正直、やめろ……となった。後はやっぱり喋り方。唐突に敬語使い出す感じのこう……知的ぶって失敗してる感じがね……きつい……。
そして何よりも「いじけ」の描かれ方がかな~~~~~りリアルだなあと思った。私も結構ないじけ民なのだが、いじけというものは「甘え」という光に対する闇のようなものなんですよね。だからある種、甘えが前提の態度なわけですよ、いじけは。稔くんと星野さんが交流するシーンでは、稔くんの中で「いじけたい」と「甘えたい」が葛藤しているのがありありと見て取れるわけだが、この演技はほんとすごいなーと思った。というか星野さんが聖人すぎてやばいなと思った。
ちなみに、稔くんが部分的にではあれ素直に甘えているシーンが一瞬あって、それはお母さんの伸子さんと二人暮らしをしている時の最後の晩餐シーンである。母、兄、弟三人によるあのシーンのリラックス感はやばい。であの平和感を見て、私は前々から温めていた仮説がまた実証されたと感じたのです。その名も「父抜きの家父長制は最高のシステムである仮説」、あるいは「母、子、使用人からなる家父長制的共同体の安定感やばい仮説」*1。なんつーかね、もちろん家父長的暴君の存在が前提になってるから全然健全ではないんだけど、父がいないことによる平和感ってやばいんだよね……。あそこはほんと「わかる……」となった。で、あの平和な世界で稔くんが「うな重かな……」とか言ってるのだが、あの時は「いじけ」がかなり後退して、「甘え」になってたんだよね。まあ、甘えの前提は平和状態ということなんだろうなあ……。ここもかなりリアリティがあってなあ……キツイ。
とまあ、キツイながらも誠実に作られた映画でかなりよかった。のだが、一点苦情をいう。この映画、タイムラインがちょっと分かりにくいのではなかろうか。特に、まだお母さんの伸子さんの現状(病院? にいる)を知らない視聴者からすると、清がセックスを拒否されるシーンがいつのことなのかちょっと読み取れないんじゃないかと思った。「どうしてここまで来ちゃったの……」的な象徴的なセリフからしても、事件後っぽい感じもするし……。まあここで生じたもやもやは後で氷解するから、全体としての最適化はやってあるとは思うのだが……
*1:ゲームオブスローンズとかね。サーセイがリーダーシップとってる王都が一番好きだったんだよなあ。
「コミュ障同士」という連帯の喪失と誕生を描ききった傑作 『ヒメアノ~ル』感想(ネタバレあり)
やばい!!!!!! すごい作品すぎた。
先に理論的な話。
世の創作はつねに「疎外された者たちの連帯」からはじまる。しかし、この連帯は欺瞞に満ちている。なぜかというと、単に疎外されているという理由で連帯が生じるという世界観は、疎外されていない人々だけが持っているファンタジーだからである。こちら側を代表して言わせてもらえば、疎外された者たちの連帯は結局いじめられっ子同士の連帯にすぎないのであって、それは本質的に惨めすぎるものであって、受け入れがたいものである。
例えば、「疎外された者たちのクラブ」には、大きくわけて「キチガイ」と「コミュ障」と「疾患」の三種類からなる人々が所属することになる。こういった多様な連中が一緒くたにされ、「迫害」とか「疎外」という理由を経由して友達になれるのだと一般に信じられている。中には、恋仲になるのだと信じている者たちもいる。だが、この世界観ほど人間をバカにしているものはない。
疎外されている者たちはその特徴において確かにいくつかの共通項を持っているが、しかし同じではない。例えば私たちは「LGBT」という概念を使う。だが、だからと言ってゲイとレズビアンが恋人になることは期待したりはしない。こんなことを言うと何を当たり前のことを……と思われるんだろうが、世の創作物でまかり通っている「疎外された者たちが仲良くなって」という世界観においては、まさにゲイとレズビアンがセックスをしまくっているのである。それくらい、実は「疎外された者たちの間にある差異」は見過ごされている。表象の持っている暴力性と搾取性の最たるものがここにある。はっきり言おう。いじめられっ子は他のいじめられっ子のことを好きにはならない。仮になったとしても、その理由は絶対に「同じくいじめられているから」ではない。
話を作品に戻す。
「ヒメアノ~ル」にはキチガイとコミュ障しか出てこない。これはすごいことだ。並の人なら、「普通の人々」VS「特殊な俺たち」という構図を持ってきたがる。だが、この構図の裏側で「疎外された者たちの間にある差異」が見過ごされるという重大な事態が生じるということは先に確認した。この問題を回避するにはどうすれば良いのか。簡単である。主要な登場キャラクターを全員「変なやつ」にすればよいのである。それによって、否が応でも「変なやつ」内における差異性が浮かび上がってくる。良かったな。
ここでまた理論を。
「変な奴で埋め尽くす」系の手続きは普通の作品でもやる。だが、ここでまた別の問題が出てくる。それは、「変なやつ」同士の連帯から生まれる楽しい経験でもって、登場キャラクターの間に生じる関係性を正当化しようとする、という問題である。もうちょっと具体的にいうと、こういうことである。ここにある小説がある。第一~三章では疎外された生徒たちが集められ、第四章以降でマジョリティと対決して、最終章でチームなりカップルがいい感じになって終わる……。
まあ、以上がいわゆる「成長」と呼ばれる手続きなのだが、この時、成長の後に結果として残る「関係性」は、あくまで「経験」から生まれるのであるらしい。つまり、ある主人公が恋人をゲットすることに対して我々が一定の納得感を抱くのは、出会いシーンのおかげというよりも、むしろ主人公がライバルを打ち倒すべく努力する姿を見るからである。実際、ロマンスというものは「なんだあの嫌な奴!!!」から始まり(出会いは最悪だったのだ)、努力なり成長を通して「あの人が好きすぎる!!!」に着地するものだ。
成長が関係性を正当化する。これは創作界隈においては絶対的な文法なのだが、いわゆる「疎外されている者」向けの作品においては、この文法が悪用される。悪用されるというか、「成長によらない関係性」が簡単に見過ごされる。つまり、一応この手の「はぐれもの」作品群では、「同じく疎外されている者たち」が集められるので、じゃあ最初の出会いである程度仲良くなるってことがあるんじゃないの? という話である。
ここで最初の話に戻る。人間は「同じく疎外されているから」という理由で連帯しない。いや、外交的な水準ではそうする可能性があるけれども、好き嫌いの水準ではそんなことはしない。もうちょっと細かいことを書くと、「疾患持ち」は「コミュ障」のことをいきなり好きになったりはしないし、「キチガイ」が「コミュ障」を好きになることもない。つーかまあ、疎外されてる者同士、普通に軽蔑し合ってることの方が多い。
だが、「コミュ障同士」なら話はガラリと変わる。本当に「同じ」人間を見つけられたのならば。つまりこういうことである。我々は本来的に極めて多様でバラバラな「変なやつ」らを、「阻害されている人々枠」として一緒くたにするのに慣れきってしまってきた。だから、「変な奴ら」の枠内で、「同じヤツ」を探すのは、実はとてもとてもむずかしいという現実をとかく無視しがちだ。変なやつらは実際変なやつらなので、その中でも特殊で細分化された変なやつ性を共有している相手を見つけるのは、それはそれは天文学的に難しいのだ。だが、というかだからこそ、もし見つかったら? 自分の変なやつ性を分かってくれる奴を、真に「同じ奴」を見つけた時の感動はいかほどだろう。前に同性愛者の告白録を読んだ時に、初めて同じ同性愛者に出会った時の感動が綴られていたが、感覚としてはこれに近いと思う。疎外されているからこそ、同じ奴を見つけた時の感動、というか感謝には、言葉にできないほどのものがある。で、この感動と感謝が前提にある場合、経験によらず関係性は正当化される時があるのだ。
もちろん、経験による正当化プロセスを経ていない関係性は脆弱である。例えば、「他のもっと合う奴を見つけた」とか「よくよく付き合ってみると相手の〇〇する癖がどうしても許容できない」とか、まあ、たしかに色々あって簡単に崩壊することはあるだろう。一般に依存と呼ばれる関係に突入しやすいという意味でも、経験によらない関係性の健全性はかなり低い。だが、疎外されている人々は、時にこういった関係に頼らざるをえない時がある。
特に人間関係の経験値が低い学生などは、自分たちの関係性がなんとなく危うく、脆弱であることに怯えながら、「経験によらない関係性」にどうにかしがみつく……という生き方をすることも多いだろう。この、若者特有の没入感に満ち満ちた危うい関係性は、存在そのものが完成された悲劇である。ロミオとジュリエットが土下座するレベルの、純粋な悲劇だ。何と言っても、関係性を構成する当事者が、自分たちの関係性の美しさに感嘆しながら、同時にそのあまりのはかなさに怯えているわけだから。
話を「ヒメアノ~ル」に戻そう。
大人になったら、もう「経験によらない関係性」に期待するのはかなり厳しくなる。というか、その筋を諦める時、人は大人になるとも言える。で、「ヒメアノ~ル」で描かれる関係性というものは、簡単にいうと「もう完全な形ではなくなった」「経験によらない関係性」である。これはなんというか、主人公の岡田君のビミョーに大人になりきれていない一種の幼さを反映していると思うのだが、見事だなあと言うほかない。岡田自身はある種神聖で美しく、そして排他的な関係性という世界観をまだ捨てきれていないわけだが、大人として暮らす以上、どうしても「何かが違う」ということになる。例えば岡田と安藤は、もし二人が学生ならば、完成された没入感最強ホモソ関係に発展していたはずなのだが、もう二人は大人なので、「三角関係」で荒れる。つまり、人間関係の閉鎖性が損なわれているわけだ。また、岡田とユカについては、「過去の人間関係」という問題でこれまた荒れる*1。付き合ってセックスに至るまでのプロセスはもう文句なしなわけだが、「経験によらない関係性」は処女厨的な意識によって破壊される。
また、岡田と安藤が微妙に噛み合っていないのも大事なポイントだ。岡田と安藤は、同じく「変な奴」ではあるが、二人がいかに異なっていることか! 岡田が臆病なコミュ障なのに対し、安藤はかなり硬派のキチガイである。でまあ、この関係はかなーりギクシャクしている。特に、同じ女性をめぐる争い(?)になるあたりなどで一度は絶交が宣言されるほどだ。だが、最終的には安藤の譲歩によって関係性がなんとか保たれる。ここもかなりリアリティがある。二人の関係が保たれたのは、経験を経てお互いが成長したからである。もちろんこれはこれでいい話だ。だが、成長によって正当化された関係性は、幼い頃に夢見ていた、あの脆く儚く美しかった関係性とは決定的に違うものである。
ちなみにキチガイ的な話でいうと、森田が唯一仕留めそこなった相手が、同じくキチガイ枠の安藤であるという事実は象徴的だと思う。というか、森田VS安藤のシーンは空気感が本当に最高だった。間が神がかってた。最高の鍔迫り合いシーンでめっちゃお腹いっぱいになった。
本当は岡田君とユカの話を通してセックスの影響についても語りたいのだが、セックスのことは謎なので(なにせその……ええ。)、スキップ。
また、特筆するべきは森田と和草の関係である。この二人は、同じくいじめられっ子である。であるからには、普通の人々はここに連帯の契機を見出す。だが「ヒメアノ~ル」ではそんなことにはならない。森田は和草を恐喝し、金をたかり、そして殺害する。また、和草の方も森田に対しては全く好意を抱いておらず「あいつやべえんだよ!」と、恐怖と軽蔑の入り混じった感情を持っているにすぎない。繰り返すが、「同じくいじめられていた」は連帯の基盤にもならないし、「良い関係性」の基盤にもならない。そうなのだが、一方で二人がいじめられたことによる歪みはかなり長く尾を引いていて、大人になってからの人生を破壊してしまう地雷のようなものとして描かれている。そうなのである。子供時代の美しい関係性は、その脆さ故に崩れ去るが、いじめの悲惨な記憶だけは決して消えることはないのである。つまり森田と和草の関係性は、森田と岡田の関係性の裏番組であると言え、この見せ方もめちゃくちゃうまい。実際、和草と岡田のキャラクターは美しいほど対称的だ*2。
で、ここまで丁寧に丁寧にやった後、「ヒメアノ~ル」は最後にそっと、もうとっくの昔に崩れ去った、子供時代の美しい関係性を視聴者に見せてくれる。結局この映画でやってたことは、この美しい関係の「喪失後」をひたすらひたすら丁寧に描写するということだったのだと思う。もうすっげええげつないですこれは。喪失、喪失、喪失、喪失からの~~~~~~~~っ!
「ねえ、もう誰かと話した?」
「ううん、森田くんが初めて」
ここでもう声出して泣きはじめてしまった。うん、あのね、「ねえ、もう誰かと話した?」ってね、このセリフほど完璧なセリフを知らない。どんだけ怯えてんだよ!!! 他の奴と話をしていない可能性を探ってんじゃねーよ!! なによりだな……他の奴と話してたら他の奴のとこに行っちゃうんだろうな……みたいないじけ精神とかな……もうわかりすぎる!!!! このほとばしるコミュ障感に涙しないコミュ障はいないはずだ。このセリフで、同じくコミュ障である岡田は陥落したんだろうなあというね。もちろんこの時点で森田くんのことなんて何も知らないんだけどさ。だけど「変な奴ら専用のはきだめ」みたいな場所で、本当に同じ方向で変な奴に出会えた時の感動、安心感、そしてなによりも圧倒的感謝、そういうものが関係性を正当化してくれることは実際にあるわけで。そんで、その関係性のおかげで、一緒にゲームしたり、麦茶飲んだりできることがある。そのなんと美しく、そしてはかないことか……はかないことか、ということなんですよ。
補論1
ちなみに、「ヒメアノ~ル」はコミュ障、「FRANK」はキチガイ、「ザ・コンサルタント」は疾患の話なので、ちゃんと区別していこうな。具体的にいうと、「ザ・コンサルタント」をコミュ障で語るのはやめた方がいいであろうという話だ。
補論2
というか、「処女厨」は言われているほど普遍的な病気ではなく、かなり特殊な病気だと思うのだが、ホモソ内における男性獲得競争のロジックをそのまま女性に当てはめて結果として「処女厨」が生まれている仮説はどうか? 彼らが問題にしているのは「汚れている」とかじゃなくて、「処女男子=疎外されており、したがって自分と同じタイプである可能性が高いからアプローチするぞ~~」という戦略が、男性ホモソだと極めて有効であるのに男女関係だと全く使えないのにイラツイている、とか。実際、自分にピッタリの同性を見つける競争って結構システマチックで、かつ排他的じゃない排他性(つまりどういうこと?)が確保されてる分、男女関係のそれよりもはるかに洗練されているような気もするんだよな。で、そういう洗練された世界のロジックが全く通じないと、まあ幼い人がイラつくのは当然なんだよねっていうね。
補論3
サイコパス犯罪者がどうとかいう筋でこの作品を語ってる人、結構いるが、うーんという感じだな。
補論4
サイタマノラッパーの主人公とサイタマノラッパー2の主人公が婚約関係になっててワロタ。
翔鶴さんがボケて瑞鶴さんが「〇〇姉!」って突っ込む大喜利
「というわけでやって行きましょう」
「詳細は↓を見てね」
「お財布に200円しかなかった……」
「少額姉」
「私に100円くれないなら……あなたを殴ります」
「恐喝姉!」
「村役場からごみ収集業務を受注したよ」
「嘱託姉!」
「うぅ……敗戦です……」
「ポツダム姉……うぅ」
「将棋やってるといつも千日手になっちゃうんだよね」
「膠着姉!」
「体育会系の先生がお弁当を食べてそう」
「教卓姉!」
「対象を認識するためには意識の統一が必要なのです」
「統覚姉!」
「西洋の戯曲では数ページ続くこともある」
「独白姉!」
「こんな名前の天使、ドクロちゃんというのがいましたね」
「撲殺姉!」
「もし相手が裏切ったら、その瞬間2人の関係は終わるのよ……」
「協約姉!」
「そう……ここの音はピアノからフォルテへと上げていくんですよ」
「強弱姉!」
「元王族で今はVIPPERになってる美少女(18)だけど質問ある? 一応全レス予定 っと……(カタカタ)」
「没落姉……」
「来年度は予算がたくさんもらえるらしいから対空砲を注文することにしたよ」
「調達姉!」
「You wana hot bady?」
「悩殺姉!」
「まあ悩殺とは真逆の歌だけどね」
「このたびはご愁傷様でございます……」
(弔客姉…)
「瑞鶴!!! 水素水、飲もう!」
「じょ、情弱姉……」
「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし!」
「張角姉!」
「月が綺麗ですね」
「超訳姉!(ドキドキ)」
「艦隊における五航戦党の勢力を増すために、今日から駆逐艦の皆さんに飴を配ってみることにしたよ」
「党略姉! 謀略姉! 狡猾姉! 性悪姉!」
「やっぱやめます……」
「あなたは私の権威を尊重するべきでは???」
「高圧姉」
「今年はお米がたくさん実りました」
「豊作姉!」
「でも大豆のできは悪かったのです」
「凶作姉!」
「( ゚д゚ )クワッ!?」
「瞠若姉!」
「」
「省略姉」
「私たちは間違ってないし負けてない」
「忘却姉!」
「マックで女子高生と加賀さんが話してた」
「創作姉……」
「メスカリンを飲んでエッセイを書けば大作家になれる」
「倒錯姉!」
「マドレーヌを食べたら昔のこと思い出したよ」
「要約姉!」
「エミネムとACDC以外はゴミ」
「洋楽姉!」
「総理が死ぬと自動的に成立してしまう」
「倒閣姉!」
「↓こんなのを見つけたよ↓」
「葉脈姉!」
「!? ダイヤブロックが四個、鉄が六個あったよ!」
「鉱脈姉!」
「将来芸能人になったら絶対さらされるアレ」
「卒アル姉!」
「のわー! 昨日髪乾かさずに寝てしまった……」
「蓬髪姉~~~(かわいい)」
「案外新しい建物に使われている建材。神隠しに注意してね」
「モルタル姉!」
「あ……ハチマキが真っ白になってしまった」
「漂白姉!」
「支援に来ない遠征艦隊、実はあれサボりです」
「告発姉!」
「私たちの手下その二」
「城郭姉!」
「うげえ……に、苦い……」
「妙薬姉!」
「敷島の大和、美しすぎわろた」
「国学姉!」
「ウチだと、銀河とか月光」
「双発姉!」
「頑張って勉強しよう。そして立派な空母になるぞ!」
「篤学姉!」
「横須賀一区ははたしてどっちが取るのか……明日の朝には判明するらしい」
「当落姉!」
「おばあちゃんたちはかぼちゃと呼ばずにこう呼ぶ」
「唐茄子姉!」
「OK」
「承諾姉!」
「ここは荒野のウェスタンです」
「直訳姉!」
「いかがどすか」
「ようだすねえ」
「猫と犬と亀とインコを飼いたいな」
「欲張るねえ」
「今日の気分は?」
「Awesomeネー」
「あの……」
「空き地に風雲翔鶴城を建てて、そこの領主になったよ」
「城伯姉!」
「島ああああああああ!!」
「操舵手ね」
「ただの格下だし後追い勢でしかないので別に全然気にしてないですし」
「とうらぶね~」
「ヒント:瑞鶴の大事な人だよ」
「……!」
「翔鶴姉!」
「うふふ。正解」
やったね!
(おわり)