完全なる童貞のオナニー 「アイアムアヒーロー」感想

 

あらすじ 

 漫画アシスタント業鈴木英雄(35歳)は冴えない日常を送っていたのだが、ある日ゾンビの大量発生事件に巻き込まれてしまう。戦いを通して英雄はヒーローとなることができるのか……

 

童貞的には正しい作品

 このマンガの原作は序盤の数巻を使って童貞ひねくれ底辺民描写をやる。そういう投資があるからその後のカタルシスが生きてくるのだが、この映画の底辺描写は、正直ぬるい! 部屋がきれいすぎる!(そこか?)

 だけど、だからと言って童貞映画として失敗しているわけではない。ここ重要。

 ちょっと一般的な話をしておく。日本社会で「童貞」といった場合、そこには二種類の含意がある。①ガチでセックスしたことがないタイプの童貞と、②セックスの問題とは無関係に童貞っぽい人の二種類。①を扱う場合には純粋にセックスが問題にされるけど、②はどっちかというともう少し広く童貞イデオロギーとか承認の問題が扱われる傾向にある。で、英雄君は彼女持ちなので、今作で童貞っていうのは②的な意味で使われる。

 ②っぽい童貞性に対しては、①のガチ童貞民から「お前彼女いるじゃん!!!」という批判がなされることがあるのだが、これは全く誤った批判であると言える。②的童貞性を語るのだと宣言している作品は、②的童貞性の次元で評価するべきであって、①的童貞性でその質を測られるべきではない。そしてこの線引を守る義務は①的な、言ってみれば原理主義的な童貞民の側にある。というのも、セックスをしたことがある童貞は、①と②の区別をなくして、両者の問題意識を混淆させてしまおうとするからだ。ただ①的な童貞だけが、童貞問題には①と②があるのだということを認識し、そのフレームワークで行動することができる。故に、②の場において①を持ち出すのは、本来存在するはずだった区別を掘り崩してしまうという意味で単に②的な人々を喜ばせるだけである。認識を守るために沈黙せよ、①の童貞たちよ!

 で、②的な問題を扱う作品としてはほぼ100点満点。ロッカールームのシーンとかほんとすごかった。で、もっとすごいのは、この作品には①的な童貞もある程度乗っかれるようになっているということ。おかげで120点になる。

 というのも、今作における銃というのはご承知の通り男根、家父長制的権力の象徴でまあようはペニスである。ペニスというのは実際セックスに使われることが多いのだが、①的な童貞にとってペニスはオナニー専用の器具である。だから、銃や剣でセックス的な描写をされても童貞は興奮できない。しかし今作における射精は、「女の子に見られながら欲望に向けてひたすらぶっ放す」という形態をとっており、つまりはどう見てもオナニーです本当にありがとうございました。①の童貞はセックスを理解しないが、オナニーなら完璧に理解できる。ここに気がついた制作陣に座布団をあげたい。最後のシーンなどは、もう散々オナニーして満足したおっさんめいた開放感を味わってる感じで、とてもよいのである。

 文字通り「童貞のオナニー作品」として仕上がった「アイアムアヒーロー」、①的童貞でもある程度受け入れられる②的童貞映画である。よくできてる。

 ただ微妙だなと思った点もいくつか。一つは避難所が明確にジェンダー分業してたことなんだが……うーん、ほんとにこうなるんかね。男側がいかにもクソ雑魚めいた男子ばっかりなので、なーんか説得力ないなと思った。こんなクソ男子じゃ権力握れんだろ。

 もう一つは女子高生ひろみさんの描き方。まあ原作マンガだとすべてが丁寧だからまあいいんだが、映画のテンポだとこう、JKが幼児化することの必然性がまったく感じられず、「おっさんはやっぱり幼児化したJKを飼いたいのか……」って感じになるので正直キツかった。

普通に面白いけど……悲しいお話。「ドント・ブリーズ」感想(ネタバレあり)

ドントブリーズを見てきた。

 


「ドント・ブリーズ」公式予告編第1弾非公式日本語字幕

 

 うーん。宇多丸ラジオとかで絶賛されてるほどか……? という感じはしたが、まあ普通に面白くはあった。

 盲目の老人が暮らす家に、悪ガキ三人(崩壊家庭出身のヒロイン、DQN、ボンボン)が侵入して金を盗もうとする。しかし盲目の老人はイラク戦争で戦傷した退役兵で、悪ガキたちを撃退していく……という話。最後にもうひとひねりもあり、たしかに全体としてみれば楽しい。序盤のカメラワークも非常に洗練されており、必要な情報を何気なく効率的に、そして緊張感を維持させながら視聴者に伝えていると思う。個人的にはここで成功していたおかげでなんとか「もった」映画だと思う。後半からの展開は馬鹿みたいに粗いのだけども、序盤の投資が生きてるおかげで緊張感がちゃんと維持されていた感。

 犬が来るシーンから始まって、個人的にはビビりまくったので、まあホラー(?)映画としては楽しめたのではないか? ただちょっと説明が欲しいところも何点かあった。

 以下、箇条書き。

・家主が最初の睡眠薬を回避できたのはなぜ? ここ解説あるもんだと思って見てたけど結局なにもなかった。多分カットされたんだろうが……うーん。序盤のカメラまわしによる紹介が非常に洗練されていた分、ここの説明無かったのは映画のクオリティを落としてしまっているような。

・去勢っぽい一撃が実はDQNに対するものでした……というところはちょっと無理がないか。というのも、タイトルからは「ブリーズ(息)」、つまりは音探知が盲人家主にとっての索敵手段になってるみたいな印象を受けるが、家主はあきらかに「臭い」でも索敵してるので、DQNとボンボンを嗅ぎ分けるくらいのことは絶対にできるはず。また、この家主ほど用心深い人物であれば、「敵を全滅させたと思ったら実は他にもいた」的なミスを二回やらかすのはありえないはずだ。だからボンボンが生き残るのが本当に納得感薄い。なんというか、「盲目だけどこいつ最強」的な描写を全面に押し出す一方、トリック的な部分では「盲目だから見えてませんでした」を使って話を作るのはちょっと個人的にズルいんじゃないのと思った。まあ面白くはあるんだが……。

・なんか「私はレイピストではない」発言に対して首肯しちゃう男性がいるとか思ってる人がいるらしいが、あれは誰がどうみてもただのレイプである。ただ思ったのは、なぜ金持ちの娘の口は縛っていたのに、侵入してきたヒロインの口を縛らなかったのかということ。これは明らかに、盲目の家主がコミュニケーションを志向していたことの現れである。それが単なる加虐心からくるものなのか、それとも彼なりに人との交わりを求めた結果なのかは知らないが、何かしらコミュニケーションをしようとした意図は確実にある。つまり家主は「トライしたけど失敗した」タイプのコミュ障であるから、余計つらい。精子を解凍していた時の発言から見ても、家主は戦争と娘の喪失という体験を通して信仰(象徴的にいえば、道徳とか倫理といったものすべて)を失ってしまった人なわけである。あきらかに「元々普通の人だったのに、ああなってしまった」人である。ポスト道徳の存在である家主をナイーブな判断で安易に攻撃して悦に入るのはこの映画の見方としてあまりに浅いとしかいいようがない。我々は誰でも盲目の老人になりうるという教訓を忘れてはいけない。

・最後の脱出の直前シーン、家主がボンボンを射殺するわけだが……。なぜ地下から這い上がってこれたのだろうか。もし手を切断とかなら分かるのだが。まあ、そうするとあまりにも陳腐だけれども。

・トランクはもっとうまく使えたんでは。なんというか、「てんとう虫=解放」みたいな象徴は最初から最後まで一貫して強調してるけど、なんかあからさまでちょっとさめた……。序盤にわざわざ口で「トランクは一度閉じ込められたら出てこれない場所」とか説明するシーンを入れるなら、犬がバウバウ言いながら出てきちゃダメだろ……と思った。いや、出てくるからこそ効果的とも言えるが、しかし事実上のラスボスが犬というのもなんというかねえ。まあ最終的には犬の監禁に成功するのでまあいいのかもしれんが……

・あと最後、女性の扱いとして、アメリカだとあのヒロインを殺せないのは分かるんだが、「お前を追っているぞ……」的な圧力をかける形で終わらせるのは殺すのより酷なんじゃないかと思った。あれは続編のアピールでもなんでもなくて、単に「オンナが犯罪!? スイッチ入った! 絶対に追求する!!!!!」的なセクシズムの落とし所だと思うんですよ。だからなんというか、生存させることによって差別心を温存するのに貢献するタイプのオチだったと思われ、個人的にはヒロインも殺しといた方がいいんじゃないかな~~~とは思ったよね。

・スタッフロールで盲目の家主が「The Blind Man」の役名でクレジットされてて、まじでつらかった。つらみの極み。

 まあ、全体として悲しい映画だったな。こういうのの前では童貞はマジで無力だ。

 

「異性愛者へ12の質問」への解答

まとめ:異性愛中心主義を相対化した結果がパートナーがいて当然主義とか、涙が出ますよ……

 

1.あなたの異性愛の原因はなんだと思いますか?
 愛を因果関係から理解しようとする人たちは二種類に分けることができます。恋愛工学者と恋愛小説家です。あなたはどっち?

2.自分が異性愛なのだと初めて判断したのはいつですか?
 判断できるほど仲良くなった異性いません(苦笑)。

3.異性愛は、あなたの発達の一段階ではないですか?
 もちろんそうでしょうね。どう変わっていくかはわかりませんけど、変わってはいくでしょうね。

4.異性愛なのは、同性を恐れているからではないですか?
 私が今まで会った中で怖いなと感じた人は、脈絡なくマジギレする類の人たちだけなので、そういう連中は性別に関係なく怖いとしか言いようがないです。

5.一度も同性とセックスをしたことがないなら、なぜ、異性とのセックスの方がよいと決められるのですか?あなたは単に、よい同性愛の経験がないだけなのではないですか?
 はい。じゃあ私とセックスしてくれますか?(ウェルベック並の返答)

6.誰かに異性愛者であることを告白したことがありますか?
 その時の相手の反応はどうでしたか?

 あるけど信じてもらえないことが多いです。

7.異性愛は、他人にかかわらない限り、不愉快なものではありません。それなのに、なぜ多くの異性愛者は、他人をも異性愛に引き込もうと誘惑しようとするのでしょうか?
 ナンパとか出会い厨とか合コンは全部クソだって最初から言ってるじゃないですか。私の話聞いてなかったの?

8.子供に対する性的犯罪者の多くが異性愛者です。あなたは自分の子供を異性愛者(特に教師)と接触させることを安全だと思いますか?
 だから生徒と結婚してカリフォルニアにサバティカってるような教員を殺す法律を作ろうぜと一貫して言っているんだ。 

9.異性愛者はなぜあんなにあからさまで、いつでも彼らの性的志向を見せびらかすのでしょうか?なぜ彼らは普通に生活することができず、公衆の面前でキスしたり、結婚指輪をはめるなどして、異性愛者であることを見せびらかすのでしょうか?

 うん。だからそういうのよくないよねってずっとずっと言ってるじゃん。誰に向かって聞いてるんですか? 

10.男と女というのは肉体的にも精神的にも明らかに異なっているのに、あなたはそのような相手と本当に満足いく関係が結べますか?
 まず、ある人間関係から得られる満足度って、二人の間に存在する差異の大きさによって上がったり下がったりするものなんでしょうかね。その世界観がちょっと受け入れがたいです。差異がないからうまくいくこともあるし、差異があるからうまくいくこともありますわな。

11.異性愛の婚姻は、完全な社会のサポートが受けられるにもかかわらず、今日では、一年間に結婚する夫婦の半分がやがて離婚するといわれています。なぜ異性愛の関係というのは、こんなにうまくいかないのでしょうか。
 完全な社会のサポートを受けているからでは??? 迫害されるほどラブラブになれると思うよ。 迫害意識コンプレックスラブラブが私の理想なんですよね。いじめられっ子同士傷を舐め合う連帯が至高。

12.このように、異性愛が直面している問題を考えるにつき、あなたは自分の子供に異性愛になってほしいと思いますか?セラピーで彼らを変えるべきだとは思いませんか?
 まずさ、あなた子供いるっしょor将来的に子供持つっしょ? みたいなのやめませんか? 

 それと、現代のオタクは自分の娘が同性愛者だと知ったら泣いて喜ぶと思う。

姫が誕生する物語 ローグ・ワン感想【ネタバレあり】


「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」予告 希望編


 ローグワン見てきた。脚本とか、特に前半のキャラ紹介に関していうと映画としてのクオリティは高くはないのだが、最後の最後で唐突に涙腺が崩壊してしまった。なんかわからんけど気がついたら号泣してた。

 この映画、理不尽に降りかかってくる個人的なつらみを、チームワークとラブラブ力によって自力救済する話である。その上で、自力救済の結果生まれたものを希望と呼び、それ対して積極的な価値、つまりみんなで共有できる価値を与えているという映画でもある。そして物語りを進める上で、極めて純度の高い姫ー取り巻き関係を用いており、童貞とも親和性が高い。つまりは殉死系救済映画の一歩先を行く、肯定力に満ち溢れた作品だと思う。

1あらすじ
 帝国の兵器開発者ゲイレンを父に持つジンは、反乱同盟軍から、生き別れの父が同盟軍との接触をはかろうとしているのを知らされる。ゲイレンは帝国軍の究極兵器であるデススターの開発責任者で、兵器の破壊方法を誰かに伝えようとしていたのだ。ゲイレンからのメッセージを受け取ったジンとその仲間-ローグ・ワン-は、デススターを破壊するために必要となる設計図を手に入れるため、帝国軍のデータセンターがある惑星スカリフへ向かうのだ。

2ローグ・ワンメンバーとレイア姫との間にある距離感
 とにかく最後、レイア姫が登場するシーンのための映画だった。レイア姫、後姿だけなんだろうなーと思っていたのだが、予想を覆して顔出ししてくれたので、なんというかあの瞬間にすべての緊張が解けて泣いてしまった。絶望ではなく希望で泣けたのが本当によかった。
 で、レイア姫っていうのはやっぱり「姫」だなとなった。「ローグ・ワン」は完全に姫映画だと思う。*1とにかく姫性の物語においては、姫⇔取り巻きの距離感をどう描くかがすべてだと思うのだが、その点今作の描写はほとんど完璧だったのではないだろうか。

①姫と取り巻きの接点なんて無いんだよ!
 「ローグ・ワン」はまず登場人物からして、みんな地べたをはいずりまわるような連中である。つまり、姫との階層的距離が半端なく大きいのだ。強制労働施設で働くジン、失職中の聖地守護者ティルアートとベイズ(聖地は帝国軍によって占領されてる)。みんな、エリートとか王族とかじゃなくて、苦しむ平民である。そして個人的に一番ぐっと来たのは、キャシアンのキャラクターだ。この反乱軍所属の将校、かなり汚い仕事もやっている。スパイとか、暗殺とかね。命令で意に沿わないことをやらなきゃいけない人、現代にはたくさんいる。でもそういった組織圧力によって道徳的に追い詰められつつも、大儀、つまり自分が信じている価値のためにどうにかこうにかがんばってるキャシアン君、このぎりぎり感はすごく共感を誘うと思う。まとめると、ローグ・ワンのメンバー、実は姫と無縁なのである。ちょうど、サークルに入ってない大学生のように。

②ラブラブ力は自給自足のローグ・ワン!
 こんなデコボコメンバーからなる謎チーム、ローグ・ワンなのだが、このチーム内では実はいたるところでラブラブな関係が成立している。つまりローグ・ワンのメンバーは感情的な水準でも姫たるレイア姫との間にかなり距離がある。というか、親密さに関していえば、ローグ・ワンは完全に自給自足的な集団なのだ。たとえば不思議ちゃん枠のティルアートと、そのティルアートにつき従う仕事人のベイズ。この二人はすごく仲がよろしい。とくにベイズが「しょうがねえなあ~~」とかいいながらティルアートについていくのが可愛い。それにキャシアンとドロイドたるK-2SOの関係。これはフルメタとかにおける宗助とアルのそれに近い関係性で、普通は「ドロイドが人間性を獲得した~~」というところにピークを持ってくるような関係である。ただ今作においてドロイドのK-2SOはすでに人間性を獲得しているので(かわいい)、キャシアンとK-2Oの関係はいわばルート確定後のカップルみたいな没入感がある。端的にいえばラブラブである。K-2SOが弁慶よろしく、「敵をだますためとはいえ、はたいてごめんなさい」とかキャシアンに言ったりするのだが、かわいいのうとなる。AIキャラ特有のオフビート感がすばらしい。ビッグヒーロー6におけるベイマックスやタイタンフォール2におけるBT君に続き、K-2SOも登場して、最近は人間性を獲得したAI君が活躍していてうれしいね。まあただ、唯一ジンだけは明確に相手がいないのでアレなのだが、まあジンさんは父や養父と和解するからいいんじゃないですかね(ホモソ民並の感想)。あと最後キャシアンといい感じになるし(死ぬけどな)。
 さて、ここまでの議論をまとめると、つまりはこういうことである。①ローグ・ワンは地べたをはいずりまわる平民からなるメンバーであり、上流民のレイア姫とは階級的な接点は一切ない。そもそもメンバーとレイア姫の会話シーンすらなく、②ローグ・ワンのメンバーは親密な関係に飢えているわけではない。したがって、ローグ・ワンのメンバーは「AKBセンターの人はキリストを超えた!」的な水準でレイア姫に依存することは絶対にない。しかし、この距離感と乖離がありながらも、いや、この距離感があるおかげで、レイア姫は完璧な形でローグ・ワンメンバーにとっての姫となることができた。ここに「ローグ・ワン」という作品のすばらしさがある。

 

3、みんなの希望、みんなの姫、みんなのスターウォーズ
 「ローグ・ワン」という作品における姫の機能は、救済と見せかけつつ実は救済ではない。まずここがすごい。全滅エンドの物語において、普通姫ポジションの役割は意味もなく死んでいったメンバーたちに「意味があったんだよ〔にっこり〕」とやることではないか。だがレイア姫はそういうお姫様ではないし、ローグ・ワンのメンバーもそういう水準の取り巻きではないのですごくカッコイイ。しびれる。

①自ら勝ち取った「救済」
 そもそも、レイア姫の存在を意識して戦っているメンバーは一人もいない。大事なことは、メンバーは自分たちの手で自らのための救済をやり遂げているということだ。設計図を反乱同盟軍に届けるという目標を、とにもかくにも達成したことを自覚した上で、ローグ・ワンのメンバーは退場する。自分たちのやったことに対して「これは意味があったんだ」という承認は、この作品においては他者や神から与えられる何かではない。メンバーたちは自分たちで救済を勝ち取っている。
 もちろん全滅エンドはそれ自体悲惨なオチではあるのだが、しかしメンバーたちが自らの力で救済を勝ち取ったおかげで、この作品からは安っぽい絶望が完全に取り除かれている。よくあるような、絶望に対して姫ポジションのキャラクターが救済を与える話にはなっていない。そうじゃなくて、救済の問題を解決した後には、実は希望が残るんだよという話になっている。ここが最高だと思う。伝統的なストーリーって「認められさえすれば実益なくてもいいじゃん。人生は歓びだよね☆」みたいなメッセージが多いと思う。承認と救済が調達されましたね、はい終わり的な。だが、だからなんだという話なのだ。だんだんに。

②姫ー取り巻き関係の純化
 絶望が排除されていることによって、ローグ・ワンのメンバーとレイア姫の関係が純化されているのも興味深い。妙な話だが、姫-取り巻き関係の面白いところは、両者がお互いの存在を認識していなくても成立するところにあるわけで、「ローグ・ワン」はこのあたりの要素をうまく利用していると思う。もしメンバーとレイア姫が顔を合わせていたら、即座に「個人的忠誠」「個人的救済」「ワンチャン」「可能性」などのきな臭い要素が侵入して、全てを台無しにしてしまったはずだ。だが先述のとおり、ローグ・ワンのメンバーは姫との間に個人的な接点はなく、またそれぞれがラブラブ状態のお相手をちゃんと持っている。その意味で、取り巻きたるローグ・ワンと姫たるレイアは、ただ「帝国をぶち倒す」という一点のみでつながっている。この純化されたつながりのおかげで、ローグ・ワンメンバーのがんばりは、ただ「希望」という名の極めてキレイな、みんなのものという形を取って姫に継承してもらえたわけである。希望概念があまりにもキレイすぎるので、レイア姫がディスクを受け取る瞬間には、これは本当にみんなの、つまり俺の希望でもあるんだなあと素直に思えるわけで、文句なしの大傑作だと思う*2。絶望ではなく希望で泣ける日が来るとは思わなかった!! ありがとう!!

4、もろもろ

・これはしょうもない話だけど、スターウォーズサーガで、しかもディズニーによる買収後に作成されたスピンオフという、極めてきな臭い状況下における解答としても完璧な作品だったろうと思う。

・同盟艦隊がハイパースペースから出てくるシーンはやばい。「この距離感かああ

!!!」となる。

・リズ・アーメッド君いたね。脱走パイロット。あの自信なさげな雑魚男子キャラほんと好き。心から応援してる。どんどん映画でてくれ。

*1:私は以前、↓

 

zatumuiroiro.hatenadiary.jp

 

というエントリーで姫についてちょっと考えてみたのだが、私の理解では、姫とは「みなから愛されるが、決して誰のものにもならない存在」だった。前から問題意識として、「姫と取り巻きとの距離感って、なんか安心できるよな。あれなんなんだろうな」というのはあったのだが、「ローグ・ワン」という映画を見てより姫理解が深まったような気がする。

*2:なので、序盤の仲間紹介パートがチームの連帯意識よりもカップルのラブラブ感を押し出す演出になっているのには演出上の理由というか、トレードオフがあるんだとは思う。まあ、「ガーディアンズオブギャラクシー」的なスムーズなキャラ紹介って、カップリング紹介とは相容れないっすよ。カップルいたらチームの凝集性〔専門用語〕が下がるのは当然だろうっちゅう話ですわな

童貞とかフェミニズムとか。

・逃げ恥とかが「童貞」とかいう筋で語られてるのがマジでキツイ……

 →「なんでお前みたいなのが童貞名乗ってんだよ殺すぞ……」というケースが多すぎる……奪われてる……奪われてる……となる。

 →童貞を名乗るかどうかを決めるのは個人の権利だろ。同盟候補者は多い方がいいので、童貞を名乗るハードルは積極的に下げていけ。

  →どっちかというと「語り」の道具に使われてるのがムカつく。

 

・「保育業務を市場に外部化すると月18万円、内部化すれば夫の収入の9割ゲト。だから家事労働その他諸々は市場に外部化せずに家計で内部化した方が合理的」というツイートを見た。アホだなあと思うのだが、こういうレベルであからさまにやってる人が「知的」な反動童貞のイデオローグなのだと思うとマジでキツイ。

 →そもそもこの議論は保育業界の賃金水準は規制で決まっているもので、市場競争の結果決まっているわけではないという前提をすっ飛ばしてるので無知そのものなんだよなあ。しかも都合いい時だけ「賃金=生産性」とかいう論理を金科玉条の如く持ち出して女叩きするとか論法としてバカすぎる。

 →そもそも童貞ムーブメントに再分配っぽい議論をぶち込むやつらは全員アホだと思う。いや、アホというか、少なくともああいう連中とは一緒にはやれないなと思う。骨の髄までマチズモに染まってる人たちがもし連帯する基盤があるとしたら、やっぱり比較可能性=数値化できるあらゆる要素を徹底的に排除しなくちゃダメなんじゃないかな。つまり「でもお前所得500万円じゃん!」とか「お前そんなこといいつつラインアカウント100個持ってるじゃん」とか、そういうバカな競争を始める余地を排除しなくちゃならない。だから変な理屈をこね回すよりかは、単に「恋人いない歴=年齢」とか「未経験」の方が連帯の基盤としてはるかに筋が良いだろうに。分かりやすいし。

 →連帯の基盤とかいいつつ、これ(=童貞の承認問題)って連帯して解決するべき問題なんですかね? 

  →当たり前だろ。

 

フェミニスト非モテ男子の共闘理論について

 →キモい、という反応が当然あるだろう。しかし、両者が手を組まないとすれば、それは端的に「分断」といわれてるやつなのではという気はする。少なくとも非モテ男性は結構フェミニストにアタマなでて欲しい感じはあるっぽいしな。

  →「フェミニストの言うこと聞いたのにもてナイじゃん!」論については、個人的には間違いだと思っていて、別にモテを期待していたわけではないんだと思う。どっちかというと「フェミニストの言うこと聞いたから褒めてよ!」が正解というか、ようはかなり低い水準の承認が欲しいだけなんだろうなという気はしている。まあフェミニスト側からすればマジでふざけんなという感想だとは思うのだが、褒めるだけでザコ男子との同盟を確保できるなら褒めた方がクレバーなのでは?(暴論)という気はする。それにまあ、フェミニズムとかに理解がある(という体の)男子が増えるというのはどう考えても進歩なので(だよな?)、喜ぶべきでは? とは思う。

  →それに一応ザコ男子代表として言わせてもらうと、最初はふりだったけど、最近はマジで露骨なミソジニーとか性差別に乗っかれなくなった。こういう意識の変化ってやっぱりあるもんなんだなあとは思う。

  →というかもっと言うと、ザコ男子の周りには本当に一人も女性がいないんですよ。モテ以前の問題。例えば私は女性とラインしたこと無いし、大学時代にゼミ以外の女性と話したのは多分2回くらい。あまりにも女性との交流が無いので、だから、「女性はどんなことを考えてるんだろう???」という疑問からフェミニズム本を手に取るという経路が一定数あると思う。ある種、リアルな女性像を求めて本を取っているというか。まあ私はこの筋です実は。恥を忍んで言うと、もう少し偏差値低めのカルチャーに属していたらモテ理論とか、ナンパとか、情報商材っぽいのにハマってただろうなという感じはあり。まあなんだ、『ジェンダートラブル』と『ザ・ゲーム』は、女性のリアルを知りたいという欲求に応えてくれるという意味では、無知な非モテ男子の中で普通に競合する商品なんだよなあというか、こういう悲惨な知的環境にいる非モテ男子、同情に値するよね……となる。

 →あと関連して、「今の若い男性の母親はキャリアウーマンなので、マザコン男子は自立した女性=フェミニストが好き」という理論について。

   →個人的にはそこまで外れてない議論のような気もする。私も自立した母親をかなり尊敬しているしな。

   →関係ないが、私の両親は同じ職業で、母の方が先に出世して管理職と化したという状況なのだが、なんというかフェミニストが好きそうな状況だなと思った。父からすれば「面白くない」展開だと思うし、実際父は一時期メンタル的に荒れてた感はあった。でも母に対して怒ったりはしなかったし、母も父のことは尊敬しているので、今は乗り越えた感があるのでいいなとは思う。実はわたしはもっと荒れると思っていたのだが、父が変化を飲み込んだという感じだったので、まあ普通に立派だなあと思う。こういうのに対して「当然だろ!!!」と言ってしまわずに、今の社会状況ならまあ威張るほどではないにしろ立派ではあるという形で承認を与えていく地道な作業があるかないかでだいぶ色々変わるのではないか、とか思ったりする。

 

・童貞ムーブメントは積極的価値を打ち出すべきか?

 →「成長!」みたいなのはもううざいので、とりあえず承認を求めていけ。

 →経済と再分配の話はしません。年収やら教育を受けた年数の話をした瞬間連帯の契機は失われます。

 →そのマチズモ病を治せ! という話はあって当然なんだけど、これは多分一人で直すのは無理。マチズモ的傾向はいろんな人とのコミュニケーションの中で修正されるべき、あるいはコミュニケーションの中でしか修正され得ないものだと思うのですよ。だから順番として、問題を解決してから連帯、というのは成立しない。まずはワンイシューで連帯し、連帯の結果としてのコミュニケーションがあり、最後に相互理解=マチズモの解消があるのだと思う。

 →そもそも童貞が求める「承認」ってどうすれば満たされるんですかね。セックスしたらいいのか、恋人出来たらいいのか、それとも、単に「童貞でもいいんだよ」と言ってほしいのか。

  →このあたり、「童貞は家父長制度に過剰適応した結果世の中から取り残されてる」と見るか「童貞はマジでそういう連中なんだよ。。。(特に説明はいらない)」と見るかでかなり話は変わってくる。無論、事実としては色々な要素の複合体として童貞があるとは思う。ので、とりあえず「野蛮な単純化と回収はやめてください!! いろんな童貞がいるんですよ!!」くらいは言ってもいいのではないかな。

    →その意味でもやっぱり「童貞の多様性」って大事だよな。単純化とか回収を避けるためには複雑化する必要があり、複雑化するためには多様化が絶対必要だ。

    →だからまあ結論としては、いろんな奴らが勝手に「童貞」を名乗ったり、童貞に関するいろんな語りがある現状って、そんなに悪くもないのでは……

     →いやいや、センセーショナルな利用と承認とは分けて考えろよ!

     →ドラマやらアルファツイッタラーに負けるな!!!

      →俺も童貞として出撃していかなくちゃならねえ。俺も一翼を担わなくちゃならねえ。

人狼童貞を捨てた話

人狼。それはリア充たちの宴。

人狼。それは非リア民にとって最後のフロンティアである。

ある経験

 私は小学生の頃から尖っていたので、当然キチガイ枠少年だったのだが(大体、お道化:真性=3:7くらいのキチガイ)、一度だけリア充グループと「ダウト」というゲームをプレイしたことがあった。

 ただ、小学校時代の私はダウトというゲームに対して異常と言ってもよい強度の憧憬を抱いていたから、せっかくゲームに参加させて貰えたのに、テンションが上がりすぎてひどいことをやらかしてしまった。

 どんなやらかしか。

 リア充たちの出すあらゆるカードに対してひたすら「ダウト」宣言をし始めたのだ。それもニヘラニヘラと笑いながら。

 あまりにも幸福すぎて、一度だけ言ってみたかった「ダウト!」と口に出せるのが嬉しすぎて、頬の筋肉を引きつらせながら、ひたすらダウト! ダウト!と連呼したのだ。

 その後私がリア充たちのダウト会に呼ばれることはなかった。

 っていうかそもそもダウトのルール知らなかった。

人狼の私的ゲーム理解 

 人狼というゲームの存在について初めて知ったのは、大学時代に知り合いが

「俺、人狼プレイしたんだ!」

 と言い放った時である。

 異常と言ってもよい強度の憧憬を抱いたのを覚えている。

 ルールについてはおぼろげには知っていた。なにやら、嘘をつくコミュニケーションゲームらしい。

 なんかダウトみたいだなと思った。リア充っぽいなと思った。

 誰もが相手のかぶっている仮面というフィクションを尊重し合うことによってかろうじて成立している社会で、その仮面をやさしく剥がし合うコミュニケーションゲーム、とは。

 やばい……これって、ほとんどセックスと同じじゃないか……。

 当時の私はそう思った。

 童貞なので俺には人狼は無理だな……となった。

 ただ、人狼に対する憧憬だけはあって、とりあえず人狼非童貞の人間に会うと「でもお前さ、人狼やっただろ!?」というウザ絡みをしていた。

人狼童貞は失われた

 だがそんな私にもついに人狼童貞を捨てることができた。

 これもひとえに、私を誘ってくれた某君のおかげである。心からの感謝を捧げたい。

 ちなみにこの感謝は誘ってくれたことへの感謝である*1

 さて、会場はジュクだった(ジャーゴンが分からない方向けの表現:新宿)。

 私は脳内で大体こんなことを考えていた。

 自己紹介ではこんなふうに自分をブランディングしよう!

 

「いやあ、僕、人狼やるのが人生の夢だったんです! 今日は夢が叶いました!」

 続いて、会場大爆笑。

  

 いいなと思った。

 こういう感じで非リアキャラをコンテンツ化していく先にウケが待っている。そうなんだ。

 だが、時がたつにつれて会場にはポツポツと知らない人間が集まってきた。

 人間がやってくる度に私の心は重くなった。

 知らん奴はキツイ……

 10人ほど集まったところで自己紹介となった。

 私は言った。

「えー。一度やってみたかったので、大変楽しみです。どうぞよろしくお願いします」

 続いて、会場拍手。

 いや、たしか拍手は無かった。

 ……あれ?

 本当はもっと悲惨な負荷をかけるつもりだった。人生がどうとか、非リアがどうとか。

 だが緊張のあまり想定していた発言すらできなかったのだ。

 なんというザコか。泣きたかった。

 ゲームが始まった。

 私は人狼になった。

人狼としての生き方とは

 童貞はセックスする段になったら確実にキョドるんだろうな、という印象がある。

 その印象に近い感覚だった。

 まさか、いきなり人狼とは……

 なぜか会話が始まった。

 「1ターン目はねー、やることないからねー」

 皆、口を開きはじめる。

 よくまあ愚にもつかないことをべらべらと喋るものだ。

 などといいつつ私は焦った。

 人狼たる私は何を喋ればいい? 

 嘘をつけばいいのか?

 あなたが好きですとか言えばいいのか?(意味不明)

 何もできないうちに、最初のターンが終わった。

 なぜかもう一人の人狼が吊し上げられた。

 かわいそうに……

 二ターン目が始まった。

「あなた、あまり喋ってませんよね?」

 と、いきなり集中砲火を浴びた。

 これが……迫害か。

 私はプロテストした。

「いいですか、ある人間があまりしゃべらない場合、それには二つの原因が考えられるんですよ。つまり、その人が人狼であるか、あるいはその人が単なるコミュ障かということです。私は後者ですよ」

 コミュ障というのは黙っている時ではなく喋る時にボロが出るものである。

 抗戦虚しく、あまりしゃべらない、という理由で私は殺された。

 他にも幽霊だったか心霊がどうとかいう謎の根拠付けがなされたが、まあ、あんま覚えてない。

 迫害の魔の手は私を追放することに成功したので、おかげで村は平和になった。

 私の人狼童貞は2ターンで終了した。

「あなた、声震えてましたからね」

 ゲーム終了後、誰かが言った。

 もし私が誰かとセックスをする時にも、きっと震え声なんだろうなと思った。

狂人の死

 何ゲームかやった後、私はついに狂人職を引いた。

 嬉しかった。

 というのも私は自他共認めるフリークスなので、常日頃から周りの人間にこう漏らしていたからだ。

「俺さーまじナチュラルボーンフリークスだからさー、人狼の狂人とかやったら絶対強いわ」

 心の準備ができていたので、私は開幕から「占い師カミングアウト」と呼ばれる戦術を取った。

 我ながら完璧な狂人ぶりだったと思う。

 するともう一人、本物の占い師が名乗り出た。

 瞬間、壊し屋としての血がたぎってきた。

 ちょうど小学生の頃、ダウトダウトと連呼してリア充のダウト会を壊滅に追いやったように……

 今回、私は平和な村を破壊するのだ!

 泣きだすほどの充実感が体中を走り抜けた。

 一日目の投票では、無実の第三者が迫害された。

 とても幸せだった。

 フリークス最高だと思った。

 だが次のターン、私は退場を宣告された。

 人狼たちが私を殺したのだ。

 ……は? となった。 

 フリークスは人狼の仲間である。

 アウトロー同士は必ず不思議な連帯感情で結ばれているものだ。

 どんな映画を見たって、開始20分で「はぐれもの」たちがチームを組むだろう?

 だが現実は非情だ。

 狂人は人狼と連帯する契機を奪われたまま葬られた。

 フリークスはこの残酷な世界の中で、たったひとりで生き抜かねばならぬのだ…… 

とってつけたように

 まあ、人狼、楽しかった。

 悔しいけど……悪くないものです。

 そして、私は人狼童貞を捨ててしまったので

 ここに人狼童貞伯爵の称号を放棄するものです。

 つまり、今後人狼非童貞に対して

でもお前さ、人狼やっただろ!?

 というウザ絡みをする権利を失ってしまった……といこと。

 悲しいような……寂しいような……うれしいような……

 以上、報告と宣言でした。

*1:マジでありがとうございました

魔導史科の人々

某市場に出したやつ。

【話の内容】

 近世百合ファンタジー。魔法がある世界における30年戦争っぽい戦争について議論している二人を描いた短編。

【本文】

魔導史科の人々

 

 プラキア市の旧市街地にある小さなカフェ「メモリア」は、いつも朝の十時に開店する。それは春夏秋冬、三六五日にわたって変わらない法則のようなもので、たとえばその日は八月の非常に暑い日だったのだが、やはり店主は朝十時に店を開けた。

 入り口のドアを開けて通りに出てきた店主は、まず本日のオススメメニューが書かれた看板を店先に立てかけた。かぼちゃケーキは八クラウン、かぼちゃのプリンは十クラウンである。両手を腰に当てて、満足そうに看板を眺めた店主は、今度は店先の花壇に目をやった。近づいてかかがみこむと、店主は花壇に植えられたペチュニアを少しだけ世話した。日照りが続いているせいで、ここのところペチュニアはどんどん元気を失っているようだった。カサカサに乾いてしまった葉を指でいとおしげにさすりながら、店主は物憂げな表情をつくった。ひょっとしたら、このペチュニアたちは店の裏に移動させた方がいいかもしれない・・・・・・。しかし旧市街組合の景観協定では、通りに面しているカフェは店先に花壇を配置することになっている。ペチュニアの命か、組合の協定か。市外出身の店主にとって組合との関係はないがしろにできるようなものではなく、なかなか難しい選択と言えた。

 店主がそんなことを考えていると、通りの反対側から二人の若者がカフェに近づいて来るのが見えた。見るからにプラキア大生といった風貌の二人組だ。片方は、長い銀髪を揺らしている長身で、上は白のレース付きブラウス、下は薄い生地のパンツといった出で立ち。左の手首には黒のビロードを巻いているようだったが、そのワンアクセントは、白を基調とした服装だから遠くからでも目立った。表情は明るく、まるで開城したプラキア市の城鍵を受け取ったかのような自信にあふれていた。服装と表情の方は軽やかだったが、しかしこの銀髪の若者は大きな、重そうなトートバックを脇に抱えていた。

 一方、もう片方の若者は、クセの強そうな黒髪が特徴的で、背丈は銀髪よりも少しだけ低い。服装の方は、全身黒ローブというおよそ夏らしくない風貌であるが、店主はこのローブを着込んだ学生を何回か見たことがあった。黒ローブはプラキア大の礼服で、入学式や卒業式のシーズンには黒ローブ姿のプラキア大生が町にあふれかえるのだ。ただ、今はどちらのシーズンでもない。黒髪がまとっていたローブは聖職者が着る法服のように体のラインを覆い隠すタイプではなく、むしろ体型にピッタリ合ったローブで四肢の動きが見て取れるので、最低限の軽やかさが与えられているようだった。幅の広い腰のベルトはバックルが銀製で、きちんと磨かれているせいか日光を受けて清潔な光を放っている。いかにも「さきほど起こされました」と主張している眠たげな表情のせいか、黒髪の若者にはどこか落ち着いた雰囲気があった。持ち物は少なく、こじんまりとしたショルダーバックを肩から下げているだけだった。

 並んで歩を進める二人は店先までやってくると、ペチュニア花壇の前にたたずんでいた店主に向かって朝の挨拶をした。とはいえ、銀髪の方の挨拶はいかにも慇懃無礼という感じだったし、黒髪の方はといえばいかにも気だるげな調子だったので、店主は心の中で頭を抱えた。

「あんたら、今日も粘るつもりで来たんだろ」

 店主も朝の挨拶を返すと、二人の客の前に立ちはだかり、さきほど立てかけた「本日のオススメメニュー」の看板を両方の人差し指で差した。パンプキンケーキは八クラウン、カボチャプリンは十クラウンなのだ。しかし二人の客は看板に目もくれず、曖昧な表情のままぞろぞろと店内に入っていった。呆れ顔の店主もそれに続いた。

 二人の客のうち、注文カウンターに向かったのは銀髪の方だった。手入れの行き届いた長い銀髪は、色合いとしてはブラウスのレースに溶け込んではいるものの、いざ髪を後ろに送るような場合には自らの存在を主張し始めるかのようだった。髪がかきあげられ、手首に巻きつられた黒いビロードが銀髪の海に埋もれていく段になると、深い黒とのコントラストのおかげで、銀髪の美しさがいよいよ引き立てられるのだった。

 銀髪は丁寧に言った。

「珈琲を。二つ。東部シトー産の豆で」

「なるほど。悪くない選択と言えるかもしれません。それは確かです。しかし・・・・・・」

 カウンターの奥側に立った店主は、げっそりとした表情をして最後の抵抗を見せた。

「今日はパンプキンのケーキもあるんですがね。全部天然素材ですし、味は保証しますよ。しかもセットにすると大変お得なるんです」

 が、銀髪の客はニッコリと微笑むと、上品な動作で四クラウン硬貨をカウンターに置いた。そして片方はミルク多めで、と注文をつけてから、連れが陣取った席に向かった。店主は悔しそうな顔をして、四クラウン硬貨をレジにしまい込んだ。

 席の占領を担当していた黒髪は、首尾よく店内で一番よい席を確保していた。席は窓側で四人がけ。窓が近く通りにならぶ露天が見渡せ、店外に設置されたオーニングのおかげで日当たりも心地よく、店内の冷房からも程よい距離だ。テーブルや椅子などの調度品もビーン島風。店主にとっては、パンプキンケーキを注文するような客のために用意した席そのものであったが、しかし店主は為す術もないようで、面の皮が厚い二人の客が席を占拠するのにまかせるしかなかった。

「あんたと来たら」

 先に席について、頬杖をつきながら厚紙製のメニューを眺めていた黒髪の客が言った。夏なのに真っ黒な長いローブに身を包んでいるものだからやはり暑いらしく、冷房にありつけてひとごこちついたという様子だ。

「私にまたあの苦い豆のだし汁を飲ませようという腹なわけだ」

「一昨日あなたに言われて試したけど、ここの紅茶美味しくないし」

「あんたは紅茶のことを何も分かってない」

「あなたが珈琲のことを何も分かってない程度にはそうでしょうね」

  銀髪はトートバックを奥の席に置くと、自分は黒髪の正面に腰を落ち着けた。

 

 

 銀髪の客は相方の向かいに腰を落ち着け、あー重かったとつぶやくと、トートバックから古めかしいハードカバーの本を何冊か取り出した。そして「店を開きはじめる」という表現の良いお手本となるような動作で、一冊一冊丁寧に並べていった。一方の黒髪は、几帳面な面持ちで書店を開店させている銀髪を呆れ顔で眺めると、自分はショルダーバックから小さなメモ帳を取り出し、無造作にテーブルに置いた。

「そういえば」本を並び終えると、銀髪の客は付箋と切り抜きのせいで分厚くなった大判のノートを開き、テラノ製の万年筆をノートの隣に置いた。

「聞いた? ティリ先生、コーン教授といよいよ一騎打ちらしいね。はたして史学研究科長の座はどちらの手に渡るのか?」

「どうでもいい。そもそも魔導史学科と君侯史学科の統合に私は反対だから」

「それは知ってるけど……でも、ティリ先生が劣勢ってことは? だから」

 銀髪が続けようとしたのを、黒髪が手をそっとあげて遮った。

「今日は学内政治の話をしに来たんじゃない。一昨日の続きに入ろう」

「あら、学内政治と私たちの研究が区別できるわけ? そういう態度を取るのってずるいと思うけど?」

 銀髪は水を得た魚もかくやという生気を撒き散らしながら語り始める。

 黒髪は、まーた始まった、とうんざりしたようにつぶやくと、窓から見渡せる通りに視線を送った。プラキア城と大学が中心の旧市街地と異なり、繁華街であるこの通りには多種多様な露天が並ぶ。

「まあ、話したくないんなら別にいいけど……」

 銀髪は餌を取り上げられた犬のような調子で急に押し黙ると、相棒の注意を引き戻そうとして言った。

「それで、一昨日はどこまでやったっけ?」

 黒髪は苦々しげな表情を作った。

「あんたに宿題を出したところまでだよ。《大叙爵》に関する資料整理。『一三三一年の皇帝勅書』を現代語に訳してくる約束だった。とりあえず勅書第四部が必要なんだけど、見せてくれる?」

 新市街地から視線を戻すと、黒髪は秀才特有のあの傲慢さに満ちた調子で言った。私が知っているのだからあなたも知っていて当然。私ができるのだからあなたもできて当然。

 反論は早かった。銀髪の珈琲党はノートをめくり、一番最初のページを指差した。ノートには学内誌の切り抜きが貼り付けてあった。

「でも指定されてるテーマは『一六七一年に行われた、シーン王とミナ王による共同戴冠の経緯と意義について、コーン仮説に言及しつつ論ぜよ』でしょ? 一六七一年に執り行われた共同戴冠の、つまりは三百年以上前に起こった《大叙爵》から論述をスタートさせるのはさ、どう考えても冗長だと思わない? 私はどっちかというと戴冠式の方を詳しく書きたいんだけど?」

「……はい? 蒸し返さないでくれる?」

 黒髪の紅茶党はイラつきを隠さずにまくし立てた。伸ばされたままになっている人差し指の爪を、コツコツとテーブルに当てながら。

「その論点についてはもう十分話したろ。両研究科統合記念の懸賞論文なんだよ? もちろん魔導史と君侯史、二つのアプローチからの回答が期待されてると見るべきだろう。つまり、《大叙爵》によって君侯化した魔女たちが、君侯たちの汚い戦いに巻き込まれ、最後には政治権力という汚物まで獲得してしまう、というね。私に言わせれば、共同戴冠の意義とは『魔女の世俗化が完了し、魔女がこの世界から消え去ったこと』に他ならないね」

「そうかな? 私としては、《大叙爵》によって君侯としての実力を得た魔女たちだけが、魔導大戦という悲惨な迫害を跳ね返すことに成功した、って書きたいところね。だからシーンとミナによる共同戴冠の意義は『魔女の政治的独立を確定させたこと』にあると思う。っていうか、まずここの不一致を解決してしまった方がいいような気がするけどね」

 銀髪が駄々をこねるようにして言った。このままベタベタと流れを持っていかれては困るということで、黒髪がやや強引に話を戻した。

「……話をそらさないでよ。ちゃんと翻訳してきたわけ? ほら。皇帝勅書の。第四部。翻訳。よこしなさい」

「翻訳、翻訳……翻訳ね。でもさ、それって本当に必要かな? お互い古テラノリアル語は読めるんだし、原典ベースで議論した方がよくない?」

「関係ないね。懸賞論文は現代語で書かなきゃならないんだから」

「えーと」銀髪の客はノートからそっと手を引いた。

「昨日はちょっと用事があって」

「なに」

「用事が」

「具体的になに」

「男の子と映画を」

「はあ!?」

「アルバ監督の撮った最新作なんだけどね。『道と馬』っていうタイトル。それなりに面白かった」

「いや、聞いてないから」

「だってさ、具体的に聞きたかったんじゃ?」

「わざとやってるな」

「どういう意味」

「じゃああたし帰るから」

 黒髪の客が席を立つと、その話し相手は表情をほころばせながら、諭すように言った。

「待って待って。一緒に懸賞論文を書き上げるって約束したじゃない? 約束は守ろうよ」

「ああ約束したとも! 忘れないでほしいね、他にいくらでも相手がいそうなものをあんたの方から頼んできたんじゃないか。どうしてもと言うから、あんたが夏季休暇をこの論文に捧げるという条件で私は共同執筆者になってやったんだ。なのに何! あたしが図書館で史料探しをしている間に、あんたは映画館で男探しというわけだ!」

「……別に映画館で男の子は探してない。一緒に行く人とはバスの停留所で集合したから」

「あーやだやだ! あんたのそういうトボけたところにはもー耐えられない!」

「ミルク多めの方はどちら?」

 テーブルにやって来た給仕係が、二人の客の議論に割って入った。給仕係はミア地方の貴族に仕えていたお仕着せたちを模した風貌で、片手で支えられた銀色のトレーにはカップが二組、サイフォンが二つ、ポッドが一つ乗せられている。

「あちらの方です」

 銀髪の客も姿勢を正すと、舞踏会で意中の相手をダンスに誘うプリンスたちのような動作で右腕全体をしならせた。その大げさな動作にこれまた大げさな礼で応えた給仕係は、さっそくコーヒの給仕を始めた。陶器製のソーサーを几帳面な面持ちでテーブルに配置し、その上にソーサーと同じ柄のカップを配置していく。カップはやや高めの口が小さいタイプで、珈琲を楽しむのに向いている型だ。カップの設置が終わると、控えめな回転とともにサイフォンから珈琲が注がれた。さきほどまで口論をしていた二人の客は、どこかきまずかったせいか、給仕係がくそまじめな表情で珈琲をカップにそそぎ込むのを、これまたくそまじめで神妙な顔つきで見つめる。

「お砂糖いただけます?」

 給仕が終わるやいなや、黒髪の客が唐突に尋ねた。

「おやめなさい」

 と銀髪がしずかな声で制止したが、その時すでに黒髪は仕事に取り掛かっていた。給仕係から木製の砂糖入れを受け取ると、黒髪はスプーンで砂糖を大量にすくい、何度も何度も珈琲に注ぎ始めた。砂糖はだばだばと音を立てて珈琲に降り注ぐ。黒髪の動作には、図書館で史料を扱う史学徒めいた繊細さは見られず、むしろ労働者がスクラップを高炉に投げ入れるかのようないい加減さだけがあった。

 銀髪の客はまゆをつりあげる。

「ああ、東部シトー産の豆が台無しだ」

 と、珈琲に砂糖を投入しながら、黒髪が楽しそうに言った。銀髪は、黒髪が砂糖の投入をやめるのを辛抱強く待っていたが、その兆候は全く見られず、小さなスプーンは砂糖入れとコーヒーカップの上を何度も何度も往復するので、ついにしびれを切らした。

「……ちょっと! もう十分でしょ。ただでさえミルク入りなのに。どれだけお砂糖入れるつもりなわけ?」

「甘くなるまで」

 小さく口をあけて絶句してしまった銀髪は、おぞましい異教の儀式に遭遇した聖職者めいた表情で相方の珈琲カップを眺めた。しかし深呼吸によってなんとか平静を取り戻すと、まるで自分だけは手元の珈琲の真価を理解しているのだとでも言いたげに、両手で大事そうにカップを包んでから、もったいぶってカップを口に近づけ、東部シトー産珈琲の香りを楽しみ始めたのだった。黒髪のカップがなるべく視線に入らないようにしながら。

 

「まあ・・・・・・、論述を《大叙爵》から始めるのはいいにしても」銀髪の客がカップをゆっくりとソーサーに戻しながら言った。

「論文でその《大叙爵》をどう位置づけるかについては私達の間で決着がついてないでしょ。まずそこから始めない?」

「議論の余地は無いね。東部の魔女たちがコーラルⅣ世による《大叙爵》を受け入れたのは失敗だった。まさに致命的と言うべき失敗さ。そのせいで本来権力と無縁だった魔女たちが、世俗の汚らしい政治闘争に巻き込まれてしまったんだからねえ。シーンとミナの共同戴冠なんてのはあんた、魔女の生き方が君侯どもの論理に取って代わられていった数々の悲劇の中でも、その最たるものと言えるだろうね」

 と、珈琲をかき混ぜる作業に没頭しながら黒髪。視線は珈琲渦の中心に向けられている。

「あらそう? 私は全く逆の意見なんだけど? 十四世紀の《大叙爵》で帝国諸侯としての地位を手に入れていなかったら、東部の魔女たちは早い段階……おそらく、一六世紀の《蔑視の時代》までに根絶されていたと思う。実際、一五四三年の第十二次聖公会議で正式に宣言されたように、魔女としての生き方を貫いた西部の連中はあの時点で根こそぎやられちゃったわけだし」

 銀髪の言葉を聞いた黒髪は顔をあげて、忌々しげに銀髪を見つめると、静かに言った。

「それならそれで良かったんだ。時代の流れに逆らってまで生き残ってもしょうがない。一体全体、そうまでして生き残る価値があるのかね、魔女たちに」

「もちろんそういった価値判断は学問のしごとではないけれど」銀髪はもう一度もったいぶってカップを持ち上げた。

「私はあると思うけどね」

 黒髪はふんと鼻を鳴らすと、また前かがみになって珈琲をかき混ぜる作業に戻った。だが今回だけは、この粗野で異教的な行いを、銀髪は愛おしげに見つめていたのだった。

「ふふ。まるで魔法薬を精製してる魔女みたいよ、あなた」

「あんたにもできるはずだ。砂糖ならあるんだから」

 ぐいと木製の砂糖入れを押し出した黒髪に対して、銀髪は慈しみの笑顔を苦笑いに切り替え、表情そのままに視線をノートに戻した。

「それで、話を戻すけど。あなたは《大叙爵》を、魔女の生き方が変わり始めたその第一歩として見ているわけね?」

「堕落の歴史だよ、《大叙爵》以降の魔導史は」

「じゃああの悲惨な疫病に対して、魔女たちは何もするべきではなかったと?」  

「……難しいところをついたつもりだろうが、私の意見は変わらないね」

 黒髪はニヤリと笑ってから、カップを口に近づけようと試みた。が、その匂いを嗅ぐとまたカップをソーサーに置いてしまった。

「あんたの言う通り……十四世紀に入ってすぐの頃、大陸で悲惨な疫病が流行した。特に子供たちに罹りやすい病で、君侯の子だろうが農民の子だろうが関係なくばたばたと死んでいった。で、どうなったか?」

「当時ならよくあることでしょ」

 銀髪の解答を不服そう受け流す黒髪。

「皇帝は魔女に助けを求めてきたのさ! なんたる厚顔無恥! そして当然、魔女の解答はNOだった。歴代の皇帝が放った遠征軍は少なく見積もっても南部で十二、北部で八、一番弾圧が苛烈だった西部では十八もの魔導協会を容赦なく潰していたから、魔女たちとしては皇帝の要請を蹴り返す他なかったんだ。各地の魔女は一般にサバトと呼ばれる協会会議を開き対応を協議したが、どこの魔導協会も全会一致で帝国と人間への不協力を決議した。魔女としては当然の対応だ」

 黒髪が大演説を終えて一息ついているのを相方が引き継いだ。

「でもたった一つの協会が、他とは違う対応を選んだ。ここプラキア市を本拠地として、帝国東部地域で活動していた魔導協会ね。通称《十三人協会》。懸賞論文のテーマにあるシーン王もミナ王も、元々はこの協会のメンバーだった、つまりコテコテの魔女だったことが分かっている……と」

 銀髪の客がノートをめくりながらそう言うと、黒髪はむきになって言った。

「なーにが『たった一つの協会』だよ。まるで帝国への協力が《十三人協会》全体の意思だったかのような言い方をするのはやめてもらいたいね。事実に反するから」

「あら。事実でしょ。少なくとも三冊の一次資料にそう書いてるあるけどね」

 銀髪がとぼけて言ってみせると、つい先程そうしたように、黒髪の客はまたしても人差し指の爪をテーブルに打ちつけ始め、自分の言葉に弾みをつけるようにして言った。

「確かに結果として帝国に協力する形にはなったが、元々《十三人協会》の内部でも意見は割れてたんだ。正確に言えば、ああなったのは造反者、裏切り者が出たせいなのさ」

呆れ顔で割って入る銀髪。

「裏切り……ね。でもこんな言葉を知ってる? 『裏切りはかならずしも悪人と善人の間でおこるとは限らない』ってね」

「もちろんその通り。だが、健全な魔女と堕落した魔女の間で起こることはあるんだ」

「なるほど」

 銀髪は観念したように両手を上げると、黒髪の言葉を促した。

「事実はこうさ。《十三人協会》の魔女たちが残している議事録によればだ、神聖皇帝コーラルⅣ世の要請に対してどう返答するべきかを相談したサバトでは、終始拒絶派が優勢だった。名誉職ではあったが会長を努めていた《黒の魔女》ミナ以下、一三人中十二人の魔女が拒絶に投票した。それほどコーラルⅣ世による迫害は苛烈で、魔女たちの警戒心は強かったんだよ。なのに一人だけ、神聖皇帝への協力を訴える魔女がいた。それが《嵐の魔女》シーン。後のシーン共同王その人というわけだ」

 黒髪が続けようとすると、銀髪がまたしても唐突に割って入った。

「私その魔女好き。歴史を勉強しているとお気に入りの人物っていうのがどうしても出てくるものだけど、《嵐の魔女》シーンは特別お気に入り」

「あっそ」

 忌々しげに言葉を切る黒髪。だがなんとかして一言だけ付け足した。

「あたしは嫌いだよ」

「転科のことまだ根に持ってるわけ?」

 黒髪は珈琲を唐突にあおった。が、やはり無理をしていたのか、さっそく咳き込んでしまう。なんてひどい……しんじられない……などとつぶやきながら、ハンカチを求め脇においていたショルダーバックを漁る黒髪。

 その様子を見つめながら、銀髪が呟いた。

「あなただって本当は魔女シーンが好きでしょうに」

 黒髪の客はハンカチで口を覆いながらい銀髪を一瞬睨みつけた。そうしておいて、空いている方の手を無気力に振って何か言おうとした銀髪を黙らせた。

「とにかくだ。シーンの奴が受諾票を投じたせいで、《十三人協会》の開いた協会会議は魔導上の拘束力を発揮できなくなってしまった。本来サバトでの決定は魔女たちを契約魔法によって拘束することができるんだが、それが可能なのは全会一致を見た時だけだからだ。《嵐の魔女》シーンはサバトが終了するやいなや、皇帝の宮殿に飛んでいった。疫病にやられていた皇子たちを治療するためにね」

「それって問題あるわけ? 協会としてではなく、シーンが一人の魔女としてやったことじゃない。よく言うでしょ、『魔女はなんだって一人でできる』」

「知ってるよ。だがその言葉はこう締めくくられる。『ではなぜ魔女は協会を必要とするか?』とね。魔導協会の連帯というものを、シーンはなし崩しにしやがったのさ。かの高名な《十三人協会》の正式メンバー、それも最も格式が高くそして古い歴史を持つ魔女の一人である《嵐の魔女》が、コーラルⅣ世の宮廷で皇子たちの疫病を見事治療したという噂はあっという間に大陸中に広がり、帝国中の連中がここプラキア市に群がってきた。その殆どは子供が疫病にやられた親たちでね」

「かわいそうじゃない。たすけてあげないと」

 銀髪がひょうひょうと口を挟む。黒髪は眉を寄せて続ける。

「とにかく、人々の流入によって市の衛生状態は崩壊寸前に陥ったし、治療を求める人々も暴徒化寸前。実際、一部は暴徒と化して橋への攻撃を始める始末さ。市街に通じる一番大きな橋だったロベルツ橋の管理塔を包囲側に奪われた段階で、プラキアの市政会まで妥協路線へと舵を切った。《十三人協会》側、特に《黒の魔女》ミナは徹底抗戦の構えを見せていたが、足元の市政会が城門の鍵を開けたがっていたんだから戦えるわけがない。魔女シーンの作り出した状況に押し流される形で、結局《十三人協会》は帝国と人間への協力を約束した。やむなくね。一三二九年の段階で《嵐の魔女》シーンと神聖皇帝コーラルⅣ世が妥結していた秘密協定が『黄山の協定』で、その協定の正式版が『一三三一年の皇帝勅書』……あんたに現代語訳を頼んだ文書だね……それで、その勅書を根拠として、その年の終わりにピカデリー宮殿で、魔女に対する《大叙爵》が盛大にとり行われたというわけだ。帝国を疫病から救った功績に対し、というお題目でね。魔女の神聖帝国諸侯、という学問上の難題が登場した瞬間だ」

 

「《十三人協会》のメンバーでも約一名、爵位を受け取らなかった魔女がいるけどね……」

 黙って珈琲を飲みながら黒髪の大演説を聞いていた銀髪が、肩をすくめていった。

「一三三一年の《大叙爵》を描いたタペストリー、『ピカデリー宮殿での叙爵式』に描かれているように、《黒の魔女》ミナは皇帝への宣誓を拒否した。そのせいで、爵位を貰い損ねた。ゼルン領圏公爵および選定大公の地位が約束されていたのに……本当に、もったいないというか、意固地だよねえ、ミナっていう魔女は」

「あくまで魔導史科所属の研究者として言うんだが」

 黒髪は楽しそうに椅子の背もたれに寄りかかった。

「あれは皇帝が悪いよ。叙爵式の直前になって、黒ローブを着用している者に叙爵はできない、なんて言い出すんだから」

「着替えればいいだけでしょ!? 魔女シーンが用意していたドレスがあったんだから!」

 銀髪は乱暴にノートをめくり、貼り付けてあった絵柄を指で突いた。

「あぁ、それ。何ていうんだっけ? その、当時流行していた、模様のある薄い布は……」

「ひょっとしてレースのことを言ってるんじゃないでしょうね?」

 銀髪の肩から力が抜ける。

「そうレース。魔女シーンときたら、そういうレース付きのドレスに鞍替えして叙爵式に出席したからね。魔女の服装は黒ローブと決まってるのにだ。二重で裏切ったというわけだ」

「叙爵式にどんな服装で出るかなんて瑣末な問題でしょ……?」

「魔導史的には瑣末じゃないね」

「あきれた」

 銀髪は大きなため息をつくと、少しきつい調子でまくし立てた。

「これは複数の年代記に書かれていることだけど、宣誓拒否の話を聞いた魔女シーンはこの時、相当怒ったらしいよ。本来ミナに与えられるはずだった議会爵位の票は、帝国議会で魔女たちが立場を確保する上で欠くべからざるものだったんですもの。シーンはちゃんと色々計算して、皇帝と交渉してたのよ。それが魔女ミナのせいでめちゃくちゃにされちゃったわけ」

「それは典っ型的な君侯側のロジックだね。シーン史観と言ってもいい。魔女が神聖帝国議会に出席してる方がおかしいんだ」

「……またそういう話をするの? 叙爵が行われたとはいえ、皇帝や君侯と魔女たちが和解したわけでは全然なかったわけでしょ? むしろ、喉元過ぎれば熱さを忘れるって調子。《大叙爵》以降疫病がすっかり収束してしまうと、君侯たちは魔女が露骨な権力を獲得していくのを妨害し始めた。君侯たちは教会と結託して、魔導諸公国に対して軍事上、外交上、経済上の制限を押し付けたというわけ。帝国議会令の名の下にね。でも、もしミナの票があったら、せめて軍事権だけは確保できていたはず」

「だからさ、魔女には軍事権も外交権も経済特権もいらないんだよ。そういった世俗の汚らしさとは離れたところで、ローブと杖と魔本と一緒に生きるのが魔女なんだ」

「だから、そういう態度を取っていたからこそ、魔女は迫害に対して無力だったと私は言っているのに、あなたは決して聞こうとはしないよね。どうして?」

「さあ……? 魔導史専攻だからかな?」

 黒髪の全く動じない態度を見て、銀髪は一度珈琲を手に取った。黒髪を切り崩すためには、十分なエネルギーが必要だった。

「とにかく! 魔女シーンの始めたプロジェクトは、のっけから身内の反乱で破綻の危機に陥ったの。そこで、十五世紀に入ったあたりかな、フルスペックの君侯国としての地位を獲得するため、魔女シーンは皇帝に接近した。まあ、しょうがなくという意味だけど……。当時の皇帝エーファンリムⅡ世は中央集権化政策を進めたがっていた皇帝ね。ただ、『大陸諸侯の古き権利を守る』ことを旨とする帝国議会は、皇帝大権の拡大なんてことは絶対に許しはしなかったから、議会対皇帝の対決は進展せず、何十年と膠着状態が続いていた。ところが、そこに魔女という新たなファクターが現れたわけ」

 黒髪は片手を癖の強い前髪をいじり始めた。

「あまり聞きたくない部分だ」

 銀髪はお構いなしで続ける。

「その時代、魔女は皇帝に協力することによって自らの権力を拡大させたわけ。数次に渡る《王滅戦争》時代――これはまあ、ざっくり言うと皇帝と大貴族の戦いなんだけど――、魔導諸公国は皇帝側に立って参戦した。皇帝派の勝利によって、帝国における大貴族は倒れ、皇帝独裁路線が確定し、魔女たちには独自の軍事権が許された。魔導騎士団の正式召集が一四八〇年、その二十二年後にはゼーレン川以北における都市、鉱山、市場、運河についての特許状発行権が皇帝から委任された。魔女シーンが《東部における帝権代理人》を名乗り始めたのはこの頃と言われているわね」

 黒髪は皮肉的な、かわいた拍手を送った。

「結構結構。大いに結構じゃないか。皇帝の忠犬と化した魔女たちも、今や立派な騎士団と肩書を得た。代わりに魔女としての誇りを失ったけどね」

 銀髪は表情を曇らせる。

「まあ、あなたの言う通りだったら良かったんだけど……。つまり、本当に魔女が魔女で無くなっていたのだとしたら、それはそれでよかった。というのもね、いざ魔女が露骨な権力を獲得してしまうと、今度は皇帝と魔女の関係がギクシャクしはじめた。皇帝としては使い勝手のいい忠犬が、いつの間にか鋭い牙を持った獅子になってしまった、ってことなんでしょうけどね。当然、強力すぎる臣下は邪魔なだけ。しかも間の悪いことに、時の皇太子、後の皇帝エーファンリムⅢ世は教会司教たちに囲まれて育ったような人だったから、当然大の魔女嫌いと来ていた。シーンの努力も虚しく、皇帝は即位と同時に、《大叙爵》以来停止されていた魔女排除令を復活させた。これを契機に始まるのが、魔女に対する大反動の時代、通称《蔑視の時代》ね。一六世紀に入ったあたりから、魔女排除令の取り下げを要求するシーン率いる魔導諸公国と、皇帝大権を立てに頑として要求を拒絶する皇統政府との緊張がどんどん高まっていく。一方の皇帝は西部の魔女迫害に乗り出し、一方のシーンはその報復に東北部のゾニアル諸侯を『保護』下に置いた」

 黒髪はふてくされたように頬杖をついた。

「だがそんな生ぬるい対応をしていた結果が、一五四三年の第十二次聖公会議での宣言――つまり、帝国西部における魔女殲滅宣言――というのでは全く話にならないけどね。結局、シーンは魔女を裏切った。本当に、本当に最低だよ」

「……その宣言が発せられた後、皇帝と魔導諸公国の緊張は極限まで高まっていった。そして、一五五五年の正月。シーンはついに自らが《東部における王》であると宣言した。当然、王号を認めるのは明確に皇帝大権の一部だから、シーンがやったことは帝権の侵害にあたる。皇帝エーファンリムⅢ世は激怒。シーンの宣言を黙殺し、逆に魔女たちの持っていた議会爵位、領圏爵位の剥奪を宣言した。まあ、これが事実上の宣戦布告ね。実際には一五五五年の六月、《渓谷の魔女》ロベルツ率いる魔導騎士団の一隊が南部皇統領に侵入することで、軍事的にも魔導大戦が始まった。一六七一まで続く、最後の迫害戦争がね。まあ、結論を先に行ってしまうと、この戦争は魔女側の勝利に終わるわけですが……」

「はっ、勝利ねえ? その戦役中、十三人いた協会の元メンバーは、ミナとシーンの二人にまで減ってしまったわけだけど?」

「そう見るか、あるいはシーンとミナが生き残ったと見るかでしょう。多大な犠牲を出しつつも、最終的には迫害を跳ね返すことができたんですもの。しかもその成果として、シーンは皇帝から王冠を勝ち取ることができた。皇帝からの独立の象徴をね。その王冠をシーンとミナが戴いたのが一六七一年の共同戴冠式よ。だから懸賞論文の問に素直に応えるなら、おそらくこう言うべきでしょうね。『シーンとミナによる共同戴冠の意義は、魔女の政治的独立を最終的に確定させたことにあった』と。でも……ああ、なんて皮肉なの!」

これまで一貫して自信に満ちた態度を維持してきた銀髪が、初めて黒髪の表情を伺いながら言った。

「シーンは戴冠式の直後に暗殺されてしまった。三百年もかけて手に入れたすべてを、一瞬で奪われた……皮肉っていうのはそういう意味、一応」

 

 二人が注文した珈琲はすっかり冷えてしまったばかりでなく、全く減っていなかった。黒髪はほとんど口にしようとしなかったし、銀髪の方は最初のうちだけ香りを楽しんでいたのだが、議論が白熱するにつれて珈琲を楽しむ余裕が無くなった。

銀髪がカップを自分の方に軽く傾けながら言った。

「新しいのに代えて、ってお願いしたら代えてもらえると思う?」

「相変わらず面の皮が厚いねえ、スティラは」

「いやいや……自覚が無いのでしたら教えて差し上げますけどミナ、あなたも相当だから」

 銀髪の客、スティラは最後にもう一度だけ珈琲カップを口に運んだが、やはり悲しげな調子ですぐにカップをソーサーに戻した。

 そうしておいてスティラはさっそくこれみよがしな視線をカウンターの店主に向け始めた。店主は頑として応じようとはしなかった。もはや、すわパンプキンケーキの注文かと期待する素振りすらない。とはいえ店内にはスティラたち以外の客は一人もいなかったので、店主は最終的に客商売人としての矜持に従ったようだった。 

 店主がカウンターから出てスティラたちの席に歩み寄ろうとした瞬間、しかし、ずっとうつむいていた黒髪の客、ミナが切り出した。スティラははっとして視線をミナに戻す。見捨てられた店主はカウンターに戻って不機嫌そうに腕を組んだ。

「シーンが暗殺されたことに関してだけど、皮肉でもなんでもない。あれはね、およそ三百年に渡って国政をひっかきまわした《嵐の魔女》シーンに対する、神聖帝国側からの正当な反動だったのさ」

「……なんですって?」

「スティラ、あんたは魔女の独立がどうのこうのといかにも君侯史学らしいことを言うけどね、シーンのやったことに一体どんな意味があった? いずれにせよ、もう魔女はいなくなったんだ」

「厳密に言えば、まだ一人だけいるけどね」

「いないのと同じだよ」

「違います。全然違う」

 これまで黒髪の大演説も黙って聞いていたスティラだったが、堰を切ったように言葉が溢れた。

「まったく信じられない。随分な言い草とはこのことね。シーンに対する暗殺が正当? それ本気で言ってる? あのね、私が言うまでもないでしょうけど、言わせて。《大叙爵》という法制上の抜け道は、疫病の蔓延、君侯の子弟たちの大量死という極めて特殊な状況下で、かろうじて正当化されたに過ぎない異常事態だったわけ。神聖帝国諸侯でありながら同時に魔女でもあるという十二人の魔導貴族は、どう考えても収まりが悪い存在であり続けた。第一、教会は古代から今にかけてずっと、正式に魔女排除令を出してるんだから。つまりね、魔女の権力基盤なんてものはいつ掘り崩されても全くおかしくないほど脆弱で、《大叙爵》以降の三百年は、まさに綱渡りそのものだった。そんな危険な世界で、シーンはよく踊りきったと思う。その手腕は評価されてしかるべきだわ。そりゃ、シーンは表向き魔導史の破壊者かもしれないけれど、でもあの魔女が実質的に何をやっていたか、同僚たちはちゃんと理解していたわけでしょ? 当然、《黒の魔女》ミナだって」

「さあてね」

 ミナの発言を受け流すかのように、スティラはテーブルに開店させたいくつかの研究書について、その問題点をあげつらい始めた。

「……つまり、このあたりを全く織り込めていないから、最近の研究動向は救い難く歪んでるわけ。誰かが舵を引き戻さないと!」

「はは、そんなことを言っていいのかねえ。まさにその、最近の研究動向を引っ張っているコーン教授の研究室に出入りしてる人が」

「つまり、近年流行している研究の嚆矢であり、懸賞論文での言及が要求されているコーン仮説とは」

 スティラは相方のちゃちゃを無視して続けた。

「シーン暗殺事件の下手人を《黒の魔女》ミナであるとする説。その論拠としてコーン教授が上げているのが、三年前にプラキア城の《時の間》で発見された魔女ミナによる日記よ。どうやらその文書内で、ミナはシーンのことを散々にこき下ろしているらしい。それこそ憎しみに近い調子で綴っているとかなんとか」

「はあ。らしいっていうのは?」

「読んでないの。私があの文書を読むことは決して無いでしょう」

ミナの表情が曇った。

「嘘でしょ……課程に入ったら真っ先に読まされる文書だよ?」

「知ってる」

「基礎読本の講義でどう単位を取った……の?」

「方法は常にある」

「最重要文書であるミナの手記抜きでコーン仮説に反駁できるとでも? 必ず引用される文献なんだよ?」

「できる。コーン仮説は三年以内に私が潰す。私たちの懸賞論文が反撃の狼煙となるでしょう」

 スティラは力強く宣言し、姿勢を正した。それから分厚くなった大半のノートを、まだ書き込みが無いページまでめくった。もうすぐ次のノートに移行する必要がありそうだ。

「……まったく、二十二とは思えない思慮深さだ!」

 背もたれに大きく体重をあずけたミナは、大げさな身振りでまくしたてた。

「これは踏み絵だよスティラ。わざわざコーン仮説への言及を要求してるってのは、次期研究科長への忠誠を示せって意味だ。自分でもよくよくわかってるんだろ? 特にあんたの場合……魔史科から移った身だから、君侯史学プロパーってわけじゃないし……コーン仮説を叩くとますます味方がいなくなるよ」

 スティラはノートに視線を落したまま応える。

「私が移ったのは、シーンの研究に関していえば君侯史学科の方がはるかに先進的だったから。それに。研究テーマとしてこれほど面白いものは無いのも事実。三百年もの間、一人の人物が一貫して一つの政治目標――つまり、魔女の政治的独立の獲得ってことだけど――を追求する事例なんて、世界中全部を見渡してもシーンのケースただ一つがあるだけなんですもの。私の研究を進める上で転科は絶対に必要なことだったし、コーン教授の仕事を尊敬してもいる。でも、それとコーン仮説を叩くかどうかは全く別の話」

 ミナはうろたえながら切り出した。

「あ、ああ……。ただ、そうは言うが、コーン仮説は推論としても悪くない。よくできているよ。攻め込む隙がほとんどないくらいだ。なにせ、たしかにあの日記には多分いろいろ書いてあるから……。だから気持ちはうれしいけどスティラ、私たちの論文はコーン仮説に沿った内容にするべきだと思う。何か特別な史料でも見つからない限りはね……それに、あんたのキャリアのことだってあるし。学位を取るまではあまり波風を立てるべきじゃない」

「あーもう!」

スティラはすっと席を立つ。

「ミナさんの方にやる気が無いなら結構です。私一人でやりますから。」

テーブルに開店していた本市をしまいにして、スティラはトートバックにガサガサと古書を詰め込んでいった。途中、スティラの恨めしげな視線を受け止めたミナが言った。

「その……古書はもっと大事に扱わないと」

 スティラは眉をつり上げると、バッグを肩にかけ、カフェの出口に向かって二歩進んだ。

ミナが観念したようにして言った。ほうほうの体というところだ。

「待て待て……」

「当然、そういった発言があって然るべきでしょうね。どうぞ続けて」

 スティラは回れ右をすると、両手を腰にあててミナの言葉を待った。

「き、聞いてなかったのかい? 私の話を。ちゃんと」

 ミナは一度小さな咳払いをしてから続けた。 

「私は攻め込む隙がほとんど無いと言ったんだ。ほとんどというのはつまり、隙がないわけじゃないということだ」

 腕を組んで一度押し黙ると、ミナは記憶の海から情報を引き出した。

マリル湖畔のデマリルという街に……たしか、ヴァンデマリル家のマチルダという小公子がいる」

「小公子ってミナ……今その御方、御年七十歳よ。もしあなたが、大陸議会で保険議員を十期努めたマチルダ・ヴァンデマリルのことを言ってるならだけど」

「……マチルダ元議員がいる。マチルダの先祖に、魔導大戦第四期に帝国大元帥だったロチ・フォン・ヴァンデマリルというのがいてね。元議員の屋敷には、ロチが残している大元帥公式手記が秘蔵されていたはずだ、たしか」

「ロチ大元帥ですって! 私の見立てでは、シーン暗殺の下手人はそいつよ!」

 スティラはミナのところに走り寄って、机に思いっきり両手をついた。

「……まあ落ち着きなさい。ただ、マチルダと最後に会ったのはアレが十八歳くらいのころだ。今は年をとって気難しくなってる可能性が高い。素直にロチの手記を見せてくれるかどうか」

「なるほどねえ。年をとると気難しくなる、なんてことがあるんだ。私全然知らなかった」

「うむ。十分警戒しなくてはならない。だから、マチルダとの交渉は全面的に私にまかせてくれるなら……」

「くれるなら?」

「幸い、まだ夏季休暇も残っていることだし。マリル湖は避暑地としても悪くないし」

「し?」

「……文脈から明らかだろ。私に言わせたいのか」

「その方がお互いのためだと思うの」

「つまりだね……」

「お客さん方、そろそろ夕方の部ですので!」

 ミナが口を開きかけたところで、カウンターからやってきた店主が二人に言った。客たちが反射的に時間を確認すると、まだ一五時だ。むろん、カフェには他のお客はいない。

 スティラが水を得た魚もかくやという生気をほとばしらせながら、店主に反論するべく口を開きかけた。が、窓側の壁に貼ってあったポスターに気がついたミナが、すんでところで、相方を小声で制した。どうやら、夕方からはどこかのバンドを呼んで貸し切りのパーティを開く予定があるらしい。

 笑顔を急造したスティラは、美味しい珈琲でした、また来ますねと慇懃な調子で述べてから席を立った。ミナもそれに続いた。店主もまたどうぞと義務的に言い放つと、どこかからかかってきた電話に出るべくカウンターに戻っていった。

 出口のドアを押しながらスティラが小声で言った。

「ここの店主ってデリカシー無いと思ったことない?」

「いいや、おもてなし精神の塊みたいな人だよ」

 カフェから出ると、まだ日は高く気温も高いようで、ミナは目の上に手をかざしてうめいた。スティラはしゃがみこんで、太陽光を受けていよいよ弱っている店先のペチュニアに目をつけた。指でつんつんとつついて、弱ったペチュニアに追い打ちをかけるスティラ。

 ミナが何気なくたずねた。

マリル湖に行くとすると一日二日じゃ済まないが。男の子はいいのかい? アルバ監督の映画を一緒に見たとかいう」

「今から会ってくる」

 すっと立ち上がるスティラ。

「へえ」

「昨日映画に行ったのはある人へのあてつけでしたって、ちゃんと謝らないと」

「……あんたのそういうところ、ふりなのか、マジなのか」

「わからない」

「それは私の質問の意味がわからないということ? それともどっちなのかが自分でも判断がつかなくなってきている?」

 スティラは肩をすくめると、それじゃと短く言葉を切って新市街地方面に早足で歩いていった。重そうなトートバックを数回持ち直しながら歩いて行くスティラが角を曲がって見えなくなってしまうと、ミナも旧市街地の大学寮に向けて一歩踏み出す。

 プラキア大の夏期休暇は、もう少しだけ残っている。